中国的なるものを考える(電子版第29回・通算第72回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第29号 2009.4.4   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


停滞論の系譜 2 秋沢修二再論


 アジア的生産様式論にとって、アジア的停滞論との関りは、戦後一貫して、曰く言い難い重荷であった。とくに、中国研究者にとっては、そうであった。日本古代の社会構成をアジア的生産様式と規定する論者は少なくない。その別名とも言うべき総体的奴隷制であるとする研究者をも含めると、実は主流派であると言ってよい。それに対し、中国古代や中世の社会構成をアジア的生産様式とする日本人研究者は、数えるほどしかいない。総体的奴隷制を含めても、数えるほどしかいないという状況にさほど変わりはない(ここでは、あくまで20世紀のマルクス主義者もしくは、それに近い立場の人々を対象に述べている)。筆者が、アジア的生産様式論に関心を持ち始めた頃、1970年代後半においても、中国研究者の間には、アジア的生産様式論を忌避する雰囲気が強く残っていた。戦前のアジア的生産様式論争は観念的な議論であって、いまさら評価するには当らない、といった論調が主流であったように思う。「観念的」という言葉が「プチブル的」という言葉などと同じように、侮蔑的なニュアンスを含んでいた頃の話である。
 日本の中国研究者に、アジア的生産様式論者が数えるほどしかいないというのには、相応の理由がある。というのも、周知のごとく、戦前のアジア的生産様式論者の中から、日中戦争勃発後、深まりゆく戦時体制のなかで、中国における「アジア的停滞」を救済するのは日本の占領統治であると、日本軍の中国侵略を擁護したり、正当化するものが現れたからである。戦後、そのような中国侵略を擁護したアジア的停滞論は当然強く批判された。とくに、1949年の中国における共産革命の成功後、「進んだ日本、遅れた中国」という発想自体が否定されるに至った。中国に関る人々のなかでの、中国に対する無条件の支持、中国共産党や毛沢東に対する崇拝が強まる中では、伝統中国の歴史のなかに、停滞のエレメントを指摘することすら難しくなっていく。筆者が、最初に中国に関りをもったのは、そのような雰囲気の強い中国研究所の周辺においてであったので、その感をいっそう強くすることになった。
 そのような時代、1970年代後半からすでに30年ほどが過ぎた。その間、日本と中国との関りも変遷を繰り返した。そして、1989-1991年を境に、社会主義や共産主義の価値下落が始まり、マルクス主義を標榜する諸学が人気を失い、左翼という言葉自体が死語になりつつある時代を迎えた。だが、アジア的生産様式・イコール・アジア的停滞論といった理解が払拭されたとはいえない。現在、我々がアジア的生産様式の再評価を求めているのは、アジア的生産様式論がマルクス主義理論のなかで、目下の世界の有り様をもっともよく説明してくれるからなのだが、それにしても過去に背負ったマイナス・イメージはあまりも強烈で、容易には拭い去ることはできない。
 ただ、筆者個人は、やはり最近十数年で、随分その重荷に対する考え方が変わったと思っている。たとえば、秋沢修二については、筆者は自分のエッセーや論文のなかで何度も言及してきたし、秋沢の主要著書である『支那社会構成』(白揚社、1939年)も、何度も読み返してきた。そして、読むたびに、或いは言及するたびに、過去の呪縛がすこしずつ弱まっていることを感じている。さらに、秋沢個人については、少なくとも1937年頃までは、彼の同志でもあり、且つ論敵でもあった早川二郎や渡部義通と同じレベルの人間、或いは、彼らと共通した思想の持ち主と見るようになっている。勿論、それだからといって、秋沢修二の、戦時体制へのコミットを擁護するつもりはまったくない。
 アジア的停滞論という言葉を、もし、たとえば、アジアの歴史に色濃い停滞性のエレメントを見出したという意味で使えば、羽仁五郎「東洋に於ける資本主義の形成」(1932年)などは、その先駆ということになろう。それに対し、ある国家や民族が経済的に停滞しているがゆえに、或いは後進性に陥っているがゆえに、先進を称する国家や民族の介入や占領統治が許されるという意味において「停滞論」をいえば、秋沢修二『支那社会構成』が、アジア的停滞論成立のメルクマールとなる著作であることは疑いない。
