中国的なるものを考える(電子版第40回・通算第83回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第41号 2010.12.13 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式と中国 (その六)
アジア的生産様式論争--1979-1982年--
 いよいよ今回は、1979年から1982年にかけて、盛り上がりをみせたアジア的生産様式論争をとりあげてみたい。前回、この論争をつかのまに終わった論争と書いた。というのも、この論争が、一見はなばなしく展開されたとしても、その後にほとんど影響を残さなかったという印象を得ているからである。同時期か、もしくはその直前に、同じようにはなばなしく展開されたマルクス主義疎外論をめぐる論争も、つかのまに終わった、今から見れば実にはかない出来事であったが、このアジア的生産様式論争も、それに似た意味で、はかなさを覚えるものであった。
 筆者が中国に留学したのは、1981年9月であった。慣れぬ留学生活ではあったが、中国においてアジア的生産様式論争が活発に展開されていることを知り、北京大学図書館で集められるかぎりの資料を集めてみた。それらに基き、「中国におけるアジア的生産様式論争の復活」」(以下拙文(1982)或いは「復活」と略す)なる文章を書き、中国研究所編集部に送ってみたところ、『アジア経済旬報』(1982年8月下旬号、№1233)に掲載された。
 留学してほどなく、自転車で北京市内の新華書店を回り始めたのだが、その時、探そうとした本のなかに、『世界上古史綱』上(《世界上古史綱》編写組, 人民出版社, 1979年)が入っていた記憶がある。留学直前か、直後かに、『世界上古史綱』上冊において、アジア的生産様式について見解が述べられている、という紹介記事を読み、いったい、改革開放(三中全回)後の中国において、アジア的生産様式について、中国の歴史家たちはどのような議論をしようとしているのだろうか、とすごく興味があった。1982年前半のある時期、北京市内のとある新華書店で、ガラスケースのなかに並べてあった『世界上古史綱』上冊を見つけた。喜んで、あれがほしいと店員に頼んだところ、店員は、ケースをあけ、ちょっと手を伸ばし、手が届かないとみるや、「拿不出来nabuchulai」(取り出せない)といったまま、まったく相手にしてくれなかった。出版からそれほどたっていない一冊の本を得るためにも、大変な思いをしなければならなかった。その後、どこか地方に旅行に出た時、ついに同書を手に入れたと記憶しているのだが、今、書棚に並んでいないところをみると、何回も繰り返した引っ越しのせいで、どこかに潜り込んでしまったのだろう。
 拙文(1982)の文献リストには、60本の論文名が記載されている。内、2本は未見と記されているので、58本を集めたことになるが、それでもこの時期、我ながらよく集めたと思う。今回、本論を書くために、ふだん集めた論文(コピーや抜き刷り)を収納している段ボール箱、数箱をひっくりかえしてみたのだが、残念ながら見つからなかった。たぶん、北海道の生家に送った10数個の段ボール箱の中で眠ったままになっているのだろう。やや途方に暮れたのだが、さいわい、先年、ドイツ語学習のために購入していた
Alfons Esser, Die gegenwärtige Diskussion der asiatische Produktionsweise in der Volksrepublik China, Bochum, 1982.(アルフォンス・エサー『今日の、人民中国におけるアジア的生産様式論争』)
を読み、大きな啓発を得ることができた。量的には200頁(本文150頁)強なので、大著というほどではないにしても、1979年から80年にかけての、代表的な論文を実に丁寧に紹介しており、非常に有益である。筆者にとって得難い援軍であった。エサー(1982)のなかで、1980年前後の論争における代表的なものとして取り上げられているは、以下の8者、9論文である。

胡徳平 馬克思対亜細亜生産方式的提出研究和結論 社会科学 1980年第5期
志純・学盛 怎様理解馬克思説的“亜細亜生産方式”? 世界歴史 1979年第2期
羅碧雲 亜細亜生産方式的討論以及我対它的理解 中山大学学報 1980年第2期
《世界上古史綱》編写組 亜細亜生産方式―不成為問題的問題 歴史研究 1980年第2期
祁慶富 “亜細亜生産方式”指的是原始社会嗎? 世界歴史 1980年第1期
于可・王敦書 試論“亜細亜生産方式” 吉林師大学報 1979年第4期 
宋敏 従馬克思主義的発展看“亜細亜生産方式”―与志純、学盛同志商榷 吉林師大学報 1979年第4期
同上 《亜細亜生産方式―不成其為問題的問題》一文質疑 歴史研究 1980年第5期
呉大琨 関於亜細亜生産方式研究的幾個問題 学術研究 1980年第1期

 早速、所属大学の図書館にもぐりこみ、胡徳平(1980)を除く論文を入手した。その多くは、「中国人民大学復印報刊資料」からのものである。また、先ほどの、資料を漁っていた段ボール箱のなかから、運よく『中国史研究』1981年第3期を見つけた。これは、アジア的生産様式論特集号ともいうべきもので、

龐卓恒等 “亜細亜的生産方式”学術討論会紀要 
呉大琨 従広義政治経済学看歴史上的亜細亜生産方式
胡鍾達 試論亜細亜生産方式兼評五種生産方式説
周自強 是六種生産方式、還是五種生産方式?
