中国的なるものを考える(電子版第35回・通算第78回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第35号 2010.02.09 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

再び、秋沢修二・早川二郎にもどり、そして渡部義通・相川春喜におよぶ
 前回、せっかくアジア的生産様式論争物語の舞台が中国に移ったにもかかわらず、今回、舞台は再び日本に戻る。もう一回だけ、日本の話にお付き合い願いたい。
 何幹之『中国社会史論戦』が、まるで戦前マルクス主義日本古代史論争に関する書物のようであることは、前回述べたとおりである。日本についての記述は、おそらく三分の一ぐらいかと思われる。だが、彼が「中国社会史論戦」というタイトルにもかかわらず、そのもっとも質の高い議論を、戦前日本のマルクス史家たちの古代史論争に関して展開していることは、間違いない。実に不思議というほかはない。タイトルから同書を選んだ人々は、その内容に、羊頭狗肉の感がぬぐえなかったのではないかと思われる。あるいは、1930年代前半から中葉にかけての、中国のマルクス史家の実力とは、その程度のものか、と思ったかもしれない。
 何幹之を読みながら、そのほか、いろいろな疑問が湧いてきた。まず、何故、日本古代史論争の主役の一人として、渡部義通の名前が出てこないのだろうか。確かに渡部義通には言及がある。だが、それは論争の主役、一方の雄としてではなく、ついでに言及されているにすぎない。しかも、渡部義雄と誤記されている。戦前マルクス史家の古代史論争は、主にアジア的生産様式論争及び奴隷制論争として展開された。とくに、奴隷制論争に関して、論争を主導したのは一般には渡部義通と理解されており、その役割の重要性に疑いの余地はない。
 1930年代中葉、唯物論研究会東洋史部会に結集した渡部義通、早川二郎、伊豆公夫、三沢章らによって、1936年末、『日本歴史教程』第一冊が刊行された。また、渡部、伊豆、三沢、秋沢修二を加えて、1937年6月、同第二冊が刊行された。第一冊は、原始社会の崩壊までを扱い、第二冊は古墳時代から大化改新までを扱っている。第一冊に参加した早川が第二冊執筆に参加しなかったのは、奴隷制をめぐる激論にあった。議論の大勢は、古代奴隷制の確立に向かうのだが、早川は最後まで、奴隷制的な社会構成が日本に成立したことを認めることはなかった。『教程』は論文集ではなく、統一した歴史観にもとづく通史であった。理論的な理解の相違を越えて執筆に加わることは不可能であった。
 渡部らは『教程』第三冊を刊行する予定であったが、時局はそれを許さなかった。渡部は、将来における『教程』第三冊刊行を射程に入れ、1939年春頃、一回り年若い、石母田正、藤間生大、松本新八郎と、共同研究を開始した。奴隷制から封建制への転換が追究されるべき共通の課題であった。1940年、ついに渡部も検挙され、残された石母田、藤間、松本は、戦時下から戦後にかけ、古代末期から中世にかけての論文や著書を次々に発表していく。周知のごとく、彼らによって、戦後日本のマルクス主義史学が牽引されることになる。
 戦前のアジア的論争や奴隷制論争の主役たちのうち、まず早川二郎が、1937年11月秩父山中において不慮の死を遂げており、秋沢修二、森谷克己、相川春喜らは、戦時下において、それぞれ転向している。一人渡部が残ったということになる。しかも、渡部は戦後、主として政治活動(1949年、日本共産党より衆議院議員に当選)に時間をとられ、歴史研究において見るべきものを発表していない。戦前から戦後にかけてマルクス主義古代史学が、渡部義通から石母田正らへ継承されたと、我々が連想するのは、以上のような事実からである。
 その渡部が、どうして、1937年出版の何幹之『中国社会史論戦』において、論争の主役の一人として登場しないのだろうか。それはおそらく、渡部の主要著作がいずれも1936年以降に書かれていることと関係があろう。何幹之(1906~1969)の最初の日本滞在は、1929年初から1931年九一八事変(満州事変)まで、二度目の滞在は、1935年春から同年末までである。とくに二度目の滞在時に、理論の研鑽に努めた模様であり、『歴史科学』や『経済評論』といった左翼雑誌を通じて、早川二郎、相川春喜、秋沢修二の著作に親しんだと思われる。渡部義通は当時すでに著作を著わしていたとはいえ、彼が頭角を現すのは、『教程』執筆のための研究グループを率いるようになってからであった。原秀三郎は、渡部義通『日本古代社会』及び早川二郎『古代社会史』、さらに彼ら『教程』執筆陣による論文集『日本古代史の基礎問題』、そして『日本歴史教程』第一冊が出版された1936年を、日本における科学的原始・古代史学成立の年、と呼んでいる(『日本原始共産制社会と国家の起源』解説、校倉書房、1972年)。
