中国的なるものを考える(電子版第36回・通算第79回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第36号 2010.04.12 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式論と中国 (その二)
中国社会史論戦--『読書雑誌』の時代
 前回はまた、戦前日本のマルクス主義者の話に戻ってしまった。今度こそと思い、3月下旬以後、ようやく、『読書雑誌』中国社会史論戦専号(Ⅰ~Ⅳ)を読み始めたところである。遠ざかっていた1930年代の中国について、次第に思い出しつつあるので、何とか表題通りのテーマで書いていけそうである。
 まずは春休み中に読んだ書物のなから、二冊、紹介したい。一冊目は、ラインハルト・ケスラー『第三インターナショナルと農民革命:アジア的生産様式論争におけるソヴィエト・マルクス主義の形成』(Reinhart Kössler, Dritte Internationale und Bauernrevolution: Die Herausbildung des sowjetischen Marxismus in der Debatte um die >>asiatische<< Produktionsweise, Campus Verlag, 1982.)である。ソ連における1920年代後期から1930年代初めにかけてのアジア的生産様式論争について、それを詳細に論じた専著がないことが、アジア的生産様式を論じる点において、もっとも不自由するところであり、また遺憾とするところであったが、ケスラーの著作はそれを十分に埋めるものだと思われる。そもそも、アジア的生産様式論争そのものが、1920年代後半における中国革命の敗北を契機とし、それをどう評価し、今後どのような戦略・方針をとるべきかというソ連共産党及びコミンテルン内における革命戦略をめぐるスターリンとトロツキーらの争闘を背景として登場したことはよく知られている。だが、肝心のソ連内の論争について、アジア派、反アジア派を含め、おもな論客の主張、あるいは主要著作についてはかなり翻訳され、論争の流れについてはある程度了解がつくが、それ以上のことについては、ほとんどわからないという状態がながく続いていた。論争はちょうど、スターリン独裁へ向かうプロセスと並行して発生し、その完成から次へのステップ--最終的には大粛清--へと向かう過程において終了 (途絶)した。論争の詳細が不明なのも、そこに原因がある。それゆえ、筆者も、ソ連崩壊後、ロシアから当時の論争の詳細をうかがうことができる新しい資料が発掘されないかぎり、研究の進展は不可能であると思いこんでいたのだが、同書はそのような制限のなかでおこなわれた傑出した著作だといえる。たとえば、付載されている論争参加者略歴一覧には、120人以上が記載されており、その多くは数行(なかには二、三行)ほどの記述であるとはいえ、我々を圧倒するに十分な量である。
 たった今読んだばかりで、「…思われる」(ギャップを埋めるには十分だと思われる)、といった曖昧な書き方をせざるをえないのは、筆者の語学力では、ドイツ語文献はいまだたどたどしくしか読めないからである。しかも、約400頁(本文約300頁)の労作である。ここで、その内容を本格的に論じることなどはとてもできそうもないが、彼が西欧マルクス主義の流れのなかで著述していること、またアジア的生産様式を肯定する立場にたちながらも、マジャール、コキン、パパヤンなどアジア派ばかりでなく、ドゥブロフスキー、ヨールク、ヴォーリン、ゴーデスなど主要なアジア的生産様式否定派の論述についても、それぞれ詳細かつ丁寧に紹介・批評しており、偏った記述をしていないところに好感をもった。また、A・イヴィン(A.Ivin)の中国論の重要性についての指摘や、なにゆえソ連や中国の前資本主義社会に関する論述のなかで、商業資本主義がつねに重要な位置を占め続けたのかについての指摘からも教えられるところが多かったことを記しておく。おそらく、アジア的生産様式論としては、1970年代に出版され、評判を得た、クレイダー『アジア的生産様式』(Lawrence Krader, The Asiatic mode of production, 1975)、M・ソーワー『マルクス主義とアジア的生産様式の問題』(Marian Sawer, Marxism and the question of the Asiatic mode of production ,1977)、メロッティ『マルクスと第三世界』(U.Melotti, Marx and the Third World,1977)などに匹敵する水準の著作であると考えられる。
 二冊目は趙慶河『読書雑誌与中国社会史論戦(一九三一~一九三三)』(稲禾出版社, 台北, 1995)である。前々回述べたように、我々にはとてもおもしろく読めたとしても、何幹之『中国社会史論戦』(1937)は、残念ながら1930年代前半の、特に『読書雑誌』を中心とした中国社会史論戦を概説した書物ではない。それゆえ、1930年代前半の中国社会史論戦を俯瞰したものとしては、A.Dirlik の『革命と歴史:中国におけるマルクス主義ヒストリオグラフィーの諸起源』(Revolution and History : Origins of Marxist Historiography in China,1919-1937, 1978)しかないといってよい。その意味で、今回紹介する趙慶河の著作は、待望の書といってよい。
 因みに『読書雑誌与中国社会史論戦』の章だては以下のようになっている。

