中国的なるものを考える(電子版第45回・通算第87回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第46号 2011.10.25 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

石門坎(Shimenkan)紀行
 夏休み、メソジスト教会の宣教師、サミュエル・ポラード(Samuel Pollard, 中国名:柏格理, 1864-1915)の布教の中心であった、貴州省威寧県石門坎を訪ねた。偶然、ネット上で、彼の故事(gushi)を読む、いたく興味をそそられたからである。

9月6日
 まず昭通Zhaotongに行こうと思い、昆明駅前の長距離バス・ターミナルに向かった。ところが駅の傍のバス・ターミナルでは工事が始まっていて、切符売り場が縮小され、昭通行きのバスはなくなっていた。切符売りの女性に、昭通行きはどこから出ているのかと聞くと、Baibuだという。Baibuにはどう行くのかと聞くと、タクシーに乗って行けばすぐ着くと答えた後、もう相手にしてくれなかった(後で、Baibuは北部beibuのことだとわかった)。困っていると、中年のおばさんが声をかけてきて、昭通行きならあそこから出ている、4時間で着くよ、と道の向こう側のビルを指していう。幾らだというと、130元だとのこと。130元が高いかどうかわからないが、4時間は魅力である。勝手の知らない町には明るいうちに着きたい。4時間が嘘だとしても、6時間で着くなら、まだ日は沈んでいないだろうと思って、おばさんの後を付いていった。ビルの谷間のようなところを入っていくと、中庭にワゴンが1台止まっていた。30前後の背の高い女性が、お金を集めていた。いつ出るのかときくと、11時だという。
 11時すぎ、客が集まり、出発となったが、運転手がいったん車を降りろという。言っていることがわからないので、ゆっくり言ってくれというと、自分たちの仕事は非合法なので、取り締まりのきつい昆明市内は別の車で行くから、そちらへ乗り換えてほしいとのことだった。
 小さなワゴンにすし詰めになりながら、昆明市内をぬけ、高速に入ったところで、先ほどのワゴンに乗り換えた。いったいこれがどんな取り締まり対策なのかわからないが、けっこう大がかりなことをやっている様子がうかがえた。先程の背の高い女性は、何人かの客に自分の携帯番号を教え、何かあったら電話してと言っていたので、事故った場合、つまり取り締まりかなにかにあって、昭通につかなかった場合、別の手段で送るというようなことをやっているかもしれない。この仕事を長くやるためには必要なフォローであろう。もし、取り締まりにあって、昆明と昭通の中間で降ろされたならば、時間によっては面倒なことになる。また、目的地につけない闇バスに誰が乗るであろうか。それに、料金は決して安くない。同じ区間を公共バスならば、92元とか107元かかるので、むしろこの闇バスのほうが高いのだ。
 しかし、この公共バスと闇バスの違いは、いろいろと考えさせられる。公共バスの切符売りや案内嬢は、無愛想きわまりない。何度利用しても、このつっけんどんな態度にはどうしても慣れることはない。それに比べれば、闇バスの運転手も、集金係りも親切というほどではないにせよ、とても愛想がよく、気がつく人々であった。
 5時頃、昭通に着く。着いたターミナルの出口には、農村汽車公司と書かれてあった。農村向けの小さなバスが集まっていた。時間的には、ほぼ6時間かかったことになる。日はまだ十分明るかったので、130元は無駄ではなかったと思う。
 そこからゆっくり歩いて、昭通客運中心站(バス・センター)に向かう。はたして、バス・センターから、貴州方面に向かうバスがあるかどうか、確かめておきたかったからである。だが、残念ながら、貴州方面に行くバスはなかった。さあ、どうすべきか。とりあえず、昭通の次に可能性のある彝良Yiliangに行ってみることにする。

9月7日
