中国的なるものを考える(電子版第32回・通算第75回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第32号 2009.10.13 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

停滞論の系譜 5  若干の総括
 この間、戦前のマルクス主義者、秋沢修二、森谷克己、平野義太郎の、アジア的生産様式とアジア的停滞論との関わりを論じてきた。秋沢修二は停滞論的中国論を書いたが、予想に反して、彼はアジア的生産様式論者ではなかった。むしろ、アジア的生産様式否定論であった。森谷克己は、アジア的生産様式によってではなく、「東洋的生産様式」によってアジア的停滞を説明しようとしていた。最後に平野義太郎が、アジア的生産様式によって説明しようとしていたアジア的停滞とは、当初、中国やインドに向けられていたというより、むしろ日本向けであり、日本資本主義の停滞的側面、すなわち日本近代における「半封建制」或いは「封建遺制」を根拠づけようとしたものであった。転向後、彼はそれをアジア向け(主要には中国向け)に焼きなおしたのだった。もちろん、このようなことが分かったからといって、アジア的生産様式とアジア的停滞論は関係がなかった、などというつもりはない。秋沢修二の中国論において、停滞的要素としてあげられたものは、ほとんどがアジア的生産様式の指標ともいえるものであった。また、森谷克己の「東洋的生産様式」はウィットフォーゲルのアジア的生産様式に酷似したものであった。戦時中の、秋沢、森谷、平野の著作から、アジア的生産様式=アジア的停滞論といった印象を受けるのは、それなりの理由があったといえる。
 すでにこのシリーズ(「停滞論の系譜」)の冒頭でも述べたように、停滞論における停滞とは、進んだ存在、発展した存在を前提としている。当然のことだが、停滞論における停滞が、ある民族、或いはある国家やある地域に向けられているとしたら、つねに進んだ存在、発展した存在との比較において、その民族なり国家なり地域なりが停滞と性格づけられているということになる。すなわち、停滞論とは発展論の副産物である。マルクス主義は、二人の創始者以来、その思想的な核心において発展論的な歴史観を持つがゆえに、当初より停滞論を孕んでいたと言わざるをえない。
ただ、発展論的な考え方そのものが、停滞論だとして批判されているわけではない。また、停滞を指摘することそれ自体が問題なのでもない。おそらく、停滞の指摘それ自体が問題であるとする人たちもいるであろう。もしそうならば、一般に、発展論は、ある観点に立って、あるものを進んだもの、あるものを遅れたものと分類する以上、発展論的な思考をすることが自体が誤りだということになろう。そうではなく、停滞或いは後進性の指摘が、先進的なものによる後進的なものへの侵略及び支配、或いは搾取や抑圧を、正当化することが問題なのである。停滞の指摘それ自体が誤っているわけではない。単なる停滞の指摘に対しては、指摘された方は不愉快ではあろうが、もし、それに異論があれば、反論すればよいだけの話である。それに対し、停滞や後進性を口実とした、進んだものによる侵略や支配、或いは搾取や抑圧と、その正当化は、以上のような議論とは別な問題であり、混同してはならないと考えている。
 もちろん、これらの問題はきわめて錯綜しており、かつ様々な感情がもつれあっており、どのように言おうとも納得しない人々がいることが予想される。多くの場合、後進性や停滞を指摘した人々は、強い立場に立つ人々であり、逆に後進性や停滞を指摘された人々は、弱い立場に立たされた人々であった。そのような場合、後進性や停滞の指摘を、そのまま客観的なものと認めることは難しい。大体は、侵略や支配の正当化として受け止められるであろう。アジア的生産様式をめぐる議論は、今後もしばらくは、このような錯綜や感情のもつれあいから逃れることはできないであろう。

 例として戦前の日本資本主義論争(封建論争)を挙げよう。互いに激論を展開した両派、講座派も労農派も発展論的な視角をとっていた。だが、労農派を停滞論だと批判するものはいないであろう。誰も、戦前日本の農村にアジア的な特殊性を見いだした猪俣津南雄を停滞論とは批判しないだろう(『農村問題入門』1937年)。筆者は、日本資本主義の停滞的側面を強調した講座派理論は、ある意味で「日本的停滞論」と呼ぶことができると考えているが、それは多分に比喩的な意味において(アジア的停滞論の連想から)そうなのであり、それが何か、アジア的停滞論に向けられたような非難に値するとは考えてはいない。だが、もう少し詳しく言及すれば、講座派にとって、この日本的停滞は、アジアに通底するものであった。より正確にいえば、彼らは日本にも他のアジア諸国にも、同じようにアジア的生産様式の歴史的な影響を見出していた。ただ、彼らは、そのことが、歴史的進歩を阻害するものだとは考えていなかった。むしろ、後進的であるがゆえに、アジアに革命が必要なのだと考えていたのだ。