緒論
第一章 中国社会史論戦的背景
第二章 十九路軍与読書雑誌的創立
第三章 亜細亜社会的討論
第四章 奴隷社会的討論
第五章 封建社会的討論
第六章 中国社会性質的討論
第七章 農民、土地問題与帝国段階(秦至清)的社会性質
結論  単線社会進化階段論的形成与崩解

 各章とも、表記のテーマに関して、『読書雑誌』中国社会史論戦専号(Ⅰ~Ⅳ)掲載の、主要な提唱者と反対者の論考のまとまった紹介があり、続いてそれについての著者なりの総論と批評が付されており、好便である。
 たとえば、第三章 亜細亜社会的討論は、

第一節 論題的提出
第二節 李季的亜細亜後氏族社会特殊発展模式論
第三節 胡秋原与王宜昌的亜細亜生産方式論
第四節 杜畏之的反亜細亜生産方式論
第五節 季雷的亜細亜生産方式論
第六節 各家総評

となっている(中国語に慣れない方は、“的”を“の”に、“与”を“と”に置き換えていただきたい)。
 第一章から第七章まで、ところどころ違和感のある記述や疑問の部分にぶつかりながらも、大体において、論争の概略を記した著書として、十分に役立つものと評価できると思い、読み進んできた。ところが、最後の結論の部分で、ひどくがっかりしてしまった。そこでいわれている単線社会進化段階論(直線史観)すなわちスターリンの歴史発展の五段階論への批判は、まったく当然のことである。今日、マルクス主義にいまだこだわりをもっている者にとっても、それを批判するのは一種の義務だと思っているほどだからである。また、マルクスやエンゲルスにみられる進化主義的な観点や機械論的な部分を批判することも、おおいにやればよい。だが、批判には批判の仕方があると思う。スターリン主義やマルクス主義の歴史観や歴史理論を批判した著作から、自分に都合の良い部分をやたら集めて、継ぎ接ぎして文章にすれば、それでよいというわけにはいかない。批判は系統的なものでなければならない。リグビー『マルクス主義と歴史』(Rigby, Marxism and History, 1987)は、マルクス主義ヒストリオグラフィーの恰好の入門書であり、またD・マクレラン(David Maclellan)は広松渉も評価した西欧マルクス学の第一人者であるが、それらの著作を、反マルクス主義者やマルクス批判家の著作といっしょくたに引用して、すなわち同じパラグラフのなかでつなぎ合わせて、直線史観や経済決定論批判への論拠にするというのは、議論の仕方として間違っている。おそらく、著者趙慶河は、マルクス主義それ自体が、初めから間違ったものと考えているからであろう。それゆえ、論争参加者のすべてが--後に反共のイデオローグの代表者となる陶希聖でさえ--マルクス主義者であった、もしくはマルクスの歴史理論に強い関心を示す論客であった中国社会史論戦の最終的評価として、積極的なものをほとんどあげえない結果になったのではないか。四百頁以上を読者に読ませておいて、ほとんど積極的な評価を示せないというのは、歴史学や社会科学の論争を扱った著書として、やはり疑問なしとしない。たとえば、ナチズムやスターリニズム自身を対象とした研究がナチズムやスターリニズムを積極的に評価するはずがないのと、同じような心境に著者があったと考えるべきなのであろうか。
 あるいは、筆者はないものねだりをしているのかもしれない。「作者簡介」に、趙慶河は1954年生まれの台湾彰化人であり、国立政治大学歴史研究所卒業とある。おそらく、大学教育(大学院をも含めて)までは反共教育を受けてきたのではないかと思われる。あるいは台湾における先行研究(民国期思想史研究)の影響や、陶希聖のほか、胡秋原や鄭学稼など主要な中国社会史論戦参加者がその後反共に転じ、1949年前後に台湾に移ったということも考慮しなければならないのかもしれない。結論部がもうすこし系統だった重厚な批判であったならば、A.Dirlik(1978)に代る中国社会史論戦の概説書としてまっさきに挙げることができるのに、と思うと、残念である。
 とはいえ、同書により、論争全体の概略を得たがゆえに、民国期からしばらく遠ざかっていた筆者は、ようやく『読書雑誌』中国社会史論戦専号に含まれる個々の論文を、そのまま読むことが可能になったのであり、同書がなければ、また数年前のように、個々の論文にはなじめず、途中で投げだしたかもしれないことを考えると、やはり著者に感謝しなければならない。
 