 昭通を11時50分に出発。いつの間にか寝てしまう。目が覚めると、ひどい霧で、20メートル先も、前が見えない。その霧の中をバスはゆっくり走っていく。
 2時頃彝良につく。バス・ターミナルで貴州方面に行くバスがあるかどうか聞く。切符売りの女性が、例のごとく、あっちで聞けというので、隣の部屋を訪ねる。中年の男性が熱心に僕の話を聞いて、いろいろと話してくれるのだが、残念ながら、なまりが強くて、ほとんどわからない。聴不懂(tingbudong, わかりません)と言ったら、少しゆっくりわかるように話してくれるのだが、龍街Longjie行きのバスに乗り、熊家溝Xiongjiagouで降りること以外、やはりわからない。親切に、どうやって行くかまで、書いてくれたのだが、それでも、はっきりしない。果たして、石門坎に行けるのか、それを知りたいのだが、行けると言っているみたいなのだが、どうやっていけるのか具体的にはっきりしない。
熊家溝から干橋へ 
 泊まるところを探していると言うと、彝良大酒店に連れていってくれた。多分、彝良で一番大きなホテルである。彼は開口一番、僕が日本人だと明かしてしまった。はじめから日本人などというと、値段交渉の余地がない。1日198元だという。これじゃ、昆明のホテルと同じではないかと思ったが、泊まることにした。受付の2人の女性とは、何とか標準語で会話できそうだった。
 それからが、意外に時間がかかった。ホテルにとっては初めての外国人だったらしく、パソコン上での外国人用の登記ができなかった。おそらく、全ての項目の記入がすまないかぎり、保存できないようになっているのであろう。結局、公安に電話をかけ、指示を仰いでいた。すると、公安が3人やってきて、処理することになった。その上、写真も1枚取られてしまった。彼らにとっても外国人は初めてらしかった。責任者と思われる女性が、あれこれ僕に質問し、一つずつ空欄を埋めていった。これからどこへ行くのかと聞かれたので、ネットで入手した石門坎の記事を見せた。彼らはしばらく読んだ後、何もいわずに返してよこした。おそらく、全部で、登記に40分前後かかったであろう。おまけに、コピーをするといって、僕のパスポートまで持っていってしまった。パスポートが戻って来たのは、その2時間後であった。多分、上司とか上部組織にお伺いをたてたのであろう。結局、石門坎には行くなとは言われなかった。それを僕は、行きたければ行ってみろと言っているのだ、と好意的に受け止めた。
 
9月8日
 8時にチェックアウトし、すぐにバス・ターミナルに向かう。狭いバス・ターミナルには、龍街行きのバスはなかった。やむなく、昨日の男性に聞こうと思い部屋を訪ねた。だが、昨日の男性はいなかった。ちょうど同じ席に座っていた男に、龍街にはどこから乗るのかときくと、何か言ってくれるのだが、聞き取れない。昨日の彼とはまったく違い、面倒なことは相手にしない様子であった。自分は日本人だが、というと、隣に座っていた男が、彼に聞いているわけではないのに、俺は何も知らないという。明らかに、昨日の反動が来ているようだ。粘って、ようやく、バスの出発点の方向を聞き出し、道々聞きながら、バスの出発点らしき通りに辿りつき、出発しかかったバスの車掌に、熊家溝に行くのかと聞くと、まず乗れというので、あれこれ考えても仕方ないと思い、そのバスに乗った。昨日バス・ターミナルの男性が書いてくれた路線図を見せると、10元だという。7元のはずだった。余所者だと思って、ぼっているのだろう。田舎道を走っているはずなのに、バスはひどい渋滞に巻き込まれ、1時間以上も立ち往生した。
 ようやく渋滞を抜け、山道に入ったバスが人っ子一人いない小さな発電所の横にさしかかったとき、突然、降りろという。何もないところで、おかしいと思ったが、ここが熊家溝站だといって降ろされてしまった。降りてみると、本当に何もないところだった。ようやく鉱産検問所という看板がかかっている建物をみつけ、中にいた男性2人に、自分は日本人で、石門坎に行くつもりだが、こんなところで降ろされて困っている。近くに農村バス(小汽車)のステーションはないかというと、ない、とあっさり答えた。じゃどうすればいいのかと聞くと、あと1キロほど歩くと、干橋Ganqiaoというところがあるから、そこで石門坎に行きたいと言えば、車を頼んでくれるというので、それを信じることにして、干橋まで歩くことにした。
