中国的なるものを考える(電子版第22回・通算第65回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第22号 2008.01.27   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


タタールのくびき(前編)
1917年のロシアの革命と知られざるレーニン



  モンゴル帝国を扱った本(James Chambers, The Devil's Horsemen: The Mongol Invasion of Europe『悪魔の騎馬戦士たち--モンゴルのヨーロッパ侵入』)に、彼らが馬を馳せたところは、回復しがたいほどの経済的なダメージを受け、彼らが支配した国々には、小さいが、うぬぼれの強い貴族階級とそれに搾取されている農民階級が残され、それらの国々においては、貧窮と抑圧の遺産が、絶望した民衆が革命と共産主義に訴えるまで、何世紀間も残り続けた、とある。
 では、革命と共産主義の後に何が残されているのだろう。前回と同じように再び世界地図を広げてみると、たとえば、北朝鮮、中国は依然として民主集中制のもとでの社会主義独裁国家であり、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなど中央アジア・イスラム諸国は、ソ連解体以後、選挙は行っていても、政権担当者は、専制的であるか独裁的であるかの違いしかない。コーカサス諸国のうち、アゼルバイジャンも同様である。中近東諸国については言及する必要がないであろう。また、キルギスは、独裁者アカエフの打倒(2005年)以後、何とか民主化を目指しているといわれている。モンゴル帝国の発祥地、モンゴル国(首都ウランバートル)では、選挙による政権交代が、上記の国々に比べて比較的スムーズに行われているというのは、なんとも皮肉である。
 今日のヨーロッパ・ロシアの中心部(北ロシア)は、キプチャク汗国に直接支配されていたのではなく、一応の独立は認められていたが、ジュチ・ウルスに臣従し貢納(徴税)と軍役奉仕の義務を負っていた。
 そのロシアでは、選挙(2000年)で大統領に選ばれたはずのプーチンが次第に独裁傾向を強め、憲法上三選が禁止されているため、部下(メドベージェフ)に大統領職を継がせ、自らは首相として采配を振るい(院政)、2012年には再び大統領職に戻るつもりだと報道されている。隣国ベラルーシも同じように独裁傾向を強めているようにみえる。そして、ウクライナでは混乱が続いている。因みに、バルト諸国は、カトリック伝道やドイツ人の東方殖民以来、時に緩やかではあれ中欧や北欧に繋がっており、彼らがポーランド、チェコ及びスロヴァキア、ハンガリーなどと同じく、民主化し、EUやNATO入りしたのは歴史的背景を考えれば当然のことであった。
 旧ソ連諸国の独裁ぶりや独裁化傾向にばかり注意を向けることになってしまったが、我々が過去の歴史になにを負っているかについて、少しばかり考えてみようと思ったからにほかならない。『帝政民主国家ロシア--プーチンの時代』(中村逸郎,岩波書店)には、市民生活の様々トラブル、極端な不便さ、行政の不当な措置等々について、どこにも持って行き場をなくした市民たちが、「慈父たる皇帝(ツァー)」にすがりつく様子が詳細に述べられている。その様子はまったく中国人の北京への陳情(上訪shangfang)と変わりがない。最終的な問題解決能力を持っている至高の存在、皇帝への直訴である。逆から眺めると、このような皇帝ぶりに長じたものが民衆の支持を得たり、信仰を集めるということになる。ロシアのように選挙が導入されていれば、現代のツァーが、民衆から圧倒的な支持を獲得し、選挙に圧勝するという構図が見えてくる。このような皇帝ぶりが評判を呼ぶのは、実際のところ、行政や議会がうまく機能していないということの裏返しでもある。
