中国的なるものを考える(電子版第23回・通算第66回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第23号 2008.03.22   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


タタールのくびき(後編)
モンゴルのロシア支配がもたらしたもの



 我々のような戦後世代の、その青年期における思想経験において、社会主義は避けて通れない問題であった。多かれ少なかれ、誰もがその影響を受けたはずである。この場合の社会主義とは、大体において「マルクス=レーニン主義」であった。1960年代以降、スターリン主義批判を掲げて登場した新左翼もまた、「マルクス=レーニン主義」に対し、極めて少ない例を除けば、ほとんど疑問を持たなかった。社会主義にシンパシーを抱く全ての人々にとって、ロシア革命は、あい変らず、史上初めて社会主義を成立させた革命として尊ばれていたし、個々の指導者について、それぞれ欠点は指摘されることはあったとしても、全体として、ロシア革命とその後に樹立された社会主義の祖国ソヴィエト=ロシアは、一貫して擁護の対象であった。ソヴィエトを冠した独裁体制は、共産党の独裁に過ぎないとか、スターリンの個人崇拝をもたらしたと批判はされたとしても、「プロレタリア独裁」の一つのあり方として、或いは典型として、支持されていた。今となっては、誰も見向きもしないであろうレーニンの党組織論(民主集中制及び外部注入論)もまた、同様に支持されていたし、そうでなかった場合でも、大いに尊重されていた。
 このような社会主義にシンパシーを持つ人々の、最大の欠点は、反米もしくは反資本主義であれば、どのような独裁であっても、シンパシーを感じ、支持や擁護の対象としたことであろう。国内的には徹底的に自由の擁護のために、市民的権利の拡張のために闘っていた人々が、いとも容易に、国外の反米や反資本主義を称する独裁国家や独裁者を支持してきた。このような雰囲気をもたらした最大の要因こそ、ロシア革命以後の20世紀社会主義の歴史が、独裁の歴史であり、それを人々は、理想社会(国家と階級の廃絶)を目指す過渡的な国家体制、すなわちプロレタリア独裁の試みであると、ずっと思い込んできたことによる。ジラス(Milovan Djilas)のように、そうではなく、この独裁こそ真実であり、新しい支配階級による独裁国家の樹立に過ぎないのだと見抜いた人々は、つねに不遇であった。このシリーズの巻頭で触れたウィットフォーゲルもその一人であった。
 すでに何回か触れたと思うが、マルクス主義は西欧で生れた。そのことの意味合いは決して小さくない。西欧のマルクス主義者が考える独裁とは、権力の多元性を前提にした独裁であったのに対し、ロシア革命以後の独裁とは単一権力に基づくもの――民主集中制とはそれを別に言い換えたものである――、つまり専制主義をモデルとしたものであった。それゆえ、ソヴィエト=ロシアの社会主義は、同じ権力観を持ったアジアの諸民族に、容易に受け容れられることとなった。1989-1991年に旧社会主義圏が崩壊した時、アジアの社会主義国がそれ以後も同じ独裁体制を堅持したのも、旧ソ連内の社会主義共和国のほとんど――バルト三国を除く――が、独立後、選挙による政治体制の変更が可能になったにもかかわらず、いずれも独裁もしくは独裁がかった政治体制を選択したのも、同じ権力観を有していたからだといわざるをえない。
 すなわち事の始まりは、ロシア革命であった。ロシア的な国家観、権力観、政治思想が――ロシアの革命家たちの実践と革命以後の政治プロセスを経て――マルクス主義をマルクス=レーニン主義へと変容させ、結局は、20世紀社会主義の祖形となったソヴィエト国家という、その創始者たちが全く予期しなかったリヴァイアサンを産み落としたのである。

 次の問題は、ロシアの専制主義はどのようにして生れたのであろうか、ということである。今シリーズのタイトルが『アジア的生産様式物語――入門編』である以上、専制主義(despotism)の歴史的起源としては、当然、アジア的生産様式を想定している。或いは、ウィットフォーゲルの『東洋的専制主義(Oriental Despotism)』に言う「水力的農業」(hydraulic agriculture)に由来すると考えている。だが、誰もが知っているように、ロシアの歴史にそれらに関るもの、由来するものは何もない。その農業は、大規模な灌漑や治水に関りはない。またキエフ国家以来の歴史は、その他の大規模公共事業にも関係がない。つまり、アジア的生産様式を特徴づけるようなインフラストラクチャーに欠けている。だが、それにもかかわらず、ロシアは一連の長い歴史過程を経て強力な専制国家となった。
