中国的なるものを考える(電子版第26回・通算第69回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第26号 2008.09.25   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

(番外編)

滇南・滇西小遊記

  二年ぶりにタイ、雲南を旅行した。12日に帰ってきたのだが、まだ旅の気分が抜けない。まことに申し訳ないが今回は旅の話をしたい。次回以降、「臣民の再征服」(後編)、「停滞論の系譜」とつなげていくつもりである。
 8月11日に成田を発ち、途中、チェンマイに立ち寄り、数日過ごした後、17日、昆明に着いた。チェンマイでは、8月15日、梅林正直先生(三重大学名誉教授)主催の戦没者慰霊祭に出席した。長年の北部タイ地域における植樹ボランティア活動が認められ、平成20年度外務大臣表彰を受賞したという梅林先生は、相変わらず元気なご様子で、主催者としててきぱきと指示を出されていた。
 昆明に着き真っ先に探したのは雨傘だった。5年前、昆明の繁華街、小西門の近くの百貨商場で買った70元の折り畳み式の雨傘は、とてもしっかりしていて、その後の旅行で随分重宝した。帰国後もずっと使ってきたのに、最近、残念なことになくしてしまった。今度もまた、百貨商場で買おうと決めていたのだが、実際行ってみたら、百貨商場は全店携帯売り場に変わっていた。諦めきれず、結局、近くのブティックで、そっくりな傘を18元で購入した。その夜は、おあつらえ向きの雨だった。早速、傘をかざしてプラハ(カフェ)に向かう。だがしばらく歩くと、買ったばかりだというのに、すでに雨漏りがする。傘頂から滲んできた雫が柄を濡らすことしきりであった。
 プラハでは、雨に濡れた傘を、バケツに挿して置けという。大丈夫かなと思いながら、コーヒー(雲南アラビカ)を飲み、店の本棚にあった『ちびまる子ちゃん』(第一巻)を読んだ。しばらくして、帰ろうとすると、アメリカ人だと思われる若者が、僕の傘を持って出て行こうとしているところだった。それは、僕の傘で、今日買ったばかりのものだ、と言うと、彼もまた、自分の傘だと言いはる。カウンターにいたウェートレスが、中に入って、とりなしてくれたが、彼の言い分は変わらなかった。さあ、どうなのるだろうか、と思っていると、彼女は「ごめんなさい」といって、傍らのボックスから、別の傘を取り出してきて、これを使ってくれという。多分、誰かが置き忘れていったものであろう。僕は中国人が「すみません(対不起)」といったら、必ず許すことにしている。彼女がくれた傘は、傘の骨が一部折れかかってはいたが、何とか雨をしのぐことができたし、何より漏水しないのがよかった。損も得もない五分五分かなと思いながら、それをかざして招待所に戻った。
 3週間後、ようやく昆明に戻った次の日、9月8日、またプラハにコーヒーを飲みに行った。雨模様だったので、用心のため、例の傘を持参した。店に入るやいなや、この前のウェートレスが早速、はずんだようすで、声をかけてきた。にこにこしながら、僕の傘が見つかったという。例の青年が、その前日、傘はやっぱり自分のではなかったと届けてくれた、とのことであった。別に戻ってこなくてもよかったのに、と一瞬思ったが、嬉しそうにしている彼女を見ていると、こちらも何となく良いことに出会った気分になって、本来の僕の傘を受け取り、雨漏りのしない古い傘を彼女に手渡した。このウェートレスも、例のアメリカ人の青年も、そして僕も、互いに顔見知りの関係ではない。まったくの初対面であった。それでも、このようなめぐり合わせが起きたことに、とても満足している。

