中国的なるものを考える(電子版第31回・通算第74回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第31号 2009.8.1   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


停滞論の系譜 4 平野義太郎とアジア的停滞論

 前々回は秋沢修二、前回は森谷克己について触れた。今回は、平野義太郎である。そして、問題となる著作は『大アジア主義の歴史的基礎』(1945年)である。この半年間に二度ほど目を通してはいるのだが、あれこれの学説や理論をかき集めた、ごった煮といった印象が強く、何とも評価のしようがない感じがしている。主に戦時中書かれた、時論的な、或いは政論的色彩の濃い論文を集めたからであろう。もちろん、左翼知識人の思想的転向の問題として論ずれば、何か語れるかもしれない。現実に、そのような視角にもとづく平野義太郎の戦時下のアジア的社会論について、すでに幾つも論文が書かれており、やはり講座派の旗手だった平野だけに、その点については注目度が高いといえる。だが、秋沢や森谷と同じように、あくまでも平野におけるアジア的生産様式とアジア的停滞論の関わりを問おうとすれば、ことはそれほど簡単ではない。
 平野義太郎は、戦前講座派の重鎮であった。特に野呂栄太郎亡きあとは、山田盛太郎とともに、講座派の理論展開を主導したといってよい。日資本主義論争における講座派の論敵であった労農派が、明治維新はブルジョア革命であり、地租改正において封建的土地所有関係が廃絶され近代的土地所有が成立した以上、その後の地主制の展開といえども、ブルジョア的なものであり、封建的なものでも、半封建的なものでもないと主張したのに対し、講座派は、それを真っ向から批判した。彼らにとって、日本社会の封建遺制は極めて濃厚であり、いずれ消え去るべき旧社会の単なる残滓などではなかった。むしろ、国家機構における絶対主義的要素(すなわち天皇制)及び農村における寄生地主制に代表されるこの封建遺制は、発展しつつある資本主義と強く結びつき、互いに支えあっており、その独特な抱合の在り方こそ、当時の日本社会の本質を構成するものと考えた。講座派が「半封建制論」をとっていたとする場合の半封建制とは、この封建遺制への強い拘りであった。
 ではなぜ、資本主義列強の仲間入りを果たしたはずの日本において、封建遺制はかくも強固に存在し続けるのか。その日本の特殊性を説明する一種の理論装置として、アジア的生産様式論は、講座派理論に組み込まれることになった。つまり、欧米列強とは異なり、日本古代に、アジア的生産様式が存在し、さらにその後の、中世および近世の封建制にも、そして封建遺制を通じて、近代以降においても、大きな影響を与えつづけたからである。その端緒は野呂栄太郎の「国家=最高地主説」であることは言うまでもない。
 すなわち、アジア的生産様式は講座派理論においては、日本資本主義の後進性、停滞性の特徴づけのために導入されたのである。アジア的生産様式は、アジア的停滞を理由づける概念であると同時に、日本的停滞を理由づける概念でもあった。
 そのことを一番端的に表しているのが、平野義太郎「アジア的農業社会と日本の農業-モンテスキューが論及せる日本、およびモンタヌス、ケンプェルが観察」(『思想』169号、1936年6月号初出、後に『農業問題と土地変革』1948年、日本評論社、に再録)である。その目次を示すと、以下のようになる。

 序言
 第一節 概説―日本および日本人の特徴づけ
 第二節 アジアにおける「以農為国本」と日本の鎖国
    一 アジアにおける「以農為国本」
    二 日本の鎖国の性質
 第三節 東洋における農業の生産過程
 第四節 東洋における農民の貧困、日本における農民の生活
    一 東洋における農民の地位
    二 日本の農民の状態
    三 東洋の農業国における人口過剰・飢餓の原因