 20分近く歩いて行くと、たしかに橋が見えてきた。橋のたもとの食堂の、あるじとおぼしき70歳前後の老人に、貴州石門坎に行きたいが、バスはあるのかと聞くと、ない、とこれもあっさり答えてくる。じゃどうすればいいかというと、包車(baoche, 貸切)がある。だが、山を幾つも越えて行かなければならないので、とてもお金がかかると答えてきた。迷っていると、まずとりあえず座れと言う。何か、可能性があるのかと、座って待つことにした。ふと思い出し、例の石門坎の記事を見せ、これを見たので、どうしても行きたいのだと伝えた。店のあるじと、中年の、たぶん、息子か、娘婿のような男が、代わる代わる、石門坎の記事を読み、それを僕に返してくれたが、その後、音沙汰がない。時間はもう正午ごろであった。もし、行く方法がなければまた彝良に戻ることになる。彝良に戻れば、おそらく公安の知るところとなる。何だかんだと手を煩わせたあげく、結局、石門坎に行けずに戻ってきたとわかれば、公安にせよ、バス・ターミナルの職員にせよ、きっと、ただ人騒がせな日本人だったと馬鹿にする違いない。偉そうなことを言っていた割には、根性のない奴だとか、覚悟の足りない奴だとか、思うかもしれない。やはり行くしかない、と思った。
 そろそろ心配になって、本当に行く方法があるのかどうか聞いてみた(你有辨法幇我去石門坎嗎?)。老人は、ある(有)、と大きな声で答えてきた。いよいよ本番の交渉が始まったという感じだった。やはり包車(baoche)すれば行ける、というので、幾らだと聞くと、120元だという。それでいいから頼むというと、二度ほど電話を掛け、それから、相手は120元では行かない、150元なら行くと言っている、と答えてきた。実のところ、彼らの方言はほとんどわからない。だが、電話のやりとりから、まんざら嘘でもない様子だったので、150元でOKした。もし、もう一度、値段をつり上げてきたら、きっぱり断り、俺は彝良に戻るというつもりだった。だが、その心配はなかった。しばらく待っていると四輪駆動がやってきた。これに乗れというので、乗ると、20代後半のがっしりした体格の男が運転していた。たぶん、余業で包車をやっているのだろう。雰囲気がタクシーの運転手などとはずいぶん違う。老人の娘婿のような男も何か石門坎に用事があるらしく、乗り込んできた。
 今までの公路とは違い、石門坎への道は、
 干橋から石門坎へ
ひどい山道が続き、車は激しく揺れ、体勢を維持するのも困難だった。道の左側は崖で、谷底に落ちれば命はなかったであろう。一瞬、日本人、貴州の山奥で遭難、などという記事になるのかなとつまらないことを考えた。運転手は慣れているのだろう、別に特に慎重に運転している様子をみせなかった。赤茶けた土に砂利をまいただけの山道は狭く、いったいどこまでが路肩で、どこからが崖なのか、わからないといった様子だった。道は狭く、車2台がすれ違うことは不可能だった。対向車が来たらどうするのだろうと心配していたが、オートバイとすれ違っただけで、車とすれ違うことはなかった。
 谷間に疎らに家の屋根が見え、ところどころに村らしきものが見えた。とても美しい風景に見えたが、ひどい揺れで写真が撮れないので、途中で車を止めてもらって1枚写真を撮った。何だが様子が、8年前に行ったベトナム北部のラオカイからサパに行くときの山道に似ていた。風景が似ているのは、ともに苗族が住んでいるということと、ひょっとして、関係があるのかもしれない。
