中国的なるものを考える(電子版第38回・通算第81回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第38号 2010.08.13 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式と中国 (その四)
侯外廬と『中国古代社会史論』
 中国におけるアジア的生産様式論の歴史において、侯外廬は特別な位置を占めている。それというのも、侯外廬は、中国において、アジア的生産様式論に関する専著を著した唯一の著者だといえるからである。『中国古代社会史論』(人民出版社、1955年)がそれである。直接「アジア的生産様式」をタイトルに掲げた専著というのは、1964年、世界的規模で再開されたアジア的生産様式論争(第二次アジア的生産様式論争)勃発以後のことであり、それ以前のマルク主義文献のなかには存在しない。だが、アジア的生産様式論に立脚した中国社会論は、すでに1930年前後のアジア的生産様式論争の最中に、マジャール(『中国農村経済研究』)およびウィットフォーゲル(『中国の経済と社会』)によって書かれている。また、1930年代中葉の早川二郎『古代社会史』もアジア的生産様式論に依拠した歴史理論を展開している。それゆえ、侯外廬『中国古代社会史論』は、アジア的生産様式論に立脚した社会システムや歴史理論に関わる専著としては、マルクス主義ヒストリオグラフィーにおける四番目の著作ということになる。『中国古代社会史論』は、同書自序や『韌的追求』(三聯書店、韌renはしなやか、強靭の意)によると、1947年、上海新知書店発行の『中国古代社会史』の修訂版だとある。なお、この『中国古代社会史』は上海書店発行の『民国叢書』第一編第76(1989年)に収められている。1947年の著作と1955年の著作の間にどの程度の違いがあるのか、とくにアジア的生産様式論に関して、違いがあるのかどうか気になるところだが、『中国古代社会史論』自序を読むかぎり、基本的に同じだと考えてよいと思われる。1947年の著作については、現在は日本でも読めるようになっているのだが、筆者の怠慢から、遺憾ながらまだ目を通していないので、言及は次回以降のこととしたい。
 
 実は、『中国古代社会史論』に筆者は特別な愛着をもっている。今回、『中国古代社会史論』(河北教育出版社、2000年)を読みながら、いろいろなことを思い出した。1981年秋、中国に私費留学したわけだが、派遣団体(中国語研修学校)の面接の際、何を学びに行くのかと問われ、歴史の書き手というものが、実はすでに歴史に巻き込まれながら歴史を書いている。そこに客観的な認識というものが存在するかどうか、中国で考えてみたい、といったようなことを答えたと思う。今から考えれば、ずいぶん生意気なことを言ったと思う。また、語学学校派遣の留学生であることを考えれば、面接の際には、別の答え方もあったと思う。ただ、当時、中国における歴史家の生き方というものに関心があり、まず念頭にあったのは侯外廬のことであった。
 侯外廬『中国古代社会史論』は、おそらく、1970年代末には読んでいたと記憶している。多分、1955版を明大図書館か、恩師松崎つね子先生から借りて来てコピーしたものを、同居人がしっかりと一冊の本に装丁してくれたので、それを後生大事に抱えて一ヵ月ぐらいかかって読んだのだと思う。読まなければならないと思ったのは、西嶋定生や増淵龍夫の同書への高い評価が切っ掛けであろう。とくに、それがアジア的生産様式論に依拠して書かれてあるということに魅力を感じたのだと思う。ただ、この難解な本をどうやって読んだのであろうか。留学前の、低い中国語の水準で、この本を読めたとは信じがたい気がする。また、随処に引用されている古代漢語(しかも甲骨文や金文を含んだ)をどうこなしたのであろうか。白川静『甲骨文の世界』『金文の世界』などを読んだ記憶があるので、後は、きっと中日大辞典や大漢和辞典などと首っぴきで、かつ、わかろうとわかるまいと、猛然と頭から突っ込んで、押し切るようにして読んだのだろう。今回なんとか読むことができたのは、訳書『中国古代社会史論』(太田幸男ほか訳、名著刊行会、1997年)のおかげである。この丁寧な翻訳の助けがなければ、歯がたたなかったと思う。今から思えば、同じころ、唐長孺(『魏晋南北朝史論叢』)、呂振羽、翦伯贊なども読んでおり、その頃は古代史を今よりずっと身近に感じていたのであろう。
