中国的なるものを考える(電子版第30回・通算第73回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第30号 2009.6.7   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


停滞論の系譜 3 森谷克己と「東洋的生産様式」

 森谷克己はアジア的生産様式論に関して、数多くの論文を発表しており、それらは『アジア的生産様式論』(1937年)、『東洋的生活圏』(1942年)、『東洋的社会の歴史と思想』(1948年)、『中国社会経済史研究』(遺稿論文集、1965年)などに収録されている。
 最初の論文集(『アジア的生産様式論』)に収められたものは、いずれも1930年代中葉のアジア的生産様式論争のなかで書かれたものである。論争における森谷の立場は、アジア的生産様式=原始共産制の生産様式(より具体的には農業共同体を基礎とする生産様式)説である。その論拠は、煎じ詰めれば、①マルクス『経済学批判』「序言」にいう、「アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式」の序列から、アジア的生産様式は古代的生産様式に先行する生産様式であり、且つ②「社会の最初の大分裂」が「主人と奴隷」の間の分裂(エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』)である以上、奴隷制すなわち古代的生産様式に先行する生産様式とは、とりもなおさず階級社会以前の、原始社会における生産様式にほかならない、と結論づけたものである。
 1930年代中葉の日本におけるアジア的生産様式論争は、それなりに活発に議論されたにもかかわらず、論争の帰趨は予め決定されていたといわざるをえない。というのも、ソ連(「社会主義の祖国」)において、具体的には、1931年レニングラード討論以後、論争に政治的な決着がつけられていたからである。独立した生産様式としてのアジア的生産様式概念の否定、それが結論であった。それゆえ、戦前日本の論争は、如何に活発に行われたとしても、その枠組を変えたり、越えたりすることは不可能であった。
 そうなると、結論は自ずから見えてくる。アジア的生産様式を独立した生産様式としては認めない以上--もしアジア的生産様式を独立した生産様式であると認めるならば、異端(例えばトロツキズム)への加担を疑われかねなかった--、それは原始共同体社会の生産様式か、或いは古代的生産様式と同じように奴隷制に基くものか、或いは封建的生産様式と同じものか、のいずれとなる以外にない。本来アジア的生産様式論を強く支持していた早川二郎でさえ、アジア的生産様式が独立した生産様式であると主張することを断念せざるをえなかった。その代わり早川は、アジア的生産様式を、原始共同体社会から階級社会への過渡期の生産様式であり、その収取様式を貢納制に基くものと主張した。アジア的生産様式は他のどの生産様式の別名でもなく、またそれらの変種でもなく、アジア的生産様式(貢納制)によって特徴づけられる社会は、原始共同体社会から奴隷制を経ずして国家的封建制に移行するものと見なすことで、かえってアジア的社会の歴史コースの独自性を強調することになった。
 それとは逆に、秋沢修二は、当時、ソ連の主流であったコヴァレフ説(アジア的生産様式=奴隷制の変種説)を信奉することで、正統的立場を保持し、かつ、すでに正統的立場を確保していたがゆえに、彼の中国社会論(『支那社会構成』)は、アジア的社会の指標--家父長制、農村共同体の長期残存、デスポティズムなど--に満ちたものとなった(前回参照)。
 それに対し、森谷克己のアジア的生産様式論は地味なものであった。確立しつつあった「マルクス主義教義体系」にとって、前述の生産様式の序列、「アジア的、古代的、封建的」が、継起的な発展段階を表わす以上、「アジア的」には地理的にアジアに限定する意味はなく、その内容も、ある一定の地域に特定されるような特殊な性格をもってはならず、普遍的なものでなければならなかった。原始共同体社会の生産様式がたとえアジア的生産様式の名称で呼ばれようとも、治水や灌漑など大規模公共事業に大きな比重をかければ、発展段階としての普遍性を失ってしまうからである。農業共同体に基礎を置く社会の生産様式がアジア的生産様式と呼ばれるのは、単にアジアの地において農業共同体が、近代にいたるまで長期的に残存していたからにすぎない、ということになる。
