中国的なるものを考える(電子版第41回・通算第84回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第42号 2011.02.06 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

アジア的生産様式と中国 (その七)
ブルック編『中国におけるアジア的生産様式』(1989年)前後
 1989年に出版されたティモシー・ブルック編『中国におけるアジア的生産様式』(Timothy Brook, ed., The Asiatic Mode of Production in China, M.E.Shape, 1989.)は、1980年代中国におけるアジア的生産様式論争に関する様々な情報が満載されている。何よりも、巻末の文献リストには1978年以降1988年までに発表された126本の論文(討論会報告を含む)が掲載されており、それだけでも読む価値があり、興味がつきない(実はリストには127本が掲載されているが、重複があるため、126本となる)。これら126本に対し、著者が、90数人(数え方にもよるが、94、5人ぐらいにのぼる)存在している。一月ほど前から、それぞれの著者を漢字でどのように書くのか、主にインターネットを使って検索し、90%以上確認しているが、7人がいまだ不明である。
 なお、筆者のリスト(「中国におけるアジア的生産様式論争の復活」『アジア経済旬報』1982年8月下旬号)は1982年6月頃までのものであるが、筆者が挙げた59本の論文については、そのほとんどがブルックの目録にある。挙げられていない数本については、ブルックが気付かなかったというよりも、観点の違いによりリストアップされなかったと考えた方がよいのであろう。
 全体としての論文(討論会の報告を含む)発表数の流れをみると、1978年:2本、79年:8本、80年:18本、81年:34本、82年:15本、83年:14本、84年:7本、85年:5本、86年:9本、87年:12本、88年:2本、となる。やはり、1981年4月の天津におけるアジア的生産様式に関する討論会の前後に、多くの論文が集中して発表されている。文革後、恐る恐る始まったアジア的生産様式に関する議論が、次第に多くの理論家や研究者の関心を呼び、急速に高揚していく様子が、その数字から窺える。結局、この論争の高揚が胡喬木や鄧力群など保守派を代表するイデオローグの注意を惹き、論争に強いブレーキがかかることになったと考えられる。政治的な関連からいえば、この論争と前後して「マルクス主義疎外論」をめぐる論争があり、その旗手であった王若水らが批判され、全体として改革派が一時退潮していく時期であった。そのような逆流は1983年の精神汚染排除キャンペーンで頂点に達する。
 これまで筆者は、自分が、1982年夏に論争の概括を書いた時期までが、一応の論争期だと考えていた。1978年から1982年までに時期に、合計62本が発表されており、その数は全体の49.2%を占める。ほぼ過半数といってよく、筆者の印象にそれほど間違いはなかったように思う。ただ、数は少なくなったとはいえ、或いは、論争といえるほどの活発な義論がなされているわけではなくなったとはいえ、1983年以降も論文は書かれ続けている。また、1990年以降もアジア的生産様式に関する多数の論文が執筆・発表されている。そのことをどのように考えればよいか、思案中である。

 さて『中国におけるアジア的生産様式』は、ブルックの導論(Introduction)の後、それぞれの学説を代表する11人の論客の論文(翻訳)が収録されている。
 呉大琨 関於亜細亜生産方式的幾個問題 学術研究 1980年第1期
 柯昌基 従亜細亜生産方式看中国的古代社会 蘭州大学学報 1983年第3期
 趙儷生 従亜細亜生産方式的角度看西周的井田制度 社会科学戦線 1982年第2期
世界上古史綱編写組 亜細亜生産方式--不成為問題的問題 歴史研究 1980年第2期
朱家楨 関於亜細亜生産方式理論研究中的幾個問題 経済研究 1982年第6期
王敦書・于可 再談“亜細亜生産方式”問題 中国史研究 1981年第3期
祁慶富 亜細亜生産法式不是馬克思主義的科学概念 中央民族学院学報 1985年第3期
