中国的なるものを考える(電子版第43回・通算第85回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第44号 2011.06.19 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

カウディナのくびき その二
 前号でも述べたように、卡夫丁峡谷(カウディナ山道)を冠した論文は膨大な数に上る。さらにそのうえに、カウディナ山道資本主義跳び越え論を中核とした東方社会理論(東方理論、東方社会主義理論、東方社会発展道路)に関する著作を含めると、読まなければならない論文の数は果てしのないものになる。これは言いわけでもある。今回、本来は1990年代前半から最近までの関係論文をできるかぎり集め、なんとか読みこなして、総括的なものを書くつもりであったが、あまりにも論文が多すぎて、今回もまた1990年代に限って、述べるほかない。それでも、新たに25本の論文を読んでいる。前回分と合わせて、約40本の論文を読んだことになる。そのほか、同じ時期、1990年代のアジア的生産様式論に関する論文も、合わせて30本近く読んでいる。おそらく、1990年代に発表された、アジア的生産様式論や東方社会理論(カウディナ山道の議論を含む)に関する論文は、これよりもかなり多いはずである。ただ、それでも、この30本とか40本とかいった数からわかるように、網羅的ではない恨みがあるとはいえ、概括的な議論ができそうだと考えている。
 さて、上述したように東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論が存在する。東方社会理論という字面から、我々はマルクスのアジア的社会論を想起するであろう。だが、東方社会理論は、アジア的社会論ではない。我々がマルクスのアジア的社会論という場合、アジア的生産様式論を中核としたアジア社会の固有な性格についての議論を指すが、東方社会理論は政治的な意味合いが強く、むしろ東方社会主義論を意味する。つまり、東方社会理論は、東方社会主義理論とか東方社会発展道路というネーミングの方が、議論の実態を正しく伝えている。
 東方社会理論という名称の由来は、マルクスの本来の革命論が西方中心主義に基づくものであったとする考えから来ている。大方の見解をまとめると以下のようになる。マルクス主義の創始者たちは、ある社会が社会主義に至るためには、必ず資本主義を経なければならないと考えていた。資本主義が実現させた高い生産力、高度に発展した分業を前提として、初めて社会主義への道は切り開かれると考えていた。それゆえ、社会主義への可能性は西欧にのみ存在していた。では、西欧以外の遅れた諸国は、どうすればよいのだろうか。東方の遅れた諸国は、インドや中国のように、資本主義列強=西欧諸国の植民地もしくは半植民地になるしか、道はなかった。西欧列強の搾取や抑圧のもとで、資本主義を経験するほかなかったのである。
 ところが、1870年代初頭のパリ・コミューン敗北や、その後の第一インター解散に象徴されるような、西欧のプロレタリア革命運動の退潮のもと、マルクス主義の創始者たちは、東方へ目を向けていく。とくにロシアの急進的なナロードニキに関心を寄せるようになる。マルクスはロシア語を学びロシアについての理解を深める。同時期、マルクスは『コヴァレフスキー・ノート』や『モルガン・ノート』に代表されるように、人類学研究もしくは古代史研究を進め、原始的な共同体もしくは農村共同体の概念を発展させていく。1880年代に入り、ロシアの革命家ザスーリチの手紙に触発され、その回答の下書き(草稿)に、ついにマルクスは、ロシアの農村共同体は、幾つかの条件を満たせば、資本主義を経ずして社会主義に到達する、ロシア再生のための拠点となりうる、と述べる。その条件とは、まず、農民を収奪し、農村共同体に寄生することによって成り立っているロシア国家やロシア資本主義を、革命によって一掃することである。ロシアの農村共同体は、西欧の発達した資本主義と同時に存在しているので、そこで創造されたあらゆる成果を、取り込むことができると述べている。この部分は、同時期に書いた、『共産党宣言』ロシア語序文第二版に、「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」とあることから、革命に成功した西欧プロレタリアートとの提携が前提となっていると考えるべきであろう。