 前回も述べたように、ロシアでは観念的には、すべての土地はツァーのものであった。それをソヴィエト=ロシアの社会主義は継承したのだった。たとえば、1905年や1917年の革命に大いに関心を寄せていたマックス・ウェーバーは「ロシアでは、私法上どれほど『確立した既得権』であろうと、国家は思いのままにこれを取り消す権利をもち、したがってまた臣民の保有地にたいしても至上権を行使する権能をもつ、こうした観念が支配的である。この観念の起源は昔のモスクワ公国時代に求められるが、それは、耕地共同体の起源がやはりその時代に求められるのと全く同様である。」(『ロシア革命論』Ⅰ、雀部幸隆他訳、名古屋大学出版会)と述べている。
 プレハーノフ研究家として知られるサミュエル・バロンの著書『モスクワ大公国期のロシア』( Muscovite Russia)、『モスクワ大公国史の探求』( Explorations in Muscovite History)は、主に17世紀に活躍したゴスチと呼ばれる特権大商人に関する興味深い研究が収録されているが、そのなかで、ツァーは、全てを所有していたと述べる。ツァーは、国土も、その資源も、全て、彼の意のままにしうる彼の所有物とみなしていた。そして、このようなツァーの見方は、彼の臣下によって、明示的ではないにしても、了解されていた。それゆえ、ツァーもしくは国家は、財政難に陥るや、大商人が扱っている商品を国家の専売とし、大商人の手から取り上げるのにまったく躊躇しなかった。ゴスチと呼ばれた特権大商人は、生成途上の国家装置に代り、国家の用を果たし繁栄していたようにみえるが、浮き沈みが激しく、二世代を超えて家の繁栄を維持したのは稀であった。それというのも、彼らはしばしば不利な商いも請け負わなければならず、また国家から重い負担を課せられ、もしそれが達成されなければ罰せられたり、家産の一部もしくは全部を没収されたからであった。このような経済システムの下では、近代化或いは資本主義につながるような一群の資産家たち、つまりブルジョアジーが生れてこないのは当然であった。
 16世紀前半に二度モスクワを訪れたヘルベルシュタイン男爵は、当時最盛期にあったハプスブルク・オーストリア(神聖ローマ帝国)の外交官として、周辺各国との外交交渉にあたった。ヨーロッパの君主制を熟知していたヘルベルシュタインの目に映ったモスクワ大公国の統治者ワシーリー3世は、比類なき権力を行使しているように見えた。「ツァーは、この国と住民の、異論のない支配者であり、人々は、その地位が高かろうが低かろうが、彼の奴隷であり、農奴である。彼らはツァーの意志を神の意志とみなし、彼らの財産はみなツァーの所有物であるとみなしていた。」(サミュエル・バロン)と述べている。ヘルベルシュタインはスラブ語に堪能であり、モスクワではロシア人たちと直接付き合うことができた。それゆえ、このような彼のモスクワ大公国の君主と人民に対する見方は、任務の傍ら得た単なる印象とは異なるものである。彼が著わした『モスクワ事情』(1549年、ラテン語)は、その後の西欧のロシアへの見方に決定的な影響を与えたと言われている。
 我々の印象からすると、同時期のヨーロッパの君主たちもまた、大きな権力を有していたように見える。当時、ヨーロッパ最大の君主は、神聖ローマ帝国皇帝にしてスペイン国王でもあるカール5世であった。また、その子、スペイン王フェリペ2世、そして彼に対抗したイギリス女王エリザベス1世は絶対主義君主として知られる。彼らはいずれも、西欧中世の封建君主とは比較にならないほど、権力を集中させ、常備軍と官僚組織を率いて、権力を振るったとされる。絶対主義君主の統治は、時には専制的な政治形態とも呼ばれ、また人民を無権利の状態においたとも言われている。