 ただ、最初に断っておかなければならないのは、『支那社会構成』は、その中核にアジア的生産様式論の批判を据えた著作であったということである。おそらく、読者はこのようなことを書くと、狐につままれたような気がするであろう。後年、アジア的停滞論の代表的著作とされたものが、実はアジア的生産様式論批判の著作であった、などということがどうして起きたのだろうかと。
 秋沢修二は、1930年代中葉、渡部義通、早川二郎らとともに、草創期のマルクス史学における古代史研究の草分けの一人であった。彼らは『日本歴史教程』第一冊(渡辺、早川、伊豆公夫、三沢章、1936年)、第二冊(渡辺、秋沢、伊豆、三沢、1937年)を刊行し、マルクス主義的な古代史研究の基礎を固めていく。だが、同時に彼らは、アジア的生産様式や奴隷制及び封建制の概念をめぐり、互いに激しい議論を繰り広げていた。特に秋沢修二と早川二郎は、アジア的生産様式をめぐって、一歩も譲れない関係にあった。早川二郎は、『古代社会史』 (1936年)を発表し、アジア的生産様式は、原始共同体から階級社会への過渡期の生産様式であり、より具体的には貢納制であると主張し、アジア的社会の歴史に、原始共同体社会の解体→貢納制→アジア的封建制への発展を展望していた。そこに、奴隷制を普遍的な発展段階であるとは認めず、古典古代世界とアジア的社会に、それぞれ別な歴史発展の可能性を見出す早川の独自性が存在した。
 それに対し秋沢は真っ向から反対した。秋沢は、当時、ソ連で主流となった、「アジア的生産様式」を奴隷制のアジア的変種とするコヴァレフ説によりつつ、独立した生産様式としてのアジア的生産様式を否定し、かつ、古典古代、アジア的古代を含めた奴隷制の普遍性を主張し、日本古代、中国古代、インド古代における奴隷制の成立をそれぞれ論じている。それゆえ、『支那社会構成』は、そのような秋沢のアジア的生産様式論批判の集大成ともいうべき性格をもっている。とくに、第二編第一章「アジア的生産様式」は、明確に理論書の体裁をとっており、同書における秋沢のアジア的生産様式論批判の中心となっている。そして、重要なことは、この理論的骨格は、1930年代中葉からの秋沢の理論的展開をそのまま継承したものであった、ということである。すでに、早川二郎は、1937年末に不慮の死を遂げていたが、上記の意味において、秋沢の『支那社会構成』は、早川の『古代社会史』に対抗すべく書かれたのではないかと、読むたびにその印象を強くしている。
 それでは、どうして、アジア的生産様式批判の書が、アジア的生産様式に基づくアジア的停滞論の書であるかのように誤解されたのであろうか。秋沢は、『支那社会構成』において、たとえば、アジア的生産様式の指標の一つとみなされていた国家的土地所有について、それは中国史においては擬制にすぎず、古代より私的土地所有が発展していたと主張し、あらかじめ、アジア的生産様式論への出路を塞いでしまう。だが、それにもかかわらず、もう一方において、農村共同体の強固な残存、農村共同体的関係の長きにわたる執拗な維持を強調する。それが、中国的なデスポティズムを支えることによって、停滞性の大きな要因となる。彼の中国論の根底には、なによりも、このデスポティズム(専制主義)が置かれており、アジア的生産様式を否定しつつ、中国のデスポティズム(アジア的デスポティズム)を強調するという、一種の知的なアクロバットを試みている。
 これが知的アクロバットだというのは、彼が中国史における社会構成のエレメントとして繰り出す、農村共同体的関係、家父長制、官人支配的専制主義、集権的専制国家らは、誰もが理解できるように、みなアジア的生産様式のエレメントとして挙げられるものばかりだからである。だが、それでもなお、秋沢は懸命に中国史におけるアジア的生産様式を否定し、アジア的生産様式論の誤謬を説いてやまない。秋沢によれば、中国史においては、アジア的生産様式ではなく、古代においては、奴隷制的デスポティズムが、中世以降においては封建制的デスポティズムが存在した(中世以降も奴隷制的諸関係が強く残り、それが封建(農奴制)的諸関係と絡み合いつつ長期にわたり併存すると力説するところが、秋沢史観、あるいは秋沢理論であった)。このような奴隷制や封建制の強調は、原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義へと続く、スターリン主義的な発展段階論に基づくものであり、この時期においても秋沢はなお、それを固く守っていたことを意味する。おそらく、これは、形式的或いは表面的な問題ではなく、秋沢にとって根本的な問題であったようにみえる(後述)。
 このような秋沢修二のアジア的生産様式論批判が理解されにくいものであったことは、次の呂振羽『中国社会史諸問題』の一節からもうかがわれる。