宋敏  関于亜細亜生産方式概念的科学性問題 社会科学戦線 1986年第4期
 蘇開華 関于亜細亜生産方式的本義及其名称由来—兼与何茲全先生商榷 争鳴 1986年第4期
 胡鍾達 試論亜細亜生産方式兼評五種生産方式説 中国史研究 1981年第3期
 馬欣  論馬克思的四種生産方式説与古史分期 中国人民大学学報 1987年第2期

 なお世界上古史綱編写組を代表しているのは、林志純である。1979年に出版された『世界上古史綱』上・下(人民出版社)は、2007年再版時に、林志純主編『世界上古史綱』上・下(天津人民出版社)として刊行されている。また、林志純は、日知の名で、1950年代に多くの翻訳をてがけている。さらに、1950年代初頭、『文史哲』誌において童書業とアジア的生産様式に関して議論をかわしたことでも知られている。
 幸いにも、この11編についてはすべて原文が手元にある。このなかで、世界上古史綱編写組、朱家楨は原始社会説に、宋敏は初期奴隷制説に、祁慶富、于可・王敦書は仮説論(放棄説)に、呉大琨、柯昌基、胡鍾達、趙儷生、馬欣らは独自の社会構成としてのアジア的生産様式論に与しており、蘇開華は遊牧社会説である。意図して、やや多めにアジア的生産様式論者の論文を選んだのだろうと思われる。
 だが、独自の社会構成としてのアジア的生産様式の支持者の間にも、相違がある。たとえば、柯昌基は、従来の公式教義である歴史発展の五段階論を否定しているわけではない。アジア的生産様式はアジア的農村共同体の生産様式であるとしながらも、ほかにアジア的奴隷制やアジア的封建制などの存在も認めている。だが、それにもかかわらず、彼のアジア的生産様式論は、その主要なエレメントとして、一人形式の土地国有制(王一人に所有が集中すること)、農村共同体の長期存続、普遍的奴隷制(総体的奴隷制)の三つを挙げており、それを中核とした彼の議論が、本格的なアジア的生産様式論であることは言うまでもない。
 胡鍾達は古典古代史の研究家であるが、1970年代末までは、五段階説の支持者であった。ところが、奴隷制社会の普遍性をめぐる問題や、奴隷とヘロットとの種差に関して悩んだすえ、五段階説を放棄し、歴史発展の多系性を支持するようになる。彼は、アジア的、古典古代的、封建的生産様式は、いずれも無階級社会(原始社会)から資本主義社会にかけての生産様式として同じ段階に属し、広い意味で封建制であると見なしている。この発想は、イギリス共産党の理論誌『マルキシズム・トゥディ』が開催した社会構成についての討論会(市川泰治郎『社会構成の歴史理論』未来社、1977年)所収のジョージ・サイモンの発言に啓発されたと、胡鍾達は述べている。
 馬欣はアジアという言葉の両義性を強調し、アジア的生産様式は世界史の母であり、奴隷制も封建制も、同じ胎内から生まれた別の体であると述べ、それらはみな同じ歴史発展段階に属するのだと述べる。つまり、アジア的生産様式も奴隷制や封建制と同じく、人身支配あるいは人格を通した従属関係、支配関係であることには違いなく、共同体を基礎とした社会は遊牧社会以来、長期にわたって存続し、後には東洋的専制主義にまで発展する。その意味で、原初にあるといっても、原始社会説とは異なる。
 それらに対し、古代史家である趙儷生は、理論的というより、より実証的な側面に関心があり、井田制=アジア的生産様式論を展開している。
 ただ、筆者はこのようなアジア的生産様式をめぐる学説の展開といったものとともに、アジア的生産様式論の提唱者の、それぞれの生き方にも興味を持っている。たとえば、改革開放後のアジア的生産様式論の最大の提唱者となった呉大琨は、1930年代以来の活動家である。1916年、蘇州に生まれた呉大琨は、蘇州中学から、1934年東呉大学へと進学するが、まもなく日本へ留学し早稲田大学で学ぶ。その頃からすでに薛暮橋らと連絡ととりあっていたようで、当時発行されていた銭俊瑞・薛暮橋主編『中国農村』誌の通信欄に彼の手紙が掲載されていたのを読んだ記憶がある。1935年末に勃発した救国会運動に、帰国した呉大琨は積極的に参加、全国救国会の総幹事の一人となり、『救亡情報』の編集に携わる。1937年抗日戦争開始後、南京、武漢へと後方での活動を継続するが、負傷し、予後が思わしくなく、やむなく上海に戻り治療する。1939年、新四軍慰問団を率いて皖南を訪ねての帰路、国民党に捕縛され、上饒集中営(収容所)に収監される。集中営から解放された後、曁南大学、東呉大学らで教える。光復後、上海で『経済週報』を創刊し、経済学の研究を開始する。1946年、アメリカに赴き、ワシントン州立大学で学ぶ。1951年、帰国。その後、山東大学で教え、1957年、中国人民大学に転ずる(主に「小伝」『呉大琨選集』山西経済出版社、1995年に依る)。
