中国的なるものを考える(電子版第42回・通算第85回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第43号 2011.04.15 
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カウディナのくびき その一
 もし、中国の検索サイト(百度からでもチャイニーズ・ヤフーからでも)、卡夫丁峡谷(Kafuding xiagu)と入力してみるとどうなるであろうか。あるいは、もう少し凝って、各学術論文検索サイトから、同じようにやってみれば、どうなるのでろうか。答えは、膨大な数の論文の出現である。胡慧芳執筆「関于跨越“卡夫丁峡谷”的研究」(jpkc.nankai.edu.cn/course/mks/Data/)には、1994年から2006年にかけて発表された“卡夫丁峡谷”を冠した179本の論文及び著作のタイトルが並んでいる。かくも論壇をにぎわしている「卡夫丁峡谷」とは、あるいは「跨越卡夫丁峡谷」とは、一体なんのことであろうか。
 卡夫丁峡谷とは、ローマ史で知られるカウディナ(カウディーネ)山道のことである。『ブリタニカ国際大百科事典』(電子版)では、カウディヌム山道(Furcule Caudinae)と記され、「古代サムニウムにあった山道。現在の南イタリア、カンパーニア州モンテサルキオ付近。前321年第二次サムニウム戦争のとき、ローマ軍はここでガイウス・ポンチウスの率いるサムニウム軍の罠にかかり、全員降伏させられた」と述べられている。
 では、なぜ、この古代ローマ史の出来事が、現在の中国理論界を熱くさせているのであろうか。それはマルクスが「ヴェ・イ・ザスーリチの手紙への回答への下書き」(1881年)において、「ロシアの共同体は、歴史に先例のない独特な地位を占めている。ヨーロッパでただ一つ、ロシアの共同体は、いまなお、広大な帝国の農村生活の支配的な形態である。土地の共同所有が、それに集団的領有の自然的基礎を提供しており、またそれの歴史的環境、すなわちそれが資本主義的生産と同時的に存在しているという事情が、大規模に組織された協同労働の物質的諸条件を、すっかりできあがった形でそれに提供している。それゆえ、それはカウディナのくびき門を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果をみずからのなかに組み入れることができるのである。それは、分割地農業を、徐々に、ロシアの土地の地勢がうながしている機械の助けによる大規模農業に置きかえることができる。現在の状態のもとで正常な状態におかれたあとでは、近代社会が指向している経済制度の直接の出発点となることができ、また自殺することから始めないでも、生まれかわることができるのである。」(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻)と書いたところから来ている。 ロシアの女性革命家ヴェ・イ・ザスーリチは、プレハノフ・グループを代表して、マルクスに手紙を書き、『資本論』第一部にいわれているような、資本主義の歴史的不可避性についてロシアにも妥当するのかどうか、とくにその過程における村落共同体(ミール)の運命について、マルクス自身の意見を求めた。
 上記の引用は、その一部であるが、マルクス主義研究者には、よく知られた一節である。長い引用で、わかりにくいかもしれないが、このまま読み進み、最後を読み終わったところで、もう一度、読んでいただければ、理解が得やすいかとも思う。なお、マルクスは、何回か下書きを書きなおした後、簡単な返事を書いたのみで、上記の一節は結局、ザスーリチに送られることはなかった。カウディナのくびきとは、具体的には、サムニウム人に敗れたローマ軍兵士が、3本のやりで形づくられた「くびき」を丸腰で通らされたことを指す(小学館『独和大辞典』電子版、Kaudinisch の項)。「それは、敗れた軍隊にとって最大の屈辱をいみするものであった」(『マルクス・エンゲルス農業論集』岩波文庫)。
