中国的なるものを考える(電子版第34回・通算第77回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第34号 2009.12.19 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式論と中国 (その一)
何幹之と『中国社会史論戦』
 二年前、「中国におけるアジア的生産様式論争」を書くつもりで、読書を始めたのだが、あえなく挫折したことについては、すでに述べた(電子礫『蒼蒼』第18号,2007.7.20)。鄭学稼『社会史論戦簡史』(台湾, 1978)から読み始めたのが間違いらしく、ひどくつまらなかった。また、『読書雑誌』「中国社会史論戦専号」(Ⅰ~Ⅳ)をパラパラめくっても、到底時間を費やして、読むに足りうるものがあるとも思えなかった。何幹之『中国社会史論戦』から始めればよかったと後悔したことを覚えている。
 2003年からの在外研究までは、日本資本主義論争や日本におけるアジア的生産様式論争への強い関心にもかかわらず、中華民国史(とくに1930年代の歴史)が筆者の主要な領域であったし、また読書の大半もその類のもので占められていた。華北農村慣行調査や各省農村調査(行政院農村復興委員会編)に代表される膨大な中国農村社会論に関する文献を読みあさりつつ、そこから何か新しいものが書けるのではないかとつねに考えていた。だが、二年間の雲南滞在とその期間中のタイ・ベトナム・ラオス・ミャンマー旅行は、筆者の関心を大きく変えてしまった。中国へのこだわり方に変化が訪れ、かわってその他の世界に対する関心が増してきた。
 新たな関心の方向は二つあった。一つは雲南及び雲南人についてである。それは、ひいては同じ感性をもった照葉樹林文化地帯に住む人々全体に対する関心につながる。もう一つは、自分が生きた時代において--自分の前半生において--、もっとも大きな思想的影響を与えていたマルクス主義に対する関心であった。いろいろ迷ったが、結局後者を選ぶことにした。それは、たぶん、帰国後ほぼまもなく、日本語や中国語で読書することができなくなったということが関係している(幸せにも現在は日本語でも中国語でもふつうに読書できるようになっている)。やむをえず英書を中心に読書をするはめになった。ドイツ語やフランス語を学ぼうと思ったのもその頃からで、まず覚えなければならない語彙数の多いドイツ語から始めることにした。
 したがって二年前、鄭学稼『社会史論戦簡史』を読み始めた頃は、1930年代の中国についての関心や記憶がもっとも薄れていた時期でもあった。たぶん、そのことが、『読書雑誌』「中国社会史論戦専号」(Ⅰ~Ⅳ)をめくっても、強く惹かれなかった理由であろう。以前ならば、『読書雑誌』の同人や寄稿者たち、一人一人に関心があり、その時々の主張の、理論的レベルがどうあれ、その内容に興味を感じたはずであった。
 「中国におけるアジア的生産様式論争」を書こうと思ったのは、それが初めてではない。所属大学の紀要(『明治大学教養論集』)に、日本におけるアジア的生産様式論争について数本書いた後、ただちに、中国における論争について書くつもりであったが、日本における論争史の量が16万字に膨れ上がり、それらを書き終えたのが、在外研究で雲南に赴く直前となってしまい、結局、書く機会を逃してしまった。
 二年前、「アジア的生産様式物語」と題して、このシリーズを書き始めたとき、たとえ後回しになっても中国における論争については、書くつもりであった。どのようなものであれ、自分にとっても、また今後、このような領域--マルクス主義ヒストリオグラフィー--を目指される方にとっても、新たな手懸りになるようなものを何か書いておかなければと考えている。ただ、もうしわけないことだが、あらかじめまとまったものとして、何か書くものが最初から予定されているわけではない。改めて、1930年代以降の、中国におけるアジア的生産様式論に関わる著書を読みつつ、その感想を述べることから始めたい。
 そのような意味において、何幹之『中国社会史論戦』(1937年)は格好の書であるように思われる。おそらく、以前に一、二度目を通しているはずなのだが、今回、再度通読して、これほどまでに面白い書であったのかと、認識を新たにした。本書は1930年代の中国におけるアジア的生産様式、奴隷制、封建制に関わる論争を総括的に論評したといえるものであるが、その実際の紙幅は、おおまかな印象をいえば、概論的部分及びソ連の歴史理論の紹介が三分の一、日本におけるアジア的生産様式及び奴隷制に関する論争の紹介が三分の一、中国における諸論争の紹介が三分の一、となっている。また、その中国の諸論争の紹介の部分も、1920年代末から1936年前後の時期にわたっており、我々が想像するような、『読書雑誌』「中国社会史論戦専号」(Ⅰ~Ⅳ)の時期--すなわち1932-1933年--に限られているわけではない。それは、何幹之の同時期の著作『中国社会性質論戦』(1937年)が、中国社会性質論戦期(1920年代末から1930年代初頭)にこだわらずに、1920年代末から1937年(すなわち著作発表直前)までの時期を扱っているのと同様である。それ故、本書(『中国社会史論戦』)を、『読書雑誌』「中国社会史論戦専号」(Ⅰ~Ⅳ)を中心とした、本来の意味での中国社会史論戦を扱った著作だと解して読むと、ひどく期待外れに終わることになる。