 しばらく走ると、ようやく舗装された道になった。おそらく、険しい山道は10キロもなかったであろう。でも、この部分がまだ舗装整備されていないので、絶対に雲南側から貴州石門坎側まで、どんな小さな乗り物であれ、公共バスが通ることはないと思われる。だが、もしこれが舗装整備されれば、だいたいどの省境にでもあるように、彝良側から石門坎行きのワゴンバスやマイクロバスが通うことになるだろう。谷あいの景色は美しく、かつ険しく、けっこう、欧米の若者が好む、トレッキング・コースなども作れそうだった。だが、舗装された道も、路肩にガードレールがあるわけではない。へんに飛ばしでもすれば、そのまま崖下に転落ということになりかねず、危険なことには変わりがなく、もし日本ならこのような所を公共バスが走ることは、まずないであろう。
 舗装道路を1時間ぐらい走って、石門坎についた。ようやく着いたというべきか、意外に早く着いたというべきか。とにかく目的の石門郷に着いた。運転手は150元を受け取ると、あっさり何も言わずに僕を降ろして雲南側に戻ってしまった。普通、商売っ気のある運転手なら、宿を世話したり、レストランを紹介したりして、何か余分に稼ごうとするのだが、どうも、違うようだ。余業で包車をやっていると感じたのだが、たぶん、当たっているようだった。
 観光地ならば車を降りようとする時から、旅館の客引きが殺到するのだが、まったくそのようなことはなかった。誰も声をかけてこず、何か遠目で監視しているような感じだった。石門坎は今や建設ブームで、たった1本の目抜き通りに並ぶ店はみな建設中か改築中であった。雑貨屋のようなところにいた男に、旅館はあるのかと聞くと、この通りの高い所にあるというので、少しずつ目抜き通りを上っていった。たしかに何軒かなんとか泊まれそうなところがあった。だが、今訪ねて、外国人は泊めないなどと言われても困るので、もう少し上れば何が見えるのかと思い、曲がりくねった道を上っていった。
 ガソリンスタンドから見える町並み
 山道の途中、ガソリン・スタンドが見えたので、山上には何があるのか聞いたら何もないというので、引き返すことにした。ついでに、教会はどこにあるのかと訪ねると、山裾に見える集落を指さして、あそこだという。今通った目抜き通りのあたりだった。ありがとうといって、山道を下り、先ほどの泊まれそうな旅館の前を歩いていると、中の様子が見えた。小さな旅館で、受付用のカウンターもなく、ただ小さな机が1つあるようなところだった。旅館のなかに入っていくと、中年の女性と男性がいたので、泊まれるかと聞くと、女性がすぐに部屋に案内してくれた。部屋の感じを見て、まあ良いかと思い、実は自分は日本人だけれども泊まれるかというと、良いという。大丈夫かなと思いながら、でも、他に方法がないので、信じることにした。
 先ほどの所に戻り、パスポートを出して彼らに見せた。だが、受け取って写真を見ただけで返してくれた。登記は?と聞くと、曖昧に笑っていた。その後、しばらく中年の男性と話をした。どうも、女性の夫ではなさそうだった。例の石門坎の記事を見せると、すぐ、俺は読めないのだと答えた。たぶん、女性の方も、記事を読もうともしなかったので、おそらく不識字(bushizi)だったと思う。不躾かとも思ったが、何族か聞いてみた。どちらも漢族だという。でも、雰囲気は2人とも、彝族や苗族と言ってもおかしくはなかった。2人とも少し笑顔が多く、くったくがなく、それでいて押しつけがましさがなく、知ったかぶりもせず、湘西で出会った土家族Tujiazuが、こんな雰囲気だったなと思い出した。男性の方がはるかに標準語ができたので、その男性に、柏格理Bogeli先生の墓はどこにあるのかと聞くと、すぐさま知らないと答えてきた。そんなはずはないのにとは思ったが、別に何か理由があるのかと思い、それ以上聞かなかった。

 石門坎教堂
 その後、散歩にでかけた。教会らしきものはないかと、あたりを見回したが、それらしいものは見えなかった。町外れで出会った若者に教堂はと聞くと、今来た道の左側にあると言われたので、道を戻ると確かに教堂があった。くすんだ感じだったので、見逃したようだった。記念に写真を2枚とった。通りの中頃に、緑色のワゴンバスが止まっていた。フロント・ガラスに中水Zhongshuiと書いてあった。明日の朝、中水に行くのだが、何時に出るのかと聞くと、8時、9時、10時と1時間ごとに出ているとのことであった。とりあえず、明日、中水までは行けるということがわかった。だが、これで一安心とはいえなかった。中水から雲南側に行く公車(公共バス)があるかどうか、まったく見当がつかなかった。
