中国的なるものを考える(電子版第24回・通算第67回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第24号 2008.05.21   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


タタールのくびき 続き
--書き残したこと--



 前回は、モンゴルのロシア支配(タタールのくびき)において、多元的権力の社会から単一権力社会への転換が行われたこと、そしてそれと平行して所有関係(所有形態)の質的転換が行われたことを述べた。さらに、単一権力社会と多元的権力の社会では、権力と所有の関係が異なること、単一権力社会における所有関係のあり方は「すべての所有(私有)に王の意志が優先する」であり、多元的権力の社会における所有のあり方は「所有は所有権として存在するがゆえに、王権は臣下の所有から制限を受ける」というところまで話が及んだ。
 今もなお、マルクス主義とかマルクスの歴史観に愛着を持っている我々としては、どうしても農村共同体とか農民的土地所有が、キエフ国家期及びモンゴル支配期において、実際にどのようなものであったのかについて、強い関心をもたざるをえないが--筆者の勉強不足のせいではあるが--どうも具体的には見えてこない。キエフ国家期においては、プリミティブな共同体(マルクスの「スラブ的共同体」)の上にプロト封建的な国家(王領、貴族領、都市領)が築かれていたような印象を受ける。それはあたかも、アジア的な国家がプリミティブな共同体(アジア的共同体)の上に聳え立っていたのと同様に映っている。そこが、キエフ国家の弱みであったのかもしれないし、モンゴル支配のもとで、所有関係の転質--多元的な権力の社会から単一権力社会への転換--を迫られる要因であったのかもしれない。
 このような話をすると、世界史に関心のある読者だけに向けて書いているように思われるかもしれない。だが、書いている本人は、現在、我々が生きている世界のことを考えて語っているつもりである。たとえば、ロシアにおけるプーチンからメドベージェフへの大統領職の奇妙な継承、あるいは中国におけるチベット問題の扱い方、及び最近の聖火リレーで見せた中国人留学生たちの結集と絶叫、それらから不断に刺激を受けつつ書いている。それにしても、ロシアにおいても中国においても、それぞれ中産階級らしきものが形成されつつも、何ゆえ「異論を唱える人々」が育たないのであろうか、或いは、かくも無力なのであろうかと、心底問わざるをえない。