 本書を読み始め、すぐに“読みやすい”という印象を受けた。これには少し説明が要る。いずれの時期であれ、著者もしくは評者が論争の当事者であったり、論争の一方の支持者であったりすると、論争の公平な批評や議論は難しくなる。たとえば何幹之『中国社会性質論戦』は、ややトーンが抑えられているとはいえ、王学文、潘東周ら新思潮派の主張への共感ぶりと、その論敵であった任曙や巌霊峯らの主張に対する「機械派」的観点であるとの酷評や痛罵から、何幹之の一方への強い加担は明白であった。同様な加担ぶりは新思潮派の流れを汲む銭俊瑞、薛暮橋ら「中国農村」派に向けられ、そのライバルであった王宜昌ら「中国経済」派に対しては、巌霊峯、任曙らの観点を継承していると辛辣に批判している。このような一方への加担とその論敵への論難、具体的には新思潮派や中国農村派への加担と動力派や中国経済派への非難は、何幹之が一貫して中共系知識人であり、かつ1934年夏からは中共党員であったことを考えれば当然であった。論争の中心が、一貫して、中国社会の現状分析にあり、中国が、全体として、すでに資本主義化されているのかどうかをめぐって行われていたからである。中共系知識人は、党員であれ、そのシンパであれ、中国は、全体としては、いまだ資本主義化されておらず、その現状を、半植民地・半封建社会であると規定していた。それゆえ、革命の中心課題は反帝・反封建闘争にあると主張していた。それに対し、反中共系、非中共系知識人の、中国はすでに資本主義化されており、それゆえ、その革命は社会主義革命でなければならない、との主張が、対立していた。ことは綱領レベルの問題であり、思想の正しさを競うものどうしにとっては、絶対に譲れないものであった(なお、これら反中共系、非中共系知識人は、一般に、自称他称を含め、トロツキストと呼ばれることが多いが、つねに再吟味が必要である)。
 それに対し、中国社会史論戦はかなり趣を異にしている。社会性質論戦やその後の農村社会性質論戦とは違い、社会史論戦は中国の現状をめぐって行われたのではなかった。論点は近代以前の社会構成に関わるもの、あるいは歴史理論に関わるものであった。つまり社会史論戦は政治綱領をめぐって行われたのでもなく、また、互いに非難しあう論客の間に、社会性質論戦のような何かどうしても越え難い溝があったのでもなかった。もちろん、社会性質論戦と社会史論戦の間には強い繋がりがあり、そのようなコンテキストを無視した結びつきが生じたり、あるいは分離や阻隔が生じたのでもなかった。だが、社会史論戦が、中間派ともいうべき『読書雑誌』を中心として戦われたこと、かつ中共系知識人が、トロツキスト系雑誌『動力』派の知識人に対してとったような、むき出しの敵意を『読書雑誌』に集う知識人には示さなかったことで、論客たちが、真っ二つの陣営に分かれるなどということはなかった。そのほか、外部に対しては一枚岩と思われている、同じ中共系の論客の間ですら、多くの点において見解の相違があった。本来の意味での社会史論戦期とはずれるが、たとえば、1930年代を代表するマルクス史家、郭沫若と呂振羽の間には、奴隷制や封建制の理解や時期において、明確な意見の違いがあった。
 中共系の何幹之が『中国社会史論戦』の執筆において、『中国社会性質論戦』とは異なった比較的自由なスタンスをとりえたのも、以上のような事情からであった。おかげで、李季や胡秋原、陶希聖らに対する批判も--本人たちにとっては単なる非難にすぎないとしても--、我々の目には、意外に穏やかなものに映る。これが、さきほど述べた“読みやすさ”につながっている。中共系の歴史家や理論家たちが、近代以前の論点について、ある統一した見解を示さなければならなくなるのは、1950年代以降のことであった。すなわち、統一政権を奪取した中国共産党が歴史を教義として国民に教える必要が出てからのことであった。それ以前において、中共系の歴史家たちは比較的自由に自分の見解を発表したり、著述することが可能であった。
 ということは、逆に、著者はそれぞれ、己の見解を、マルクス主義的な原理論に則り、理論だてて表明しなければならないということでもあった。何幹之が『中国社会史論戦』の概論的な部分において、ソ連における歴史理論の紹介に多くの紙幅を割かなければならなかったのも、そのためであった。コヴァレフやライハルトが最高峰たるソ連史学の代表であった。そしてその原理論或るいは歴史理論から、それぞれの地域に沿ったより具体的な歴史理論や優れた歴史理解をつむぎ出しつつあるものとして紹介されたのが、日本におけるアジア的生産様式論争及び奴隷制論争であった。その日本における論争の主役は、何幹之にとって、相川春喜、早川二郎、そして秋沢修二であった。何幹之は上記三人のそれぞれの議論、批判と反批判の展開を、じつに克明にあとづけている。だが、不思議なことに、それにもかかわらず、彼らの同僚であり、かつライバルであった渡部義通の論文や著作についての言及や紹介が抜け落ちている(名前については一度言及されている)。