 中国の理論家たちを、心強くさせているのは、マルクスが「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」において、次のように述べた部分である。マルクスは『資本論』第一巻において、資本主義制度のもとでの農民の収奪(資本主義草創期の原始的蓄積、すなわち生産者の生産手段からの徹底した分離)の歴史的不可避性について述べたが、それは「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定されて」いるとした点である。つまり、西欧には属さないロシアには、『資本論』で述べた歴史的不可避性は該当しない、ということになる。ここから、マルクスは晩年、西欧中心史観から脱却して、非ヨーロッパ社会(東方社会)には、西欧とは別の歴史発展コース、より具体的には、社会主義に至る別の道があると考えるようになった、と解する、東方社会理論が成立する。社会主義に至る別のコースとは、西欧の、資本主義を経るコースではなく、資本主義を跳び越えるコースである。
 どうして、ロシアの農村共同体を崩壊の淵(原蓄期における農民の無慈悲な収奪)から救うという議論が、ロシア社会全体の資本主義跳び越え論となるのか、疑問とされるところである。実際のところ、諸家(東方社会理論支持者もしくはカウディナ山道派)の議論のなかに、納得のいく説明を見出すことはできない。だが、おそらく、農村共同体の救済のためには、ロシア革命が前提となっていること、また、そのロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となり、その成功した西欧プロレタリア革命との提携のもと、ロシア農村共同体が社会の新しい支柱となる以上、ロシア革命によって成立する体制は、社会主義もしくはそれに近い性格を持つと考えることは可能であろう。上記の文脈からして、革命ロシアの政府は、少なくとも、①西欧プロレタリア革命と連帯可能な政府であり、②農民の収奪(生産者の生産手段からの分離)を行わない政府でなければならないからである。だが、この点については、趙家祥「対“跨越資本主義卡夫丁峡谷”問題的商榷意見」(『北京大学学報』1998年第1期)が、もし当時ロシアに革命がおこるとしたら、その主導権を握るのは急進的なナロードニキ(人民の意志派)であり、それゆえ、その革命は、到底、社会主義といえるものではなかったことを指摘しているが、そのとおりだと思う。
 前号では、1995年前後のカウディナ山道をめぐる議論を瞥見した。筆者が取り上げた論者たちの多くは、カウディナ山道をめぐる議論に疑問を投げかける人々であった。実は、その多さにやや不思議な感じがしていた。というのも、カウディナ山道を冠した論文および東方社会理論に関する論文は、その後、ますます増えているからである。1990代、2000年代を合わせて、おそらく数百、多分、二百や三百ではとても収まらない数の論文が発表されていると思われる。そうだとすると、1995年前後の状況において、あのように疑問を投げかける理論家たちが多いとすれば、一体どのようにして議論が進んだのだろうか、と。
 筆者が今回読んだ論文は、そのほとんどが1990年代後半のものであり、そしてその著者のほとんどがカウディナ山道派、東方社会理論の支持者たちであった。明確な批判者といえるのは陳明軍「馬克思没有提出跨越資本主義“卡夫丁峡谷”的思想」(『河南師範大学学報』1999年第3期)のみであった。ということは、1990年代後半、おそらく1997年頃にはすでに勝負がついていたのだと思われる。郭榛樹「一個跨世紀的難題:“跨越卡夫丁峡谷”--馬克思的東方社会理論研究綜述」(『企業導報』1997年第3期)に、かつて、中国はまったくカウディナ山道を越えていない、あるいはカウディナ山道を越えることができない、さらには資本主義の補修を受ける必要があるという誤った観点をとるものがいたが、近年来の探究や討論によって、上述の誤った思想は基本的に除去された、と述べているのが参考になると思われる。資本主義の補修を受けるというのは、ソ連や東欧のように、社会主義からいったんカウディナ山道に戻って、資本主義を一定期間やり直す必要があると主張するものであろう。