 筆者が言う単一権力社会とは20世紀社会主義を生んだロシア及びそれを継承している中国その他の国々を指していることは、すでにお分かりであろう。それゆえ、王権と所有をめぐる議論は、当然、国家権力と所有をめぐる議論に繋がる。ここで言及される所有とは、一般の所有ではなく、生産手段の所有である(資本主義以前ならば、主に土地所有を想定している)。
 王の意志、王の政治意志を、国家意志と置き換え、「すべての所有(私有)に国家意志が優先する」と言い直せば、20世紀社会主義の「権力と所有」の関係そのものになる。20世紀社会主義においては、生産手段が国有化され、国有化された生産手段を独占的に管理運営する国家及び党の官僚層が国家を支配してきた。とすれば、所有(国有)こそ権力の基礎であり、「すべての所有(私有を含めて)に国家意志が優先する」という表現は、行き過ぎたものに映るかもしれない。もし、西欧において社会主義が生まれ、基幹産業の国有化が行われた場合、その権力を所有(国有)に基づくものと言えるかもしれない。だが、ロシア帝国或いはそれを遡ったモスクワ大公国において、顕著だったのは、むしろ、個々の所有或いは具体的な所有を超えたツァーの至上権であった。「ロシアでは、私法上どれほど『確立した既得権』であろうと、国家は思いのままにこれを取り消す権利をもち、したがってまた臣民の保有地にたいしても至上権を行使する権能をもつ、こうした観念が支配的である」とウェーバーが言っていたことを、思い出していただきたい。
 それゆえ、単一権力社会において、共同体的所有であれ、国有であれ、王(帝)の意志を制限することはできない。もちろん私有も同様である。何故ならば、単一権力社会においては権力の源泉は一つである。つまり王権そのものである。それ以外に権力の源泉となるものは排除されるか、王権に服従せしめられる。そこでは、王とともに王の所有(仮に王有と呼ぶことにする)にあずかる王族たちが、王にとって最も危険な敵である。だからこそ、王は王族の力を削ぐことに力を注ぎ、さらに王子(皇太子)さえ、自らの権力を弱めるもの、ライバルとみなし、時には清代のように、あっさり皇太子制度を廃することさえしてみせる。
 このような社会において、私有は、たとえ大規模なものでさえ、そのようなカリスマやオーソリティーを持たない。何故なら、単一権力社会において、一般に言われる私有は、どのような名義のもとにあれ、事実上の所有にすぎない。というのも、すべては王のものである以上、その私有すら王が恩恵として与えたものであって、国家の危急の際などにおいて、王は必要があれば、それを自由に使用したり、回収したりすることができるからである。それゆえ、中国の歴代王朝は豪族の土地兼併を、小農保護の観点からそれを制限しようとは思っても、それが所領化したり、王命に従わぬ地域政権に発展するなどと考えることはなかった。単一権力社会においては、土地私有の集積や拡大によって王権を制限することはありえない。当然、権力の源泉は土地私有ではない。
 アジア的生産様式のもとにおける土地の私的所有の不在とは、どういう意味であったのか、ここにいたって明確になる。従来アジア的生産様式の特徴の一つとされていた土地私有の不在は、アジア的生産様式論の弱み、或いは誤りの証拠として、随分、非難を浴びてきた。というのも、中国でもインドでも、土地私有は古くから存在していたからである。だが、ウィットフォーゲルがすでに反論しているように、このような非難は、土地に値がつけられているとか、売ることができるとかいった側面にだけ注目した、所有とか私有の本質に触れぬ議論によるものであった。

 前回述べたようなタタールのくびきのもとで発生した転換を、所有関係の質的転換もしくは所有形態の質的転換と呼びたいと思う。これらは、マルクス『ドイツ・イデオロギー』や『資本制生産に先行する諸形態』にヒントを得たものである。しかしながら、マルクスの古典に関する議論は、ここでは残念ながら割愛する(関心のある方は、所属大学の紀要『明治大学教養論集』をご覧になっていただきたい。単一権力社会と多元的権力社会がマルクスの共同体論とどのような関係にあるのか、いずれ形にしたいと考えている)。

  多元的権力社会から単一権力社会への転換がモンゴル支配のロシアで起きたように、類似した転換が、ビザンツ帝国からオスマン帝国への王朝交代によって、小アジア半島やバルカン諸民族の歴史においても、発生したと考えられる。ビザンツ帝国が如何なる生産様式に基づく社会であったのかについて、マルクス主義者の間でも論争に決着がついたとはいえない。また、同時期のバルカン諸民族に関しても、同様である。封建社会と呼べば問題は解決するかにみえるが、おそらく、そうすれば西欧中世との相違が却って目立つだけに終わろう。仮に言うとすれば、ブルガリア、セルビアなど南スラブ族もまた、プロト封建社会ともいうべき状態にあった、ということぐらいであろう。
 ビザンツ社会が果たして封建的であったのかどうかについても、喧しい議論があった。おそらく、封建制概念の適用は、バルカン諸民族以上に、西欧中世との相違を際立たせるだけであろう。しかし、ビザンツは最後までローマであった、ということだけは明確であるように思われる。つまり、ローマ法のもと、所有権(私有権)は確実に存在し続けた。それゆえ、ディオクレティアヌス帝以降、その帝政は東方の影響を受け専制化し、皇帝権力の絶対化が進んだが、個人資産の没収は、決してなかったわけではないが、簡単なことではなかった。行えば、臣下(市民)の不興を買うことも、時には激しい抗議を受けることも覚悟しなければならなかった。
 それに対し、オスマン帝国はイスラム法のもと、征服地はスルタンの所有であり、それゆえ国有であった。土地は軍事封土としてシパーヒーに分けられ、シパーヒーは農民を支配し、その収穫の一部を自己の取り分として受領した。このティマール制は、西アジアのイクター制と同様、原則として、スルタンへの軍事奉仕に見合う徴税権の付与であり、世襲ではなく、領主として在地化することは--個々の事実としては存在したかもしれないが--、システムとしては阻止されていた。オスマン朝のスルタンは征服地(国土)の所有者として、当然にも彼の意志はあらゆる所有(私有)に優先するものであり、かつロシアのツァーと同じく、正真正銘の専制君主であった。バルカン諸民族は、それまでビザンティン・コモンウェルスに組み込まれ、緩やかにビザンツの文化や政治経済制度の影響を受けていた。だが、オスマン朝による征服後は、その直接統治のもとで、単一権力社会に組み込まれ、異質の所有形態のもとで数百年の支配をしのばざるを得なかった。そのことが、今日のバルカン社会の歴史に、多かれ少なかれ、強い影響を及ぼしていると考えられる。