 では、このカウディナ山道が、一体、中国の理論家あるいは理論工作者たちによって、如何なる文脈において用いられているのであろうか。孫来斌「跨越資本主義“卡夫丁峡谷”20年研究述評」(『当代世界与社会主義』2004年第2期)によれば、カウディナ山道をめぐる議論は、1980年代の栄剣、張奎良らの論考にまで遡ることができる。だが、筆者の手元にあるのは、張奎良「馬克思晩年的設想与鄧小平建設有中国特色社会主義理論」(『中国社会科学』1994年第6期)がもっとも古いので、まずそれを参考にする。当たり前のことであるが、カウディナ山道をめぐる議論の論文名にみな卡夫丁峡谷が冠せられているわけではない。筆者の印象では、卡夫丁峡谷以外では、東方社会理論を冠するものが多く、東方理論、あるいは東方社会主義理論、東方社会発展道路といった名称を付せられたものもある。なかには晩年馬克思、晩年馬克思設想などといったタイトルがついているものもある。したがって、カウディナ山道に関する論文や著書は、カウディナを冠した論文の倍ぐらいはあるということになる。
 上記、張奎良論文のリード(前文)に、「マルクス晩年の、資本主義のカウディナ山道を跳び越すという構想は、科学的社会主義理論の初定の枠組みを突破し、はじめて深く、東方の遅れた国家が如何に社会主義を実現するかという問題を、探究したものであり、社会主義思想における新たな開拓であった」とある。おそらく、この「資本主義のカウディナ山道を跳び越す」(跨越資本主義卡夫丁峡谷)という言い方がもっとも一般的で、もっとも多く用いられている用法であろう。資本主義はカウディナ山道であり、苦難の道、屈辱の道である。それを跳び越すというのは、資本主義段階を経ないで社会主義に移行するということである。年配者であれば、20世紀社会主義でよく使用された、社会主義への「非資本主義的な発展の道」を連想されるであろう。
 なぜ「初定」(原文のまま)とあるのかといえば、マルクスは当初、1850年代の「インドにおけるイギリス支配」「インドにおけるイギリスの二重の使命」に代表されるように、アジア(非ヨーロッパ)の遅れた諸民族・諸国家にとって、資本主義化(具体的には植民地化)は不可避であると考えていた。また、その資本主義化(植民地化)を通して、古い政治・経済システムを破砕することが可能となるという意味で、植民地化を肯定していた。しかし、晩年、マルクスはそのような考え方を変更し、アジアの遅れた諸民族・諸国家の、資本主義を跳び越えた、社会主義発展への道を認めるにいたった。すなわち、「ザスーリチの手紙への回答」において、マルクスは、ロシアは、資本主義(カウディナ山道)を跳び越え社会主義にいたることが可能であると述べており、これはマルクスが、西方社会主義革命とは異なった、東方社会に独自な社会主義への道を提起したことを意味し、20世紀のロシア革命と中国革命は、そのマルクス晩年の構想の正しさを実証するものである。だが、歴史的条件から、ロシア及び中国の社会主義政権は、資本主義から孤立して国内改造を進めざるを得ず、盲目的に、純粋な、社会主義建設を目指して失敗に終わった。それゆえ、資本主義の進んだ生産力、特に、発展した生産技術、科学技術を取り入れつつ進められている、鄧小平の改革開放路線は、まさに晩年マルクスの学説と事業の忠実な継承である、と。
 さらに張奎良は、1870年代末、ロシアの農村共同体に共有制が存在したように、百年後の1970年代末の中国にも、すでに20数年以上実践してきた社会主義公有制があり、マルクスが晩年、ロシアに認めた未来社会への発展の出発点もまた、百年後の中国に備わっており、それこそが、鄧小平の中国の特色ある社会主義の道の出発であると述べているが、そこから彼ら「カウディナ」議論の提唱者たちが、如何なる政治スタンスによって、これらの議論を主導していたのか、理解できよう。
