中国的なるものを考える(電子版第21回・通算第64回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第21号 2007.11.20   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


アジア的生産様式物語 入門編3
単一権力社会と多元的権力の社会(続き)


 前号では、突然、東欧革命(1989年)の話に飛んでしまった。少し面喰った方もいるかもしれない。筆者が東欧とくにハンガリーの体制転換に触れたのは、ほかでもない。どうして、中東欧(ハンガリーやポーランド、チェコスロバキア)においては、血を流さずに体制転換もしくは市民革命が成功したのか、ということに強く興味を惹かれたからにほかならない。誰もが知っているように、同年(1989年)6月月4日、中国では流血の惨事(天安門事件)が起き、そして政治体制の転換は阻止されてしまった。この違いは何だったのだろうか、と。
 もっといえば、血が流されたかどうか、武力が用いられたかどうかに視点をあてると、線引きは中国と中東欧諸国との間にあるのではない。線引きはロシア、ルーマニア、旧ユーゴスラビア(セルビア、クロアチア等)、アルバニア等と中東欧諸国の間にあったのである。その西側では血を流すことなく、市民革命(或いは体制転換)が成功したのに対し、東側では流血を伴いつつ政変が行われたか、或いはそれを阻止すべく体制側が武器をとったのである。とすると、20世紀における社会主義圏におけるもう一つの線引きも浮かび上がってくる。つまり、旧ソ連と東アジア、東南アジアに存在する四つの社会主義国との間に存在する線である。その西側では社会主義は崩壊し、東側では崩れることなく現在もその体制が続いている。
 まったく遺憾なことに、筆者の頭のなかは、今でも、「時代遅れの」マルクス主義とか社会主義のことで一杯なのである。2003年から2005年の在外研究を利用しての中国滞在中、いつも気になっていたことは、我々の社会にもいるような、ビジネスマンが増え、私営企業が増え、都市が増えたのに、どうして未だに一党独裁に人々は安住しているのか、であった。そこで言われている社会主義だとかマルクス主義だとかは、我々が青年期に理想としたものと、およそ異なるとはいえ、或いはもう実質的な意味を持たず単なる飾りでしかないとはいえ、相変わらず、中国では社会主義やマルクス主義を冠した儀式が続けられ、それはそれで、いまだに国家のイデオロギー装置として通っているのである。
 20世紀社会主義は、1989年-1991年の分岐点において、おおよそ、三つの方向に分かれて行った。もっとも西側に位置した国々は、1989年の体制転換や市民革命を経て、資本主義と議会制民主主義からなる西欧世界に統合されていった。ともかくも、選挙を通じて比較的スムーズな政権交代が行われていることが印象的である。それに比し、もっとも東に位置する国々は、大きな転換点に遭遇しながらも、ほぼ20世紀社会主義の政治体制--それぞれの経済的な開放の度合いには違いはあっても、依然として民主集中制(民主的中央集権主義)を原理とした独裁体制--を維持し続けた。そして、その両者の間には、社会主義という名称をはずしたにもかかわらず、政治・経済体制の上でいまだに20世紀社会主義の母斑を残しているたくさんの国々が存在している。そのなかには、ルーマニアやブルガリアのように中東欧諸国の後に続いてEU加盟を果たした国もあれば、中央アジア諸国のように、専制(デスポティズム)としかいいようがない独裁国家も存在する。
 先ほどの線引きをもう一度思い出すとすれば、1989年に、市民革命だとか体制転換に成功した諸国は、過去--中世や近世--に封建社会(feudalism)を経験したり、身分制議会を有していた経験をもつ。それに対し、現在も社会主義を自称し、独裁体制を維持している国々は、長く皇帝や王のもとでの専制政治のもとにあった国々であるということができる。そして両者の中間に位置する国々を特徴づけるものは、15、16世紀以後、いずれもオスマン帝国やロシア帝国の支配下にあったということである。
 言うまでもないことだが、20世紀社会主義の特徴の一つは、1920年代、社会主義の祖国ソ連で作られた政治・経済体制が、それを受け入れた社会主義各国において、一様に実践されたという点にある。第二次世界大戦後の東欧各国のようにソ連によって社会主義体制が押し付けられたところにおいても、また中国やユーゴスラビアのように自らの力に依って社会主義政権を生み出した国においても、極めて類似した体制が成立したのである。共産党による政治における権力の独占、経済における国有セクターの圧倒的な優位と、その管制高地の独占。そして権力の一極集中。この極端な独裁は、理想社会(共産主義社会)へ向う過渡的な段階におけるプロレタリア独裁、国家廃絶のためにやむをえず一時的に執行される独裁であると喧伝されていた。しかし、実際には、独裁者のための独裁であった。この社会主義を称する独裁のための独裁は、1950年前後、朝鮮半島からチェコスロバキアまで、それぞれほぼ同じ支配体制を作り上げた。