 何幹之は、1935年末日本から帰国し、南京の中学で数ヶ月教えた後、1936年春、上海に出て、周揚を通して、党との連絡を回復している。すでに始まった抗日救国運動の流れのなかで、何幹之は次々に社会科学的著作を発表する。1936年6月から1937年7月のほぼ一年間に、『中国社会性質論戦』、『中国社会史論戦』を含め7冊の専著を出版し、30数本の論文を書いたといわれる(『中共党史人物伝』第21巻)。『中国社会史論戦』には、相川『歴史科学の方法論』(1935年7月)や早川『古代社会史』(1936年5月)が言及されているにもかかわらず、渡部『日本古代社会』(1936年8月)や『教程』執筆陣による論文集『日本古代史の基礎問題』への言及がないのは、単純に、それらが入手できなかったからであると思われる。上海には内山書店を初め、日本の書籍を扱う書店が幾つかあったはずであるが、日本で出版されたものが必ず入手できたとはかぎらなかった、ということであろう。『中国社会史論戦』における日本語文献の引用は、ほとんどが、1933年から1935年までのものであり、36年以降は早川『古代社会史』及び秋沢「奴隷制の日本的形態」(『経済評論』1936年1月号)、ガイムク編『東洋封建制史論』を含めて、幾つもない。もし、1935年二回目の日本滞在の折に、何幹之が、渡部義通について、論争の主役としての鮮明なイメージを得ていたならば、おそらく可能な限り手を尽くして入手に努めたと思われる。おそらく、渡部は当時、そのような印象すらも、何幹之に与えていなかったと考えるのが妥当な推測であろう。
 だが、問題はこれだけでは終わらない。古代奴隷制論争のおける渡部と秋沢の評価をめぐる問題がまだ残っている。大化以前であれ、大化以後であれ、日本古代に奴隷(奴婢の類)がそれほど多くはなかったという状況を踏まえ、如何にそれを奴隷社会と規定するのか、というのが、当時の早川二郎以外のマルクス史家の課題であった。もはや今日、その論理的逼迫性を理解することは難しい。だが、彼らが信じていたのは、世界史の普遍的な法則であり、それゆえ「世界をつらぬく歴史の法則がこの国だけに成立しなかったとは考ええないことであった」(渡部義通「改版に際して」『日本古代社会』1947年版所収)。彼らが信じてやまないマルクス主義の歴史法則に、奴隷制が組み込まれている以上、奴隷制社会あるいは奴隷制的社会構成を日本古代史のうえに是が非でも見つけ出さなければならかった。前回述べた秋沢修二による「奴婢制と部民制の連関=結合」とは、奴婢制に絡めて部民制をも奴隷制概念に包括してしまおうというものであった。渡部義通は『日本古代社会』において、秋沢と同じ「連関=結合」を用いていたが、その後「奴婢制と部民制の連関=統一」を用いるようになる。これらを、理論的創造とか理論的工夫と呼ぶか、それとも牽強付会や理論的こじつけとみなすかは、立場の違いによる。
 原秀三郎は、前掲書(解説)において、このような日本古代奴隷制論を「この見解は渡部義通氏の独創に帰せられるべきもの」と評価し、さらに『日本古代社会』について、「私は、本書こそ戦前における日本原始・古代史研究の最高の理論的達成を示すものであり、しかも今日なお社会構成論としてはこれをこえるものが出現していないという点においてまさに名著とよぶにふさわしいと考える」と賛辞を送っている。それに対し、川口勝康「日本マルクス主義古代史学研究史序説--戦前編」(『原始古代社会研究』2、校倉書房、1975年)は、この渡部の古代奴隷制論の骨格は、相川春喜『歴史科学の方法論』における「奴婢制による部民制の牽引」に淵源し、秋沢修二による理論化を経て、渡部義通によって完成されたものであると批判した。間違いなく、川口が正しい。ただ、相川の貢献をあまり大きく捉えることはできない。せいぜい、ヒントになったというぐらいのところであろう。それに比べ、秋沢の連関=結合論と渡部の連関=統一論との関係は微妙である。
 実は、筆者も、数年前、渡部と秋沢の古代奴隷制論を読み比べたことがある。その時、躊躇なく軍配を渡部にあげている。秋沢の本質性、構造的基底性といった、過度な概念への寄りかかりよりも、渡部の諸矛盾の連鎖による社会の「自己運動」に、動的なもの、ダイナミズムを感じたからであり、さらに具体的な歴史叙述において渡部の方がはるかに洗練されていると考えたからである。だが、もし、先ほどの「理論的創造」に絞るならば、その差はほとんどなくなってしまうだろう。ということは、先に言った方にオリジナリティがある、ということである。