 絶対主義とは、何ものにも拘束されない絶対的な権力を持つ政治体制を意味する、と辞書にあるが、絶対主義の絶頂期でさえ、西欧の君主は様々な制限のもとでその権力を行使しなければならなかった。絶対主義とは、その点では「誤った呼び名」だとペリー・アンダースン『絶対主義国家の系譜』(Lineages of the Absolutist State)が言っている通りである。たとえば、フェリペ2世の統治期間中、スペイン王室は、何度(3度)か支払い不能に陥ったと言われている。これを、王室財政を何度も破綻させるほど、フェリペ2世が恣意的な統治を行なったととることもできる。だが、もしこれが東方の君主なら、自己の借金の棒引き、支払いの無期限延期、貿易の独占や専売制度の拡大、売官(官職の販売)、或いは恣意的な課税、豊かな臣下の資産没収など――北の「理想国家」を見れば、手段はほかに幾らでもあることが理解できよう――、国民に、その時々に好きなだけ負担をかけることで凌いでしまうであろうと考えると、絶対主義君主をも支払不能宣言させるほど、経済(或いは財政)が制度的に機能していると見ることもできる。国王が無理難題を臣民に押し付けようとしても、身分制議会の召集と承認、貴族や大商人との取引や妥協、そして特権の授与、或いは国内の金融商人やジェノバなどの国際金融家との難しい交渉が待ちうけていた。
 
 再び、話をロシアへ戻すと、その専制主義の起源はモスクワ大公国にあるのだろうか。あるいは、それよりもはるか以前、ロシアの最初の国家、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)にあるのだろうか。ベルナツキーの『キエフ国家期のロシア』(George Vernadsky, Kievan Russia)を読むかぎり、当時のロシアは、東欧及び北欧社会に緩やかに繋がっているような、つまりそれらとあまり大差のないプロト封建制ともいうべき社会であった。キエフ大公に対し分封諸公はつねに対抗的であったし、貴族や大商人が都市を中心に活動し、さらにノブゴロドが代表的な例であるが、都市においては民会が依然として重要な役割を果していた。続いてベルナツキー『モンゴルとロシア』(The Mongols and Russia)は、モンゴルのロシア支配(1230年代後半から1480年、すなわちタタールの軛)をはさみ、それ以前(キエフ国家期)と、それ以後(モスクワ大公国期)を比較し、後者におけるモンゴル支配の影響の大きさを指摘している。とくに、モスクワ大公国における政治体制の専制化について、それがモンゴル支配の影響であることを認めている。
 この分野については、筆者が読んだかぎりであるが、ベルナツキー以外にも、オストロウスキ『モスクワ大公国とモンゴル』(Donald Ostrowski, Muscovy and the Mongols)、ハルペーリン『ロシアとキプチャク汗国』(J.Halperin, Russia and The Golden Horde)、栗生沢猛夫『タタールのくびき』(東京大学出版会)など、いずれも力作、興味深い著作が揃っている。彼らは、モンゴルの支配が、ロシア社会の様々な面において大きな影響を与えたことは認めつつも、ヴェルナツキーとは異なり、政治体制の専制化がモンゴル支配により直接もたらされたことに否定的である。オストロウスキの場合には、モンゴル自身の政治体制がそもそも専制的ではなかったとさえ述べている。
 諸家が、モンゴルの支配がロシアに専制支配をもたらしたとすることに否定的なのは、モンゴルのロシア支配が、直接統治ではなく、間接的なものであった、ということによる。ルーシ諸公は、モンゴルに対し、貢税及び徴兵の責を負うとともに、ボルガ河口につくられたキプチャク汗国の首都サライへの伺候を義務づけられていた。だが、徴税その他が次第に諸公に委ねられるようになり、ルーシ諸公国とモンゴル(キプチャク汗国)は、一種の貢納関係であるとも言えるようになる。
 また、モスクワ大公国の政治体制の専制化は、モンゴル支配期というより、むしろタタールの軛を脱した後、急速に進行したように見えることも、問題の把握を難しくしている。栗生沢猛夫は、ヴェルナツキーのキエフ・ルーシ像が、理想化されたものであり、キエフ社会の「自由」とは、モンゴルの支配がなくとも、社会が組織化、規律化され、政治的統一が進めば、早晩失われるしかない程度の、プリミティブなものであったこと、モンゴルは民会の蜂起には厳しく対処したが、民会の制度そのものに敵対的であったわけではなく、むしろロシア社会自身の組織化、政治的統一が、民会の伝統の衰退をもたらしたのだと指摘している。