 前置きがずいぶん長くなったが、アジア的生産様式論からみたばあい、中国社会史論戦において直接関わりがあるのは、①李季「関於中国社会史論戦的貢献与批評」(『読書雑誌』中国社会史論戦専号第二輯所収)、②胡秋原「亜細亜生産方式与専制主義」(第三輯)、③季雷「馬克思的社会形式論」(第四輯)の三論文だけである。
 李季(李季子)はトロツキストだといわれているが、はっきりしたことはわからない。趙慶河によれば、トロツキストとして大した活動をしていなかったせいで、1949年後も、大陸に残り、翻訳などをして一生を終えたらしい。欧州(ドイツ)留学組である。幾つもの言語を習得していたらしく『読書雑誌』専号第三輯巻末の上海亜東図書館出版の広告に、李季子『我的生平』とともに、それぞれフランス語、ドイツ語からだと思われる翻訳書が挙げられているが、驚いたことにそれらとともに俄国(ロシア)恰耶諾夫『社会農業』の名前が見える。おそらくチャヤノフのことであろう。筆者の記憶では、小農の経済理論として、チャヤノフが世界的に知られるようになったのは戦後、それも1970年代以降のことではなかったか思う。どのような経緯から李季がチャヤノフを知るようになったのか、それを翻訳するようになったのか(日本ではすでに、『小農経済の原理』磯辺秀俊・杉野忠夫訳が、昭和2年に出版されている)、まったくうかがい知れないが、ある意味で、これも、当時非中共系左翼のなかでも、もっとも理論的に卓越していたと言われる李季の評判の一端を示すものだと思われる。
 李季の①論文は、長文だが、アジア的生産様式に関わる部分は極めて短い。李季は中国史の時期区分を

殷代(アジア的生産様式)→周代(封建的生産様式)→秦初からアヘン戦争前(先資本主義的生産様式)→アヘン戦争以後(資本主義的生産様式)