 1980年代のアジア的生産様式論争の後半に、新しい世代の論客の一人として登場した孫承叔は、さきほどの孫来斌論文には名前があがっていないが、カウディナ山道の議論を含む広義の「東方社会理論」の旗手という意味で、重要な存在である。孫承叔「東方社会主義理論的第四次飛躍--鄧小平理論的歴史地位」(『復旦学報』1995年第4期)は、前出「ザスーリチの手紙への回答」の一節を引用し、「これはマルクスが初めて、東方社会が資本主義(カウディナ山道)を跳び越えることが可能となる仮説を提出したものであり、これによって我々は東方社会主義の道に関する最初の理論的飛躍と見なすことができる」と評価している。ちなみに、第二次理論的飛躍は晩年エンゲルスが、第三次飛躍はレーニンの晩年が、そして最後の第四次飛躍は、鄧小平が担ったとされる。
 張奎良も、孫承叔も、中国の伝統社会がアジア的生産様式にもとづく社会であったと考える点において共通している。さらには、ロシアもまた東方社会に属するとみなす点においても共通している。東方社会はアジア的生産様式によって規定される以上、ロシアもまたアジア的生産様式のもとにあるということなろう。カウディナ山道の議論の支持者もしくは東方社会理論の支持者にとって、ロシアと中国、両国の社会構成が、種々の差異あっても、基本的には同一でなければならない。なぜならば、そうでなければ、カウディナ山道の議論を中国に適用できないからである。ロシアが東方社会でなければ、中国の「跨越資本主義卡夫丁峡谷」の先例とはならない。マルクスが述べた資本主義を跳び越えるロシアの道を、そのまま中国へ適用することは、けっして理論的には保証されないままになる。
 1989年天安門事件以降、中国は異常な緊張に包まれ、それに続く1990年代前半は、政治的にきわめて不安定な時期であった。しかし、この時期、1992年から94年にかけ、謝霖、江丹林、劉啓良などによるカウディナ山道をめぐる専著が幾つか出版される(孫来斌, 2004)。そして、1994年から1996年にかけ、張奎良、江丹林、王東、徐崇温らによって、東方の遅れた国家による資本主義(カウディナ山道)の跳び越えに関する諸論文が相次いで刊行され、それは次第に一種のブームとでもいった状況をつくり上げていったのだと思われる。
 カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論は、まず、中国の伝統的な社会秩序がアジア的生産様式によるものと規定することで、中国が西欧とは異なった歴史情況にあることを明確にし、性急な民主化は国情に合わないことを、暗にほのめかし、さらに、改革開放は短期間ではなく、長期にわたる過程であることを強調していたのだと考えられる。さらに、社会主義の実現のためには、スターリンや毛沢東の実践の失敗に明瞭に示されたとおり、ロシアや中国の、それぞれの自前の生産力では不可能であり、資本主義の先進的な生産力を取り入れることが不可欠であることを明示することによって、改革開放路線の継続を主張したものと思われる。すなわち、南巡講和に代表される鄧小平の改革開放路線の擁護が意図されていることは明白である。
 1995年前後は、改革開放路線の継続や、その拡大をめぐって、保守派と改革派がしのぎを削っていた時期であり(馬立誠・凌志軍『交鋒』中央公論社, 1999年)、この時期に、資本主義(カウディナ山道)跳び越え論を提唱する理論家たちが、強力な論陣を張ったのも、そこに起因している。また、この同じ時期は、アジア的生産様式論にとって、ウィットフォーゲル『東方専制主義』(1989年, 中国社会科学出版社)の刊行を契機とした、厳しいウィットフォーゲル批判の時期であった。批判は、『史学理論研究』誌を中心として1992年から、1993年にかけて、最高潮に達している。そこにおそらく、カウディナ山道をめぐる議論を中核したこの新しいタイプの護教論を、ウィットフォーゲル「水の理論」のマイナスの影響から切り離しておく必要があったからであろうと推測するのは、あながち邪推だとはいえないであろう。

 では、冷静にみて、このカウディナ山道資本主義跳び越え論は、我々がこれまでみてきた、マルクス主義ヒストリオグラフィー、とりわけアジア的生産様式論からみて、どのような理論的水準にあるのであろうか。あるいは、どのような意味を持つのであろうか。
