中国的なるものを考える(電子版第28回・通算第71回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第28号 2009.2.12   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


停滞論の系譜 1


  この数年「アジア的生産様式論」に拘っているということを、同年輩の研究者にうまく説明できないでいる。別に、それが悩みだというわけではないが、ただ、居心地が悪い状態がずっと続いているとは、感じている。「アジア的生産様式をやっているんだってね」といわれ、「でも、あれはアジア的停滞論だろう」と言われると、残念ながら返す言葉がない。いつも針の筵に座らされているような気がするし、時には罪人扱いされることさえ覚悟している。アジア的生産様式論を追いかけているからといって、別に「停滞論」に拘っているつもりはない。むしろ、拘っているのは「国家論」すなわち「権力の問題」である。ウィットフォーゲルの適切な比喩「社会よりも強大な国家」が何故成立したのか、どのようにすればそれは解消されるのか--国家に対し社会が適切な力を行使できるのか--、にもっとも大きな関心を寄せている。
 言い訳に聞こえるかもしれないが、アジア的生産様式論の力点を、国家論や権力の問題に置けば、停滞論でなくなるとは思っていない。というのも、アジア的生産様式論は、その起源自身において、「停滞」及び「外からのインパクトによる停滞の克服」と深く関連づけられていたからである。1850年代、一連のインド評論においてマルクスは、「イギリスは、インドで二重の使命をはたさなければならない。一つの破壊の使命であり、一つは再生の使命である。--古いアジアを滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアにすえることである」と述べ、イギリスのインド支配を肯定し、「鉄道制度から生れてくる近代工業」が「カースト制」つまり「インドの進歩とインドの力にたいして決定的な障害となっている」ところの「世襲的な分業制度」を解体させ、あるいは「この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎」を破壊することによって、「アジアでかつて見られた最大の、じつは唯一の社会革命を生みだした」と、その植民地支配を積極的に評価している(山之内靖『マルクス・エンゲルスの世界史像』未来社、1969年)。今日的視点から言えば、まさにヨーロッパ中心主義、或いはオリエンタリズムの極みであろう。
 そのことは、ずいぶん話題に上ってきたし、批判もされてきた。また、それに対するマルクス主義者側からの弁護や反批判をずいぶん行われており、上述の山之内靖(1969)におけるように極めて説得的な弁証も存在している。いまだにマルクス主義にこだわっている筆者ではあるが、ここであえてマルクスを弁護したいとは思わない。批判は批判としてなされていいのではないかと考えている。だが、そこに現れた問題の根となる部分は、我々がいままで考えていた以上に深く、且つ、簡単に白黒がつけられるようなものではないと思うようになっている。
 上記のような1850年代のマルクスのアジア的社会論が、先行思想家(たとえばヘーゲルやモンテスキュー等々)のアジア観とつながりがあるのかどうか、つねに議論されてきた。筆者の現在の関心から言えば、マルクスと先行思想家たちの個々の類似については、それほど重要だとは思わない。むしろ、マルクスも含めて、彼らのアジア観が、彼ら自身の社会(特に政治経済)のあり方の認識と深いつながりを有していること、それゆえ彼らのアジア観が単なる西欧人の表層的なアジア観であったり、あるいは西欧社会の反対物や影絵でしかない部分が確かに見受けられるが、それと同時に、アジア社会に関して見過ごせない重要な認識を含んでいる、ということに関心がある。
 それらを要約すれば、西洋は共和制や貴族制であり、東洋は専制である、ということになる。これを、ヨーロッパに都合の良い見方だと批判するのは簡単である。自らにはプラス面を配し、他者にマイナス面を配する、伝統的な文明観、もしくは「他者」についての見方だ、というのはある面での真実である。だが、同時に、以下の面があるのも見逃せない。