 当時、中国に留学すれば、侯外廬についてもっと知ることができると無邪気に考えていたと思う。ところが、まったくそうではなかった。だいたい、目当ての本を見つけるのも、買うのもそんなに簡単なことではなかった。また図書館にある史料を読むにも、苦労があった。雑誌のバックナンバーを読むのにも、一つ一つ、『○○雑誌』や『○○学報』の何年の何期を閲覧させてもらえるよう、留学生弁公室から図書館に紹介状を書いてもらわなければならなかった。たぶん、可哀そうに思った現代史料学の先生が、自分の授業をとれば、紹介状が書きやすくなるとアドバイスをしてくれたので、史料学研究のためと称して1920年代から1930年代にかけての雑誌を通覧することが可能になった。たぶん、一年間半ぐらいであろう、足しげく図書館の雑誌閲覧室に通って、『東方雑誌』、『読書雑誌』、『中国農村』あたりを読み続けた。結局、侯外廬については、三年かけて『抗日民族統一戦線論』を一冊コピーしただけで終わった。

 先ほど『中国古代社会史論』は、西嶋定生や増淵龍夫の評価を得たと述べた。西嶋も増淵も、それぞれ、侯外廬の古代中国社会論が、彼独自の都市国家論をもって成立することに注目する。すなわち、周代に発生した都市国家は、都市といえども強い氏族制の制約のもとにあり、したがって古典古代世界の都市国家(ポリス)とは異なること、また王と諸侯の関係も血縁氏族的紐帯に依存していること、それゆえ、西欧中世のフューダリズムとも異なること、さらにその都市(国)と農村(鄙)の関係が、征服氏族が被征服氏族を、総体として、奴隷として隷属せしめる関係であることをもって、古典古代の奴隷制とは異なった奴隷制のアジア的な道であることなどを、それぞれ詳しく紹介している。
西嶋定生は「侯氏のアジア的生産様式の理解の正否はともかくとして、郭沫若氏の諸論を継承して周代をも古代社会と規定しながらも、その特質を単に奴隷の存在を指摘し、あるいは直接生産者の性格を奴隷的なものと規定することによってではなく、中国社会の特殊具体的な条件の中にその構造的特質を求めようとし、その結果氏族制の強固な存在に着目し、これを基礎として、中国古代社会の構造を論理的に追求しようとしたことは、注目すべき見解といわねばならない」(「中国古代社会の構造的特質に関する問題点」『中国史の時代区分』東京大学出版会、1957年)と結論づけている。さらに西嶋は、周代封建制が血縁的氏族制度を紐帯とする擬制的な政治構造であることをもってマルクス主義的な社会構成的範疇である封建制であることを否定する侯外廬が「その理論的根拠としてアジア的生産様式論を展開するのであるが、そのばあい注目すべきこととして、ここではじめて最近発見されたマルクスの遺稿「前資本主義生産形態」(邦訳「資本主義に先行する諸形態」)が参照されていることは注目すべきである」と、その歴史的意義を認めている。
 かたや増淵龍夫は「この侯外廬の研究は、さきに提出された二つの問題、すなわち、一方においては、中国史を普遍的な社会発展の相においてとらえようとする要請と、他方においては、中国史を西欧的社会とは構造的に異なる固有な形姿においてとらえようとする要請との、二つの相違なる問題要求を、具体的歴史研究の中で結びつける、新しい問題視野を開いたものとして注目しなければならない。それは、学説史的にいえば、アジア的生産様式論争の新たな展開ともいうことができる」(「中国古代社会史研究の問題状況-学説史的展望」『中国古代の社会と国家』弘文堂、1960年)と述べ、西嶋よりも一歩踏み込んだ高い評価をしている。
 上述の引用では、両者とも似たような評価をしているように見えるが、微妙な違いがある。それは、おそらく彼らのアジア的生産様式論へのスタンスの違いから来ていると思われる。戦後中国史学の指導的存在として、アジア的生産様式論=アジア的停滞論との警戒感から、アジア的生産様式論にはつねに否定的に対応していた西嶋と、ウィットフォーゲル『東洋的専制主義』(1957年)についてでさえ、きわめて冷静に議論しえた増淵との差が、ここにも出ているのではないかと思われる。