 これまでは、多元的な権力社会から単一権力社会への転換、そしてそれに伴う所有形態の質的転換を述べてきた。それに対し、逆の転換が日本で起きている。一般にマルクス史家は古代(奈良・平安時代)を奴隷制、中世(鎌倉・室町時代)を封建制の名で呼ぶことが多いが、石母田正は古代から中世への転換を総体的奴隷制から封建制への転換と規定している。また、塩沢君夫は古代をアジア的生産様式、中世を家父長制的奴隷制と呼んでいる。だが、古代や中世を諸家がどう呼ぼうと、日本の古代から中世にかけて、上記に言う所有形態の質的転換が起きたことは疑いない。つまり大化改新--事実はどうであったのかについていろいろ議論がある--以後の日本が、班田制にみられるように、国家的土地所有制に基礎づけられた社会であり、その上に中央集権的な政治体制が築かれていたことは間違いないであろう。それに対し、日本中世及び近世は土地私有に基礎づけられた社会であり、所領は武士によって守られ、さらにその土地私有も武士による自衛も、国制によってオーソライズされたものであった。つまり、王権は自身以外の所有から大きな制限を受けていたといえる。筆者は、日本古代をアジア的生産様式もしくは総体的奴隷制に基づくもの、と規定することに賛成だが、どうしてその後、このような所有形態の質的転換が起きたかについては、日本古代のアジア的生産様式が、四大文明地域におけるような中心的な性格をもたず、周辺的なものであったこと、その灌漑・治水などの公共事業も巨大古墳の造営を除けば小規模であったこと、それ以外にいまだ明確な回答を持っていず、思案中と言わざるを得ない。
 また、この質的な転換は、アジア的な社会において発生したという点において、大きなハンディを負っていたように思われる。つまり、質的転換後も、アジア的な社会を母体として転換が起こったということの影響が長く残ったからである。というのも、古典古代的共同体やゲルマン的共同体といった本源的な共同体が、すでに「私有」や「個人的所有」を内包していたのに比し、アジア的共同体は「王有」を優越させ、それが古代から中世への転換後も、いろいろな局面において、影響を及ぼしてきたと考えられる。その点に着目したのが戦前の講座派であり、アジア的生産様式は、日本古代のみならず、中世及び近世においても、さらに近代以後も天皇制絶対主義や封建遺制として負の影響を及ぼし続けていたと主張し、一種、通時的なアジア的生産様式論として、或いは日本的停滞論として理論展開したことは記憶に新しい。
 さらに、インドにおける植民地以前の経済社会構成から植民地後(独立後)の経済社会構成への変容の過程において同じことが起きたのではないかと考えている。植民地以前のインドの社会構成をアジア的生産様式と呼ぶべきかどうかについては議論があり、マルクスのインド論(アジア的生産様式論)はインド国内外のインド研究者からは、極めて評判の悪いものとなっている。だが、どのような生産様式であったかにかかわらず、先ほどの所有関係の質、もしくは所有形態の型に関して言えば、植民地以前のインドにおいても「すべての所有(私有)に、王の政治意志が優先」していたことには変わりがないようにみえる。少なくとも「王権を制限する所有」が存在していたとか、それが主流であったようには思われない。
 植民地支配のもとにおける土地所有制度(地税制度)の変更或いは所有権の確定については、いろいろ議論されてきた。複雑に絡み合う所有関係において、土地の真の所有者は誰か、徴税代理人なのか耕作者なのか、一体誰に所有権を与えるべきか、或いは誰に納税義務を負わせるべきかなど、難問であった。だが、そこから生れた制度、ザミーンダーリーやライーヤトワーリー等は、実情に即していたとはいえず、かえってその後に多くの混乱をもたらすことになったといわれる。また、植民地下における所有制度とは、それがどのようなものであれ、イギリス帝国主義の上級所有権--植民地支配--を侵すものではなかった。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、イギリス帝国主義の法システム下の二世紀が、事実上の所有ではなく、所有権に基づく私有をインド社会に根づかせたのではないかという推測は、十分に可能であろう(香港の一世紀についても、同様のことが考えられる)。はたして「王権に依存した所有」、「王権に従属した所有」から「王権を制限する所有」への転換が起きたのであろうか。今日のインドの経済発展が、或いは議会政治の下、何回か繰り返されている政権交代が、そのような所有関係の質的転換に関係があるのかどうか、関心がもたれるところである。