として捉えている。李季は中国における最初の階級社会としてアジア的生産様式にもとづく社会をあげ、さらにその後、奴隷社会を経ず封建社会に向かう歴史コースを唱えるが、その理論的根拠に、プレハノフ説をあげている。すなわち、マルクスがモルガン『古代社会』を読んだ後、原始社会崩壊後の、社会発展の図式を、二つのコースで捉えるに至ったとするものである。すなわち、古典古代においては、氏族社会の崩壊後、最初の階級社会として奴隷社会が成立し、それはついで封建社会に向かうが、アジアにおいては、氏族社会の崩壊後、最初の階級社会であるアジア的生産様式にもとづく社会構成が成立し、その後、直接封建社会に移行することになる。そして、歴史発展のコースが二つに分岐した理由として、プレハノフ『マルクス主義の根本問題』は、地理的環境の影響をあげたことから、1920年代後半以後のアジア的生産様式論争においては、プレハノフ=地理的環境決定論のレッテルが貼られることになる。
 李季が殷代をもってアジア的生産様式とする根拠は明確なものではない。実際のところ、当時の研究水準においては、殷代について確かなことはほとんどいえないという状況だったからであろう。かろうじて、土地が国有とされ、専制君主のような存在(盤庚)が想定され、人民から貢納あるいは貢租のようなものが行われていたからという理由であろう。実は、この時期、中国史の時代区分にアジア的生産様式の時期を認めたのは、李季だけであると言ってよい。1930年代の日本においても、独立した社会構成としてアジア的生産様式を認めていたのは相川春喜と平野義太郎だけであったが、早川二郎を筆頭として日本あるいはアジアの歴史にアジア的生産様式の影響を多数が認めていた。その辺に日中の理論家たちの間に違いがあるようにみえる。
 次に、胡秋原のアジア的生産様式理解について検討してみる。日本のアジア的生産様式論争において、ドゥブロフスキー、ヨールク、ゴーデス、そしてコヴァレフといった、有力なアジア的生産様式否定論が登場するたびに、その都度、論客たちは大きな衝撃を受け、ソ連内の否定論のチャンピオンの交替につれ、日本のアジア的生産様式論争も、その論点の変更を強いられたが、中国についても似た現象があったようにみえる。胡秋原はドゥブロフスキーの影響を強く受け、それに則した論陣をはっている。ドゥブロフスキーに依っているということはアジア的生産様式否定論の立場にたっているということである。それでも、この時期のアジア的生産様式論を語る際、胡秋原の名前があがるのは、彼が、アジア的生産様式を否定しながらも、それに替えてアジア的専制主義あるいは封建的専制主義を代置しているからである。ドゥブロフスキーの発展図式の特徴は、階級社会の発展において封建制→農奴制と捉える見解である。この封建制から農奴制へという歴史コースは、ロシア史を世界史の代表例として図式化したにすぎない。ドゥブロフスキーについては(あるいはヨールク、ゴーデスに関しても)、単に党首脳の意向を体して、アジア的生産様式否定論を唱えたというだけではなく、他の要素を幾つか、考えなければならないのだが、ここでは省略する。胡秋原はこの発展図式を改作することで、革命の祖国ロシアだけではなく、資本主義先進国である西欧、そして中国をも、共通した歴史コースにおいて説明しうるように見えたのであろう。ドゥブロフスキーがロシアにおいて農奴制とする時期は、当時ソ連歴史学界の主流であったポクロフスキーにおいては、商業資本主義の段階であった。つまり、封建制→商業資本主義、である。そしてその商業資本主義はピョートル大帝期を中心とする専制主義の時期に重なっていた。それが、おそらく胡秋原に大きなヒントとなったと思われる。すなわち、封建制→専制主義(商業資本主義)→資本主義、となる。すなわち、この発展図式は、ロシアばかりでなく、近世絶対主義の時代を専制主義期と捉えることで西欧にも通用し、さらに中国にも適用可能となる(専制主義の時期が二千年にも及ぶが)、と考えたに違いない。
 胡秋原は、慎重に、専制主義期を独立した社会構成とせず、封建制後期に現れる封建専制主義だと称する。さらに、マルクスのアジア的生産様式は、アジアの先資本制(生産様式)すなわち農村共同体と封建農奴制が結合した先資本主義的複合様式、アジアの専制主義だとしている。ドゥブロフスキー説は、土地所有を介した搾取をすべて封建的なものとみなし、労働地代による搾取ならば農奴制、生産物地代による搾取ならば封建制だとする、きわめて粗雑なものであった。それゆえ、生まれたての日本のマルクス史家でさえ、その影響下に立つものはいなかった。だが、胡秋原、王礼錫らは、ドゥブロフスキー説に惹かれるものがあった。「商業資本主義」と専制主義の関わりをどう理解するのかという、ロシアと中国に共通する課題があった。
 李季や胡秋原については、まだ幾つか話すべきことがある。また、季雷については、趙慶河はおそらくマジャールであろうとしている。それらについては、次回としたい。
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