黄松英 亜細亜生産方式是東方諸国的奴隷占有制形態―兼与《世界上古史綱》編写組的同志商榷
龐卓恒・高仲君 有関亜細亜生産方式幾個問題的商榷
田昌五 亜細亜生産方式問題的問題
王敦書・于可 再談“亜細亜生産方式”問題―兼与持原始社会説的同志商榷
蘇鳳捷 関於社会形態問題的質疑和探索
林甘泉 亜細亜生産方式与中国古代社会―兼評翁貝托・梅洛蒂的《馬克思与第三世界》対中国歴史的歪曲

が掲載されており、当時のアジア的生産様式論をめぐる代表的論客が揃っている感がある。巻頭の龐卓恒等「“亜細亜的生産方式”学術討論会紀要」は、1981年4月、天津で開催されたアジア的生産様式学術討論会に提出された諸見解の総評である。
 上記に加え、さらに拙文(1982)の文献リストや
Timothy Brook(ed.),The Asiatic Mode of Production in China, M.E.Sharpe, 1989.(ティモシー・ブルック編『中国におけるアジア的生産様式』)の巻末文献目録を頼りに、多数の文献を得ることができた。ブルック編の文献目録には、1970年代末から、1988年にかけてのものが並んでいる。意外というべきか、少ないながらも、1983年以降も、アジア的生産様式関連の論文が引き続き書かれている。これをどのように評価するのか、次号の課題としたい。
 短期間に集めた資料はやはり「復印報刊資料」所収のものが多いが、『社会科学戦線』、『文史哲』、『歴史研究』なども、有力なソースであった。そのほか、呉大琨(『呉大琨選集』山西経済出版社、1995年)、王敦書(『貽書堂史集』中華書局、2003年)、田昌五(『古代社会形態析論』学林出版社、1986年)、趙儷生(『中国土地制度史研究』斉魯書社、1984年)など、有力史家の個人論文集には、この論争期に書かれたものが掲載されており、そのなかには、上記のリストのなかに含まれていないものも、それぞれ幾つか収録されている。
 以上、数日をかけて、何とかかき集めた論文(文献)は、約60本、そのなかで、1979年から1982年のものは30本、他は1983年から1989年にかけてのものである。それでも、本エッセーのタイトルが、1979~1982年となっているのは、筆者が、かつて、この時期を論争期ととらえ、未熟ながらも、一本、概括的なものを書いた、ということから来ている。また、1983年以降も、そしてさらに1990年代以降も、なおアジア的生産様式を冠した論文が、依然として、書かれていたとしても、とりわけ1979年から1982年にかけて、アジア的生産様式論に関する論文が、どの時期よりも集中的に書かれ、ともかくも論争らしきものがあったと、今もなお、考えているからでもある。
 何とか入手した文献によって、1979~1982年の論争について概括的なことを述べてみたい。
 上述したようにエサー(1982)は、主要論文をとても丁寧に、かつ詳細に紹介しており、好便である。同書が研究者の間で、ほとんど知られていないのは、おそらくドイツ語で書かれているためであろう。とても、残念に思う。同書最終章において、論争の概括と彼の見解が示されている。上記のように、同書において取り上げられているのは、論争初期(1979年~1980年)のものであり、そこに十全でないうらみがある。しかし、論争の主要な基調は、エサーが取りあげた10本に満たない諸論文にすでに、ほぼ出揃っているといって過言ではないので、エサー(1982)の価値は少しも減じないと考えている。拙文は、1982年の2、3月頃、書き上げたものであり、その後、6月頃にかけて、若干の加筆や追加を行ったはずである。拙文は、エサー(1982)とは違い、論争の概論であり、個々の著作については、いずれも短い言及しかしていない。