 今回の旅行の目的地は、臨滄(Lincang)地区(現在の臨滄市)であった。二年前、プラハで、そこらじゅうで咲き誇っていたブーゲンビリアを、どう呼ぶのかを聞いたところ、ウェートレスの一人から「大門花」(damenhua)またの名を「燕子花」(yanzihua)だと教えてもらった。臨滄から来たばかりで、17歳だといった。あのカフェは臨滄から来た娘が多いのだと誰かから聞いたようにも思う。どこでも同じだが、つまりタイでも、ベトナムでも、そして雲南でも、このようなところで働いている娘たちは、地方の小さな都市か、そのまた農村地区の出身者である場合が多い。
 自称雲南ファンだとか、雲南通だといっても、地図を広げ、ではどこに行ったのかと聞かれれば、実のところそれほどたくさんのところに行ったわけではなく、まだほかに行っていない場所が多く残っていることに気づかされる。臨滄もその一つである。2005年1月、雲南西部から南部を経て広西に抜けた折、雲県と双江に泊まったことがあるだけである。臨滄では、耿馬や孟定行きのバスを多く見かけたが、先を急ぐ旅だったので、どこにも寄らずにそのまま南下してしまった。また、昆明で出会った友人たち
(日本人留学生)がよく出かけていた雲南南部の建水、石屏、元陽といったところも、まだ行ったことがなかった。今回の旅行は、まず、雲南南部に向かい、その後雲南西部に向かうことにした。

写真:建水1
建水


写真:建水2
建水

 最初に訪ねた建水は、雲南の古鎮として知られている。明清期には石屏とともに多くの科挙合格者を出している。昆明から建水までバスで三時間半、あっという間についてしまった。道が途中、一部、工事中だったので、それが終われば、昆明から三時間の距離であろう。また、建水から石屏へはバスで一時間ほどである。通海から建水までの道沿いには、見渡す限りのというほどではないにしても、いちおう水田が広がっており、さらに建水から石屏の道沿いには、狭いながらも、やはり水田が広がっている。『建水史話』、『石屏史話』(雲南人民出版社)に、建水、石屏はともに、山地が全体の90%前後を占めるとあるが、県城を中心とする壩子(bazi:山間の低地)が、昆明・曲靖を中心とした雲南中央の平野部の南端に繋がっており、けっして文化的に孤立していたわけではないことが理解できる。


写真:元陽(新街鎮)1
元陽(新街鎮)


写真:元陽(新街鎮)2
元陽(新街鎮)

 建水から最近つとにハニ族の棚田で有名になっている元陽へは、距離的には100kmもないはずだが、山道をバスで4時間以上かかる。実際には、大回りして箇旧(Gejiu)を経由して元陽に向かえば、比較的なだらかな道が続き、時間はその半分ですむ。元陽(新街鎮)は、ベトナム北部のサパを思わせる雰囲気を持っている。国外にも少しづつ知られてきているようで、数人、欧米人の旅行客を見かけた。だが、街自体は正直なところ、きれいだとはとてもいえず、サパには及ばない。また、東南アジアの観光地で行われているようなトレッキング・コースやエコ・ツアーのような企画もなく、景勝地として知られる棚田を回ろうとすれば、タクシーの運転手たちと次々に値段の交渉をしなければならないのも面倒である。
 滇南から滇西へは、今のところ、元江、墨江、寧洱(元の普洱県)と昆明・シーサンパンナ間の高速道路沿いに南下し、そこから西へ転じ景谷を経由して臨滄に向かう方法しかないようである。以前ほどではなくなったとはいえ、哀牢山脈や無量山脈を東西に横断することは、それほど容易なことではない。


写真:耿馬付近
耿馬付近


写真:孟定(カフェ)
孟定(カフェ)