 だが、戦時下において出版された論文集『東洋的生活圏』では、様相が一変する。中国、朝鮮およびインドなどの歴史におけるアジア的国家およびアジア的社会構成が強調されるようになり、それを包括する東洋的生産様式なる概念が登場する。
 「アジア的国家形態とは、畢竟、専制的・官僚的国家形態であると言うことができよう。もちろん、東洋或いはアジアにおいては興亡せる諸国家は、国により時代によって、その統制組織を種々異にするところがある。しかし、それらはつねに専制的・官僚的国家形態として興隆した。蓋し、専制的・官僚的支配はアジア的生産様式に最もよく適合し、東洋の社会的生産組織と密接不可分の関係をもつものであり、アジア的諸国家を最もよく特徴づける。この意味においてアジア的国家形態とは、専制的・官僚的国家であるということができるのである」(第二章「アジア的社会とアジア的社会構成」)。
 このパラグラフを読めば、この論文(第二章)が「アジア問題講座」第9巻に発表された時点(1939年9月)までに、森谷は、アジア的生産様式=原始共同体社会の生産様式説を放棄していたと考えるのが自然であろう。また、第五章「東洋的生産様式と共栄圏確立」(1941年1月初出)では、東洋における農業が耒耨(らいどう)、すなわち鋤や鍬など「手の労働」を中心とした労働集約的農業の段階にあることが強調され、そのような農業の上に成立っている父家長制や集権的官僚制国家--東洋的社会構成--を集約する生産様式を「東洋的的生産様式」と呼んでいる。
 東洋的生産様式の特徴とは、ウィットフォーゲルがいうごとく、農業における治水・灌漑の際だった重要性である。それらは、結局は集権的専制国家の成立を促すとともに、治水・灌漑の目的に反するような水力の利用(水車)を制限し、ひいては生産力の停滞を招いた。すなわち東洋的社会は「原始的協同体を多分に保存し強固な民族協同体を形成しえず」、「欧米列強の植民地、半植民地と化せしめられた」(第五章)。それゆえ、アジア的社会の再生は、日本が主導する大東亜共栄圏の確立によらねばならぬ、云々。
 『東洋的生活圏』(1942年12月刊)所収の大半は、1939年以降に書かれたものであった。筆者が同書を最初に読んだとき、1937年盧溝橋事変以後の深まりゆく戦時体制のもとにおいて「アジア的生産様式」というマルクス主義用語が使用できなくなり、やむをえず「東洋的生産様式」と呼び換えたのだろうと考えた。だが、『東洋的生活圏』には「謂わゆる『アジア的生産様式』と朝鮮」(1938年6月初出)と題するエッセーも収録されており、そこでは「アジア的生産様式は原始共産制の生産様式である」との従来の立場が堅持されている。また、「我々は兎に角、『アジア的生産様式』とは別に東洋の特殊性の問題を提起しうる。後者は、前者とは全く無関係ではないとしても、両者は別個の問題でもありうる」と述べ、この後者の「東洋的なるもの」の究明こそ、現実的な意義を有していると説いている。この「東洋的なるもの」こそ、先のアジア的国家や東洋的社会構成の問題につながるのであろう。
 一方を読めばアジア的生産様式はアジア的国家、専制国家を支える生産様式(東洋的生産様式)であるかのように書かれてある。また、一方では、アジア的生産様式は原始共産制の生産様式であるとされる。これは一体どういうことなのであろうか。同じ論文集に収められた論文の間に、大きな齟齬があるということは、どういう意味合いを持つのであろうか。
 同時期、森谷は、「アジア的生産様式」(『支那問題辞典』、中央公論社、1942年3月)を書いている。その内容は、『東洋的生活圏』所収の諸論文、とりわけ「東亜農業における水の意義」や「東洋的生産様式と協栄圏確立」など幾つかの論文のエッセンスをまとめたものである。さらに「アジア的生産様式は、社会的には著しい程度における原始的諸協同体の保存と、国家の集権的・官僚主義的秩序とによって特色づけられる」と、アジア的生産様式が専制国家の生産様式、従って階級社会の生産様式であることを明確に述べている。1942年3月の時点では、森谷はほとんど、ウィットフォーゲルのアジア的生産様式論と同じ立場にたっていたといえる。