 彼のアメリカ留学とアジア的生産様式論への傾倒に、何か関係があるのだろうか。呉大琨は、アジア的生産様式論争が下り坂にさしかかった1982年7月、ウィットフォーゲル批判を『歴史研究』に発表し、そのなかで、留学当時、ワシントン大学で教鞭をとっていたウィットフォーゲルの講義を聞いたことがあると述べている(呉大琨「駁卡爾・魏特夫的《東方専制主義》」)。ウルメン『評伝ウィットフォーゲル』にも、1947年、ウィットフォーゲルがシアトルのワシントン大学の中国史の教授に任命されたとあり、確かであろう。では、彼がどうしてアメリカに行けたのだろうか。ミッションスクールであった東呉大学が日本軍の脅威を受け、やむなく解散になった後(1944年6月)、その関係から英語と日本語ができた呉大琨は米軍(航空隊)の顧問となり、その情報工作に協力することになる。また、戦争直後、上海の日本軍に囚われていた米軍パイロットの釈放や、日本軍の武装解除らにも協力し、米軍の信頼を得ることに成功する。たぶん、彼が関係のあった部隊のアメリカ帰還ともに、呉大琨にもアメリカ行きのチャンスを与えたのだと考えられる。呉大琨は、ほかにも、様々な事件に遭遇しており、数々の興味深いエピソードがあるのだが、割愛する。
 柯昌基については、彼の遺著『中国古代農村公社史』(中州古籍出版社、1989年)に略述がある。それによると、彼は1934年生まれの四川南充人である。1956年、上海華東師大研究生班を卒業する。1957年、「宋代雇用関係的初歩探索」(『歴史研究』1957年第2期)を書き、冷遇され、遠く新疆、そして温州等の地に赴く。二十余年後、南充師範学院に転ずる。1983年、歴史系副教授、教研室主任に任命さる。1986年9月病死、年僅かに52歳であった。あまりにも短い記述ではあるが、なぜか、そこからよく伝わってくるものがある。
 『歴史研究』に掲載された論文を読んでいないので、何が原因で冷遇されたのかわからないが、『中国古代農村公社史』に付せられた呉大琨「序言」を読むと、柯昌基は不遇の中でも、マルクス主義歴史理論を探求し続けていたらしい。いったい、そのような彼の人生にとって、アジア的生産様式論は何をもたらしてくれたのだろうか、と考えざるをえない。たぶん、上司や同僚からの猜疑を招くだけであっただろう。呉大琨によれば、柯昌基とは手紙を通して論じ合う関係だったらしい。だが、いかんせん、南充は遠すぎて会うことが出来なかった。ようやく柯昌基に北京に来る用事ができたので会って語り合おうと約束をしたところ、続いて来たのは彼の訃報であった、という。
 趙儷生は、1917年生まれの山東安丘人である。清華大学在学中に一二九運動に飛び込んだ、一二九世代である。その後、山西新軍に投じ、遊撃戦を戦う。だが病を得て離隊し、中学で教えるようになる。1947年、河南大学の副教授となり、1950年、山東大学に転じている。当時、山東大学の校長は『1925-1927年中国大革命史』の著者として知られる華崗であり、その指導のもとで、王仲犖、童書業などともに歴史系の八大金剛と称されるようになる。また、山東大学の学術雑誌として全国的に知られている『文史哲』の寄稿者の一人でもあった。1957年、趙儷生は蘭州大学に赴任。反右派闘争が始まるや、山東に呼び戻される。1958年右派とされ、その後、下放、復職、免職、復職と平坦ならぬ道を歩む。秦暉によれば、1958年に彼が右派とされた潜在的な理由の一つが、彼のアジア的生産様式論への傾倒であったという。
