中国的なるものを考える(電子版第25回・通算第68回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第25号 2008.07.23   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


臣民の再征服 (その一)


 最近、ドイツ語で読書を始めた。今のところ、頑張っても、日にせいぜい20頁ほどしか読めないが、まずはアジア的生産様式に関する著作(Ulrich Vogel,1974)を一冊読了して、少し気分をよくしている。
 三年前、雲南から戻って来て、一体自分は今後、何を追いかけようかと考えた時、かなり迷った。以前からの中華民国社会史でももちろんよかったし、たくさん買い込んだ雲南関係の資料のなかから雲南軍閥史などを選んでも面白いように見えた。雲南を中心として、インドシナ北部からインド・アッサム、ブータン、ネパールへと広がる照葉樹林文化地帯に住む人々の交流史とか、彼らと国家や帝国主義との関りについて書くことも考えた。だが、帰国後、最初に書いたものは、四川涼山彝族奴隷制に関するものであり、その後も、奴隷制やアジア的生産様式に関するものをずるずると書き続けている。だから、若い人類学研究者の勉強会などに参加した時、自己紹介に困ることも、しばしばである。中国近代史専攻とはいっても、もう何年も中国近代史については書いていない。そのうち、自分がやっていることは、多分、マルクス主義ヒストリオグラフィー(Marxist historiography)とも言うべきものであろうと気がついたのだが、ドイツ語もフランス語も、勿論ロシア語も読めない人間が、マルクス主義を冠した学問をやっているなどと自称するのは、大いにはばかられた。せめてドイツ語やフランス語で読書ができればと考えても、還暦にあまり遠くない人間が、ドイツ語やフランス語を学び始めても、成果が期待できるとも思えなかった。
 二年前、ソフリ(Gianni Sofri)のアジア的生産様式論(Über asiatische Produktionsweise, 1972)とウィットフォーゲルの『マルクス:十八世紀の秘密外交史』「序論」(Wittfogel, Einleitung zu Marx' >>Enthüllungen Zur Geschichte der Diplomatie im 18. Jahrhundret<< ,1980) を、翻訳ソフト(独→英)を使って強引に読んだが、翻訳率があまり高くなく、解読はなかなか大変な作業であった。かくなるうえは、たどたどしくてもよいから、ドイツ語のまま読むことができればと思い、少しずつ学習を続けてきたが、ようやく、それができるようになった。書棚には、アジア的生産様式やそれに関連するドイツ語の本が十数冊並んでいるので、当分、ドイツ語学習が楽しめそうである。


 さて、「中国におけるアジア的生産様式論争史」研究は頓挫したままであるが、せめて1950年代後半に行われた「封建社会土地所有制形式論争」について、何とかイメージをつかもうと、『中国封建社会土地所有制形式問題討論集』(三聯書店、1962年、株式会社大安の影印版)を少しずつ読み始めた。中国の論争は、特に文革前の論争は、論争開始時よりあらかじめ勝負がついているか、帰趨が決まっている場合が多く、読んでいて、あまり面白いものではない。また、この論争で一生懸命自説を弁護している侯外廬とか呉大琨などが、最初から「負け組」に入っているのを見るのは、つらいものがある。ここで「負け組」というのは、封建的土地国有制説支持者のことであり、他に賀昌群とか韓国磐、李挺(土偏)といった、よく知られた歴史家たちもまた、同じような見解を披露して--おそらくはより若い世代の歴史家たちから--批判されている。
