中国的なるものを考える(電子版第39回・通算第82回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第39号 2010.10.04 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式と中国 (その五)
侯外廬と封建的土地国有制説 :
『中国封建社会土地所有制形式問題討論集』を読む
ここ三年余り続けてきたアジア的生産様式に関するエッセーだが、あと数回で終えたいと思っている。今回は、1950年代後半の中国社会封建土地所有制形式論争における侯外廬らの封建的土地国有制説をとりあげる。次回は、1980年代初頭の、つかの間のアジア的生産様式論争をとりあげ、最後に、Timothy Brook (ed.),The Asiatic Mode of Production in China(中国におけるアジア的生産様式論), 1989.を瞥見する予定である。
 本来、この中国封建社会土地所有制形式論争は、アジア的生産様式論をめぐって闘われたのではない。中国における「封建社会」における主要な土地所有制が、土地国有制なのか、あるいは土地私有に立脚した大土地所有制なのかをめぐって行われたのである。だが、侯外廬らは、封建社会に入っても土地国有が主要な所有形態であることに関する理論的根拠として、マルクスのアジア的所有を挙げたがゆえに、この論争はアジア的生産様式論と関わりを持っている。
 論争の発端となったのは、『歴史研究』1954年第1期(すなわち『歴史研究』創刊号)に掲載された侯外廬「中国封建社会土地所有制形式的問題」における、皇族土地所有制(日本風に皇族的土地所有制といった方がよいと思うが、原文のまま使用する)こそが、「秦漢以後の封建社会の歴史を貫く赤い糸である」との主張であった。このような皇族土地所有制のもとにおいては、私人には土地占有権もしくは使用権しか与えられない、とまで言い切っている。この論文はよく知られており、侯外廬『中国封建社会史論』(人民出版社、1979年)においてもその巻頭を飾っている。筆者が現在利用しているのは、1962年に三聯書店より刊行された『中国封建社会土地所有制形式問題討論集』(以下、『討論集』と略す)の巻頭に掲載されたものである。ただ、筆者の手元にある『討論集』は、原書ではなく、1968年、日本で発行された大安影印版である。以下、取り上げられる論文は、特に記さない限り、いずれもこの『討論集』所収のものである。
 論争はただちに始まったわけではない。侯外廬論文に対する最初の批判である胡如雷「試論中国封建社会的土地所有制形式―対侯外廬先生意見的商榷」(商榷:討議)が『光明日報』に掲載されたのが、二年後の1956年9月13日であった。ほぼ同じ頃、侯外廬「論中国封建制的形成及其法典化」および、侯外廬説を支持しながらも、皇族土地所有制は正確には封建的土地国有制と呼ばれるべきだと主張した李埏「論我国“封建的土地国有制”」が『歴史研究』1956年第8期に掲載されている。当初の、皇族土地所有という、どこかつかみどころのない名称にかわり、封建的土地国有制が登場したことによって、論争の事実上のきっかけが作られたのかしれない。
 ただ、さきの胡如雷の侯外廬批判は、不徹底なものであった。均田制を想定していたのであろうが、土地国有制を認め、かつ農民の生産手段への関わりが占有権もしくは使用権でしかないと認めながら、しかし封建社会の余剰生産物のほとんどが地租(小作料)の形で、地主階級の占有に帰し、賦税として地主政権(政府もしくは国家)に帰するのは、その一部でしかない。したがって、それは皇族土地所有制ではなく、地主土地所有制だと主張するものであった。
  侯外廬及び李埏の封建的土地国有制説に対する本格的な批判、すなわち土地私有制説(あるいは地主土地所有説)が出そろうのは、1957年以後のことである。『討論集』を読む限り、束世澂「論封建社会中土地国有制問題」(『華東師大学報・人文科学』1957年第4期)、楊国宜「略論土地所有制形式論争」(『光明日報・史学』双週刊113期)などあたりが、それに当たると思われる。前者は、侯外廬や李埏が強調する東方的な、あるいはアジア的な土地所有制の影響に対し、春秋末期より、中国では土地が自由に売買しえたことを指摘し、中国の封建制を特殊化することは間違いであるとし指摘している(束世澂)。後者は、ソ連あるいはスターリンの文献を引きながら、封建的土地所有制とは各等級(身分)による土地所有であり、各等級はそれぞれ土地所有権を享受する、したがって土地は各級封建地主の所有に帰すると述べる(楊国宜)。ただ、ここでは、紙幅の関係から、封建社会私人土地私有制説とか地主土地所有制説については、これ以上言及しない。