写真:孟定付近
孟定付近

 景谷、臨滄を経て耿馬(Gengma)に入ったのが8月25日であった。耿馬はタイ族ワ族自治県だが、県城付近の景観は、期待したタイ風の農村風景とは違う。こちらが勝手に期待していて、現地に行ってイメージが違う、期待はずれだと言うのも気が引けるのだが、少しがっかりした。それならと思い、ミャンマー国境に近い孟定(Mengding)に向かった。途中交通事故による渋滞に遭い、2時間で着くところ、6時間もかかってしまった。だが、これまた勝手な言い方をさせてもらうと、孟定は期待どおりの町であった。南定河に沿った小さな壩子(bazi)で水田を営む彼らの世界は、典型的なタイ族の世界のように見えた。ただ、現在、孟定鎮が耿馬県城よりも賑わいでいるのは、ミャンマーとの貿易によってである。別に何があるわけではないが、居心地がよく、駅前の旅館に三泊した。
 孟定から臨滄へのバスの中、車窓から見える景色にカメラを向けていたところ、若い女性に声をかけられた。「どうして、こんな珍しくもない(司空見慣sikong jianguan)景色をとるの」。自分は日本人だから、と述べた後、話がはずんだ。一見学生風にみえたので、新学期で学校に戻るのかと聞くと、学校を出たのはかなり前のことだと笑っていた。臨滄のカレッジを出て臨滄で働いていたのだが、今は孟定にもどって仕事をしているといっていた。日本の四季や自然について、よく質問してきたので、ひょっとして環境保護かなにかを仕事にしているのかとも思った。
 彼女の印象がよかったのは、彼女の声に魅かれたからである。日本人が言う「舌足らず」の可愛い声を出しているので、漢族かタイ族なのかを聞いたところ、孟定に住んではいるが、漢族で、両親は「Hulan省」出身だという。湖南省のことである。1980年代初め、僕らが留学した頃、中国にはベビー・フェイスの女性も、舌足らずの甘えた声を出す娘たちもいなかった。中国で哈日族(harizu)が話題になった頃(21世紀初め)、テレビ報道の一場面に出てきた、日本製のグッズを買っている上海の娘たちのなかに、ベビー・フェイスが数人いたのが不思議だった。自分の娘がベビー・フェイスに育っても、その両親が不安に思わなくてもすむ時代になったのだろうと推測した。だが、漢族の若い女性が、恋人でもない一般の男に対し、普通の会話のなかで、舌足らずの可愛い声を出すというのは、2003年に雲南を訪れた後でも、そう頻繁に遭遇することではなかった。2006年夏、徳宏地区の盈江(Yingjiang)のホテルで受付の二十歳前後の女性が、舌足らずの可愛い声で客に応対しているのを見て、とても珍しく思ったことを覚えている。盈江はタイ族が住んでいるが、県城自体は漢化したタイ族の町のように見えた。彼女も、タイ族というより、漢族であるような印象を受けた。
 二年間の雲南滞在中(2003~2005年)に、留学生たちとの飲み会の折だったと思うが、漢族→雲南漢族→雲南少数民族(特にタイ族)の順に若い女性の笑顔が多くなると思いつきを述べたことがある。漢族の娘でも、好きな男性の前ではこぼれるような笑顔を見せるであろう。だが、知らない男性の前で笑顔を見せることはない。それに対し、タイ族の娘ならば、我々のような会ったばかりの旅行者にも笑顔で応えてくれる。
 若い女性が自由に好きな男性を選べるかどうかが、ポイントであろう。比較的自由に選べる社会では、若い娘たちは、好きな男性を射止めるために、娘たちどうしの間で、自分の魅力を競わなければならない。どうしても日頃より笑顔が多くなる。また、自然と可愛い声を出すようになるであろう。もし、そのような中に、漢族の娘が混ざるとどうなるであろうか。漢族が圧倒的少数派である間は、彼女たちも、例えばタイ族の娘たちと競争しなければならない。漢族の娘のなかからも、タイ族の娘たちのように、笑顔が多く、舌足らずの可愛い声を出すものが出てくる、このような想定は多分間違っていないだろう。

写真:巍山.
巍山


 再び臨滄から景谷、鎮沅、景東と北上し、南澗、巍山を経て、大理(古城)に入った。洋人街のカフェは、家賃の高騰に耐え切れず、博愛路その他に場所を移しているようであった。昆明に帰る直前、なおも博愛路あたりをうろうろしていると、ばったり昆明文化巷の漫林書店(Mandarin Books)の老板(laoban)夫婦に出会った。二年ぶりの再会であった。彼らは最近、香港にCaravan Pressなる出版社を立ち上げ、雲南やチベット関係の洋書を復刻出版し始めている。おそらく、バンコクに拠点を置き、東南アジア関係の文献を復刻出版しているホワイト・ロータス(White Lotus)社の中国版を目指しているのであろう。成功を願ってやまない。
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