 しかし、そこに危うさも存在する。停滞を強調する講座派理論のアジアへの適用は、遅れたアジアもしくはアジアの特定の国家や民族を、進んだ列強が統治し、その植民統治により近代化をはかる、とする植民主義者に格好の理論的手がかりを与えることになった。なにしろ、講座派の著作には停滞のエレメント、停滞のレトリックが溢れており、それらのエレメントを他のアジア諸国に見出したり、或いは同じレトリックを適用すれば、たやすくアジア的停滞論が成立しえた。講座派の亜流、大上末広に代表される満鉄マルクス主義者の登場である。時期はずれるが、戦時中の森谷克己や平野義太郎のアジア的停滞論も、アジア的生産様式批判の立場に立つ秋沢修二のそれも、講座派理論のアジアへの適用という点において、同一の地平にある。
 さらにもう少し例をあげて、マルクス主義と停滞論の関わりを検証してみよう。最初の例は、インドのカースト制度にかかわるものであり、メノン(Dilip M.Menon)があげるE.M.Sナンブーディリパッド(E.M.S.Namboodiripad)の例である。ナンブーディリパッドはインドを代表するマルクス主義者の一人であり、1957年、選挙によりケララに樹立された共産党政権の首班であり、1964年のインド共産党の穏健派と急進派への分裂以後は、インド共産党(左派、CPIM)の指導者として長く活躍している(ケララのCPIMは、民主集中制を放棄したといわれており--春日匠, http://skasuga.talktank.net/diary/archives/000231.html--興味深い存在である)。単にEMSとかE.M.Sとイニシヤルだけで呼ばれることも多い。ケララの支配カーストであるブラフミン(nambudiri)の出自である。メノンは『洞察の暗さ』(The Blindness of Insight, 2006) のなかで、E.M.S のブラフミン的歴史意識を取り上げ、E.M.Sがその著作のなかで、北方よりインド南部に進出したブラフミンが、彼らが持っていた物質的関係における先進性により、インド南部(ケララ地方)においても支配的地位を占めたことを主張したことを捉え、その主張のイデオロギー性を批判している。E.M.Sがブラフミンの先進性の証拠として持ち出したのは、ケララの母系的な家族制度に対するのブラフミンの父系的な家族制度であった。さらに、カースト制度が、職業を世襲化し、そのスキルを熟練させ、生産を組織化し、無階級社会の停滞性を打破し、階級社会の生産様式へと発展させた、とも述べている。これらは、北方のアーリア系に対し、南部のドラヴィダ系文化の再興をはかろうとする運動が、ブラフミンと非ブラフミンの対立を煽る結果となっていることに対する、E.M.Sの危機意識の表れなのだろうが、支配カースト、ブラフミンのイデオロギーとして機能しているという批判は、やはり当たっている。
 次の例は、イスラエルとアラブの抗争に関わるものである。ブライアン・S・ターナー『イスラム社会学とマルキシズム:オリエンタリズムの終焉』(第三書館、1983年)--Marx and the End of Orientalism, 1978 の翻訳--によれば、イスラエルのマルクス主義者アヴィネリは、イスラエル人のパレスチナ植民は、アラブ社会に深刻な社会的、経済的変革を惹起したと主張した。なぜなら、イスラエル人はパレスチナに近代的なインフラストラクチャ―及び政治的な民主化をもたらしたからである、と。アヴィネリが依拠したのも、やはりアジア的生産様式論であり、まさしく「アラブ的停滞論」であった。