 中国はいまだカウディナ山道を抜け出していないと主張して批判を浴びたのは、段忠橋「対我国跨越“卡夫丁峡谷”問題的再思考」(『馬克思主義研究』1996年第1期)である。彼はまず、ロシアの農村共同体には古代以来の共同体的土地所有を保っていたという優位性があり、それゆえ、カウディナ山道を抜け出した西欧プロレタリアの社会主義革命の後に、資本主義がつくり出した成果を取り込むことができるとされたのであり、そのよう共同体的土地所有を保持していなかった半植民地半封建の中国社会には、カウディナ山道を跳び越える可能性は存在しなかったと述べている。さらに、諸家を怒らせたのは、中国はいまだ完全にはカウディナ山道を抜け出していないと述べたことである。なぜなら、我が国は資本主義経済の要素(成分)を消滅させていないし、それどころか、今後長い期間にわたってこの要素の存在を許し、さらに発展させようとしている。中国はマルクスが述べるような社会主義社会に到達していないし、また西欧の発達した資本主義社会がカウディナ山道を抜け出していない以上、我が国もまた完全には資本主義というカウディナ山道を抜け出してはない、と段忠橋は述べる。
 この段忠橋の主張は、我々にとっては極めてまっとうなものである。だが、たとえ初級段階ではあれ中国がいまだ社会主義を国是とする以上、社会主義を資本主義と同じ水準で扱うことは許されない。布成良・陳海濤「我国没有走出“卡夫丁峡谷”嗎?--与段忠橋商榷」(『馬克思主義研究』1996年第6期)、張志義「我国目前還没有走出資本主義制度的“卡夫丁峡谷”嗎?」(『学術季刊』上海社会科学院、1997年第1期)、徐久剛「我国目前是否已走出資本主義卡夫丁峡谷--簡評両種対立観点」(『社会科学』1997年第11期)は、ともに、段忠橋に批判を浴びせているが、その根拠はいずれも薄弱である。20世紀ソ連で生まれ、中国もそれに倣った社会主義は、資本主義とは異なり、社会主義である以上、それはすでにカウディナ山道を抜け出したのだ、資本主義を越えたのだとか、中国の社会主義はマルクスが描いた社会主義よりは低い段階であるとはいえ、初級段階であっても社会主義であり、それをカウディナ山道とみなすことは、社会主義を否定するものだとか、中国はもともとカウディナ山道に入り込んでおらず、かつ1949年には社会主義段階に入ったので、カウディナ山道を抜けるとか抜けないなどということは問題にならないなどと言われようと、それらを信じるのは、あまりにも歴史に無知であるとしかいいようがない。どのような形であれ、社会主義と名がつけば、それ自体で資本主義以上に価値があると信じるものだけが、そのように言えるのだろう。
 姚亜平「対馬克思“跨越卡夫丁峡谷”設想研究的幾点思考」(『南昌大学学報』1998年第4期)には興味深い記述がある。マルクス・エンゲルスの東方社会理論は、後の実践とは大きく違うものであった。それは、パリ・コミューン以後、西欧にはプロレタリア革命が起こらず、東西のプロレタリア革命が互いに相補うという条件が実現しない状況のもとで、ロシアも、続いて中国も、社会主義建設を始めなければならなかったからである。東方の遅れた国々は、カウディナ山道の跳び越えを、西欧革命によって相補われることなく、一国における勝利の方法に照らして行なったのである。理論と実践は必ずや一致しないこともある。マルクス主義の運用は書物から出発するのではなく、すべては実際から、国情から出発しなければならない。我々がマルクスのカウディナ山道跳び越えの構想を研究することは、学風の問題である。一体全体、単純にマルクス主義の書籍のなかの片言半句から答をみつけようとするのか、真にマルクス主義の立場、観点、方法を堅持しつつ現在の中国の現実問題を解決しようとするのか、と。
 興味深いといったのは、カウディナ山道をめぐる議論、東方社会理論には最初から理論的に無理があることを、認めているかのような議論をしているからである。この理論は、実践に要請された理論なのだから、初めから無理があるのだ。だが、国情を重んじるならば、それ以外の選択がない以上、これを何が何でも擁護しなければならない。無理でもこじつけよ。筆者には、まるでそのように言っているかのように見える。