 なぜ、侯外廬批判が二年も後に登場したのであろうか。これについては、李埏が侯外廬説の反響について、以下のように語っている。侯外廬論文には、「皇族土地所有制」のように検討の余地のある部分もあるが、その基本的観点、封建的土地国有制がかつて我が国の封建時代に存在したという主張は、正確であり、(歴史研究に対する)貴重な貢献である。「しかし、我が国の史学界に異なった見解がないわけではない。たとえば、賀昌群先生は『論両漢土地占有形態的発展』のなかで、武帝時代、漢の天子は全国にあまねくある大量の公田を掌握して、封建主義中央集権の重要な物質条件をつくりあげた。武帝とそれ以後の百年間は、公田制は中央集権の維持に対して大きな働きをした、と言っている。これは透徹した見解だが、この公田がどのような所有制であるのか、作者は論及していない」。李埏によれば、1955年に著作を公刊した呂振羽(『簡明中国通史』)も翦伯贊(『中国歴史概観』)もまた、その点については論及を避けている。それらは、偶然の疎漏なのではない、そこには明らかに異なった見方が存在している、と。つまり、指導的な歴史家たちでさえ、はっきりとは言えない、緊迫した時期にさしかかっていたものと考えられる。
 そこには、歴史教科書の作成にかかわる問題が存在していたと思われる。中華人民共和国が成立し(1949年)、統一した教科書を作る必要があった。特に問題となったのは、奴隷制から封建制への転換をどう説明するのか、あるいはどの時代に設定するのかであった(古代史分期問題)。教科書である以上、主要各説の併記はありえなかった。ともあれ、1956年版改定教科書において、郭沫若が1950年代初頭に、新たに提起した(『奴隷制時代』1952年)、春秋戦国の交(紀元前475年)をもって奴隷制社会が封建制社会へと転換したとの見解(郭沫若新説)が公式説として採用された。鉄器普及による農業生産の上昇が、土地国有であった奴隷社会を終わらせ、土地私有にもとづく封建社会が成立したとされる。
 『討論集』には、郭沫若「関於中国古史研究中的両個問題」が収録されている。「戦国時代、土地国有制はすでに破壊され、土地私有制が主導的な地位を占めた」とある。主著『奴隷制時代』に代表されるように、いつもながらシンプルな論理構成であり、それが公式説に相応しかったのだろうと考えるほかない。
 さらにいえば、郭沫若は古代東方型奴隷制説を拒む。なぜなら、古代東方型奴隷制においては、実際の奴隷は家内奴隷だけであり、生産者は共同体成員である。「もし、共同体を強調しすぎると、中国の奴隷社会の生産者はみな共同体成員であり、そうすると中国には奴隷社会はないことになるだろう。ちょうど、中国封建社会が、奴隷社会と同様に、土地国有制であることを強調しすぎると、中国には封建社会がなくなってしまうのと、同様である。これでは、マルクス・レーニン主義の人類発展段階に関する原理が問題となってしまうであろう。もちろん、もし事実がそのようであれば、我々もただ事実を尊重するだけである。だが惜しいかな、事実はけっしてそのようではない。」と、直截にその考え方を述べている。
 以上から、1957年頃の侯外廬らの立場は微妙なものであったといえよう。郭沫若新説の公式教義への採用は、毛沢東の支持もしくは承認なしではありえない以上、とくに若い研究者を中心に郭沫若説への加担、郭沫若説の敷衍へと、傾くのは必然であっただろう。20世紀社会主義のような教義学説が支配する社会においては、公式説の確立は、それとは異なった種々の見解を持つ人々にとっては禍でしかない。とくに、郭沫若説とはまったく異なった理論体系を持つ諸説は、批判に晒される危険性があった。
 今日的時点から振り返るならば、「歴史発展の法則」をめぐる論争は、どうでも良いことにみえるかもしれない。だが、当時において、そうではなかった。危うくすると、人の運命を一挙に変えかねない重大事であった。
 たとえば、雷海宗は「世界史分期与上古中古史中的一些問題」(『歴史教学』1957年7月)において、歴史発展における奴隷制の普遍性に疑問を投げかけ、批判されている。雷海宗は民国期にアメリカに留学し、シュペングラー『西洋の没落』の影響を受けていたとされていることも、不利に働いた可能性がある。上記論文には、ギリシア・ローマは、紀元前3世紀から封建社会であった、などとあるところから、マルクス主義に反対していると受け取られたのかもしれない。雷海宗は、折からの反右派闘争の標的にされ、あの康生にまで名指しで批判されるにいたる。右派のレッテルを貼られた雷海宗は、講義(南開大学)から外され、病いに冒され、1962年に死亡している(王敦書『貽書堂史集』中華書局、2003年)。また、李鴻哲「“奴隷社会”是否社会発展必経階段?」(『文史哲』1957年第10期)も同様の批判に晒され、彼も右派分子とされている(張広志『中国古史分期討論的回顧与反思』陝西師範大学出版社、2003年)
 それゆえ、侯外廬らの封建的土地国有制説は、もし批判を受け間違えると、致命傷になりかねないものであった。というのも、封建的土地国有制説に対し、封建制度の存在自体を否定したものと受け取ったり、さらには土地改革の必要性を否定したものと批判の刃を向ける人々が少なからず存在していたからである。