 ただ、アジア的生産様式論に関して、秦暉は、ほぼ同時期、山東大学で教えていた呉大琨との関係について言及していない。呉大琨もまた華岡に招かれ山東大学に赴任し、歴史系でも教えていたはずであった。呉大琨の側も、『文史哲』に載せた王仲犖の回顧についての一文において(前号参照)、趙儷生については触れていない。この辺は、言わないのが中国流なのかもしれない。また、反右派闘争にせよ、文革にせよ、当時、大学で教えていたものは、誰もが批判に晒されたり、つるし上げられたりする可能性があった。アジア的生産様式論者ばかりが批判されたのではなかったのである。たとえば、同じ山東大学歴史系の童書業は、アジア的生産様式=原始社会説の提唱者であったが、同じように反右派闘争において厳しい批判に晒されている。『童書業古代社会論集』(中華書局、2006年)には、1962年を最後に、その後書かれたものがない。おそらく研究活動を停止せざるをえなかったと思われる。
 最後に、これまでとは少し異なったことを言わなければならない。というのも、1980年代全般を振り返ると、アジア的生産様式論には、これまでとは違った趣、色調があることに気づかされるからである。1980年代後期、ちょうど天安門事件の前後から、中国の論壇の寵児となった何新もまた、論争の最盛期にアジア的生産様式について書いている(「論馬克思的歴史観点与社会発展的五階段公式—馬克思《1857-1858年経済学手稿》研究」『晋陽学刊』1981年第6期)。これは、スターリンの五段階論を批判し、歴史発展の多系説を主張したものである。何新によれば、アジア的生産様式とは、広義の意味と狭義の意味があり、広義のそれは人類全体の歴史に関わり、アジア的所有=農業共同体に基づく生産様式のことである。そして、この広義のアジア的生産様式から狭義のアジア的生産様式(東洋的専制主義)、古典古代的生産様式、封建的生産様式が、それぞれ発生したと述べる。ということは、狭義のアジア的生産様式は、東洋の特殊な生産様式ということになる。それでも、この時期において、何新は中国における封建社会を認めていたようであり、それを認めていないウンベルト・メロッティ『マルクスと第三世界』を中国史への無知と批判している。だが、このような何新の歴史発展の多系説は、メロッティを含む西欧マルクス主義の影響なしではありえなかったはずである。西欧マルクス主義のエッセンスを自説に組み込んで、残りは批判の対象とするというのでは、公平な態度ではないであろう。筆者は、偶然にも、1981年の論文で何新を独自の社会構成としてのアジア的生産様式論の提唱者の一人として紹介したが、このメロッティ批判の部分については、おそらく、外国人の学説を受け売りしているとの批判をかわすためのやむをえない補足とみなして気に止めることはなかった。
 西欧マルクス主義の成果を取り入れることは、それまでは--改革開放が始まるまでは--ほとんどできない所業であった。それをすれば身を危うくすることになったであろう。だが、ソ連、東欧のマルクス主義にほとんど魅力がなくなった一方で、厳しい競争社会で競り合いを続けている西欧マルクス主義には、様々な魅力ある成果が生まれていた。疎外論の流行もそのような意味合いがあったし、アジア的生産様式論についてもそうであった。また、その後の物象化論や世界システム論の登場についても同じ側面があったと思われる。それら魅力に富んだ成果を自説に組み込んで、一挙に論壇のホープとして登場する、あるいは学界の通説に挑戦する、それは外国語に少し堪能であれば可能な選択であった。以前ならば、リスクが多すぎてとても試すことすらできなかったであろう。しかし、西欧マルクス主義といえども、マルクス主義であり、彼らが引用しているマルクスやエンゲルスは、中国人が聖典として引用しているマルクス・エンゲルスと異なるところはないはずであった。改革開放の進展とともに、学術が少しずつイデオロギーと切り離され、政権を批判しないかぎり比較的自由に振る舞えるになるにつれ、思わぬ展望が開けてきた。
 1990年代以降のアジア的生産様式論争についても、同じようなことがいえそうである。だが、それらは一般的にいって、西欧マルクス主義の利用なのであって、けっして受容などではない。何新の論文を読み直して、そのような印象を得た。
 次回は、「卡夫丁峡谷(Kafuding xiagu)」の問題を取り上げる。中国では、1990年代以降、このテーマで無数の論文が書かれている。百科事典によれば、カウディヌム山道と訳すらしい。ほかにカウディーネの岐路という言い方もある。実はこれは、マルクスのアジア的社会論と浅からぬ関係にある。どうしてそうなのか、少しばかり追いかけてみたい。
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