中国的なるものを考える(電子版第46回・通算第88回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第47号 2011.12.21 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

石門坎(Shimenkan)余話
 一月ほど前、右目の瞳の上の毛細血管から出血して、右目が使えなくなった。出血はすぐに止まったらしい。だが、広がった血が瞳を覆い、まるで曇りガラスを通して外を見ているようになった。慌てて眼科医を訪ね、それ以来ずっと薬を飲んでいる。瞳を覆っていた黒い雲は、だんだん薄くなってきており、右目だけを使っても、大体の輪郭はぼんやり見えるようになってきている。店の看板のような大きな文字も何とか読めるようになった。ただ、ちょうど焦点の位置に雲がかかっているので、まだ右目で読書することはできない。  
 右目が使えないといっても、左目で読書はできる。とはいえ、無理をしたくないので、読書のペースは、いつもの半分ぐらいに落としている。おかげで、サミュエル・ポラードと彼の布教活動について、今回、もう少し詳しく書くつもりだったが、限られた資料しか読めずにいる。いつものようには読書できないので、やむなく、以前ダウンロードしておいたサム・ポラードを描いた二つの動画を見ることにした。『在天那辺』(中央電視台)と『帯着愛来中国--柏格理之石門伝奇』(山東文化音像出版社)である。前者は訳せば「そらの彼方に」であろうか。ドキュメンタリーというより、ドラマである。後者は「愛をたずさえて中国へ」とでも訳すべきであろうか、一種の教養番組といった趣のものである。チャイニーズ・ヤフーあるいは百度の検索画面から、柏格理(Bogeli)と入力すれば、おどろくほど多数の記事が出てくるが、あせらずじっくり追っていけば、二つの動画を見つけることができるはずである。また、優酷(Youku)や土豆(Tudou)などの動画サイトにアクセスでき、かつ閲覧制限がかかっていなければ、すぐに観賞できるはずである。
 この二つの動画は、中国製であるということをあらかじめ考慮に入れておけば、かなり見られる方だと思う。もちろん、キリスト教の宣伝にならないように注意を払って制作したのであろう。だが、元来、そのようなものがほぼ皆無であったということを考えれば、この二つの動画は、キリスト教に対する関心を高めることに役立つであろう。
 『在天那辺』は、まず、彼の雲南昭通での布教活動がまったく振るわなかったことを描く。信者は獲得できず、彼らの苦闘も、住民からは、せいぜい単なる西洋式医療活動としてしか受け入れられなかった様子が映し出される。この辺は、おそらく、清末の欧米ミッションの布教全体を通じて言えることではなかったか、と思われる。儒教及び道教という「大伝統」の前に、さしもの彼らも、存外、無力であった。あまりにも成果があがらずに、家族とともに帰国を決意したポラードではあったが、その矢先、ようやく彼らのもとに苗族が教えを請いにやってくる。
 実のところ、これは一つの物語である。ストーリーを、わかりやすくするため、かなり省略がある。伝記風に仕立ててあるが、記録映画ではないので、史実を丁寧に追っているわけではない。この辺はやむをえないところであろう。たとえば、僚友邰慕廉(Dymond)らとともにメソディスト宣教会から中国に派遣されたポラードは、1888年、昭通において伝道を開始する。だが、その後まもなく、昆明に赴く。しかし、そこでも伝道があまりに不調であったため、やむをえず昆明を撤退し、1892年、再び昭通に戻っている(1891年、昆明において、内地会の会員であった埃瑪・韓素音Emma Haingeと結婚)。また、1900年、北方における義和団の乱を受け、香港に避難し、昭通に戻ったのは1901年11月のことであった。
