中国的なるものを考える(電子版第37回・通算第80回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第37号 2010.06.07 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式と中国 (その三)
中国社会史論戦--『読書雑誌』の時代(続)
 前回、アジア的生産様式論からみたばあい、中国社会史論戦において直接関わりがあるのは、①李季「関於中国社会史論戦的貢献与批評」(『読書雑誌』中国社会史論戦専号第二輯所収)、②胡秋原「亜細亜生産方式与専制主義」(第三輯)、③季雷「馬克思的社会形式論」(第四輯)の三論文だけである、と述べた。だが、季雷の名前は、何幹之『中国社会史論戦』(1937年)には、まったく登場しない。そればかりか、1949年以後の、中国における「中国社会史論戦」に触れた論考のなかでも言及されることはない。『読書雑誌』中国社会史論戦専号第四輯の巻頭をかざる論文が、誰からも言及されないというのは、実に奇妙なことである。
 趙慶河『読書雑誌与中国社会史論戦』の記述には、「季雷(可能是馬札亜爾)」とある。たぶん、マジャールだろう、というのである。「ほんと?」と思いながら、さっそく季雷論文を読んでみた。半信半疑であったのは、この時期にソ連在住のマジャールが国外の、しかも非共産党系雑誌--トロツキストの原稿も載せるような雑誌--に寄稿するはずもなく、またもし『読書雑誌』の編集者たちが勝手に訳出・掲載したとすれば、なにも季雷などと中国風にせず、馬札亜爾(マジャール)の名前をそのまま使えばいいだけのことだからである。
 季雷「馬克思的社会形式論」(マルクスの社会形態論)は、不思議な論文であった。文頭ではその執筆理由として、「九・一八」(満州事変)以後の、国際社会における中国問題の重要性を指摘し、その中国問題を理解するために、さらに中国の改造あるいは新中国建設のためにも、中国社会史研究が中心となることを述べ、そこからマルクスのアジア的社会論を明らかにし、中国社会発展史研究への拠り所としたい旨を語っている。また文末では、以上述べてきたマルクスのアジア的社会論が、中国史探求の鍵になること、さらにはそこから取り出されたものが、中国問題解決のための行動の指針となることを述べ、また新時代の学者たちが、空論をやめ、過去の中国社会の研究および現在の社会現象の実際的な調査に意を注ぐことを呼びかけている。そして、最後に、1932年10月27日、上海にて、と記している。しかし、この文頭の2頁余と文末の2頁弱を除けば、その間の67頁の記述は、まったく当時の中国(とくに中国社会史論戦)に関わりをもっていない。中国の論争に触れていないどころか、歴史的事例としても中国に関する記述はほとんどない。
 奇妙さはまだほかにもある。たとえば、当時、まだ中国語には訳されていなかったマル・エン全集からの引用が多いことがあげられる。さらには、マルクスからの引用には、あきらかに重訳とみられる文意の通らない箇所がある。また、この論文の著者は、フランス語版『資本論』が、マルクス自身によってドイツ語版とは別に編集されていることも、知っており、その水準の高さが窺われる。1930年代初頭までに、何版であろうと、ともかくもマル・エン全集が出されていた言語というのは、ドイツ語、日本語など非常に限られていたと思われる(注1)。また、何語であろうと、マル・エン全集を有していた中国の知識人も、非常に少なかったはずである。
 さて、文頭、文末に挟まった中間の67頁の内容は如何なるものであろうか。まず、論文の著者はヘーゲルのアジア的社会論がマルクスによって、唯物論的に改造されたことを冒頭で論じている。そして1850年代のマルクスのアジア的社会論が、同じく1850年代のマルクスの資本主義研究と、如何に深く関わりあっているか--近代ブルジョア社会すなわち資本主義的生産様式をアジア的社会、古典古代世界、中世西欧世界とつねに比較しながら--を、『資本論』を中心として多数のパラグラフを引きながら、積極的に論証している。そして、マルクスのアジア的社会論の根底にはアジア的生産様式論があること、アジア的生産様式の中心に「土地と水の所有」の問題があることを指摘している。筆者は、当時のアジア的社会論としては、実に堂々とした議論であるとの印象をもった。このような議論を、当時、一体だれができるだろうかと考えてみた。いろいろ考えても二人しか考えつかなかった。一人はソ連アジア派の総帥であるマジャールであり、もう一人はその盟友であり、ドイツにおけるアジア的社会論の代表者であるウィットフォーゲルであった。しかも、ウィットフォーゲルは、ヘーゲル没後百周年にあたる1931年、ヘーゲルに関する講演や論文寄稿を行っていたことが、『評伝ウィットフォーゲル』(G・L・ウルメン、新評論)に記載されており、その可能性があるのかとも一瞬思った。