 アジア的生産様式論争における何幹之のお気に入りは、早川二郎の「貢納制」論であった。早川は、1931年レニングラード討論の翻訳(『アジア的生産様式に就いて』1933年)を通じて、以後、独立した生産様式としてのアジア的生産様式論の主張は不可能であることを知ったと思われる。そこから、原始社会から階級社会への過渡期の社会構成としてのアジア的生産様式を構想するようになる。具体的には、それは貢納制として理解されるにいたる。貢納制はアジア的社会における灌漑・治水などの大規模公共事業や国家的土地所有と親和的であり、アジア的生産様式論のかなめとして、うまく機能する概念であった。つまり、アジア的生産様式論者であった早川は、貢納制の提唱によって、独立した生産様式としての主張を回避しつつ、アジア的生産様式概念の実質をまもろうとしたのだと考えられる。おそらく、アジア的社会の特質を理解しつつも、世界史における普遍的発展段階論を支持しようとしていた何幹之には、早川貢納制説は、もっとも受け入れやすいものであったと思われる。
 意外なのは、日本におけるアジア的生産様式論を四つのグループに分けた何幹之が、早川二郎と秋沢修二を同じグループとしたことである。たしかに、コヴァレフ説到来前まで、早川と秋沢は類似した見解を述べていた。特に、1934年末には、秋沢が日本古代における国家封建主義を唱えたとき、彼らはもっとも接近した立場にあった。だが、その後、奴隷制を人類史における普遍的な発展段階として、最初の階級社会の社会構成として位置づけるコヴァレフ説が到来し、秋沢はコヴァレフ説を受容し、日本における奴隷制的な社会構成の成立を唱えるようになる。その最大の論敵こそ、奴隷制を普遍的な社会構成や生産様式としては認めようとしない早川二郎であった。何幹之は言及していないが、この時期(1935年以降)、ようやく渡部義通も彼らの論争に加わるようになる。彼もまた、日本における奴隷制の成立を認めていた。窮地に立たされた早川であったが、ウクラード(経済制度)としての奴隷制の成立までは認めても、社会構成としての奴隷制の成立については最後まで受け入れようとはしなかった。1936年に発表された早川の『古代社会史』は、粘りぬいた早川の理論的な集大成ともいうべきものであり、過渡期のアジア的生産様式としての貢納制より、アジア的社会における封建制の成立を展望しており、何幹之により、国際的なアジア的生産様式論争におけるもっとも貴重な(最可宝貴的)結論の一つだと讃えられている。
 このようなアジア的生産様式論争の理解から、何幹之は早川二郎に傾倒していたように思われる。だが、結論を出すにはまだ早い。アジア的生産様式論争に続いて、何幹之は奴隷制論争を俎上にのせる。再び、ソ連における議論、日本や中国における議論を紹介しつつ、焦点はまた早川・秋沢論争にもどっていく。コヴァレフ以後の普遍的発展段階としての奴隷制説に立つ秋沢と、古典古代的奴隷制以外に社会構成としての奴隷制は存在しえないとする早川が対照され、何幹之は早川の東洋における奴隷制の欠如説を批判し、秋沢に軍配をあげる。何幹之の秋沢理論に対する関心はけっして一面的なものではない。彼は秋沢修二「奴隷制の日本的形態」(1936年)を詳細に追いつつ、秋沢が、日本古代における奴婢制の重要さに注目し、奴婢制の奴隷制としての本質が部民制の発展を規定し、奴隷制の補充ならしめたとする、独特な日本奴隷制論をつくりあげたことをあとづけている。さらに、秋沢の大化改新に関する議論から、大化改新は班田制を施行することによって、土地私有を全国に及ぼし、共同体的関係を崩壊させたとし、共同体的所有を私有に転換させ、私有財産制度を築くための、政治改革運動であったと述べている。前者の視点を、秋沢は「奴婢制と部民制の連関=結合」と名づけたが、それは渡部義通による「奴婢制と部民制の連関=統一」との再定義を経て、その後のマルクス主義古代史学における奴隷制論のキー・コンセプトの一つとなる。何幹之は1937年の時点において、その理論的核心の把握においてあやまたなかったというべきであろう。なお、後者は大化改新(班田制)=「土地私有確立のための槓桿」説であるが、それに対し渡部義通は「“土地国有”下における古代貴族の集団所有」説を唱える。ここに、早川「国家的土地所有」説、秋沢「土地私有への槓桿」説、渡部「集団的所有」説が鼎立することになる。石母田正ら戦後の古代史学に受け継がれたのは、もちろん渡部説であった。
 話を何幹之に戻せば、重要なことは彼が早川二郎、秋沢修二のいずれを高く評価したかというようなことではない。何幹之がこれほどまでに、日本の若いマルクス史家の論争に深入りしたのは、その論争が、マルクス主義者や社会主義者の論争にありがちな非難の応酬や悪罵の投げつけあいではなく、批判と反批判、自己批判と批判を受容したうえでの新たな理論的地平の獲得、そしてまたその地平での新たな相互批判の展開として現れ、そのような論争のプロセスに彼が魅了されたからにほかならない。(続く)
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