 平野義太郎は、同論文において、アジアにおける停滞が、アジア的農業社会に起因していること、そしてそのアジア的農業社会の基底が、アジア的専制主義と強く結びついていることを力説する。平野はマルクスも、そしてウィットフォーゲルの名をあげることなく、主にモンテスキューを論じることで、アジア的専制主義の物質的基礎が、灌漑排水の大土木事業にあること、すなわちアジア的生産様式にあることを論じている。
 当前、このアジア的専制主義、そしてその物質的基礎、さらに今日風に言えば、アジア的専制主義を成立させ、それを維持せしめているエコ=システムの下にあったのは、インドや中国ばかりでなく、日本もまた、そうであった。上記の目次から知られるごとく、平野はアジア的農業社会のコンテキストにおいて、日本の農業社会を分析している。当然のごとく、日本農業の特質である、寄生地主制と圧倒的多数の零細農、農民生活の悲惨さや法的な無権利ぶりが、この物質的基礎から、このシステムから--より正確にいえば、その遺制から--出てくることになる。
 この論文(「アジア的農業社会と日本の農業」、以下第一論文と記す)は、形を変え、平野の転向後の1945年『大アジア主義の歴史的基礎』に再び登場する。同書は、第一編 日華聯合による大アジア主義の経綸、第二編 支那社会の基底としての郷党及びその自治、第三編 支那社会の研究、第四編 欧米学者の支那研究、からなっている。その第四編第三章は、「第一論文」から「モンテスキューの部分のみ」(『平野義太郎著作目録--人と学問の歩み』、平野義太郎先生の社会科学50年を記念する会、1977年)を「モンテスキューの支那政治論」(以下「第二論文」と記す)として題して、独立させたものである。『著作目録』の性質上、「モンテスキューの部分のみ」という短い記述なのはやむを得ないにしても、実際には、「第一論文」と「第二論文」の間には、大きな異同がある。単純に、モンテスキューに関わる部分を独立させた、という事柄では到底すまない内容上の改変が存在する。
 第二論文(「モンテスキューの支那政治論」)の目次は以下のごとくである。

 第一節 支那論におけるモンテスキュー
 第二節 アジアにおける「以農為国本」・厖大な人口
    [1] 旧支那における「以農為国本」
    [2] 商業・高利
 第三節 東洋における農業の生産過程
 第四節 東洋における人口の過多・飢饉と政治―モンテスキューとケネーとの論争

 目次から理解できるのは、モンテスキューの部分のみを独立させた、というより、「第一論文」がアジアのなかの、日本が主要なテーマであったのを、「第二論文」は日本抜きのアジア(すなわち中国)に書き改めた、という印象を受ける。次に、主要な異同を述べる。まず「第二論文」では、「第一論文」にあった階級的な隷属を表す表現、例えば東洋社会における農奴制が削除され、農奴支配者が官紳に、書き改められている。
さらに重要なのは、アジア的専制主義が、それぞれ、支那の官人的専制主義、支那の専制主義、支那印度専制主義、清朝の専制主義といった表現に、アジア的専制社会が清朝の専制国家に書き換えられていることである。しかし、専制や専制主義が全体として削除されたり、書き換えられているわけではない。それ以外にも、語句や文の削除や追加を含めて、重要な記述の改変がある。
 では何故、アジア的専制主義という記述がまずかったのであろうか。アジア的専制主義という表現では、日本もアジアに属する以上、その影響下にあると受け取られることになる。だが、平野はすでに「大東亜共栄圏」の鼓吹者であった。日本は他のアジア諸国より、遙かに進んだ政治経済システムを持ち、それゆえ他の遅れた--したがって帝国主義列強の植民地や半植民地にならざるをえなかった--アジア諸国の模範もしくは目標たらねばならなかった。中国やインドのようなアジア的専制主義の遺制に苦しむ諸国とは違うのである。日本も、灌漑治水に基礎をおく農業を特徴としていた。だが、「近代日本は基本的に東洋農業及び東洋文化の精髄を発展させつつ、しかも旧来の東洋社会に適応的な革新を加え、その棄つるべきは棄て、その保存すべきは保存し、殊に科学技術を進歩せしめることによって、今日みる如き産業経済及び文化の躍進を遂げたのである」(『民族政治の基本問題』第一編第一章、1944年)。それゆえ、アジアにおいて唯一近代化しえたのである。そこが他のアジア諸国と決定的に異なるところであった。それに対し、「第一論文」執筆時においては、平野は講座派の論客として、日本資本主義の停滞性、後進性を指摘することにひたすら拘っていた。そこでは、アジア的社会特有の停滞性、後進性を共有する点において、日本は他のアジア諸国と異なるところはなかった。
 個々の書き換えについて、全てを挙げていくと非常な紙幅を要するので、以下代表的であると思われるものを三つあげる。まず、第一論文のパラグラフを挙げ、次に変更点を記すことにする。