 筆者は自分を、長い間、1980年前後の中国におけるアジア的生産様式論争についての概略を書いた唯一の著者だと、ひどい手前みそではあるが、考えていた(実際には先ほどのティモシー・ブルックやジョン・ラップ John Rapp のように、この論争に継続して注意を払っていた人もおり、その点において、筆者の自負は、ただの思い込みにすぎない)。正直、この論争にこれほどまでに関心を寄せた人間が、ドイツにいようとは、この著書を読むまで考えてもみなかった。また、エサーは同書冒頭において、まず、論争前史を簡潔に紹介しているが、そこで取り上げられているのは、陳伯達、呂振羽、翦伯贊、何幹之、侯外廬らであり、おそらく、当時日本における、中国の論争に関心を持っていた人びと(筆者を含めて)に比し、その知識や理論水準は、なんら劣るところはないといってよい。
 1980年当時、中国国外にいて、胡徳平以下9本の論文を手に入れる可能性はあったのであろうか。『歴史研究』や各大学学報は、その頃、日本でも何とか入手可能であったので、エサーが1980年頃、中国に滞在していた決め手にはならないが、西ドイツにいては、やはり論争の存在に気づくことも難しく、まして論文を集めることもままならなかったのではないか、と考えられる。あるいは、中国に滞在していれば、他の論文も入手可能であったはずであり、巻末の文献目録において、ドイツ語を中心に多数の文献が並ぶなか、9本の論文プラス馬克垚「学習馬克思恩格斯論東方古代社会的幾点体会」(『北京大学学報』1978年第2期)と何祚榕「也談“亜細亜生産方式”」(『歴史研究』1980年第5期)しか、当時の論争に関わる中国語文献が記載されていないのは、かえって中国に滞在していなかったことを示しているのではないか、という見方もできるかもしれない。今のところ、どちらがあたっているともいえないであろう。
 エサー(1982)が論争参加者のなかで、唯一、その主張を評価しているのは、呉大琨である。西欧マルクス主義的な観点に立てば、呉大琨のほかは、みな、それまでのマルクス主義教義体系(スターリンの歴史発展の五段階論)を守ろうとするばかりで、中国のマルクス主義理論界においてはともかく、アジア的生産様式論争史においては、あまり新味のない観点を強調し、かつそれを繰り返すばかりであったので、そのような評価は、筆者も妥当であると考える。当時の中国を振りかえれば、理論家たちは、従来、とくに文革中、ずっとタブー視されていたアジア的生産様式概念が(依然として条件付きであろうとも)、とにかくある程度、自由に論ずることが可能になったという新たな事態に対し、それぞれ自説を開陳し、個々の理論的立場を明らかにする必要があったのであろう。
 たとえば、エサーが評した8者のうち、胡徳平、羅碧雲、志純・学盛、《世界上古史》編写組らは、それぞれ重点の置き方の違いはあれ、アジア的生産様式=原始社会説であり、宋敏は奴隷社会説(初級段階の奴隷制)、そして于可・王敦書は、マルクスらが当初の東方社会=初期階級社会説から、その人類学的研究の深まりとともに、70年代中葉以降、アジア的生産様式論を放棄したとする、「アジア的生産様式=作業仮説」説であった。祁慶富はその「放棄」説をさらに鮮明に打出している。そして唯一、呉大琨だけが、アジア的生産様式は、原始社会でもなく、奴隷制でも封建制でもない、非ヨーロッパ世界独自の生産様式だとする、本来のアジア的生産様式論を主張していた。
 ここでは、呉大琨のアジア的生産様式論をもう少し詳細に追ってみよう。前号で触れたように、彼は1950年代中葉における中国封建社会土地所有制形式論争において、西周井田制にアジア的土地所有を認めていながら、井田制崩壊以後は、土地私有に基づいた封建的土地所有制度が成立したと述べ、侯外廬、李埏らの封建的土地国有制論に加担することはなかった。