 12世紀、中世の真っただ中、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世は、二人の法律専門家に尋ねた。「君主は臣下のすべてについて主であるかどうか」と。皇帝は「政治的な意味において lord だけれども、所有者の意味においては lord ではない」というのがその答えであった。この場合の lord は、君主でも支配者でも、意味が通じるはずである。さらに15世紀、すなわち近世の初め、スペインの法律家は「家産制国家」に対するヨーロッパ人の見方として、「王に委ねられているのは、王国の行政であって、物或いは財産への支配権についてではなく、国家の権利は公的なものであり、私的な、何か家産のようなものではない」と述べている。
 以上の二例は、いずれも、リチャード・パイプス『旧体制下のロシア』(Richard Pipes, Russia under the Old Regime, Penguin Books, 1995)掲載のものであり、それぞれの例がどのような歴史的コンテキストにおいて言われたものか、不明である(いずれその原文にあたるか、同じ事例を他の著作で検証するかして、その意味を再考したいと考えている)。パイプスはここで、ウェーバーの家産制国家論に依拠して、アジアの君主たちが、国家の内にあるもの、国土のみならず、家臣の財産や人身についても自らの家産だとみなし、臣民に対し徹底した隷従を強制していることを論じている。アジア的生産様式論に代わる、もう一つの専制主義論であるともいえる。同じく反共であるとはいえ、ウィットフォーゲルがマルクスに依拠し、アジア的生産様式論をベースにした東洋的専制主義論を展開しているのに比し、ポーランド生まれで、1939年の独ソ不可侵条約と、独ソ両国のポーランド侵攻と分割の直後にポーランドを脱出し、アメリカに渡り、その後、レーガン政権のソ連・東欧政策のブレーンでもあった、いわば骨の髄からの反共主義者であるパイプスが、マルクスではなくウェーバーに依拠して理論展開せざるをえなかったのも、当然といえば当然である。
 上記二例はとても興味深いが、なかでもフリードリヒ二世は、「ヨーロッパ最初の絶対君主」とか、「黙示録的怪物」とか評されているので、より興味を引く。皇帝はシチリアのパレルモで育った。つまり、地中海世界においても、もっとも国際色豊かなシチリア島で育ち、カトリックでありながら、ギリシャ正教やイスラム教にも敬意を払い、また数ヶ国語を話すことができたと言われている。現に、第六回十字軍を主導し、エルサレム入城を果たすが、それは武力によってではなく、アイユーブ朝スルタンとの外交交渉によって、成し遂げられたものであった。また、シチリアに絶対主義的統治を実現させ、教皇を脅かす存在となっていく。だが、このような皇帝の自在な振る舞いは、教皇から「イスラム教徒の友」として破門される理由となった。
 つまり、先の「君主は臣下のすべてについて主であるかどうか」という問いは、フリードリヒ二世が「臣下のすべてについて主である」君主を知っているがゆえの問いだと理解されるべきであろう。彼が目指していたのは、果たしてどのような君主像或いは帝国像だったのだろうか。当時の地中海世界を考えると、ムワッヒド朝のスペイン及び北アフリカ、アイユーブ朝エジプト、そしてアラブ人やトルコ人のオリエントの君主たちはみな、専制君主であり、臣下のすべてについての主人、支配者であった。また、15世紀スペインの法律家が、皇帝フリードリヒへの答えと同じ考え方を表明した時、彼が自らの歴史に、王が単に行政権ばかりでなく、臣民のすべてのものの支配者であった時代(イスラム支配下のスペイン)を想起していた可能性が強い。スペインにおけるイスラム最後の拠点、グラナダが攻略されるのは、コロンブスのアメリカ発見の年、1492年ことである。
 16世紀から18世紀の西欧は、絶対主義の時代であったが、絶対主義の支持者(例えばボダン)も、反対者(例えばモンテスキュー)も、みな、上記の相違を明確に理解していたと思われる。王を無比の主権者とみるかどうにかかわらず、王が市民(臣民)の財産を自由にできるとは誰も考えなかったし、同時にそれとは反対に、彼らは、オリエントにおいては、君主は臣民の財産を自由に処理しうると考えていた。アダム・スミス以来のイギリスの、特にインド等植民地経済に関心をもった経済学者たち、ジェームズ・ミル及びJ・S・ミル父子やリチャード・ジョーンズたちについても、同様であろう。さらに、アダム・スミスやマルクス等が引用したり、参照していた多くの宣教師や旅行家(例えばベルニエ『ムガル帝国誌』)も、おそらく同様な見方をしていたと思われる。つまり、ヘーゲルも、マルクスも、そしてウェーバーも、その思想的系譜に立っていたのだ、ということを我々は理解する必要がある。
