中国的なるものを考える(電子版第20回・通算第63回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第20号 2007.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


アジア的生産様式論争物語 入門編2
単一権力社会と多元的権力の社会


  突然、東欧革命(1989年)について知りたくなって、ここ一ヶ月の間に何冊か読んだ。たとえば、湯川順夫編『東欧左翼は語る』(柘植書房、1991年)、加藤一夫『東欧革命の社会学』(作品社、1991年)、盛田常夫『ハンガリー改革史』(日本評論社、1990年)、堀林巧『ハンガリーの体制転換』(晃陽書房、1992年)、羽場久浘子編『ハンガリーを知るための47章』(明石書店、2002年)などである。ほかにも東欧史について何冊か目を通した。関心の中心はハンガリーの体制転換にある。1989年前後、ハンガリーがどうして権力の平和的な移行に成功したのか。どうして同じ年の中国のような六四惨案(天安門事件)やルーマニアのチャウシスク体制崩壊時のような流血沙汰にはならなかったのだろうか。
 1988年5月、ハンガリー動乱以後、32年間政権の座にあったカーダールが社会主義労働者党書記長を辞任、グロースが書記長に就任した。それが合図となり、急速な改革が進んだ。もともとカーダールのもとで、市場原理の緩やかな導入や私的セクターの拡大がはかられ、経済改革が積み重ねられてきた。だが、80年代に入り、老化したカーダール政権は内外の危機に対処できなくなっていく。事態の打開のためには、部分的な改革ではすでに不十分であり、体制転換が求められていた。
 ポジュガイ、ニェルシュら党内改革派は民主化を求める党外勢力と連携し、保守派の抵抗を抑え、改革の主導権を握り、複数政党制への転換をはかろうとしていた。その変革の実現を通して、体制転換後も政治の主導性を維持しようとしていた。だが、現実の体制転換のプロセスは、彼らの思いどおりには進行しなかった。それは1956年のハンガリー革命や1968年の「プラハの春」(チェコスロヴァキア)のように、ソ連の干渉によって民主的な変革が挫折したからではない。むしろ、急速な体制転換が彼らを追い越し、置き去りにしてしまったからであるといえる。ハンガリーの体制転換は、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキアなど東欧社会主義国の民主化と同時に進行した(東欧革命)。もし、ハンガリー一国だけの民主化であったり、あるいは「連帯」による粘り強い闘いが続けられていたポーランドのみと連動していたとしたら、ハンガリー党の指導性は以後も強く求められたに違いない。ところが、「ベルリンの壁」崩壊(1989年11月)に象徴されるように東欧革命が一挙に進行した結果、東欧諸国の民衆はもうどのような名目にせよ、社会主義を冠した党の指導を受け入れる必要を感じなくなったのである。
 1989年10月初旬、社会主義労働者党は党大会を開催、来るべき複数政党制にもとづく選挙に臨むべく党名を「ハンガリー社会党」に変更し、党員の再登録を行う。結果は無残なものであった。70万人いた党員のほとんどは再登録に応じなかった。党員は同年末に至りようやく5万を超えるほどであった。急速な社会主義離れが進むなか迎えた1990年春の総選挙の結果、ハンガリー社会党は成立間もない民主フォーラムや自由民主連合、独立小地主党の後塵を拝し議席数第4位、得票率11%弱に終わる。1988年から1989年にかけて改革を主導し、改革派のホープであり、一時はもっとも有力な大統領候補と目されていたポジュガイですら、選挙区では勝ち抜くことができず、ようやく全国リストで当選を果たしたことは、その勢力後退を象徴している。
 ではハンガリー党改革派の努力が無駄であったのかというと、そうではないだろう。彼らが自ら主導した政治改革の結果として、政権の座から降りなければならなかったとしても、無駄であったとはいえない。現に彼らの後身であるハンガリー社会党は、その後の、変動続く東欧社会において、社会主義(社会民主主義)を掲げる政党として、何とか現実政治に影響力を持ちつつ生き抜くことができた数少ない政治組織の一つであった。また、1994年の選挙においては第一党となり中道左派政権を成立させている。彼らへの支持の一部は、彼らが率先して体制転換を行ったということに由来しているのではないかと思われるからである。
 これまで東欧革命もしくはハンガリーの体制転換への関心を述べてきたが、実は一番知りたかったことは、次のことである。長く政権の座にあったハンガリー党首脳もしくは党幹部は、みずから主導した複数政党制の導入に伴う自由な選挙の結果、政権の座から追われることに、つまり権力を失ってしまうことに、誰も恐怖を覚えなかったのかということである。そのことが知りたくて冒頭に書いたとおり何冊もページをめくってみたのだが、答えは得られなかった。多分、保守派のなかには恐怖を抱いたものはいたであろう。だが、上記の著者たちは誰も筆者のような関心を持っていないらしいのである。ながく20世紀社会主義の歴史にこだわってきた筆者のようなものの目からみれば、不思議というほかない。