 以上から、次のような現状への理解が生れる。現在、旧社会主義国の多くは経済発展を目指し奮闘している。その原動力は民間資本、民間経営であるはずだが、公的セクターの優位は今も顕著である。私的セクターおける生産手段は当然私有であるが、はたして、政治もしくは政治的権力からどこまで自立しているのであろうか。自立しているように見えるのは、外資企業だけなのではないかと、疑われるべきである。旧社会主義圏に進出した外資企業がともあれ、所有権(私有権)の保護や不当な徴税への抵抗など、企業の権利を公然と主張してきたことが、その国の経済発展(所有権の確立)に寄与していることは疑いない。可能ならば、その国の民間資本(民族資本)がブルジョアジーとしての役割を果すべきである。
 では、それは現実に可能なことなのだろうか。近代史を振り返れば、たとえば、ロシア→ソ連に関しては、一貫して単一権力社会の所有関係によって支配されてきた。つまり、すべての所有(私有)に国家意志が優先してきたのである。1991年以後、質的転換が起きたように見えた。だが、本当にそうかどうか疑問である。中国については、清代→民国期→人民共和国期と、所有関係は質的には変わらなかったと考えられる。民国期は、資本主義的な世界システムに強く巻き込まれたため(周辺資本主義的構成体として編成し直されたため)、その原則が大いに緩んだかに見えた。だが、その資本主義を特徴づけるものは「国民党官僚資本主義」或いは「四大家族」であり、1945年、日本の敗戦後、日本資産の接収と米軍援助の吸収も手伝い、四大家族傘下の四行二局が、全金融資産の90%以上を占めたように、その独占ぶりは明らかであった。つまり、民国期といえども、所有形態の質において、根本的な変更はなかった--或いは変更するまでには至らなかった--と、筆者は考えている。
 人民共和国期は、革命期と改革期に分かれるが、いずれにせよ、所有形態の質に変更はなかった。いずれの時期においても、あい変らず、あらゆる所有に国家意志は優先してきた。それは、現在のように、生産高において、公的セクターを私的セクターが凌駕するようになったとしても変わりがない。逆に、このような変化に合わせ、権力の再編が進み、先に豊かになった層が、党及び政府の周囲に結集することによって、矛盾や綻びの拡大を繕っている。唯一政治的に組織されているのが党であるという状態に昔も今も変わりはない。単一権力社会から多元的な権力の社会へ、そしてそれに伴う所有形態の質的転換は、ここでは、容易ではない。私的所有が王権(国家意志)を制限するなどとは、今のところ考えることができない。
 次回は「停滞論の系譜」を予定している。
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