 問題は、原も川口も、秋沢が何者であるかを知っているということから来ている。つまり、秋沢が『支那社会構成』(1939年)を書いたこと、戦時下において転向し、戦後、そのアジア的停滞論が批判されたこと、さらには戦後、共産党ではなく、社会党(社会主義協会)に参加したことを、原も川口も当然知って書いている。戦前の観点からいえば、秋沢は講座派から労農派に転向したのである。それに対し、渡部は石母田正を通して、戦後古代史学に大きな影響を及ぼしたが、原も川口のその理論的な系譜に立っている。秋沢への評価は初めから否定的なもの、限定されたものとならざるをえない。
 元々、新左翼出自の一人として、筆者は、マルクス主義的歴史観や歴史理論に関して、渡部=石母田らの系譜に従う人々とは、異なった認識や感覚を持っている。だが、中国を思想的にもっとも大きな課題としてきた人間として、停滞論批判は、その思想的前提であった。それゆえ、日本古代奴隷制論をめぐる渡部と秋沢の比較において、つねに公平に振舞ったのかと問われれば、答えにつまってしまう。だが、答えにつまるようになったのは、つい最近のことである。具体的には何幹之『中国社会史論戦』を再読してからである。何幹之が原や川口、そして筆者らと異なるのは、彼が1930年代中葉の秋沢しか知らないということである。つまり、我々がもつ過去の知識--やむをえざる予断や偏見を含む--から自由であった。上述したように渡部については、何幹之はほとんど印象をもっていない。それゆえ、彼も渡部と秋沢を十分に比較しえなかったということになる。だが、それは原や川口と、あるいは我々とまったく異なった理由からである。渡部の論争の主役としての成長の時期が遅かったために、何幹之に鮮明なイメージを与えるまでにいたらなかったという事情による。それでも、『中国社会史論戦』の奴隷制論争についての記述が、この著作のなかで精彩を放っているのは、秋沢・早川による熾烈な論争のおかげなのである。歴史叙述全体を比較して渡部・秋沢の優劣をつけることは今も可能である。その点で、筆者は、従来の考え方を改めるつもりはない。だが、当時の理論的革新において、秋沢にオリジナリティがあった、ということは強調しておかなければならない。今回の再読を通じて、何幹之が教えてくれたことである。
 さて、石母田正の名前が出たついでに、その後の、石母田と渡部の関係について、少し言及したい。石母田は偉大なマルクス史家だが、同時に、アジア的生産様式論キラーの一人でもあった。たとえば、「危機における歴史学の課題--郭沫若氏のアピールによせて--」(1951年10月)のなかで、とくに戦前日本のアジア的生産様式論に言及し、「それは論争が、そもそもこの問題が提出された地盤である中国革命の生きた課題と現実から遊離してたんなる学問上の論議に転化されればされるほど、--事実そうなりましたが--一つの特徴的な傾向が出てきたのです。それはいちじるしい観念的な傾向、スコラ的な論議です。インドから中国・蒙古の高原を経て日本にいたる広大なアジアが、原始、古代、中世にわたって、論者の掌中で自由にされ、あらゆる範疇や概念が駆使され、実体のない法則が立ててはくつがえされ、あげくの果てにマルクスの典拠の訓詁学的な解釈にさえ堕しはじめました。かんがえ得るあらゆる可能な『理論』が提出されたあと、論争はいつか終わりました。アジアの大地がこれほど軽くなったことはかつてありません。それは軽くなっただけではなく『アジア的停滞性』という呪文のような言葉にしばりつけられました」(『歴史と民族の発見』、東京大学出版会、1952年)と痛罵している。本質的な意味は、このアピール全体を参照して理解されなければならないだろう。だが、上記の一節だけからして、石母田のアジア的生産様式論及び論争参加者への嫌悪は十分に明らかである。
 石母田の日本古代社会=総体的奴隷制説は、実際にはアジア的生産様式論の変種である。とくに、名著のほまれ高い『日本古代国家』(1971年)における総体的奴隷制説(石母田新説)は、アジア的生産様式論そのものである。だが、石母田はアジア的生産様式を決して認めようとはしなかった。その理由は、上記の一節にみられる深い嫌悪であろう。