 1989-1991年、社会主義圏が崩壊し、旧社会主義諸国はいっせいにそれぞれの民族国家及び国民経済の建設に向かうことになった。それぞれ大統領や国会議員が選挙で選ばれるようになった。だが、それが民主化だったのだろうか。我々がこの間目にしたものは、それぞれの国々にそれぞれの政治のやり方--それぞれの独裁--がある、つまり、社会主義とか民主集中制とか言われなくなったとしとしても、それぞれの国や民族において独裁的な政治或いは政権運営が行われた、ということである。20世紀社会主義(共産党独裁)の後遺症が続いているという考え方もあろう。だが、独裁化を認めるというのは、一度手にした指導者を選ぶ権利や自由を手放すことを意味する。旧ソ連のそれぞれの国々において、独裁化傾向が著しいというのは、むしろ、彼らの選択において、それしか選びようがなかったのでは、と考えざるをえない。つまり、それぞれの国や民族において、長い歴史のなかで培われた伝統的なスタイルによる政治的なパフォーマンス(政治行為)がやはりもっとも説得力を持っており、民衆にとって受け入れやすい、もしくは共感できるということではないかと思う。
 このような皇帝然とした振る舞いが最高指導者にふさわしい行為として評価されるというのは、そう振る舞わなければ見劣りがするということでもある。これは民主集中制が自らの政治制度にふさわしいとの豪語が、自由に議論し始めれば衆議によっては何も決められないという、自らの政治能力に対する自信のなさと表裏一体であるのと同じ関係にある。つまり、政治が独裁的でなければ、世の中がうまくいかないと、指導者も民衆も思っていることが裏にある。
 そこで疑問が湧いてくる。ロシアの政治体制が20世紀全般にわたって独裁的であったのは、マルクス主義の受容や、それにもとづくプロレタリア独裁樹立のためであったのだろうか、と。今日、ロシアや中央アジアで起きていることが、1917年のロシア革命及びその後の政治プロセスで起きただけなのではないかと考えたくなる。
 1917年11月に成立した革命政権とその国家(史上最初の社会主義政権と呼ばれたり、社会主義の祖国と呼ばれていたが)は、当時どんな選択肢を持っていたのだろうか。1991年のソ連崩壊以後、それまで閲覧不可能だった多数の資料を使い、社会主義政権誕生から内戦期(戦時共産主義)、NEPと呼ばれた新経済政策期にかけて、詳細な研究がなされるようになっている。そこで我々が目にするのは、飢餓の農村であり、その農民から容赦なく食糧を徴発していく党員や労働者部隊の姿である。どうして、そのようなことが可能だったのだろうか。梶川伸一は、次のように説明している。「ちょうど工場労働者が生活保障の賃金を得るだけで、生産物は国家所有になるように、農民の生産物は彼らに必要な分を控除して、全余剰は国家所有である。このようにして、農産物の全余剰の強制徴収が正当化されたのであった。」(梶川伸一「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか」上島武、村岡到編『レーニン--革命ロシアの光と影』社会評論社)。つまり、生産手段(土地)を含めて、全ては国家のものである以上--革命以前においては全てはツァーのものであった--、農民たちが生きるために必要な最低限度以上のものは、すべて国家が徴発してもかまわないというのが、執行者の考え方であったのだろう。実際にはどれだけが最低必要量でどれだけが徴発してよい余剰かを決めることは困難であり、結局、農民への強制割当が実施された(食糧独裁)。飢餓にあえぐ農民は徴発に抵抗した。時には暴動や蜂起にまで発展した。だが、この農民の必死の抵抗も、クラークのさしがねによる反革命活動であるとの見解を強めさせるだけであった。レーニンは食糧徴発の責任者に命令する、「無慈悲に弾圧せよ」、見せしめとして「百名以上のクラーク、金持ち、blood sucker(膏血をすする者)を吊るせ」、「彼らの名前を公表し、その食糧を全て没収し、人質を取れ」(Richard Pipes, The Unknown Lenin『知られざるレーニン』)。
 ロシア史家リチャード・パイプス(ポーランド生れ、米国籍)は徹底した反共主義者である。それゆえ、資料集だとはいえ『知られざるレーニン』におけるレーニン像もまた、強いバイアスがかかっている。だが、この時期のレーニンは、生まれたばかりの「社会主義政権」を守るために、ひたすら冷徹であり、無慈悲であった。しかし、いかなる権力であれ、その権力の維持のために冷酷さや無慈悲さを貫くというのは、その権力の性格を逆規定する。そのようにして守られた政権は、誰に対しても冷酷で無慈悲であることは、独裁国家や専制国家の歴史を見れば明らかである。