 呉大琨は、文革後の1978年4月、北京図書館の新書のなかから、ウンベルト・メロッティの『マルクスと第三世界』(英訳)を読み、衝撃を受ける。さっそく協力者を得て翻訳にとりかかる。彼が興味を惹かれたのは、メロッティが歴史発展の多系説を主張していたこと、さらに、アジア的共同体やスラヴ的共同体の系譜を引く社会のなかで、植民地的経験をもたない社会、あるいは植民地経験が浅い社会から、ソ連やエジプト、中国のような、官僚主義的集産主義が登場するとの主張ではなかったのかと思われる。スターリン流直線史観への疑問と、文革期にみられた伝統中国より引き継いだ遺制の重たさ、それらが、メロッティ説への関心につながったのであろう。
 『馬克思与第三世界』(高銛・徐壮飛等訳, 商務印書館, 1981年)の前書き「関於亜細亜生産方式的研究」において、呉大琨は、中国の歴史家のなかで「ただ侯外廬同志だけが、真剣に、中国の古代史の実際をアジア的生産様式に結びつけて研究し、専著を著わした。その他の歴史家の絶対多数は、私と同様、思想的に、スターリンの『五つの生産様式』の厳しい束縛を受け、中国の歴史をアジア的生産様式の歴史と看なして、全面的、具体的に研究してこなかった」と述べている。また、「従広義政治経済学看歴史上的亜細亜生産方式」(『中国史研究』1981年第3期)において、秦の商鞅の改革以後、封建的所有に基づく社会に入ったとし、その特徴として、封建的土地国有制を挙げている。同時に、封建的土地私有も存在し、さらに、封建帝王は全国最大の地主であると同時に全国最高の地主でもあり、全国の臣民を統制し、彼のために一切の封建的義務を尽くさせる権力を持つ、と述べる。封建的土地国有制の基礎の上に、封建国家は全国と土地と水源を統制し、さらに全国の主要な商工業を統制している、としている。これはまったく、侯外廬の封建的土地国有制説そのままであるといってよい。
 これらから、呉大琨が封建的土地国有制論争のおり、侯外廬を十分に支援することができなかった、という悔いのようなものを感じることができる。また今後、侯外廬のアジア的生産様式論およびその延長である封建的国有制論をも引き継ぐ覚悟を述べているとも思われる。具体的にいえば、侯外廬のアジア的生産様式論は、1940年代から50年代への時代(スターリンの時代)を反映して、古代奴隷制説と矛盾しないように構想されていた。それに比し、文革を経て、西欧マルクス主義の成果を取り入れつつ議論を展開する呉大琨は、奴隷制に限定的な役割しか認めていない、という点に違いがある。
 上述では、呉大琨は1950年代にはアジア的生産様式論を支持していなかったともとれるような書き方をしているが、おそらく呉大琨の本意ではないであろう。というのも、彼は50年代からすでに、中国古代(西周井田制)の土地所有は、アジア的土地所有であると認めていたからである。さらに、呉大琨は、「回憶《文史哲》初期的王仲犖教授」(『文史哲』1986年第5期)のなかで、1954年4月『文史哲』(山東大学学報)に掲載された王仲犖「春秋戦国之際的村公社与休耕制度」は、中国史上、長期にわたって存在し続けた村落共同体制度の性質とその働きについて、「特殊な生産形態」に基づくものと主張していたが、その特殊な生産形態とはアジア的生産様式のことであったと、回顧している。王仲犖は、山東大学歴史系の重鎮であり、魏晋南北朝史研究で知られている。1950年代前半には、呉大琨も山東大学で教えており、その影響を受けていたかは別として、すでにその時期に、彼がアジア的生産様式について、すでに一定の理解を有していたと考えるのが穏当であろう。
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