中国的なるものを考える(電子版第27回・通算第70回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第27号 2008.11.24   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


臣民の再征服 (その二)


 前々回(『臣民の再征服』その一)において、1950年代の「中国封建的土地所有制形式論争」において賀昌群が前漢武帝期の皇帝権力を「絶対君権」と呼んだことについて触れた。中国歴代王朝の皇帝権力を形容するのに、独裁とか専制とかいろいろな表現があると思うが、「絶対君権」とはほとんど聞かない呼称であり、何か切羽詰まった印象を感じさせる。筆者がこの言葉にこだわるのは、あるいは賀昌群が中国歴代王朝の専制権力の本質に、何か特別なものを感じてわざわざこのような用語を作り上げたのではないかと、考えたからである。
 前稿(『臣民の再征服』その一)でも述べたが、武帝期には皇帝を中心とした権力はすでに同姓諸王を圧倒していた。特に、諸侯王の封地を分割してその子弟を列侯とすることを認めた推恩令は、諸王の力を削ぐのに大いに貢献した。地方或いは民間に、皇帝権力を牽制しうる政治勢力も存在しなかった。つまり、皇帝の権力はすでに比類なきものであった。だが、それでも地方の豪族集団や任侠集団を目の敵にし、彼らをことごとく抹殺しなければ気がすまなかったようにみえる。なによりも、酷吏に代表される官吏たちが、豪族集団や任侠集団をせん滅することで手柄を立てたがっていた。
 支配の安定ということを考えると、皇帝を中心とした国家権力が他の政治勢力に比し、それらを圧倒しうる権力を手中にしている以上、それで十分ではないか、という気がする。むしろ、地方の政治勢力など、小規模ならそのままにして、それらに中央の権力の使い走りをさせればよいだろう、と考えたってよかったはずである。もちろん、このような考え方は日本的なそれであることを承知しつつ述べている。
 賀昌群が遊侠(游俠)は専制主義的中央集権とは相容れない関係にある人物と述べる時、その理由として「広大的社会連繋」(広範な社会関係)をあげる。賀昌群がどのような意図で、この言葉を使ったのか定かではないが、よい視点だと思う。何ゆえ幅広い社会的な繋がりが専制主義的中央集権とは相容れないのであろうか。
 話は突然飛んでしまうが、1981年から1984年までの三年間の北京留学期間中、よく経験したのは、中国人の友人が、我々外国人が別の中国人と友達にならないように注意を払っていたことである。中国人の友人に、あの人(中国人)は悪い人だから付き合わないようにと何回も注意を受けたことがある。また彼ら(中国人の友人)は、別の中国人の友人を我々に紹介したとしても、我々が直接連絡をとらないように、ずいぶん気を使っていたように思う。それは当時、改革開放路線に転じたとはいえ、中国人が外国人と付き合うということ自体、簡単には許されない時期であり、自分が外国人と親しく付き合っていることを、友人にさえ知られたくなかったからであろう。或いは、他の中国人との関わりが深まれば、自分が不利益を被ったり排除されたりすることを恐れたからかもしれなかった。我々はそれをとても不便に感じていた。友人関係さえ自分なりに発展させることができず、いつも最初の友人にコントロールされている気がしていた。
 人間関係や社会関係を自分の必要に応じて発展させたり展開したりできないということは、とても不便かつ不都合なことであり、不利益を被る可能性が高い。そして、もしはっきりと制限されるとしたら、制限した人間に支配されるということでもある。もし、世の中に一つの関係しか持ち得ず、ある特定の人間に従属する以外にない人間がいるとしたら、その人間は奴隷であろう。奴隷(とくに動産としての奴隷)は奴隷の主人との関係しか持ち得ない。それゆえ、他の人間は奴隷が奴隷の主人からどのような扱いを受けていようと、それに容喙するすべがない。子どもの不自由さも、子どもが当初、親としか関係を持ち得ないことから来ている。だが、実際には、人間の長い歴史において、子どもはいつも大家族や親族組織の一員でもあり、親以外にも子どもに権利を持つ人々(或いは義務を負う人々)が存在し、それらが親の恣意をコントロールすることで、子どもは親の恣意から、ある程度、守られている。その点において、現代の孤立した親に依存せざるを得ない子どもたちの方が、親の恣意に晒される可能性が高い、ともいえる。
 支配・被支配の関係、あるいは君主・臣下の関係も同様である。たとえば、西洋中世において、封建的主従制度は双務的契約関係であり、契約義務さえ履行すれば二君に仕えることも可能であった。このような主従関係は貴族や騎士層の間における広範な社会関係の成立と表裏一体のものであろう。また、日本古代における天皇家・摂関家の権力の二重性、あるいは中世の、天皇と将軍、将軍と執権といった権力の二重性、重層性が、日本的な主従関係の重畳に寄与していたことも、注目されるべきである。つまり、日本の中世の各権門は、そのような権力の重畳性を体現しており、それらの体制的な並存が、一般の武家や公家だけでなく、寺社や村落共同体まで含めて、彼らを幅広い社会的な繋がりのなかに置かしめたのである。そうなれば、各権門ばかりでなく、貴族や武士が、自らの生存のため、あるいは勢力拡大のため、それぞれの必要によって、繋がりを広げ、互いに複雑で入り組んだ関係を築いたのは当然といえば当然であった。すなわち広範な社会関係とは、権力が一極集中する社会(単一権力社会)にとって、それ自体が疑いの対象、禍の源泉なのである。
 中国古代の遊侠の徒の持つ「広範な社会関係」を、それほどまでに大げさに考える必要もないかもしれない。だが、游俠の持つ社会関係は専制主義的中央集権による社会統制機構に包括されない。それは、自らの論理で発展する可能性を持つ。いよいよ危険な存在となる。そのような集団を放置すれば、権力の一極集中ではなく、権力の重畳に発展する可能性があるとすれば、どうして「広範な社会関係」が専制主義的中央集権と鋭く矛盾するのか、容易に理解できるはずである。
 単一権力社会においては、当然のごとく権力は一極に集中される。それと齟齬をきたす権力や政治勢力の存在は絶対に許されない。つまり、政治や権力をめぐる諸関係はすべて権力中枢に奉仕するものでなければならない。国家権力に比し微弱な力しか持ちえない游俠の徒や素封の家の淘汰や抹殺は、政治や権力をめぐる諸関係において、すべてのベクトルが権力の中枢に向うもの以外認めないという皇帝の政治意志もしくは国家意志の表れであろう。重要なのは、そのような考え方、つまりすべてのベクトルが権力の中枢に向う以外のものを排除しようとする志向性は、皇帝の側から発せられただけではなく、臣下の側からも積極的に支持されたという点である。それを支持したのは、もちろん王侯出身者ではなく、皇帝とともに王侯貴族を挟み撃ちにすることによって、出世を極めようとする庶民出身の官吏であることはおおよそ想像がつく。だが、この立身出世は個人的には高くつくものであった。漢代官吏の最高位である丞相には、武帝が庶民出身の公孫弘を丞相に抜擢した後,庶民出身の丞相が相次いだが、ほとんどがその在任中に自殺または獄死したといわれる。リスクがこれほどに高かったとしても、このような歴史の流れは変わることはなかった。官吏は位が高くなればなるほど、彼の持つ社会関係は質的にも量的にも膨大なものとなる。宰相の場合、たとえ、それらがすべて権力中枢(皇帝)に介されたものであったとしても(おそらくそのようなことはありえないが)、彼の持つ広範な社会関係は、権力中枢の持つ社会統制の網の目と齟齬をきたす可能性が高くなる。皇帝は、究極的には、それを容赦することはない。宰相はつねに、皇帝の失政を糊塗するための、潜在的スケープゴートであった。
 