 まず、中国の理論家たちの反論をとりあげる。先ほどの孫来斌は、カウディナ山道をめぐる議論において中間的な立場をとっており、そのためか、孫来斌(2004)には、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論に懐疑的な立場の論文が、主要な論文として、幾つも挙げられている。たとえば、陳文通「“跨越”卡夫丁峡谷, 還是“不通過”卡夫丁峡谷?」(『当代世界与社会主義』1996年第4期)は、マルクスのカウディナ山道(資本主義)を通らない道に関する論述は、ロシアの農村共同体に関して提出されたものであって、それを東方の遅れた国家とか経済文化未発達の国家全体へと拡大することは、誤りだと指摘している。また、許全興「請不要誤解馬克思--関於“跨越資本主義卡夫丁峡谷”的辨析」(『理論前沿』1996年第18期)も、マルクスにとってロシアは1861年以降、資本主義の道に入りこんでいたのであって、ロシア社会が資本主義を跳び越えるなどという問題は、すでに存在していなかったと述べている。
 さらに趙家祥、段忠橋は、後に社会構成体論をめぐって互いに厳しい論争を繰り返すことになるが、この時点では、ともにカウディナ山道の議論に否定的である。趙家祥「対“跨越資本主義卡夫丁峡谷”問題的商榷意見」(『北京大学学報』1988年第1期)は、マルクスの言わんとしていたところは、ロシア革命を発端とした西欧のプロレタリア革命の勝利のもとにおいて、西欧資本主義の積極的な成果をもってロシアの社会主義的改造を助け、ロシアの農村共同体の共有制が共産主義の出発点となること、であったと指摘している。段忠橋「対我国跨越“卡夫丁峡谷”問題的再思考」(『馬克思主義研究』1996年第1期)は、ロシアの農村共同体が本当に資本主義(カウディナ山道)を跳び越えるとしたら、それはカウディナ山道を通り抜けた西欧革命のもとでのみ、それが可能であるとマルクスが考えていたと述べている。つまり両者ともに、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論が成立しないことを、指摘している。
 孫来斌(2004)にはその名があがっていないが、呉銘「跨越“卡夫丁峡谷”設想与東方社会主義併不聯繋」(『中国人民大学学報』1996年第1期)も、趙家祥や段忠橋と同じように、カウディナ山道をめぐる跳び越え論を厳しく批判している。呉銘は「ザスーリチの手紙への回答」と同時期に執筆された『共産党宣言』ロシア語序文第二版(エンゲルスとの共著)において、ロシアの農民共同体は、「もし、ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(『全集』第19巻)と述べられている点に着目し、この両者互いに補うという意味が、高度に緊密な関連をもった世界における革命の同時性を述べたものであり、さらにここで主導的な働きをなすのは、遅れた国家ではなく、資本主義の先進的な成果を継承した西欧プロレタリアートであり、遅れた国家、民族はそれに依拠しなければ、飛び越え自体ありえないとマルクスやエンゲルスが考えていたことを明らかにしている(実は、この『宣言』ロシア語序文第二版の一節は、張奎良、孫承叔らの論客たちも引用しているが、充分な配慮が払われているとは言い難い)。この辺は、すでに淡路憲治『マルクスの後進国革命像』(未来社, 1971)などに親しんでいるわれわれにとっては十分に説得的である。このようなマルクスの構想からみれば、ロシア革命や中国革命は、それから大きく離れたものである以上、カウディナ山道資本主義跳び越え論がいう、両国の革命はマルクス晩年の構想、東方社会理論にもとづくものとはいえないのである。そこから、呉銘は、ロシアや中国などの東方の社会主義は、20世紀の社会主義の道の重大な変化、転換から生じたもので、いかなる既成の理論や原則の体現でもなかったとしている。(続く)
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