(1)灌漑による米作の集約的な零細耕作、灌漑・排水の大工事による大規模な単純協業における人民の使役、役畜の過少、人間が役畜に代ること、「動物がなす労働が人間によってなされ、土地の耕作が人間にとって莫大な手仕事となる」人間労働力の恐るべき濫費。米作こそ、農奴制零細耕作の存続の恰好な土壌。
 変更点:米作の集約的な零細耕作→米作の集約的園芸的耕作、人間労働力の恐るべき濫費→人間労働力の丹念な手入れ、農奴制零細耕作→アジアに共通する園芸的に集約的な主食作物の零細耕作、に書き換えられている。また、人間が役畜に代ること、が削除されている。

(2)そこで、一定面積の耕地において養われうる人口数は、小麦耕作の場合よりも米作の方が多数でありうると共に、農民によって養われる武士、寄生地主の人口数も多くなりうる。同時に、手労働の集約化により支出される、労働力の再生産のためには、是非とも米の消費が農民によっても必須となる。けだし栄養分が少ない麦では働けないから、米食は贅沢ではなく必要なのである。で、人口増加が進行するとなれば、牧場地、山、岡までが米田化される必然的傾向が生ずる。「どんなところでも米田に転化する」とはすでにケンプェルが「日本誌」で観察せるところである。だが、それが限度をなすものは、中央政府の灌漑資金であり、すでにその資金が欠乏し米田化の限度に達せるところでは、生産性の増大が「狭小」な零細土地における手労働のヨリ一層の集約化よりほか残されない。そこに、アジア的米作農業における耕地の細分化の下における手労働のみによる集約的な飢餓的零細耕作が成立する。
 変更点:農民によって養われる武士、寄生地主→農民によって養われる官人・地主、すでに資金が欠乏し米田化の限度に達せるところでは→すでに資金が欠乏し米田化の限度に達し工業化の行われぬ支那では、アジア的米作農業→支那的米作農業、集約的な飢餓的零細耕作→集約的な園芸にも類する小農耕作。

(3)だから、施肥のための動物の排泄物がいかに欠乏して居り、しかもそれが日本の農民によって、いかに切実な緊要であり、貧農民が、この条件の下でいかに施肥に苦しみ種々な方法を工夫しているかを、ケンプェルはよく叙述している。貧農の子供たちが街道を通る馬の落す糞を、ただちに温いうちに拾い上げて持ち帰り、また、人間の排泄物を節約保存し、人馬の草鞋をも焼いて灰にし糞便に混ぜて肥料にする光景は、手にとるようである。ひとは、この光景が、今日もなお日本の農村の一部にみられることをおもい合わす。
変更点:日本の農民→支那の農民、ケンプェル→ケネー、今日もなお日本の農村の一部に→今日もなお支那の農村に。