 では、現在のアジア的生産様式論の立場からみて、同書はどのように評価できるのであろうか。太田幸男「侯外廬『中国古代社会史論』の意義について」(『中国古代の国家と民衆』汲古書院、1995年)は、侯外廬が早川二郎『古代社会史』から大きな影響を受けたと述べている。だが、『中国古代社会史論』のなかでの、早川評はあまり芳しいものではない。侯外廬は、早川が『古代社会史』で展開した貢納制論を、注目すべきものと述べながら、早川が貢納制をもって、独立した社会構成ではないと述べている点をとらえて、早川説はライハルトの過渡期論に近く、ただ彼は貢納制をことさら強調したにすぎず、それゆえ彼の貢献も欠点も、ライハルトのそれと同様であると、結論づけている(ライハルトは『前資本主義社会経済史論』の著者)。つまり、印象としては、むしろ否定的な評価という気さえする。ひょっとすると、太田は、別なソースから、早川から侯外廬への影響の確証をえているのかもしれない。
 おそらく、侯外廬は早川『古代社会史』を日本語で読んだのだと思われる。彼は高級中学を卒業した後、日本留学を一度決意したことがある(1923年)。また、フランス留学の手続きをとるためにハルビンに滞在したおり(1927年)、『資本論』など日訳や英訳のマルクス主義古典を購入したが、その時、ドイツ語を学んで『資本論』を翻訳する決意をしたとあり、当然、日本語が読めたと考えられる。アジア的生産様式の理解を深める際、早川二郎『古代社会史』に注目したのは、何幹之『中国社会史論戦』の影響であろう。何幹之の著作では、早川と秋沢修二が、当時、もっともすぐれたマルクス主義歴史理論の担い手であると書かれているからである。
 早川のアジア的生産様式論は貢納制を柱とするが、アジア的社会における貢納制は原始社会から階級社会へ向かう過渡期の構成であって、独立した社会経済的構成を成立させるものではないとしている。だが、この貢納制は共同体的諸関係とよく両立し、その共同体的諸関係の存在が奴隷制への発展を阻むことになる。つまり、早川の貢納制論は、アジア的社会における社会構成としての奴隷制段階を否定するものでもあった。それに対し、侯外廬のアジア的生産様式は、古典古代と並ぶ、アジア的古代の生産様式であり、古典古代が歴史コース(原始社会から階級社会へ)の革命の道であるとするならば、血縁的氏族制度を残した、改良(維新)の道であり、その社会構成は古典古代と同様に奴隷制を本質すると考える。これだけを見るならば、侯外廬のアジア的生産様式論は、ソ連で主流となった古代東方型奴隷制論の一つということができる。違いは、古代東方型奴隷制論がアジア的生産様式概念を回避するために、あるいはアジア的生産様式論自体を抹殺するために生れた議論であるのに対し、侯外廬のそれは、あくまでもアジア的生産様式概念を復活させ、さらにそれをより具体的な歴史事象の理解に寄与すべき新たな歴史理論として提起されている点にある。
 では、早川と侯外廬の間にまったく共通する点がないのかというと、重要な共通点がある。早川は、過渡期の社会構成である貢納制の展開からアジア的な封建制の成立を展望している。日本の場合、それは、律令期にあたるが、彼はその社会構成(アジア的封建制)を国家的封建主義とも呼んでいる。国家的封建主義において、土地は国有である。侯外廬にとり、アジア的生産様式(アジア古代奴隷制)の後にくるものは、封建制にもとづく社会であり、秦漢以後がそれにあたる。そして、その社会構成の中核に土地国有制(封建的土地国有制)が存在する。
 彼らが主張する国家的封建主義あるいは封建的土地国有制は、アジア的生産様式の強い影響のもとにある。古代日本および古代中国において、共同体的諸関係もしくは氏族共同体がながく土地私有制の発展を阻んできたが、それは封建制のもとでも大きな影響力を保持し続けるからである。侯外廬は「中国の歴史は、中古にいたっても西洋とは相対的に区別された封建の道をたどった。なぜなら、過去に存在した一つの氏族共同体的関係が、中国の家族組織の歴史の中に浸透していたからである」(太田幸男ほか訳『古代社会史論』pp.409-410)と述べ、さらに東方古代においては、氏族が大部分の土地を保有する土地国有制であり、その後、次第に顕族(土地私有者)が台頭し、封建化が進展する。だが、それによって成立した専制国家は、皇帝をして最高の地主たらしめる。豪族は土地を皇帝から賜ることもあれば、その土地を奪われ公田にされることもある(『韌的追求』)と展開する。