 「『アジア的生産様式』の問題と深いつながりをもってくるのは、いわゆる中国社会もしくは東洋社会の『停滞性』という問題である。いわゆる『停滞性』の問題に対する歴史家の理解は、ほとんどみな『アジア的』といわれる特徴から出発している。この問題については<国際的にくりひろげられたアジア的生産様式論争の過程で>多くの人々が意見をだしたけれどもそれらはみな部分的であり、系統的な説明(正しくは、系統的な歪曲)を試みた第一人者は、秋沢修二である」。

 この訳文は、玉嶋信義『中国の眼』(1959年、弘文堂)から引用している。なお<>のなかは、原文にはないので、訳者が付けた補足であろう。おそらく、呂振羽にとって、秋沢がアジア的生産様式論批判の急先鋒であったなどということは、ほとんど意味をもたなかったのであろう。重要なことは、秋沢が中国の「停滞性」を強調し、その要因として、専制主義と中央集権的官僚制、農村共同体的諸関係、家父長制、集約的農業経営、大規模水利事業等を次々とあげ、執拗に延々と論じていることであった。そして、その立論は、以下のような秋沢の「序文」の枠組みにおいて行われている、と呂振羽が考えたのは当然である。

 秋沢の『支那社会構成』序文は、これまで、各論者(筆者も含めた)によって、何度も引用されてきたので、かなり知られているように思われるが、問題となった一節は、以下のようなものであった。

 「ところが、幸いにして、今次の日支事変は、支那社会に一つの光明を与える結果となった。すなわち、皇軍の武力が、支那社会の『アジア的』停滞性の政治的支柱とも云うべき軍閥支配を支那の広汎な主要地域から一掃してしまったのである。かくして、支那社会がその特有な停滞性を最後的に克服して、前進的自立的日本との結合によって、その真の自立を獲得する道--東亜協同体とは実はこれだ!--が拓けたのである」。

 おそらくこのパラグラフがなければ、『支那社会構成』は、中国にシンパシーを持つ人々にとって「不愉快な」書物ではあっても、「アジア的停滞論」の代表とはされなかったかもしれない。戦後、秋沢は、同書の自己弁護を行っている(『創造的マルクス主義の道』、1987年)が、この序文の一節には触れていない。それは、おそらく序文は時局に押され、やむを得ず書いたもので、本文自体は科学的に書かれている、という思いがあったからであろう。たしかに、本文には時局を(戦局)を称えた文章はない。唯一それに近いのは、次の一節である。

 「だが、それにも拘らず、現代支那社会は現在とくに偉大な転換期に立っており、その「停滞性」を克服せんとする社会意志が政治の前面にあらわれつつあることを、見落としてはならない。即ち、その後れた経済にもかかわらず、否それ故にこそ、進んだ政治への要望」(375 頁)

 これを時局に迎合したものと見ることも可能である。もし、当局に問い詰められれば、「停滞性」の克服を担うものは、日本軍とその占領 統治であると答えたであろう。だが、「社会意志」とは何であろう。誰の社会意志であろうか。そして、最後の「その後れた経済にもかかわらず、否それ故にこそ、進んだ政治への要望」における進んだ政治とは、具体的に何を指すのであろうか。当時(戦時下)におけるレトリックに習熟していない現下においては、右にも、左にも取れる可能性を指摘するだけにとどめる。羽仁五郎以来、講座派に一貫して言えることは、停滞性の指摘は、革命を遅らせるものではなく、むしろ必然づけるものであったことを、想起すべきなのかもしれない。
 最後に、もう一度、秋沢における歴史発展の五段階論へのこだわりについて考えてみたい。上述のごとく秋沢『支那社会構成』の大きな矛盾は、アジア的生産様式論じたての、或いはアジア的生産様式論とみまがうばかりの、アジア的生産様式論批判に基づいたアジア的停滞性の検証であったということにつきる。それならば、むしろ、あっさりと、アジア的生産様式論に基づいて、アジア的社会の停滞性を堂々と論じた方が、理論的にも思想的にも、一貫していたはずである(森谷克己『東洋的生活圏』)。講座派は野呂栄太郎以来、アジア的生産様式論に親和的であった。表面的には資本主義化したはずの日本社会における数々の後進性にひたすらこだわり続けた講座派の論客たちにとって、上古以来のアジア的生産様式の影響とその残滓は、彼らの理論に適合的であった。ただ、ソ連におけるアジア的生産様式論の否定に鑑み、森谷克己や渡部義通のように、アジア的生産様式を独立した生産様式ではなく、原始共同体社会の生産様式であるとみなすか、或いは早川二郎のように原始共同体社会から階級社会(敵対的生産様式)に向かう過渡期の生産様式として扱えば、歴史発展論の五段階論とも理論的な整合性がとれたはずであった。
 秋沢はそのいずれの方法もとらず、ソ連主流のコヴァレフに依拠し続け、アジア的生産様式=奴隷制のアジア的変種説を堅持した。だが、アジア的変種という見方それ自体に、特殊性の認識が潜んでおり、その認識をもとに、西欧や日本の歴史と、中国史やインド史を比較すれば、現実に検出しえるものは、停滞性ばかりであったことは、容易に想像がつく。講座派の理論的な枠組みのなかで、このような悪循環に陥ることを避けるとすれば、発展や停滞について、別の想像力をもつことが必要であった。
 秋沢はなぜ、最後まで、コヴァレフ説に従ったのであろうか。或いは、歴史発展の五段階論に従ったのであろうか。そこに、社会主義の祖国ソ連に対する揺るぎない信奉といったものが、なかったのであろうか。そうだと仮定すると、次のような推測が可能となる。おそらく秋沢は、あくまで歴史発展の五段階論に従うことで、時局に押され、やむを得ず屈服したとはいえ、最後の部分では、自分はいまだ屈していないことの証にしていたのではないか、と。

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