 それに対し、当時、彼の師と目された渡部義通は、このような石母田正のアジア的生産様式論争及び論争参加者への嫌悪をどのように受け取っていたのであろうか。それを直接示す文献にはまだ出会っていない。だが、1953年、共産党候補の応援活動中に死亡した相川春喜への追悼文「唯研時代の彼」(1953年から1955年の間に書かれたと思われる)のなかで、相川について、「当時、彼は『日本資本主義発達史講座』に関係しており、彼自身の口ぶりでは山田盛太郎によほど傾倒していたようであった。相川はいわゆる『講座派』のすでに赫々たる一論客として『労農派』に対するがくがくの論陣をはっていたし、またそのころからわが進歩的な史壇をにぎわしていた『アジア的生産様式論争』のはながたとして、早川二郎、秋沢修二、森谷克己らの面々と二、三年にわたり火花をちらして切り結んだのであった」(『相川春喜小伝』、1979年)と述べ、さらにアジア的生産様式論争そのものについて、以下のように述べている。「この論争がわが国で展開されたのは、それからさらに二、三年あとになる。けれども、これは決して国際的な『流行』を移入したといったものではなかった。日本の若い歴史家たちがこの論争に大きな関心をもち、それから多大の影響をうけたことはいうまでもないが、それというのも、マルクス主義歴史観を正しく理解して自国の歴史をみなおそうという切実な要求と、わが国社会の旧い『アジア的』特質をあきらかにして、変革のたたかいに役立てたいとねがう若い情熱が、この問題とこうも真剣にとりくませたのである。だからこそ、その論争はただ歴史発展の理論上の問題としてではなく、すぐに日本歴史の課題とむすびつけてとりあげられたし、こうしてまた、わが社会の複雑な構造、とくに古代日本の研究をふかめるのに大きい意義をもったのである」。
 渡部は、1930年代のアジア的生産様式論争には直接参加していない。少なくとも論争の主役ではなかった。論争の主役とは、もちろん早川二郎、相川春喜、森谷克己、秋沢修二であった。戦後まもなく発表した「日本古代社会の世界史的系列--アジア的生産様式論争」(1948年)においても、共産党から離脱したあと発表した 『思想と学問の自伝』(1974年)においても、彼の論争と論争参加者への評価は、上記の視点で一貫している。アジア的生産様式とは何かに関する渡部の理解に変遷はあっても、戦前論争と論争参加者への高い評価に変化はなかった。ましてや、嫌悪があるはずもなかった。
 いったい、石母田は『歴史と民族の発見』におけるアジア的生産様式論争への嫌悪の表明によって、何を言いたかったのであろうか。そのターゲットは何であったのだろうか、あるいは誰であったのだろうか。おおいに気になるところである。
 さて渡部義通は、1964年、いわゆる党員文化人十二名の声明発表により、共産党を除名される。それより以前、離党した石堂清倫『中野重治と社会主義』(勁草書房、1991年)に次のような一文がある。時期は『思想と学問の自伝』を出版した後のことである。「このときお祝いに碁盤を進呈することになり、私が募金係を引き受け多くの人に手紙を出した。渡部の戦前の歴史研究仲間もすすんで醵金したが、石母田正と伊豆公夫だけは拒否しただけでなく、反党的態度の自己批判を要求してきて、のんき者の渡部は目を丸くするという副産物もあった」。党のイデオローグでもあった石母田の一面であろう。
 何幹之『中国社会史論戦』から思わぬところまで来てしまった。それというのも、昨年末から、今年初めにかけて、吉村武彦『日本古代の社会と国家』(岩波書店、1996年)と山尾幸久『日本古代国家と土地所有』(吉川弘文館、2003年)を続けて読んだことがきっかけとなっている。二人はおそらく、歴史理論をめぐる論争にあけくれた戦後マルクス主義史学の最後の世代(理論的世代)なのであろう。吉村は、石母田古代国家論の継承者として、日本古代の社会構成を本来あるべき名称「アジア的生産様式」に戻す役割を引き受けその任務をまっとうしている。それに対し、山尾は、『日本古代国家』以後の石母田古代国家論、古代社会論を真っ向から批判している。600頁に迫る大著であるが、最初から最後まで、石母田新説に対する激烈かつ痛切な批判が延々繰り返されている。最近、感性が鈍くなってきたのか、本を読んでいて感動するということはなかなかないが、同書はその稀な例であった。その内容(特にマルクス『資本制生産に先行する諸形態』の理解)にまったく同意できない部分があるが、彼の必死な石母田批判に、なぜか悲しさや痛ましさまでも感じてしまった。たぶん、その叙述に個人的な情念や怨念をも、直截にぶつけているからであろう。そして、早川、秋沢、渡部らによって繰り広げられた1930年代の古代史論争において、積み残された課題--古代における土地所有を如何に規定するか或いはそれがどのように中世につながっていくか--が、いまだ解決されていないことに、深い感慨を覚えざるをえなかった。
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