 片や過渡期の社会構成説と奴隷制否定説(早川)、片や古典古代と並立する独立した構成体説と奴隷制のアジアの道(侯外廬)。両者の間には、大きな相違があるように見えながら、同時に、しっかりとした共通点もあることが理解できるであろう。20世紀のアジア的生産様式論の提唱者たちはほとんど、つねに自らの主張をストレートに表明することはなく、その時代の制限のなかで、その主張を屈折させながら著述してきた。たとえば、ソ連のマジャール学派は当初、古代から近代まで、中国をアジア的生産様式のもとにあったと主張していたが、厳しい批判に押され、やむをえず、アジア的生産様式は歴史的なものであり、現在の生産様式ではないと、その主張を大きく後退させている。それはアジア的生産様式論を守るためにした後退であった。レニングラード討論(1931年)の翻訳(『アジア的生産様式に就いて』白揚社)に携わった早川が、当初よりアジア的生産様式が独立した生産様式であることを否定し、過渡期の社会構成としたのは、そこに起因していよう。そうすることによって早川は、より自由にアジア的生産様式論を展開しえたのであった。党の支配力が比較的弱かった日本では、アジア的生産様式論自体はまだ議論可能であったからである。
 侯外廬がアジア的生産様式論に踏み込もうとした頃、中国党の党勢とその権威は回復の過程にあった。彼が次々に著作を発表した1940年代は、党勢もその権威もさらに拡大し続けた時期であった。彼のアジア的生産様式論がソ連流の古代東方型奴隷制論に一見類似しているのは、当然といえば当然であった。それが、当時、アジア的生産様式論を展開するもっとも容易な理論的ポジションであった。たとえば、もし彼が早川のように、アジア的社会における奴隷制段階を否定したとしたら事態はただちに厳しいものになったであろう。というのも、それは『ソ連共産党(ボ)小史』(1938年)において定式化されたスターリンの歴史理論(歴史発展の五段階論)に直接抵触することになったからである。
 侯外廬は『資本制生産に先行する諸形態』を歴史研究に応用した最初のマルクス主義者であった。『諸形態』のキー・コンセプトは、幾つかあるが、もっともよく知られているのは、総括的統一体と総体的奴隷制である。侯外廬は、前述のように、征服氏族が被征服氏族を総体として奴隷化するという点において、総体的奴隷制概念を継承している。だが、なぜか総括的統一体に関する言及はない。おそらく、エンゲルス国家論(『家族・私有財産・国家の起源』)とうまく繋がらないからであろう。そのかわり、アジア的社会、古典古代世界およびゲルマン世界における都市と農村の関係についての議論に依拠している。社会的分業に基礎をおく古典古代の都市に対し、「都市と農村の一種の差別なき一体性」として現れるアジアの都市は、経済機構のうえにある「おでき」(複受胎)にすぎないと、何度も強調しているように、古典古代の都市とアジアの都市との比較において、彼の都市国家論は有効であるようにみえる。また、『諸形態』によれば、都市より出発した周代は古代であって、農村から出発すべき中世(封建社会)ではありえないということになる。だが、ゲルマン世界における農村の都市化について、とくに何故、中世封建社会の発展が農村の都市化として形容されるのかについて、理解が十分ではない印象を強く受ける。それは、たぶん、彼が読んだ『諸形態』がロシア語からの重訳であったということとも関係があろう。戦後最初に日本語訳された『諸形態』(飯田貫一訳、1947年)もロシア語からの重訳であった。飯田訳を読むかぎりで言えば、ロシア語からの重訳では、『諸形態』におけるゲルマン的所有の理解に限界がある。とくにゲルマン的所有の理解に必要な「個人的所有」(das individuelle Eigentum)の概念的核心をつかむことは難しくなる。『諸形態』の中心は三つの所有形態をめぐる議論であった。それらの種別性は、共同体成員の所有権の強度(弱さ・強さ)に依存する。それが理解できないかぎり、アジア的所有を十分に理解することができないし、アジア的生産様式も十全に理解することができない。侯外廬のアジア的生産様式論から、そのことが痛いほど窺われる。
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