 以上を瞥見すれば、変更の意図は明白である。まず、アジア的農業社会の矛盾を、日本を含むアジアから、日本抜きのアジアに、主要には中国に移すこと、が挙げられる。日本も共有していたはずのアジア的社会の後進性、遅れた部分を、日本から振りほどき、中国やインドに一方的に押しつけた、といえる。語句の意図的改作という点で、とくに (3)の例は、たとえ、典拠をケンプェルからケネーに替えたとしても、悪質な変更と指摘されてもやむをえないであろう。さらに(2)では武士、寄生地主を官人・地主に、ところ(米田化の限度に達するところ)、またはアジアを支那に、替えた結果、米田化の必然的傾向が、必然ではなくなっている。なぜなら、中国北方(淮河以北)において、主要作物は小麦であり、そこに米田化の必然的な傾向があるわけではないからである。このような齟齬をきたすぐらいならば、あっさり、初めからモンテスキューの中国論を、当時の意図に沿って書きなおした方がよかったはずである。膨大な著作で知られる平野にとって、第二論文ぐらいの量を書き上げることは、容易であったであろう。何故、第一論文の改作にとどめたのであろうか。何かこだわりがあったのであろうか。
 変更点の意図として、次に、零細耕作の容認、小農経営の評価があげられる。これは、戦時中の平野の村落共同体への評価と連動している。アジアに共通する村落共同体の原理こそ、大アジア主義の基礎であった。平野が大アジア主義の鼓吹者として、村落共同体の組織原理や道徳を持ち上げるのは当然であるが、その共同体のメンバーである個々の農民の小農経営を、講座派の論客であった時のように、飢餓的零細経営と指弾するわけにはいかない。むしろ、そのような技術的低位を伴う小農経営でも、進んだ日本の指導の下、「農業技術の改善及び協同組合によってのみ、東亜農業の発展は可能である」と論じ、半封建的土地所有形態(寄生地主制)の廃絶を求めた第一論文の立場から大きく後退している。
 以上、両論文の比較によって、『大アジア主義の歴史的基礎』全体を言いつくせるわけではない。だが、その核心の一端には迫りえたと考えている。第二論文(『大アジア主義の歴史的基礎』第三編「モンテスキューの支那政治論」)には、ウィットフォーゲルについての直接の言及はないが、『大アジア主義の歴史的基礎』第三編第二章「支那の自然と社会経済」、第三章「支那農業の基礎的分析」に、治水灌漑の重要性に関して、明確な言及がある。戦後いわば常識となって流布した、アジア的生産様式論=アジア的停滞論のイメージは、ここで最終的につくられたもといえる。だが、戦後、アジア的停滞論批判のなかで、生贄され、批判の十字砲火を浴びたのは平野義太郎ではなく、かえってウィットフォーゲルであった。ウィットフォーゲルが、戦後、単一権力社会(オリエンタル・デスポティズムとソ連を中心とする20世紀社会主義)を厳しく批判し、多元的権力にもとづく社会を擁護し続けたことを考えれば、その批判のほとんどは極めて不当なものであった。
 では、なぜ、平野は戦時中、ことさらウィットフォーゲルに言及し続け、結果として、ウィットフォーゲルに累を及ぼすようなことをしたのであろうか。筆者は、おそらく、それは平野が転向後も、いまだマルクスを信じ続けていることを、ウィットフォーゲルに何度も言及することで、暗にほのめかしていたのだと考えている。筆者の読んだかぎりであるが、戦時中の著作において、平野はマルクスに言及していない。転向したとはいえ、マルクス批判を行っていないのである。敗戦後、彼が何の躊躇もなく、再び左翼知識人として論壇に登場したことを考えると—そのことについて、いろいろな疑問があるのは当然であるが--彼がマルクスを信奉し続けていたことは間違いないであろう。
 そのように言うと、平野の転向とは何だったのかということになろう。さらに、平野にとってアジア的生産様式とは何だったのか、と問わざるをえないであろう。冒頭で述べたように、アジア的生産様式論は、野呂栄太郎や平野義太郎など講座派主流にとって、あくまでも、停滞性、後進性を特徴づけるための理論装置の一つであった、と筆者は考えている。ウィットフォーゲルのような、人類のマクロヒストリーのそれぞれの流れを説明する歴史理論ではなかったのである。極端な言い方をすれば、利用の対象にすぎなかったといえる。
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