 タイトルにおける「臣民の再征服」とは、中国歴代王朝による、王朝樹立期における征服に加えて、さらに臣民を徹底的に臣従させるシステムを言い表わそうという意図によるものである。皇帝に匹敵する権力の存在を許さない、あるいは皇帝にとって代わったり、皇帝を脅かす可能性を持つ者の存在を許さないばかりでなく、皇帝が比類なき存在として、すでに諸侯を圧倒し、臣下を屈服させているにもかかわらず、さらに臣民を絶対的に臣従させようとする動機は何であろうか。まさに、そこでは皇帝は臣民に対し、異民族の征服者と同じように振舞っているようにみえる。征服者にとって征服された者たちの生命や財産はすべて自分のものであり、征服者の意のままにしうるものであった。
 秦の中国全土統一は、秦以外の人々にとっては、征服であった。漢はその征服事業を引き継いだのである。秦王が六国を圧伏し、秦帝を引き継いだ漢の諸帝もまた、同様にすべての臣民を膝下に屈服させた。このような皇帝の振る舞いは、その後、引き続き歴代王朝のもとでも、再演され、継承されていく。南北朝時代、とくに宋、斉などの年若い皇帝が恣意のままに振る舞えたのも、皇帝がすでにすべてを超越し臣民を睥睨する存在として、皇帝を輩出する支配層にも、それをいただく被支配層にも、共通して了解されていたからであろう。だが、その後の時代と比べれば、このような未熟な王朝においては、皇帝を支える権力機構は極めて脆弱であった。それが、南北朝期の皇帝たちが驚くべき放縦を繰り返し、かつライバルや潜在的ライバルを殺害し続けながらも、いとも容易に他の皇位継承者や野心ある臣下にとって代わられた要因であろう。比類なき君主としての皇帝の概念は成立していたかもしれないが、それを支える装置は脆弱なままであった。すべての有能な臣民が官吏となり、直接その手足となって皇帝に仕える制度は、科挙の成立をまってようやく完成される。
 自民族に対し征服者のように振舞う王朝。秦漢はそのモデルを作り上げた。その後の歴代王朝も、そのモデルに従った。中国の歴代王朝のほとんどは、王朝創立期の統一事業とその後の臣民の再征服期を持つ漢民族の王朝か、他民族の征服王朝である(元及び清)。はっきりとした例外は宋代であろう。唐は、則天武后期の武川鎮以来の関隴集団の消滅に至る過程で、臣民の再征服に似たプロセスが進展していたとみることができるかもしれない。明朝では朱元璋が多数の功臣を粛清したばかりか、その一族や関係者数万人を殺害している(胡惟庸の獄、藍玉の獄)。太祖自身の恐怖政治および皇位簒奪(靖難の変)後の永楽帝の恐怖政治もまた、臣民の再征服にほかならない。
 中華人民共和国においても、反右派闘争や文化大革命は、同じような機能を果たしたと考えられる。誰もが皇帝の政治意志もしくは国家意志に、けっして逆らってはならないという伝統的呪縛を、再度徹底させたという点において。
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