 なぜなら、ハンガリーに存在した党、社会主義労働者党は、曲折はあれ20世紀社会主義特有の「民主集中制」を標榜した党であった。20世紀社会主義については、様々な規定が行われているが、どのような規定であれ、一党独裁による政治の独占、国有化を梃子とした経済の支配、要するに政治(及び軍事)、経済のすべてを包括する一元的な支配に言及せざるをえないであろう。それが「プロレタリア独裁」の名の下に長期にわたって実践されてきたのである。また、1989年もしくは1991年以後も、東アジア、東南アジアの幾つかの国において依然として同様の体制が続いている。20世紀社会主義の担い手であった各国革命党の組織原則こそ「民主集中制」であり、それはこれらの党の一元的支配を支えるための欠くべからざる道具であった。
 だからこそ、党の一元的な支配を揺るがす東欧の実践、1956年のハンガリー革命、1968年の「プラハの春」、1980年に始まるポーランドの独立労組「連帯」の設立は、20世紀社会主義の祖国にして「宗主国」であるソ連の干渉を受けざるをえなかった。「人間の顔をした社会主義」を目指すドプチェクなどのチェコスロヴァキア党指導部に対し、ブレジネフ(ソ連)、ウルブリヒト(東ドイツ)、ゴムルカ(ポーランド)などが如何に不信感を抱いていたのか、ドプチェクの証言が示している(A・ドプチェク『証言 プラハの春』岩波書店、1991年)。たとえば検閲制度の廃止だけでも彼らを怒らせるのに十分であった。チェコスロヴァキア党は、すでに事態をコントロールできなくなっているのではないかと警告を受けていた。「修正主義」に堕したのではないか、資本主義復活を図る勢力を拡大させているのではないかと疑われ、以前の硬直した体制に戻すよう強い圧力を受けていた。
 カーダールは(本意かどうかは別にして)、そのようなチェコスロヴァキアの実験を圧殺したソ連を中心とした軍事介入にハンガリー軍を参加させている。その32年にも及ぶ任期中、彼は緩やかな経済改革を進めたのかもしれないが、決して「民主集中制」を放棄したりしていなかったのである。
 また、歴史経験(過去の記憶)の問題にも言及せざるをえない。革命が敗れた時、革命家たちはいったいどういう境遇に陥るのか、その恐怖はハンガリーの歴史と無縁ではないからである。第一次世界大戦におけるオーストリア・ハンガリー帝国の敗北にともなう政治的混乱から、ハンガリー・ソヴィエト(タナーチ共和国)が成立するも、数ヶ月ももたずに崩壊する(1919年)。その後、ホルティ政権初期にかけて横行した白色テロルにより、革命家やその同調者が多く犠牲となったといわれる。
 1989年当時、このような白色テロルの記憶を持ち出す人間がいなかったのだろうか。筆者が読んだかぎりでは、そのことに誰も触れていない。70年前の革命と反革命は余りにも遠い過去であったのかもしれない。それ以上に、ハンガリー人にとって1956年のハンガリー革命がソ連軍によって圧殺されたということの方がはるかに重要であったのだろう。歴史事件における数字というものはつねに曖昧にならざるをえないのだが、ハンガリー・ソヴィエト後の反革命における犠牲者の数よりも、1956年の革命圧殺に伴う犠牲者の数の方が多かったといわれている。だとすると、身にそぐわない「民主集中制」の強制の方が、むしろ大きな犠牲をもたらすのだ、とハンガリー人が考えても不思議はない。
 どうして、「民主集中制」放棄に伴う一元的支配が失われる恐怖が、党内で煽られなかったのだろうかという疑問は、多分、筆者が中国近現代史をフィールドとしているがゆえに生じるのであろう。周知のごとく、そこでは権力の交代とは、流血なしではありえない。我々は権力の交代が平和的に行われる可能性を想像することができない。権力の交代は、たとえそれを想像するだけでも、権力の座にあるものに恐怖をもたらす。東欧革命の年、1989年、天安門広場のハンガー・ストライキが武力をもって弾圧されなければならなかったのも、どんな理由で語られようと、権力者たちが抱いた恐怖ゆえであろう。我々はここにおいて、社会における権力(国家権力)の比重の大きさという問題につきあたる。「社会よりも強大な国家」(ウィットフォーゲル)をもつ社会において、権力を失うことはすべてを失うことを意味するからである。
 筆者は、「民主集中制」を標榜する自称「革命党」が自ら率先して複数政党制を導入し、自由な選挙によって民衆に政権選択させる可能性については、自分が生きている間に実現するとは期待しなくなっている。もちろん、自分の予想が大きくはずれることを望んでやまないのだが。
 さて上記のようなハンガリーの体制転換(東欧革命)と東アジア、東南アジアの「社会主義」を称する独裁国家の歴史的コースの対照は何ゆえであろうか。根幹に「民主集中制」を据えていたはずなのに、社会主義を自称する独裁政党がどうして異なった歴史選択を行ったのであろうか。ここでようやく「単一権力社会と多元的権力の社会」というタイトルにふさわしい議論に入る(続く)。
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