 旅館に戻り宿代(30元)を払い、もう一度登記は?と聞いてみた。でも、どうもその気がない様子だったので、それ以上聞かなかった。本当は、登記した方がよかった。そうすれば、また公安が何人かお出ましになるか、あるいはこちら側が公安に行ってお伺いをたてるかということになったであろう。先ほど山道を上った時、公安と衛生院が、旅館のすぐ近くに、隣あって立っているのを見かけているので、もし必要ならば自分で行くつもりであった。7年前の11月、湖北神農山を通った時のように、公安からすぐに立ち退けと言われる可能性も考えた。だが、すでに5時を過ぎていたので、多分、ここに泊まるしかなくなるであろう、そう計算していた。それより、公安には、サム・ポラード(柏格理)の事績をウリにする石門坎の観光地としての性格から、今後、自分のような外国人、とくに欧米の若者たちが、頻繁に押し掛けてくるであろうから、僕が最初のケースだと思って経験を積む機会にしてほしい、と言うつもりであった(残念ながら、現地公安と話す機会がなかったので、外国人が普通に宿泊できるのかどうか確かめられずに終わった)。もし、石門坎の公安が、彝良の公安と同じように僕の話を聞いて、そのまま何も言わなければ、翌日は大っぴらに、周囲を見学して回るつもりであった。
 石門坎の目抜き通り

 だが、あれこれ考えて、翌日の朝、すぐに中水に立つことにした。もし、明日、いろいろ回っているうちに、外国人であることがばれ、ついでにこの旅館が公安に無断で外国人を泊めたことがわかったりすれば、せっかく泊めてくれた人たちに迷惑をかけることにもなると考えた。また、サム・ポラードが、どうして昭通にあった布教の拠点を、わざわざこんな山奥に移したのかという疑問も、現地の景観を見て、なんとなく理解できたつもりであった。実際にはたった1日、正味10数時間滞在しただけで、何がわかると問われれば、答えに苦しむところである。でも、それすらしていなければ、わかることもわからないままで終わる可能性があるのだ。

9月9日
 朝、中水に向けて出発、客は僕を入れて2人。だが、もう1人の客は運転手の知り合いらしく、お金
 昭通行のバス(中水鎮)
(30元)を払っていない。道は舗装されていて、あっと言う間に中水鎮に着いた。多分、1時間半もかからなかったであろう。降りる際、おそらくダメだと思いながら、雲南方面に行きたいのだが、バスはあるかと聞いてみた。ところが意外にも、ある、あそこから出ている、と指を指して教えてくれた。指の向こうに、バスが見えた。それが雲南方面へのバスらしかった。近づいていくと、車体に雲南昭通という文字が見えた。フロント・ガラスに高坎子Gaokanziと書いてあった。バスの傍にいた運転手風情の男に昭通に行くのかと聞くと、そうだという。幾らだと聞くと、6元だという。助かったと思うと同時に、この数日間の苦労は何だったのかとも思った。でも、大抵のことは、こんな風に決着がつくものだ、とも考えた。
中水を出発したバスはたちまちのうちに乗客でいっぱいとなった。途中、10人位の乗客が車掌を先頭に降りていった。誰も立っている客はいなくなった。どうして?と思っていると、向こうに公安の検問が見えた。バスは検問を通り、しばらく走った後、停車し、追いついてきた先ほどの乗客を乗せ、再び走り出
 昭南客運車站(昭通)
した。1時間も経たずに昭通に着いた。いったいどのターミナルに着くのだろうと思っていると、バスはひどく狭い路地を通り抜け、埃を被った小型バスが並んでいる中庭のような場所に入っていった。こんなところで降ろされたら、どうやって町の中心に行けばいいのかと思いながら、その小さなターミナルを出ると、門に昭南客運車站と書いてあった。遠くに車が頻繁に行き交う通りが見えたのでそちらに向かった。昭通一の目抜き通り、昭陽大道だった。昭通の地図を持っていたので、簡単にバス・センター(中心站)に行く道がわかった。かくして、石門坎への旅は、あっけなく終了した。