 動画では、彼らが伝道活動の不振から帰国を決意したことになっているが、Emmaと結婚し、男子が4、5歳の頃と思われるので、時期としては、反洋教運動や義和団事件(1900年)の脅威を受け、彼らが香港に避難した時期のことになるであろう。おそらく、製作者たちは、ポラードたちの苦境と反洋教運動や義和団との関連を示すことをためらったのであろう。動画をみるかぎり、1888年、Dymondが天然痘に感染し、あやうく死にかけた話や、初期の宣教師とその家族が次々に病に倒れたこと、さらに、彼らの布教活動の苦境--信者がまったく増えないこと--が、一旦帰国を決意することに繋がったように描かれている。そこに、突然、苗族が現われ、ポラードたちの苦境を救うことになる。実際には苗族(花苗)が訪ねてきたのは、1904年のことである。また、それ以前にポラードは、すでに少数民族に関心をもっており、1903年にはノス(涼山彝族)の住む四川大涼山地区を旅行している。それゆえ、初めて昭通の伝道拠点に苗族を迎えた頃のポラードの気持ち、精神状態は、依然として布教活動の不振が続いていたということでは同じでも、動画に描かれているのとはかなり異なっていたと思われる。
 花苗は苗族の一支であり、湖南西部から貴州東部を経て、あるいは四川南部を経て貴州西北部に移住してきたと思われる。苗族のなかでは、もっとも貧しい支族に属するといわれている。当時、貴州西北や雲南東北は、彝族の土目によって支配されており、花苗も、種々の彝族(白彝、紅彝、干彝、娃子等々)とともに土目の支配に喘いでいた。貴州及び雲南東北の彝族は、一般にはナスと称されている。ポラードは、ナスであろうと涼山のノスであろうと、ノスはすべて、ロロと呼ばれることを嫌っているというような言い方をしており、貴州西北と雲南東北の彝族(ナス)もまたノス(涼山彝族)の一支と見なしていたようである。なお、土目とは土司の下の地方支配者のことであるが、領主と訳せば封建領主と混同される可能性があり、むしろ、砦主とでも訳した方がよいと思われる。
 花苗は初め、貴州安順で伝道を行っていた党居仁(Adam)を訪ね、教えを請うていたが、こんな遠くに来るよりも、近くに柏格理(Pollard)がいるから、そちらへ行くように勧められ、昭通の伝道所を訪ねて来たのだった。アダムは内地会(中国伝道のために設立されたプロテスタント伝道会。教派にこだわらないことを特色としていた)に属していたが、内地会と循道公会(メソディスト)とは、良い関係にあった。最初、ポラードのところへやってきた花苗は4人であったが、次々と花苗が昭通を訪れるようになった。ポラードを訪ねる花苗が増えるにつれ、彝族土目たちの怒りをかうことになる。土目たちは花苗を脅し、ポラードに会いに行くこと止めさせ、従わないものには暴力を加えた。
 ポラードは、花苗が住んでいる貴州西北に入り、土目の暴力的な支配のもと、貧しさに喘ぐ花苗を援助しつつ、当地における布教を開始する。確かに、貴州の山奥に拠点を移すことに危険はあったであろう。ただ、彼はイギリス人であり、天津条約(1858年)により、キリスト教布教の自由が認められ、宣教師の保護が義務づけられており、地方官がは彼らを守らなければならなかった。すなわち、ポラードたちが現地に乗り込んで布教活動した方がはるかに、帰依した花苗たちを守りやすかったのである。宣教師たちがつねに身の安全を脅かされるようになったのは、むしろ中央政府が地方への統制力を失った民国期の軍閥混戦の時代のことである。
 
 
 動画では、彝族の土目老七にポラードが拉致される話や、官府に捕われた老七を、苗民の信仰の自由と引き換えにポラードと苗民が金を工面して釈放させる話、老七から学校建設のために「一頭の牛の皮」分だけの土地買う話などが描かれているが、これらは、個々の事実や伝説を繋げた、やはり「お話」である。ドラマ風の脚色というべきであろう。「ポラードの日記」(『在未知的中国』, 2002)では、1905年3月、苗民のための教会の建設地を探し山区に入り、馬鞍山を抜けた折り、老七の要塞に辿りついたとある。また、石門坎に土地を買ったのは、同じ3月末であり、老七からではなく、安という姓の地主からである(『在未知的中国』所収の「苗族紀実」には安栄とある)。安という姓からして、彝族(ノスorナス)であろう。また、獄中から老七が助けを求めてきたのは、1911年4月のことである。
 石門坎における伝道活動は、驚くほどの成功をもたらす。昭通における循道公会の布教が、十数年のひたむきな努力にもかかわらず、みるべき成果をあげていなかったのとは対照的に、ポラードのもとには貴州・雲南の省境地帯の苗族が大挙して訪れ、布活動教は俄に熱気を帯びる。また、彝族の帰依者もそれに続いた。苗民に対する布教の便のために、ポラードが苗文字(Pollard Script)を考案したのも、その頃であった。最初の苗語の「新約聖書」は、1919年、日本のメソディスト教会の手で印刷されたといわれる。