 だが、森谷は同年末刊行の本書『東洋的生活圏』において、同じ年に書いた「アジア的生産様式」(『支那問題辞典』)を収録せず--内容的な重複が多いという理由があったのかもしれないが--、わざわざ4年前の論文「謂わゆる『アジア的生産様式』と朝鮮」を収録することによって、彼の以前の立場(アジア的生産様式=原始共産制説)を強調することになった。その結果、『東洋的生活圏』は、アジア的生産様式ではなく、東洋的生産様式の書物となった。アジア的国家を支える生産様式(ウィットフォーゲルが言う「アジア的生産様式」)は東洋的生産様式であったということになった。
 森谷の発展図式の変遷を概略説明すると、以下のようになる。森谷克己の最初の著作『支那社会経済史』(1934年)における中国史の発展段階は
 原始社会→「未熟なる」封建社会(周代)→官僚主義的封建制(秦漢以降)→半植民地化
であった。続いて、最初の論文集『アジア的生産様式論』(1937年)において、この原始社会の最後期が、アジア的生産様式の時期であると解釈される。
 それに対し、『東洋的生活圏』においては、
 原始社会(アジア的生産様式)→早期封建制→「東洋的生産様式」→半植民地化
に変更されている。
 では何故、東洋的生産様式がウィットフォーゲルの言う東洋的専制を支える「アジア的生産様式」であったにもかかわらず、『東洋的生活圏』において、階級社会及び専制国家の生産様式としての「アジア的生産様式」が貫徹されず、「東洋的生産様式」を主に使うことになったのであろうか。筆者は、1942年12月の時点においてでさえ、彼がいまだに正統マルクス主義(スターリンの歴史発展の五段階論)への未練を断ち切れていなかったがゆえであろう、と考えている。マルクスの「アジア的生産様式」は、依然として、原始共同体社会(農業共同体)の生産様式であった。そうすることで、マルクスへの何ほどかの忠誠をほのめかしたつもりであったのかもしれない。
 1930年代、森谷克己は、平野義太郎の影響下において、ウィットフォーゲル『解体過程にある支那の経済と社会』(1933年)や『東洋的社会の理論』(1939年)の翻訳に参加している。当初から彼のウィットフォーゲルへの思い入れはかなりのものがあったと思われる。だが、彼は1938年頃まで、正統説に従いつづけた。恐らく、早川二郎と同様の配慮(異端への加担と受け止められるような議論を回避)からであった。
 戦時体制への動員のもと、森谷克己はウィットフォーゲルの「アジア的社会論」「アジア的生産様式論」を公然と受容し、それを、一方では、「東洋的生産様式」とも言い換えつつ、「水の意義」、父家長制、原始的共同体の残存、専制的・官僚主義、等々、従来は慎重に言及していた「アジア的生産様式」の諸エレメントを、アジアにおける産業的発展を遅滞させたものとして、あからさまに強調するようになる。そのような「転向」は、遺稿集『中国社会経済史研究』において、森谷自身によって大アジア主義への結びつきとして回顧され、且つ森谷は、そのような主張(「戦争の理由づけ」)を行ったことを自己批判している。だが、そのような大アジア主義への共鳴をウィットフォーゲルの責に帰せられても、ウィットフォーゲルにとっては迷惑な話であっただろう。
 秋沢修二の『支那社会構成』(1939年)がアジア的生産様式を鼓吹した著作ではないことは、前回述べた。それに対し、この森谷克己『東洋的生活圏』は、「東洋的生産様式=アジア的停滞」という意味で、「アジア的生産様式=アジア的停滞」論にほぼ近いイメージを提出しているといえる。「ほぼ」としたのは、それでもなお、森谷が迷い続けていた、或いは左翼の尻尾をつけたまま、何とか過去への忠誠を示そうとしていたのではないか、と筆者が感じたからである。 
 それにしても、森谷克己をアジア的生産様式論者だと言おうとすると、それは、あまりにもひ弱な、アジア的生産様式論者であったといわざるをえない。森谷克己は、戦後もなお、しばしば、ウィットフォーゲルを自説の補強として引用しているが、それを、当時「背教者」呼ばわりされ、つねに罵倒されていたウィットフォーゲルに対し、森谷がなお公平な態度をとっていたとみなすことも可能である。しかし、筆者は、むしろ、積極的にアジア的生産様式論を展開できない森谷が、すでに悪名高いとはいえなお強靭な「水の理論」を展開するウィットフォーゲルの、なにがしかの影響力の助けを借りることによって、かろうじて自説--アジア的生産様式論への傾き--を支えていたのではないか、と思うようになっている。
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