 門外漢の評言にすぎないが、これらの論点は、考慮の余地があるのではないだろうか。まず間接的な支配、もしくは貢納関係ということについてである。一般に、初期国家もしくは初期帝国と呼ばれる国家群においては、征服地或いは従属的な集団を間接統治する場合、その影響は征服された社会、従属的な集団の社会システムを大きく変容させることはない。初期国家論では、このような支配・被支配関係を包摂する社会構成を、貢納制的生産様式に基づくと称することが多い(これは従来ならばアジア的生産様式と呼ばれてきたものである)。だが、13世紀のモンゴルは、そのような意味での初期国家或いは初期帝国(例えば、インカ帝国やマウリヤ朝)ではない。モンゴル以前の征服王朝である遼(契丹族)や金(女真族)の統治経験を継承し、プリミティブな統治ではなく、ある程度文明によって練り上げられた統治方法をとったと考えるべきである。また、モンゴル支配の場合、都市の不服従が武力による攻撃、虐殺と掠奪(atrocity)によって罰せられたように、ハーンの命令は絶対的であった。すなわち単一権力社会の君臣関係が強制されたのである。そこでは原則として、支配するものと支配されるものの間に、バーゲニングの余地は――実質的にはともかく――なかったと考えられる。
 次に、栗生沢猛夫『タタールのくびき』はとても示唆に富むが、彼が言うような、社会の組織化、規律化、及び政治的統一の進行は、政権の強化、特に中央集権化をもたらすが、それは必ずしも、専制と結びつくわけではない。というのも、例えば西欧中世後期から近世にかけて、上位の権力(国王や大領邦の君主の)が強化され、下位の権力がそれに吸収されたとしても、統合された権力は、上から下まで、無制限の権力を振るえたわけではなかった。権力が統合されれば、統合された権力のなかに分節化が生まれ、上位の権力はそれに制限されるようになる。西欧中世の封建制から近世の絶対主義を経て近代社会が成立していくが、強力な国民国家に直接組み込まれた都市、小領邦は、独立した権力を失ったとはいえ、国家のなかで、自治を行う権限は確保し続けた。
 また、官僚組織及び常備軍の強化によって貴族層が打撃を受けたとはいえ、首都もしくは都市に結集した貴族は、近世以降の社会組織の複雑化のなかで、それぞれ身分や資産に基づく役割を果すことが可能であった。フランスの法服貴族の役割はよく知られている。高等法院に依って、絶対王政に対抗せんとした貴族たちは、その格好の例である。中世から近世へ、社会の仕組は大きく変わったとしても、多元的な権力社会の本質は、なお維持されていた。多元性は中世においては、どちらかといえば平面的、外延的に展開されていた。それに比し、近世以降は社会の統合化の深まり、国王及び首都の権力の強大化にともない、権力の多元性は、権力の重層化として展開されていった、と考えられる。たとえ権力の並存局面から、上位の権力に統合され、下位に位置づけられたとしても、重層化される権力構造のなかで、下位の権力はそれに相応した権限を維持した。その後も、下位の権力は、上位の権力に対しバーゲニングを繰り返すことを止めなかった。

 モンゴル支配の下における、ロシアの政治体制の変質については、以下の例を考える必要がある。キエフ・ルーシ以来のロシアの大貴族層ボヤールは、世襲地については、その完全な所有権を有していた。このような世襲貴族は、仕える君主を変えたとしても、その世襲地については、前の君主に没収されることはなかった。ところが、モンゴル支配下の東ロシア(特にモスクワ大公国)において、勤務貴族化が進むにつれ、その領地が公への勤務によってもたらされたものと見なされるようになり、君主を変えた場合、世襲地さえ没収されるようになる。つまり、貴族たちは、大公への忠誠に励む以外に、所領を守るすべはなくなったのである。ヴェルナツキーによれば、15世紀末には、従来の貴族たちは「自分たちの足元を支えていた硬い岩が砂に変わったことを知った」(『モンゴルとロシア』)と述べる。また、オストロウスキは、1375年、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイがトベーリ公国に転じた臣下の所領(estates)を没収した例をあげ、モンゴル人たちが持ち込んだ、すべての土地は君主に属するという中国の原則が、すでにモスクワ大公によって採用されたと述べている。