 おそらく、このような布教活動の成功が、当地の土目や地主たちを恐怖させたのであろう。ポラードへの威嚇はつねに存在したが、実際に、ポラードが襲われたのは、1907年4月のことである。雲南東北の永善県附近で地主武装勢力に襲われ、リンチにあったあげく、殺されかけている。これは、動画でも描かれている。ただ、襲った相手が誰かは、省かれている。幸いにも、この時期、Emmaと二人の子供は、帰国しており、難に巻き込まれることはなかった。だが、この事件は、故郷のメソディスト教会を震撼させ、ポラードは翌年4月、報告と休暇のため、帰国している。ポラードが、布教に伴う危険を顧みず、再び、中国に戻って来たのは、1910年1月である。帰国後、天然痘の蔓延と闘い、各地に教会や学校を建て、骨身を惜しまず活動を続けた。1915年、教会学校の子供たちが次々に傷寒(チフスorインフルエ
 
 
ンザ)に感染し、ついにはポラード自身も病に倒れる(1915年9月15日、死去)。
 動画のなかで、気になったのは、ポラードが自分の息子に、故郷の話をするところである。自分の祖先はコーンウォール人で、我々は苗民と同じく、英国の少数民族なのだと述べるくだりである。この点は東人達が強調しているところでもある。雲南あるいは中国西南を訪れた宣教師の多くが、下層出身であり、また多くが、コーンウォール(Cornwall)やデボン(Devon)の出身であった(東人達, 2004)。イギリスの地図を思いだしてほしいのだが、イギリス南部の、アイルランド側に延びる半島に、デボンとコーンウォールがある。古来より、ケルト系の影響の残るところであった。フランスでいえばブルターニュにあたるのであろう。筆者のキリスト教、特にイギリスのプロテスタントについての知識は、ほぼ、クリストファー・ヒルの清教徒革命に関する一連の著作やE.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』における非国教会系や労働者セクトに関する記述を読んだおり、仕入れたものであり、もとより限られたものにすぎない(なお、E.P.トムスンはメソディスト宣教師の家に生まれている)。それでも、非国教会系の、あるいはメソディストの宣教師の多くが、下層出身であることは、納得がいく。それに対し、コーンウォールやデボンといったケルトの後裔を、そのような系譜に繋げて考えることは、これまでなく、意外にも思い、新鮮にも感じた。
 最後に『帯着愛来中国』についても、一言。その終わりの場面で、ポラードおよびその後継者たち、そして教民の努力の結果、石門坎地区が、文化、教育、医療衛生などの分野で面目を一新したことを述べる。さらに、胡錦濤が貴州省委書記であった時(1985-88)のある幹部会議において、地方幹部の模範として、ポラードの事績を称え、彼らが育てた人材のなかから、2人の苗族出身の博士、2人の彝族出身の博士と、20余人の中共廰級以上幹部、100人近い県級幹部を輩出したこと、科学知識と西方文化の普及に貢献したと述べたことを伝えている。
 中国西南キリスト教史の研究者である東人達(2004)は、石門坎を代表とする雲南・貴州・四川省境地帯のキリスト教運動の意義は、各族民衆の文化や科学の水準を高め、愛国意識を強めたことであるとし、さらに、苗族や彝族がキリスト教を選んだのは、目的としてではなく、方法もしくは道具として、であり、その40年後、彼らは幻想を捨て、共産党を選ぶことによって、方法と目的を統一したのだと総括している。では、なぜ、1949年以後、石門坎や威寧が、内陸諸省のなかでもっとも貧しいとされる貴州のなかでも、さらに貧しい地区に落ちぶれたのか、あるいは貧しいまま放置されたのであろうか。また、なぜ、今日再び、ポラードと石門坎教会の歴史と伝説を頼りに地域振興を図らねばならないのであろうか。この2つの動画を見て、誰もが、そう思うにちがいない。

参考文献
東人達 滇黔川辺基督教伝播研究(1940-1949)  人民出版社 2004年
柏挌理、王樹徳他 東人達他訳 在未知的中国 雲南民族出版社 2002年
W.A.Grist, Samuel Pollard: Pioneer Missionary in China, Cornell University Library, 2011.