 論争は、1954年『歴史研究』創刊号に掲載された侯外廬「中国封建社会土地所有制形式的問題--中国封建社会発展規律商兌之一」(商兌:相談、討論)によって口火が切られたと言ってよい。だが、これに対する胡如雷の批判が『光明日報』に掲載されたのが1956年9月、また多くの論文が1957年以降発表されているところを見ると、論争はやはり1950年代後半の政局に、特に1957年以降の反右派闘争や大躍進政策などに関る、イデオロギー分野の「闘争」に関係があるとみなければならないだろう。侯外廬は上記において、中国の前近代社会(所謂「封建社会」)の土地所有制度は、主に皇族的土地所有制と呼ぶべきものが中心であった、と主張した。この皇族的土地所有制は、ネーミングがいま一つぴったり来なかったようで、以後論争においては封建的土地国有制と言いかえられている。
 侯外廬が何ゆえ、当初、一般的に想起しうる封建的土地国有ではなく、聞きなれぬ皇族的土地所有を主張したかについて、確証はないが、現在の時点から考えれば、やはり皇帝の支配が及ぶかぎりにおいて、その土地が国家のものであれ、私人のものであれ、皇帝の意志によって自由に処分できたという皇帝の至上権を強調したかったのではないか、と考えられる。国有制といった場合、国家が制度として存在し、皇帝はそれをただ人格的に体現するにすぎないかのようにみえてしまう。だが、前近代において、国家はいまだ支配者の人格と未分化であり、且つ王や皇帝の意志は国家意志そのものである以上、皇帝の至上権を表現するに相応しい概念は、国家的土地所有よりも皇族的土地所有であると侯外廬は考えていたのではないか。だが、国有でも私有でもない、皇族的土地所有は、当時の理論界(理論工作者)にとって、あまりにも聞きなれぬ、マルクス主義の歴史理論らしからぬ印象を与えたのではないだろうか。それゆえ、侯外廬説の支持者たちも、それを踏襲しようとはしなかったのだと思われる。
 「封建的土地所有制形式論争」自身については、もう少し読み進んだ段階で、何か書いてみたいと考えている。今回は、幾つか読んだ論文のなかで、改めて再認識させられた事柄について書きたい。賀昌群「論西漢的土地占有形態」(『歴史研究』1955年第二期)は、西漢すなわち前漢、とくに武帝期を中心として、諸王侯の封地没収、告緡令(こくびんれい)による資産没収、あるいは相次ぐ東方の名族豪家の関中への強制移住などにより、大量の土地が皇帝のもとに集中されたことを挙げ、皇帝が最高の地主であり、かつ最大の地主となったこと、またその最高最大の地主は、その他の地主(私有であれ、公田の占有者であれ)を排斥しないが、一人もしくは一姓の大土地占有(大土地所有)については、これを排斥しようとしたと力説している。賀昌群はこれを、中央集権をめぐる王権と地主豪商勢力(強宗大族、強宗右族、地主豪強、富商大賈などとも呼ばれる)との闘争として描いている。王権は皇権、もしくは強いアクセントを付し絶対君権とも言いかえられている。王権と地主豪商勢力との死闘は、武帝期およびその後の百年間、王権の圧倒的優位に推移するが、それは皇帝を中心とした官僚政治集団の形成と、三老、孝悌、力田といった地方基層組織--大地主に対する中小地主--が王権を支持したからだ、としている。
 漢の興起以来、呂氏の乱、呉楚七国の乱へと続く政変や抗争により、異姓諸侯及び同姓諸侯が淘汰され、さらに告緡令や強制移住政策により、地方豪族集団が消耗や消滅を強いられ、そして「游俠列伝」にみられるごとく、任侠集団もまた殲滅の対象となる。これは、中国史に馴染み深い歴代王朝初期のプロット(政治的筋書き)のように見える。
 だが、異姓諸侯や同姓諸侯の勢力削減策はともかく、地方豪族勢力や任侠集団への敵意や攻撃については、大いに考慮の余地がある。王や皇帝にとって代わるかもしれない諸侯が目の敵にされるのは当然であろう。後は、力関係の問題であり、現政権に力があれば、諸候を淘汰することが可能となる。中央の力が強い政体においては、諸候を淘汰し中央集権の実をあげることができるであろうし、逆に政権に求心力がなければ、淘汰が不可能となるばかりでなく、権力の併存とべきもいう事態にまで至るであろう。だが、地方官衙の餌食になるような前漢の地方豪族集団は、諸候と比べれば極めて小規模な勢力でしかない。また、如何に声望ありとはいえ、身に権勢なき游俠の徒も同様である。ともに、王朝に対抗したり、中央政権に闘いを挑むような輩ではない。