 問題は、実際には今日的な問題にも関わっている。支配者が臣民もしくは市民の財産を侵害できないとは、どういうことであろうか。先ほどのリチャード・パイプスは、19世紀後半以降のロシアにおける所有権の発達を評価し、ゲルツェンが西欧に亡命した後も、その領地からの地代を国際銀行を通じて受け取っていた例や、レーニンの母親が、レーニンとレーニンの兄(アレクサンドル、皇帝暗殺未遂事件の主犯として処刑される)という二人の反逆者を出した後も、夫の遺族年金を受け取っていた例をあげている。反逆者の親といえども、年金を受ける権利を奪われることはなかった。また、ゲルツェンのように亡命したとしても、領地からの地代は、銀行を通じて海外で受け取ることが可能であった。ここでは、それらの真偽については問わない。また、パイプスの評価が、帝政に対し好意的にすぎるのではないかということについても、これ以上触れない。
 だが、上記の例で理解が容易になることがある。たとえば、20世紀社会主義の時代、東欧(ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア等)の異端派のなかには、迫害されながらも、妻或いは家族のわずかな収入や、友人の援助に頼りつつ、何とか屈伏せずに生き延びた例も少なくないと思われる。しかし、それは中国や朝鮮では不可能であった。おそらく、ソ連においても中国と同様であったろう。つまり、所有権が確立した社会、或いは個人の私有財産に対し国家が干渉できないと考えている社会では、反政府派や反体制派は、たとえ弾圧されたとしても、かつかつ生きる糧さえ得られれば、或いはわずかでも蓄えを守ることができるならば、生き残るチャンスが広がる。指導者は投獄されたり、亡命せざるを得なくなったりするが、一般の支持者は、再び活動の余地が生まれるまで、家にこもり息を潜め、時を待つこともできる。良心を売らずにすむ。だが、もし、自分のものばかりではなく、家族や友人のものまで、国家が奪うことができる社会では、生き残るチャンスはぐっと減る。仮にひと時生き延びたとしても、後は屈伏しかなくなる。権力と所有のあり方が、けっしてどうでもよい問題ではないことを、理解していただけただろうか。

 もちろん、それでも、これらの観点はやはりヨーロッパ中心主義であり、オリエンタリズムだという人々がいるであろう。或いは、先に述べたモンテスキューやヘーゲルに代表される西欧的なアジア観を、幾らか許容したとしても、マルクスの「インド論」はやはり間違っていると考える人々がいるだろう。近日の時点において考えれば、進んでいるとか遅れているという比較自体が誤っており、且つ、たとえ進歩ということを認めたとしても、それが遅れている国を支配したり、植民地化したりする理由にはならないし、どの国にもどの民族にもそのような権利は与えられていない以上、そのような行為自体が批判されるべきだということになる。だが、それはあくまでも、20世紀、特にその中葉以降成熟した、極めて今日的な思想であり、それをマルクスやエンゲルスに求めても、意味がないとはいえないが、少しく無理がある。どのように言おうと、マルクス主義の創始者たちは、19世紀の人間である。いかなマルクスといえども、それを大きく跳出することはできなかったと考えるのがより自然であろう。
 19世紀は、進歩の時代であった。ダーウィンの進化論に代表されるように、誰もが進歩や発展によって、人間や社会を理解しようとしていた。マルクスやエンゲルスもその例外ではなかった。だが、進歩は進歩しないもの、遅れたものの存在を必然的に伴う。進歩の積極的な意義づけは、進歩しないもの、或いは進歩が緩やかなものへの侮蔑を伴ないがちである。進歩したもの、或いは自らを進歩したものと見なすものは、遅れたもの、遅れているものとみなされたものを矯正する権利があると、自らを位置づける。進歩主義の宿痾である。近代以降の、多くの、大国による小国の侵略、植民地主義支配や他民族支配がこれによって正当化されてきたし、今も、正当化されている。そして、戦前日本の「アジア的停滞論」が、特に忌まわしい記憶をもって語られるのは、この部分である。
 戦前日本の「アジア的停滞論」者として、つねに、秋沢修二、森谷克己、平野義太郎らの名前が挙げられる。彼らは当時、いずれもよく知られたマルクス主義者であり、「アジア的停滞論」としての、彼らの主張や思想は、それぞれ、『支那社会構成』(1939年)、『東洋的生活圏』(1942年)、『大アジア主義の歴史的基礎』(1945年)により代表される。我々日本人にとって、アジア的生産様式の名前は、「アジア的停滞論」に直接結びついている。そのようなイメージの結びつき、概念の連想がどうして生じたのかを知るためにも、彼らの思想的軌跡を再度追ってみる必要があるだろう。(続く)
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