 中国革命史や中国共産党史などを齧ったことのある人間であれば、このような冷酷さや無慈悲さに何度も出会うはずである。開明的であった鄧小平ですら、政権維持のためには、無力な学生たちの抗議に対し六四惨案(天安門事件)をやってのけたことを想起すべきである。そして、その果断さが、最高権力者であることの証(あかし)であり、かつ高い歴史的評価に繋がっていると考えた方がよい。政治は本来、どの世界においても冷酷であり、無慈悲であるとの反論があるかもしれない。言葉としてはそうであろう。だが、多元的権力の社会に住む者と単一権力社会に住む者の間には歴然とした差がある。冷酷に或いは無慈悲に振舞うことができたなら、ローザ・ルクセンブルクは未熟な蜂起(1919年1月)に引きずられることもなかったであろうし、そのために無駄な死を迎えることもなかったであろう。
 「社会主義の祖国」においてレーニンの党が民主集中制を組織原則として「プロレタリア独裁」を実践し、それを各国共産党が継承したわけだが、この民主集中制やソ連式の「プロ独」は、むしろロシアの政治風土に根ざすものであり、マルクス主義の政治理論から出たものではない。たとえばローザ・ルクセンブルクのような西欧マルクス主義者にとって、レーニンの党の組織原則や革命後の独裁ぶりは大いに違和感のあるものであった。
 1917年11月、政権を奪取したレーニンらは、翌年1月、憲法制定議会を武力をもって解散させる(エス・エルが議席の三分の二を占め、ボリシェヴィキは第二党であった)。この憲法制定議会解散についてローザは、「死産した憲法制定議会を解散してただちに新しい制憲議会の再選挙を公示するという結論が当然でてきたはず」であるにもかかわらず、レーニンやトロツキーが「十月に構成された憲法制定議会の特殊な欠陥から憲法制定議会はすべて不要だという結論を下し」、しかも「革命期間中は一般に普通選挙によって選ばれた人民代表制度はすべて役に立たないというところまでこれを一般化した」ことを批判している(ローザ・ルクセンブルク『ロシア革命論』論創社)。つまり、ローザは議会というものが様々な欠点を持ち、かつ支配階級もしくは旧支配階級によって操られる可能性を承知の上で、それをレーニンやトロツキーのように軽蔑したり、不要だと言うのは間違いであると述べているのだ。だが、どのような革命の高揚期であれ、それが選挙である以上、選挙に敗れるという可能性も排除できない。すなわち、ローザのように主張することは、選挙に敗れるリスクを引き受けるということを意味する。実際に、選挙に敗れた場合は、その事実を受け入れる以外にないことも承知していたはずである。
 彼女が自分は西欧マルクス主義者であると述べる時、どのくらいその相違(レーニンやトロツキーらとの相違)に気がついていたのか興味深く思う。我々ならばそれを、多元的権力の社会に生きる革命家と単一権力社会に生きる革命家との違いとして認識するだろう。
 ではかくも大きな犠牲を払って興亡を繰り広げたソ連とは何であったのだろうか(20世紀社会主義とは何であったのだろうか、と同じ種類の問いであると考えていただきたいのだが)。ミール共同体の性格をめぐる論争で知られる雀部幸隆は、以下のように述べる。「ソ連とは、大ロシア人を支配民族とする旧ロシア帝国の人民が、『社会主義』(マルクス・レーニン主義)を『正教』として、新たな形で『第三のローマ』を建設しようとした絶望的な試みであった、と」(雀部幸隆「ウェーバーのロシア革命論について」M.ウェーバー『ロシア革命論』Ⅰ、名古屋大学出版会)。ロシア革命とは、マルクス以後の社会主義の系譜に沿って理解するよりも、まずはロシア史の流れのなかでの革命であり、自らの祖国を再建せんとしたロシア人による1917年の革命であった。そこには何か人類史上において祝われるべき普遍的な意義などが存在したとは--これは歴史の後知恵にすぎないが--到底思われない。当然、1949年の中国革命についても同じことが言えるはずである。
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