 再び、趙慶河『読書雑誌与中国社会史論戦』に戻り、注を探すと、この季雷「馬克思的社会形式論」は、コキン『中国古代社会』(岺紀訳、黎明書局、1933年)のマジャールによる序文と完全に同じであるという。こちらを先に読めばよかったと思ったが、後の祭りであった。ただ、負け惜しみをいえば、先入観なくマジャールを読めたことで、マジャールの実力を再認識したことが収穫であった。残念ながら、コキン、パパヤン『井田』(井田制)は、日本語には訳されていない。だが、同書に付載されたマジャールによる序文は、「アジア的生産様式に就いて」と題して『満鉄調査月報』(1934年2月、3月号)に掲載されており、それと照らし合わせてみると、趙慶河の指摘どおりであった。ただし、この「アジア的生産様式に就いて」も、マジャール序文の完訳ではない。部分的にはしょって、訳出していないところがある。その日本語訳後記に「以上はエム・コーキン、ゲー・パパヤン共著『井田』、『古代支那農業組織』(レニングラード、一九三〇年)へのマヂアールの序文を岺紀の支那訳『中国古代社会』より訳出したるものを調査係において露文原書と対照し全部に亘って相当の訂正を施したものである。ここに訳者に対し感謝の意を表するとともに、諒解を乞う。」とある(『満鉄調査月報』1934年1月号)。当時の、出版事情を記して興味深い。
 では、いったい誰が、上記のようなカラクリを考えたのであろうか。『井田』がすでに中国語に訳され(岺紀訳)ている以上、季雷論文の中核がマジャールのものであることは、どのような細工をしようと、いずれ人に知られるはずであった。それを承知しながら、なぜ『読書雑誌』編集者は、そのようなカラクリをあえてしたのであろうか。捨鉢とも支離滅裂とも思えることを、なぜあえてしたのであろうか。それは王礼錫から胡秋原への『読書雑誌』編集の交替と関係があるのだろうか。あるいは、『井田』の訳者岺紀とは何者であろうか、そして王礼錫もしくは胡秋原と、何か特別の関係があったのであろうか。
 上海事変(1932年1月末~3月上旬)における日本軍への抵抗で全中国に名を馳せた陳銘枢麾下の十九路軍と蒋介石直系との間が次第に険悪となり、それとともに陳銘枢の庇護下にあった王礼錫『読書雑誌』に対する圧力も強まっていく。状況に押され陳銘枢は外遊に出発、1933年3月、王礼錫、陸晶清夫妻も出国を余儀なくされる。『読書雑誌』の編集を引き継いだのは僚友胡秋原であった。専号第四輯は、ちょうどその交替の時期に出版されている。その間の事情については、あるいは彼らのその後の福建事変(1933年)への関わりについては、張漱菡『胡秋原伝』上(皇冠出版、1988年)に詳しいが、この季雷論文については、まったく触れられていない。真相は不明なままである(注2)。

 中国社会史論戦におけるマルクス史家の水準を云々しても、たぶん、議論は深まらないだろう。日本の1930年前後の、マルクス主義古代史学の水準が、当初けっして高くはなかったのと同じように考えればよいと思う。草創期のマルクス史家は、現実の問題にはきわめて敏感ではあっても、古代・中世史に造詣が深いなどということは、一般には考えられないからである。ただ、中国におけるマルクス主義歴史学の草創期において、中国社会史論戦における激しい論争を繰り広げた論客たちが何に苦しんだかを知ることは、当時のマルクス主義の理論的な限界を知るうえで貴重なケース・スタディーとなる。その一例として、「中国社会史論戦」期の論客たちそれぞれの時期区分、歴史発展の図式を比較してみよう(注3)。

陶希聖 西周時代(氏族社会末期)→戦国~後漢(奴隷社会)→三国~唐末五代(封建荘園時代)→宋以後(先資本主義社会)→アヘン戦争以後(半植民地社会)
李季  殷以前(原始社会)→殷(アジア的生産様式)→周(封建的生産様式)→秦~清(先資本主義的生産様式)→アヘン戦争以後(資本主義的生産様式)
胡秋原 殷以前(原始社会)→殷(氏族社会)→西周及春秋戦国(封建社会)→秦~清(専制主義社会)→アヘン戦争以後(専制主義植民地化)