 それゆえ、1962年に双方の見解を収録した、この『討論集』が刊行されたということは、おそらく調整期におけるイデオロギー政策の緩和と関係があるだろう。侯外廬や李埏ら一方に、反対派がもう一方に、といった対立の構図をとった編集がされておらず、ある程度、発表順に並べられてので、論争において、侯外廬や李埏が一方的に批判に晒されていた訳ではないことが理解できる。
 だが、『討論集』を読む限り、封建的土地国有説を支持したのは論争の発端を作った侯外廬及び李埏以外には、わずかに韓国磐、賀昌群など数えるほどしかいない。1955、56年頃には態度が不鮮明であった賀昌群ではあったが「関於封建的土地国有制問題的一些意見」(『新建設』1960年2月号)においては、はっきりと土地国有制説を支持している。韓国磐や賀昌群は、丁寧に、事例をあげつつ、戦国期以降の土地私有制の成立以降も、土地国有制が主要な役割を果たしていたこと(魏晋南北朝期の屯田制、占田制、均田制に代表されるごとく)、そして荘園制など私有制にもとづく大土地所有制のように見えたとしても、皇帝はその私有財産を思いのまま没収できたことを力説している(韓国磐「関於封建土地所有制的幾点意見」『新建設』1960年5月号、同「従均田制到荘園経済的変化」『歴史研究』1959年第5期)。
 ただ、論者ごとに、封建的土地国有制の終わりの時期が、異なる。賀昌群は均田制崩壊が土地国有制から私有制への転換の時期だとしている。それに対し侯外廬や韓国磐は明代まで土地国有制が優位にあったと考えている。さらにもう一つ、侯外廬及び李埏が、これらの土地国有制のアジア的な性格に大きな比重を置いているのに対し、同じように天子(皇帝)の最高土地所有権(最高の地主としての国家)を強く主張はしても、その点(アジア的所有制)に触れない韓国磐や賀昌群との間に違いがある。
 1978年以後、ウンベルト・メロッティ『マルクスと第三世界』の重要性を指摘し、さらにその出版に尽力し(『馬克思与第三世界』高銛等訳、商務印書館、1981年)、1980年代初頭のアジア的生産様式論争の口火をきったともいえる呉大琨は、かなり前からのアジア的生産様式論者であったと思われるが、彼の「関於西周社会性質問題的討論」(『歴史研究』1956年第三期)は、井田制はアジア的土地所有(共同体所有もしくは国家所有)であるが、井田制崩壊以後は封建的土地所有、すなわち私人所有であると述べ、侯外廬らに加担していない。同じ中国の「アジア派」といっても、やはり見解の相違があったと考えるべきなのであろう。
 侯外廬『韌的追求』(三聯書店、1985年)には、「文革期になって、私にはたくさんの政治的なレッテルが貼られたが、学術界の、私の封建的土地国有論に賛成してくれた幾人かの友人もまた、私に連座して攻撃されたが、現在からいえば、心痛むことであった」とある。その友人のなかに李埏や韓国磐らも入っているのであろう。
 侯外廬説にもっとも強く与した李埏は雲南人であった。おそらく、少数民族のプリミティブな共同体を見て育った李埏は、プリミティブな社会における共同体的諸関係や共同組織の存在を当然のことと考えていたと思われる。それゆえ、古代のプリミティブな社会に、同じような共同体的諸関係や共同組織の存在を躊躇なく認めることができたのだろうし、古代の土地所有制について、共同体的諸関係の優位を自然に受け入れることができたと思われる。中国史における土地所有制のアジア的性格を強調する侯外廬説に真っ先に加担したのも、彼にとってはごく自然なことであったであろう。
 李埏は、1950年代においては、主流派と同じように、時期区分論として、西周は奴隷社会であり、封建社会は戦国期に始まると考えていた。だが、彼の論文集『不自小齋文存』(雲南人民出版社、2001年)によれば、1960年、涼山彝族地区を調査したおり、民国及びそれ以前の彝族奴隷制は、井田制に象徴される西周期の社会とはまったく異なること、西周社会は、むしろシーサンパンナ・タイ族の社会に似ていることを実感したことから、西周社会は奴隷社会ではなく、むしろ封建社会であるとの認識に達したとある。
 実は同じような考え方を、同じく雲南人の馬曜(白族)に見ることができる。馬曜は『西双版納份地制与西周井田制比較研究』(雲南人民出版社、2001年)において、シーサンパンナ・タイ族の土地制度と西周井田制を、ともにアジア的所有制に起源するものとし、それらを封建領主制と呼んでいる。馬曜は1911年生まれ、民族工作者と知られる(1931年年入党)。李埏は1914年生まれ、経済史家である。前者は上海に学び、後者は北京に学んだとはいえ、盧溝橋事変後は、ともに西南聯合大学に学んでいる。同じ雲南で活動しながら、しかも土地所有制度について類似した見解を有しながらも、李埏『不自小齎文存』には、馬曜の名前は見えず、馬曜『西双版納份地制与西周井田制比較研究』及び謝本書『馬曜評伝』(雲南教育出版社、2001年)には李埏の名前を見ることはない。
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