 ところが、武帝期を中心として、このような地方豪族集団や任侠集団への攻撃が顕著になる。そのことは、中国史においては当然の成り行きかもしれない。だが、もし中国を舞台としていなければ、極めて異様な筋書きと言わざるをえない。たとえば、①攻撃は集団の生存そのものに対する攻撃であり、族滅を当然視していること、②地方豪族集団(強宗大族や強宗右族)の族滅は、派遣された地方官吏の手柄話として語られている、という点などが、現在の筆者にはとても異様に映っている。酷吏型の官吏に族滅させられるような一族がどうして皇帝あるいは中央政府に対抗できるのだろうか。
 賀昌群は、漢書「酷吏列伝」の酷吏のほとんどが、地主豪強、強宗巨族を族滅させたやり手であり、「游俠列伝」に言う游俠は天子を憤らせ、且つ専制主義中央集権と相容れない人物である、何故ならば彼らは幅広い社会関係を有しているから、と述べる。だから、名の知れた游俠であった郭解は族滅されなければならなかった。すなわち、前漢中葉において絶対君権と強宗大族は決して両立しえない関係にあったからだということになる。
 絶対君権と強宗大族が両立しえないほどの関係にあったというのは、ある意味では不思議な表現である。横綱と幕下が勢い並び立たず、などと言っているように見えるからである。初めから比較にならないものが比較されているような気がしてならない。ともあれ、現実の歴史過程においては、皇権は、酷吏に代表されるような中央集権的官僚機構を使い、無慈悲に地方豪族集団或いは任侠集団を抹殺していった。ただし、地方豪族集団は、たとえ殲滅されたとしても、ほどなく別の勢力が豪族化するのが常であった(農村においても旧勢力が徹底して根こそぎにされたはずの共産中国半世紀の歩みを見れば、想像がつくであろう)。また、如何に強大な国家機構とはいえ、いまだ形成途上であり、至る所に官権の及ばざるところがあり、官に依らざる力の行使は常に存在したであろう。そこに地方豪族集団にせよ、任侠集団にせよ、自ずから発生する理由があったはずである。
 筆者の抱く違和感は、先ほどの横綱と幕下の比喩を用いれば、隔絶した力量の違いがあるにもかかわらず、何故、皇権は酷吏を使嗾して、王侯貴族ばかりでなく、地方豪強や游俠までも、殲滅の対象としたのか、である。それはまるで、皇帝の意に染まぬもの、或いは皇帝の意志から自由であるもの、それ自体が憎むべきものであり、そのようなものの存在を許さない、或いはそれら全てを抹殺しなければならない、と言っているかのような印象を受ける。たとえば賀昌群が言う、游俠の持つ広範な社会関係とは、そういった否定的ニュアンスのものであろう。また、「貨殖列伝」に言う素封なる者は、爵位や封土もないが、様々な生業により富豪となったものたちであり、「宮仕えせぬ気楽な身分のもの」である以上、彼らも危うさを抱えていることになる。そのような彼らが、告緡令による財産没収や、西北への強制移住の対象になったのも、容易に理解できるはずである。ここまで行けば、安全な道は、循吏や酷吏になるほかない。皇帝の直接臣下になり、疑問の余地なく皇帝の命に従わないかぎり、誰も安全ではない(もちろん、それとても命を全うできる保証はない)。游俠や素封なる者を肯定的に描いた司馬遷は、王や皇帝の意志から自由であった時代に郷愁を抱いていたのであろう。だが実際には「游俠列伝」や「貨殖列伝」は、「酷吏列伝」(「循吏列伝」を含めて)と、メダルの表裏の関係にある。
 素封であることも、游俠であることも許されない体制、それを皇帝と酷吏の二人三脚が完成させたのである。游俠が権力にとっていかがわしいことは理解できよう。だが、皇帝や酷吏にとり、素封の家もまたいかがわしく、油断のできない存在であった。それゆえ、族滅や強制移住の対象であったということになろう。
 王朝創立期、高祖、太祖といった王朝の創始者たちは、ライバルたちを掃討する。それは、前王朝の崩壊に伴う混乱を収束させ、群雄割拠を終わらせたという意味で、国土の再統一でもあった。国土の再統一は、秦の始皇帝の国土統一が他の六国にとって征服であったと同じ意味において、一種の征服事業でもある。その後の内部抗争--前漢においては、功臣や諸候の淘汰に始まり、素封の家や游俠の殲滅に至る過程--は、さらなる征服のプロセスである。そのプロセスが進むにつれ、征服されたものたちは、再度、徹底的に征服されることになる。「臣民の再征服」と呼ぶ所以である。(続く)
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