 それと類似した、支配的民族の異民族支配を正当化するマルクス主義的言説は、社会主義の祖国ソ連の歴史のいたるところに存在する。例はいくらでも見つかるであろうが、ここでは、山内昌之『神軍 緑軍 赤軍:イスラーム・ナショナリズム・社会主義』(ちくま文芸文庫、1996年)に依る。筆者にとって、山内昌之は、イスラム世界及びロシアをも違和感なく包み込んだ世界史を語ることができる数少ない存在である。山内は「一九四〇年代半ばから最近にいたるまで、ソ連の歴史学界では暗黙のうちに、一五五二年のカザン・ハーン国の吸収は、一九一七年の十月革命以前のタタール史におきた最も重要な事件と考えられてきた。併合このかた、『タタール人民は進歩的な方向に進んでいたロシア国家のなかに組みこまれ、大ロシア人の運命と自らを直接に結びつけた』からである」(前掲書361頁)と述べ、さらにトルコ系諸族については「トルキスタンのムスリム地元民出身で、ロシアによるトルキスタン征服に『進歩』の傾向を見ようとしなかった歴史家は、民族主義的偏向として厳しく非難された。しかし、もしロシア帝国のカザフスタンやトルキスタン支配がその土地を『進歩』に導いたというなら、欧米諸国や日本が支配した国々も植民地化のおかげで『進歩』を達成したという公理にも疑問の余地がないことになる」(前掲書、75-78頁)と記している。
 同じような例は、中国の歴史にも溢れている。たとえば、明清期の「回土帰流」について、中国の著者たちはおしなべて進歩的なものとして肯定する。なぜなら、土着の民の首長に官職を与え間接統治する土司制度の下において、土司の支配地域は土地私有制も存在しない遅れた社会だからである。土司支配地域の土地は土司の所有であり、土地私有は存在しない。もし、漢族が進出し借金のかたに土地を奪ったとしても、それは漢族の私有地にはならない。漢族が進出すればするほど、漢族が実質的に所有する土地は増える。それとともに、土司層を中心とする少数民族と漢族の矛盾も深まる。漢族の背後に、王朝の出先機関の後押しが透けて見える。危機を感じた土司層が蜂起するが、大体は、短期間のうちに王朝の圧倒的武力によって鎮圧され、土司、土官を通した間接支配から、中央から派遣された官吏による直接支配に移行する。その過程は、たとえ、少数民族側の多大な犠牲や痛苦をともなったとしても一つの進歩である。なぜなら、土地所有制がプリミティブな共有制や土司所有制から私有制へと転換され、進んだ漢族の生産力と生産関係が持ち込まれるからである。そのような見方に対しては、最大の進歩とは、少数民族の消滅と漢族の全面進出ではないかと、議論をふっかけたくなる。そうなれば、その地域の生産力と生産関係の全面的な更新が招来されるからである。
 中国史における少数民族の社会構成は、奴隷制段階にあるとか封建領主制段階にあると説明されることが多い。そのような規定は、不可避的に、進んだ漢族の少数民族支配を肯定するものとなる。なぜなら、漢族は戦国時代以降、奴隷制から封建制に移行しており、中国史においてつねに進歩を代表してきたからである。イ族やチベット族の奴隷制に対し漢族の封建制は常に進歩を代表していた。西南の土司支配地域の封建領主制に対しては、漢族の支配王朝は、それより進歩した封建地主制段階にあった。このように、マルクス主義的言説においては、中国本土の支配王朝は、周辺諸民族に対し、上記のような規定自体において、つねに支配の正当性を主張しえたのであった。

 1920年代後半から30年代にかけての中国における、マルクス主義をめぐる諸論争、中国社会性質論戦、中国社会史論戦、中国農村社会性質論戦を通じて、中共系の理論家たちは、つねに、中国社会がすでに資本主義化しているとの主張に反対し続けた。彼らは、「半植民地・半封建」綱領に依拠しつつ、中国社会の後進性を主張してやまなかった。それが、マルクス主義的現状分析として正しかったか、誤っていたかについては、ここでは言及しない。ただ言えることは、当時の政治的経済的状況からみて、革命理論として、政権奪取の手段として、有効だったということである。後進性の強調は、大衆のルサンチマンを掻き立てるためには極めて有効であった。大衆の敵意のターゲットは明確でなければならなかった。「半植民地・半封建」規定は、打倒の対象を明確にした。帝国主義列強およびその走狗買弁資本、そして軍閥および地主階級である。そして、それらは国民党に集約されるものであった。敵として具体的、かつ相応しい打倒対象であった。もし、アジア的生産様式論にもとづく綱領を作成するとすれば、最大の敵は専制国家、具体的には皇帝および官僚機構であった。それらは、分裂期である中華民国時代においては、明確な打倒の対象のイメージを結ばないものばかりである。
 状況の後進性を強調する点において、中共系理論家たちは、講座派に似たレトリックを使った。だが、政権奪取後、その後進性の強調を、主要民族が、少数民族に向けて使用した時、まったく別の意味を持つことになった。支配そして抑圧の正当化である。
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