 このような世襲貴族から勤務貴族への変化は、君主と臣下の関係において、これまでのキエフ・ルーシやその近隣、或いは広くヨーロッパ的なものとは、大きく異なった権力システムへの転換であった。モンゴルのロシア支配においては、君側は単一権力社会の出自であり、臣側は多元的権力社会の出自であった。このような君臣関係において、当然君側が主導的である以上――モンゴルの圧倒的な軍事力を背景に――、単一権力社会の君臣関係が臣側に課せられ、直接的な対面の場における、臣の君に対する行為や挙止を強く規制すると同時に、あらゆる臣側の君側に対する諸関係――貢租及び諸税の徴収、そして徴兵のほか、行政、財政、交通、刑法など諸方面における君臣関係――を規制することとなった。そして、このような単一権力社会の規範は、実際にはともかく、有無を言わさぬバーゲニングの余地のない命令への服従として強制されたのである。キエフ・ルーシの君臣関係が他のヨーロッパの君臣関係と同じく、君臣間のバーゲニングに満ちていたのとは大きな相違であった。如何に間接支配とはいえ、このような関係が長期化すれば、臣側に強い影響を残すことは必定である。世襲貴族から勤務貴族への転換は、この歴史的コンテキストに沿って理解する必要がある。同時期、西欧で起きていた土地貴族(封建領主)から行政官や司法官等の官職貴族への転換と混同してはならない。多元的な権力社会のなかで起きたことと、多元的権力の社会から単一権力社会への転化の過程で起きたことは、表面的には類似していても、実際にはまったく異なった事柄である。
 変化したのはこれだけではなかった。先ほどの例、世襲地の没収の意味を考えてみよう。「忠臣は二君に仕えず」が当然と思っている我々からみれば、臣が別の君に仕えれば、以前の君に所領を没収されるのは当然である。だが、我々の武士像は江戸時代のサラリーマン化した武士のイメージに負うところが大きい。所領や名田を経営する領主や名主ではなく、与えられた禄を食む侍である。だが、中世初期の領主や名主の多くは、その所領や名田を、領民を率い自らの主導で開発し、代々その経営を維持しており、その場合、領主権は根強いものがあった。また、西欧中世においては、君臣間は契約関係であり、臣は契約義務を履行するかぎり、二君に仕えても差し支えなかった。世襲地の没収は、その点において、単に君臣関係の変更であるばかりでなく、所有関係の変更でもあった。すなわち所有関係もまた、単一権力社会に即応した所有関係に変更されたのである。その所有関係の変更に合わせ社会全体が変わっていくには、それなりに時間がかかったに違いない。モンゴルの支配を脱した後、専制化が進んだように見えたのは、それゆえであろう。
 単一権力社会の所有関係とは、短い言葉で表せば、「あらゆる所有(私有を含めて)に王の政治意志が優先する」、このように言うことができる。「王権に従属する所有」或いは「王権に依存する所有」とも言えるであろう。所有という言葉には、共同体的所有とか、王有或いは国有も含まれる。当然、私有も含まれる。王はすべてを所有する。そうである以上、どのような所有も王のものであり、王の権力を制限するものであってはならない。と、すれば、個々人の私有もまた、法的にどのような名目がつけられていようと、王のものである。仮に個々人の私有であっても、国家のために、他に用途ありと王が判断すれば、王の意志に従わなければならない。
 これと反対の所有関係、すなわち多元的な権力社会の所有関係の本質は、「所有は所有権として存在する。それゆえ、王以外の所有は結果として、王権を制限する」というものである(「王権を制限する所有」)。単一権力社会においては、所有は所有権として存在しえない。何故ならば、社会に一つしか権力の源泉がない以上、他に権力の源泉はあってはならないからである。所有権であれ、なんであれ、あらゆる権利、権限は、王権を侵害してはならない。そうである以上、王権以外に権のつくものは、どのような名目であれ、仮の権利や権限であって、つまり王から恩恵として与えられたものであって、王の意志次第ではすぐに回収可能なものである。20世紀社会主義のもとにおける選挙権、あるいは民族自治といったものを想起すれば、すぐに理解できよう。(続く)
蒼蒼 目次へ >>