 これまで、カウディナ山道の議論、東方社会理論に関する論文を40本ほど読んできたが、厳密な、あるいは、しっかりとしたテキストクリティ―クにもとづいて論理を組み立てているものはほとんどない。とくにカウディナ山道派、東方社会理論の支持者の議論は、いずれも極めて相似た論理展開、相似た記述内容に終始している。たぶん、テキストクリティークは、上のどこかでなされているのかもしれないが、それを筆者がこれまで読んだ諸論文から窺うことはできない。我々は、「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」について、日南田静真、平田清明、福富正実、和田春樹、淡路憲治、若森章孝等による、厳密なテキストクリティークにもとづくすぐれた論考を読むことができるし、その議論の妙を味わうことができる。けっしてないものねだりをしているわけではない。
 さて、これまで読んだカウディナ山道の議論、東方社会理論に関する諸論文から、以下のような感想を得ている。以下、字数の関係から、議論の呼称を東方社会理論に統一したい。まず、東方社会理論が、東方社会の独自性、後進性を認めることの意味についてである。一般的な議論として、非ヨーロッパ世界の、ヨーロッパとは異なった独自性や、後進性を云々することは、いつの時代においても、可能であったであろう。だが、20世紀社会主義のマルクス主義歴史理論においては、そうではなかった。長くなるので、はしょって言うと、マルクス主義の歴史理論は普遍的な理論である以上、それが通じなくなるような、独自性をもった地域があったり、民族や国家があったりすることは許されなかった。1949年以降の中国マルクス主義においても同様であった。中国のマルクス主義歴史家たちは、中国の歴史を普遍的な歴史法則を体現したものとして記述していた。もし、特殊性や独自性に言及するとすれば、この普遍性の範囲内においてであった。ソ連や中国においてアジア的生産様式論が異端とされたのも、その支持者を見つけるのさえ困難であったのも、それゆえであった。郭沫若や田昌五は、中国の歴史に対する異質性の押し付け(外部から中国史の異質性を指摘されること)をつねに警戒していた。だが、1989-1991年以降、状況は変わった。ソ連・東欧社会主義圏の崩壊は、外部から中国の異質性を指摘し続けていた一方の勢力の消失を意味していた。さらに、重要なことは、中国がその歴史や社会の独自性や特殊性を強調しなければならない状況に陥ったことであった。1989年天安門事変以降、中国は世界の大勢に反して、20世紀社会主義を保持し続け、西欧諸国の人権問題をめぐる中国批判に晒されることになった。このような状況のなかで、党独裁を維持し、ともかくも西欧諸国との経済交流を維持しなければならなかった。自らを納得させ、外部からの批判をかわすためにも、中国と外国(西欧)との差異、国情の違いを強調することが必要であった。かくしてカウディナ山道の議論が発見され、それを中核とした東方社会理論が誕生したのである。非ヨーロッパ世界の歴史の独自性は、マルクス主義の創始者たち自身がすでに認めているとの指摘は、中国のマルクス主義者およびそのイデオローグにとっては、まさに渡りに船であり、また大きな慰めでもあったであろう。カウディナ山道をめぐる議論が、今日の中国ほど破格の扱いを受けている例はほかにない。カウディナ山道という言葉が一人歩きしている例もない。これまでの「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」をめぐる中国以外のマルクス主義者の議論のなかで、カウディナ山道に注目した例を筆者は知らない。少なくとも、上述の日南田静真以下若森章孝まで、いずれの論者もカウディナに関心を示していない。