となっている。このような時期区分を、陶希聖は二転、三転させており、このような図式に果たして意味があるのかどうか、疑問をもたれるかもしれない。上記の時期区分(発展図式)を瞥見してわかることは、まず①殷代について、当時、それを階級社会もしくは原始的国家であるということを決定づけるような史料に乏しかったことが、理解できよう。次に、②封建制をどのように理解するか、それぞれの見解に大きな影響を与えていることがあげられる。封建制の理解を複雑なものに、より困難にした責任は、日本にもある。すでに江戸時代中葉には、儒者たちが、鎌倉時代から江戸時代までの「武者の世」を西周封建制との類似から、封建制と呼ぶようになったが、それがつまずきのもとであった。明治時代に、更にそれを西欧中世のfeudalism(ヒューダリズム)の訳語としたことは、当時の知識としてはやむをえなかったとはいえ、後にさらなる混乱を呼ぶ原因となった(外村直彦『比較封建制論』勁草書房、1991年)。とはいえ、ヒューダリズムの妥当性をめぐる混乱は、インド史においても見られ、別に日本史や中国史に固有なことではない。また、たとえ、明治期に上記のような封建制(西周)=日本中世・近世(武者の世)=西欧中世(feudalism)の重合が起こらなかったとしても、1930年代中国の草創期のマルクス主義史学は、おそらく封建制=feudalismの等式を「発見」することになったであろう。
 最後に、②と大いに関わりがあるが、どのように規定しようと、③秦から清までの歴代王朝(中華帝国)の社会経済構成を、発展段階論的な時期区分として示すことは、誰にとっても難しかったということがあげられる。特に、社会経済構成において、その発展を促す動因を規定することは、実際には、ほとんど不可能であった。このような場合、私的所有(大土地所有)の発展に求めるのがもっとも一般的であろうが、秦から清までの歴代王朝の間に、何か質的な相違を認めることができるのだろうか。むしろ、北魏隋唐の均田制の例をみれば、私的所有の後退さえみられる、ということになろう。あるいは、官僚制や専制主義の発展に、それを求めることができるのだろうか。いずれも、それらは社会構成における動因あるいは、根本矛盾のようなものではありえない以上、無理であろう。結局は、商業資本や商業資本主義に頼らざるをえなくなる。前資本主義的な生産様式のなかにおいて、商業資本や高利貸資本の分解作用が当該社会の生産様式を実質的に変えるものではない、というマルクスの周知の指摘があるにもかかわらず、諸家が幾度となく、それに言及せざるを得なくなるのも、商業資本や高利貸資本の分解作用に頼る以外に、歴史のなかに動因らしい動因を見つけることができない、ということに起因する。この時期にどのような名称をつけようと、たとえば先資本主義(李季、陶希聖)であろうと、専制主義(胡秋原、王礼錫)であろうと、この時代の動態の説明においてかならず商業資本に言及せざるをえないのは、それゆえであった。

注 1)的場昭弘『未完のマルクス』(平凡社、2002年)によれば、リャザノフ(マルクス・エンゲルス研究所)が主導した『マルクス・エンゲルス全集』は、1927年発行を開始したが、リュザノフの失脚の後、1935年までに全13巻を出版したものの、中止されている。日本語版は改造社より1928年から1933年にかけ刊行されている(全27巻、補巻5巻)。ロシア語版は、マルクス・エンゲルス著作集として、1928年から1948年まで、全28巻が出版されている。
注 2)『読書雑誌』の編集者、王礼錫が国民党反共組織AB団に関わりがあったことはわりと知られている。このAB団のABとは、アンチ・ボルシェヴィキの略とされる。しかし、一部に、北伐期、1927年前後の国民党江西省党部の右派組織がその省級・県級組織のことをA団、B団と呼んだことから生じた名称であったとの説もある。いずれにせよ、国共合作末期の混乱のなか、AB団自体はその後まもなく解散している(1927年)。だが、ABがアンチ・ボルシェヴィキの意とされたことから、AB団は当時、江西において革命根拠地建設を進めていた中国共産党や紅軍内に潜む「内部の敵」、スパイ組織の意味に解され、江西革命根拠地においてAB団狩り(粛清運動)が吹き荒れることになる(福本勝清「コンミューンの悲劇:中国革命根拠地粛清運動史1927-1937」(Ⅱ)『中国研究月報』1991年6月)。
 王礼錫はその後、広東軍閥の領袖の一人陳銘枢と知り合い、その縁で、上海の神州国光社の編集者となり、『読書雑誌』を創刊する。胡秋原は王礼錫より年少ではあるが、日本留学中(早稲田大学)の1930年頃、『読書雑誌』の発行準備を進めていた王礼錫と親しくなる。二人は、同じく留学中であった王亜南や梅龔彬らを含め、激しく対立しあう国民党と共産党の間の第三の道を歩もうとする。
注 3)ちなみに、良く知られている郭沫若『中国古代社会研究』(1930年)執筆時の発展図式は、以下のごとくである(ただし、その後、二度ほど見解を修正している)。
郭沫若 西周以前(原始共産制)→西周時代(奴隷制)→春秋時代以後(封建制)→最近百年(資本制)
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