 そして、それから40年後、20世紀社会主義諸国は、先ほど述べた三つの道に分かれていった。同じように見えた体制にもかかわらず、あるいは一枚岩に見えた体制にもかかわらず、異なった歴史選択が行われたのであった。我々がもっとも関心を持つ中国は、武力に依って民主化運動を弾圧し、体制転換を阻止した。それに対しハンガリー社会主義労働者党は、生まれたての野党と一緒になって、政権を失う可能性のある選挙の実施に合意した。前回述べたように、これをどうして不思議がらないのか、それを筆者は不思議に思う。彼らは、政権を失った場合、勝利した側から、彼らが報復されたり、罰せられたりする可能性を考慮しなかったのであろうか。それに恐怖しなかったのであろうか、と。
 あれこれ考えて、結局は、人は何を信頼するかという問題に行き着いた。ハンガリー党改革派の指導者たちが、円卓会議から政権選択選挙への舵をとった時、彼らは、すでに行き詰っていたプロレタリア独裁とか民主集中制に代表される現行の政治システムより、社会主義革命以前に彼らが行っていた選挙と議会に代表される政治システムの方が信頼できると考えたのだろう。逆に言えば、同時期、中国の党が民主化運動を武力に依り弾圧したということは、権力を失うことへの恐怖がすべての考慮に優先したということだろう。多党制と議会政治、選挙を通じての政権選択、どれをとっても伝統中国にはほとんど無縁の代物であった。誰かと権力を分け合うなどということ自体、想定の範囲を越えていたのである。
 20世紀社会主義はプロレタリア独裁を権力の独占と理解した。それゆえ、政治権力及び経済中枢の独占は革命理論からは当然のことと思われていた(筆者はマルクスの理解として、これは非常な誤りだと思っている)。だが、実際の運用は社会主義諸国の事情に応じて、それぞれ異なっていた。大ざっぱに言えば、同じ社会主義といえども、東に行けば行くほど、権力は単一化し、西に向えば向うほど権力は多元化する印象を与えていた。たとえば、ポーランドでは党は教会をその意志に従わせることに失敗したし、チェコスロバキアでは、追放された党の指導者ドプチェクは、最後まで自己の良心に忠実に振舞うことができたし、党はその屈服を勝ち取ることはできなかった。ひるがえって中国では、まったく逆のことが起こっていた。教会は党に従順であり、敗北した指導者は、勝者に屈服し哀れみを請うのがつねであった。
 単一化した権力のもとで長く暮らしたものは、権力を分け合うことが難しい、或いは不可能である。逆に多元的な権力のもとで暮らす人々は、当たり前のことだが、権力を分け合うことができる。つまり、中東欧の社会主義国の人々は--党員も含めて--、1989年、自分たちが以前、権力を分け合う社会で暮らしていたことを思い出したのである。1989年の東欧革命は、一種の「大政奉還」(岩田昌征)であったとの議論は、その点において説得的である。
 マルクス主義とは本来西欧の思想であった。それゆえ、誰も、権力を分け合うことができない社会での革命のあり方などを考慮していなかったし、当然それを理想にするはずもなかった。もし革命の独裁ということが必要とされるなら、当然それは、権力を分け合う社会における独裁、すなわち多元的な権力のもとにおける独裁であり、単一権力のもとにおける独裁(専制)などではなかった。
 1917年11月のロシアにおけるボルシェヴィキの政権奪取にともない、全てが変わってしまう。勝利者たちは聖なる存在に祭り上げられ、彼らの戦略、戦術或いは革命論があたかも絶対の真理であるかのように、追随者たちに受け入れられていく。ロシアの革命家たちこそが正統マルクス主義の担い手と認められていく。誰もがソヴィエト・ロシアにおける権力の一極集中こそプロレタリア独裁であると信じるようになったのである。
 だが、もし冷静にロシア革命の歴史を振り返れば、そこに存在したものは、革命運動の強さではない。支配するものと支配されるものの間に存在する深い溝、権力を分け合うことのできない社会に生まれ育った反体制知識人グループの、政治的未熟さ、不統一ぶり、際限のない抗争、それらを克服すたるめの方策こそ、悪名高き外部注入論であり、民主集中制であった。つまり、民主集中制とは権力を分け合ったり、合議したりするすべを持たない社会に生まれた革命政党の組織原理にほかならなかった。
 ではなぜ、このような権力を分け合うことができない社会が形成されたのだろうか。すなわち、権力が一極に集中し、その権力に対し、皆が隷従せざるをえない社会は、如何にして形成されたのであろうか。我々が知っているのは、外部注入論とか民主集中制といった革命党の組織原理は、この単一権力社会(専制国家)における革命運動の経験を通して成立したのだということである。
 レーニンの党がスターリン独裁に行きついたこと、それを必然とみるかどうかについて多くの議論があるが、それは筆者の目下の関心ではない。というのも、筆者にとってレーニンの党がスターリンの独裁に行きついたことは不思議ではないと思っているからである。むしろ筆者の関心は、それよりはるか以前の問題、「ロシア専制主義の起源」にある。
 もし、タイトル(「アジア的生産様式物語」)とあまり関係のない事柄を延々述べ立てたという印象を与えたとしたら、お許し願いたい。ともあれ、ようやくここで専制主義、いわゆる「オリエンタル・デスポティズム」に言及することになる。ツァー・ロシアが専制国家であったことは誰も否定しないだろう。
 だが、その専制がどのように歴史的に形成されたのかについて、様々な議論がある。マルクス『十八世紀の秘密外交史』は、その起源を「タタールのくびき」(モンゴルのロシア支配)に求めている。次回以降、「タタールのくびき」、「停滞論の系譜」、「中国におけるアジア的生産様式論争」へと話を続けていくつもりである。
蒼蒼 目次へ >>