 東方社会理論の理論的基礎は、究極には、アジア的生産様式論に求められるはずであった。だが、筆者のみるかぎり、アジア的生産様式論は、東方社会理論の下僕といった役回りを与えられているにすぎない。その関係をみると、カウディナ山道を冠した論文よりも東方社会理論と題した論文の方が、アジア的生産様式に言及する可能性がはるかに高く、また、いずれの側においても、1995年前後の論文の方が1997年以降の論文よりも、アジア的生産様式により多く言及しているといえそうである。そこから、1995年前後が、東方社会理論にとって重要な時期であったことが窺われる。おそらく、論者たちは、アジア的生産様式に言及することで、ロシアや中国など非ヨーロッパ社会(東方社会)の独自性が、1850年代以来、マルクスによって一貫して探求されてきたことを示すことによって、東方社会理論がたんなる間に合わせの理論ではないことを証明しようとしていたものと思われる。
 ついで、東方社会理論は、ロシア、中国がもともと遅れた社会であることを明示することによって、改革の困難さを強調し、それを無視したことが、多くの挫折につながったことを指摘している。これらの議論は、現在の改革は長期にわたるものであり、その過程においては、性急な政治改革は国情に合わない、つまり多党制とか西欧的な議会政治は時期尚早だと主張しているのだ。
 東方社会理論は、徹底した生産力主義をとっている。「進んだ・遅れた」の基準は生産力の差である。生産関係は二次的なものとされ、ましてや政治システムや文化はほとんど無視されている。生産関係が二次的なものとされているのは、ソ連や中国が先進的な生産関係、すなわち社会主義的生産関係をとっていたのに、経済的には欧米に大きく後れをとってしまったことを説明できないからである。はたして社会主義ソ連や中国の生産関係が、資本主義よりも先進的なものであったのかどうか、むしろ、アジア的生産様式や、オリエンタル・デスポティズムに飼いならされた生産システムにもとづくものではなかったのかなどとは、もちろん考えるはずもないのであろう。東方社会理論の力点は、スターリンや毛沢東の体制のもとで、生産力の発展が無視されたこと、それゆえ欧米資本主義にひどく後れをとり、1989-1991年の崩壊を招いたこと、に置かれている。そうである以上、1989年天安門事変以降の困難な時期にあっても、欧米の経済的な包囲のなかでも、欧米先進諸国との経済交流は維持され、発展されなければならない、と論者たちは力説したいのであろう。そこで持ち出されているのが、「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」の、進んだ西欧諸国と同時に存在していることが、遅れた、古き農村共同体の再生に有利に働く、との一節である。同時期の『共産党宣言』ロシア語序文第二版にある「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」の一節も、時に引用され、ともに、西欧資本や経済システム導入の理由づけに供せられている。だが、この交流はあくまでも、経済的なもの、あるいは中国の改革に役立つものでなければならない。マルクスやエンゲルスが、東西の革命が相補う、と述べた場合、交流は経済的なものだけに限らない。むしろ、デスポティズムに慣らされた東方の労働者や農民のためには、西欧プロレタリアートが培った政治システムの導入もまた重要であったはずである。それがなければ、東方では、労働者も農民も、せっかく獲得した政治的権利を、再び革命指導者に譲り渡してしまう可能性が高いからである。
 現在の中国のマルクス主義者にとって、そのような議論は余計なものであろう。さらにいえば、東方社会理論は、装いを新しくした中体西用論である。一般的には、誰であれ、中国の要路の人々は中体西用論者であるといえよう。欲しいのは、外国の進んだ生産技術、生産方法であって、文化はむしろ中国が進んでいるので、国外のものは必要ない。政治システムは、国外のものは国情に合わないので、頑固に拒否する。まさに、それらの点において、東方社会理論は、マルクス主義の皮を被った中体西用論である。遅れた中国の改革のためには、欧米の進んだ生産技術、生産方法を導入しなければならない。だが、マルクス主義にもとづき民主集中制は維持されなければならない、それゆえ、政治システムの導入は論外である。また、経済に付随してやってくる文化的なもの、とくに思想や価値観は、できるだけ侵入を阻止しなければならない。なぜならば、中国の方が優れているからである、あるいは外国のものは汚れているからである。もし、導入しなければならないとしたら、文化のなかでも経済文化、それも改革に役立つ経済文化を選択的に導入すればよいのだ、云々。(続く)