中国的なるものを考える(電子版第47回・通算第89回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第48号 2012.02.11 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南四話
これまで、雲南で見たこと、出会ったことについては、随分書いてきたつもりだが、それでも、テーマとの関連や、紙幅の都合から、まだ語っていないことがある。今回、そのなかから、幾つかまた書いてみたい。

1 カナーン(Canaan)
 
 文化港
もう9年前のことだが、在外研究の土地として雲南を選んだ筆者は、当時、サーズ(新型肺炎)が中国で猛威を振るっている中、昆明に着いた。実際には、雲南も貴州も、サーズの流行とはまったく関係がなかった。大学街のはずれ、文化巷にある雲南大学外国人招待所に宿をとった筆者は、その近くにあるカフェ(喫茶店)に足しげく通い、時間をつぶしていた。なかでもカナーン(迦南地)という喫茶店が気に入って、最初の二カ月間は、ほとんど、毎日のようにコーヒーを飲みに行った。カナーンは、カウンターの前に、ただテーブルとイスがあるだけの、素っ気ないつくりだったが、そんなことはまったく気にならなかった。とにかく、中国で、毎日、コーヒーが飲めるというだけで、ありがたかった。
 カナーンのカフェ(喫茶店)

 店には、三人の姑娘(guniang)がウエートレスとして働いていた。阿鵬(A Peng)、小菲(Xiao Fei)、劉雁(Liu Yan)、みな気さくで、普通に親切だった。普通に親切というのはおかしな表現だが、わざとらしい親切さではなかったという意味である。オーナーの娘である阿鵬には、昆明での生活に必要なことについて、いろいろと教えてもらった。ある時、店の名前がカナーンなので、キリスト教に関係があるのかと聞くと、彼女自身がクリスチャンだった。多分、オーナーである彼女の母親もそうなのだろう。残念なことに彼女がカトリックなのか、プロテスタントかまでは聞かなかった。逆に阿鵬は僕に、何を信仰しているのかと聞くので、まさかマルクス主義とも言えないので、へらへらしながら、何も信仰していないと答えると、「人は信仰を持つべきです」としっかりとした口調で言った。その時、母娘とも、きっと、信仰すること自体そう簡単ではなかった時代からクリスチャンだったのだろうと思った。
 雲南に行ったばかりの頃は、それ以前の精神状態を引きずっていて、気分がすぐれず、毎日、無為に暮らしていた。それでも、毎日のように、夕方には翠湖周辺を散歩し、その帰りにカナーンでコーヒーを飲み、ぐずぐず時を過ごすうちに、何とか、ここでやっていけそうな気がしてきた。外国からだといって大した気を張らずに、自然に生きていけそうだった。これから何をするかは、ゆっくりと決めていけばいいのだ、そう自分に思い込ませることができた。
カナーンは、その後、次第に大学生が増え、彼らの大きな話声で、静かにコーヒーを飲むことが難しくなり、自然に足が遠のくようになってしまった。それから何年か後、カナーンは、流行らなくなったらしく、別の店になっている。

2 バスの中で
 多分、2003年の5月頃だったと思う。昆明に来てから1ケ月以上が経ち、少しずつこの町が好きになってきた頃のことである。昆明はバスが発達していたので、よくバスにのって、あちこちに出かけた。ある時、乗ったバスの中で、中ほどの席に座っていた二人の女の子--多分、小学5、6年生ぐらいだったと思われる—-がジッと入口の方を見つめているのに気がついた。何を見つめているのだろうと、視線を追うと、老夫婦が二人、ゆっくりと乗車口から、中へと入ってくるところだった。バスはそれほど込んではいなかったが、前の方に空き席はなかった。二人の少女は、老人たちがゆっくり中ほどまで来るのを、中腰になり、今か今かといった風情で、待ち構えていた。ちょうど老夫婦が彼女たちの手前に来た時、彼女たちは立ちあがって、何か、一言、二言、声をかけ、席を老夫婦に譲った。老人たちは、多分、ありがとうを言いながら、ゆっくりと席に腰を沈めた。老人たちも微笑んでいたが、それ以上に、少女たちがすごく嬉しそうにしていたのが印象的だった。
 以前ならば、三好学生(sanhao xuesheng)のための点数稼ぎなのかしら、と勘繰るところだが、その時は、そう思わなかった。実は、その後、自分も何度もバスの中で、若者たちから席を譲られることになった。遊び帰りのアベックから席を譲られ、こういう人たちも、老人に席を譲ることを当たり前の行為としているのだと感心した。ただ、席を譲られる度に、申し訳ない気がして仕方がなかった。もし、譲った相手が日本人だとわかったら、多分、中には、譲ったことを後悔する人がいたのではないかと、心配したからである。

 昆明のバス停

3 バスの旅の途中で
 2005年1月、後2カ月で、在外研究が終わるという時期に、それまでまだ行ったことがなかった雲南西部を少し見たくなった。それから、シーサンパンナを回り、さらに東に向かい、河口(Hekou)から対岸のベトナムの町、ラオカイに出るつもりだった。まず、1月5日、大理から雲県に向かい、雲県から双江、続いて瀾滄へと向かった。おそらく、雲県から双江への長距離バスのなかの出来事であったと思う。バスといっても小さな、マイクロバスか、ワゴンだったと思う。運転手は20代後半か、30代前半の若い男だった。バスがある中継所のようなところに止まった時、運転手が客に、この前方で公安の検問があるので、定員オーバーだと高い罰金を取られるので、誰か一人降りてほしい、と言った。もちろん、誰も降りようとはしなかった。運転手は、さらに、降りても、すぐに次のバスが拾ってくれるので、心配はないと言って、誰か降りてほしいと、催促した。予想通り、それでも誰も降りようとしなかった。運転手はやむをえず、一番入口に近いところに座っていた男に、手で軽く、おいでおいでをしながら、「来、来」と呼びかけた。驚いたことに、呼びかけられた30代の男は、どうして俺がというジェスチャーをしながら、立ち上がり、少し苦笑しながら、降りてしまった。他の乗客も、そんな彼をにこにこしながら見送っていた。運転手の言うことを真に受けるなんて、馬鹿な奴だ、などとした顔で見送る者はなかった。
 もし、自分が指名されたら、果して降りたであろうか。中国で暮らしたことから学んだことは、そんな時、絶対降りてはならない、とうことである。運転手の口約束など当てにならない。約束は、その場でしか通用しないし、人が換れば、約束も反故になると考えるのが正しいのである。降りた男と運転手が知り合いだとは思えなかった。たとえ、知り合いであったとしも、多分、客と運転手の関係でしかなかったであろう。今、思い出しても不思議な光景だった。


臨滄・双江間1



臨滄・双江間2

4 「ご免なさい」
 昨年9月、貴州石門坎を訪れた、その帰りの出来事である。昼頃に昭通に戻り、東川行きのバスに乗りたかったのだが、切符が売り切れていて乗れず、仕方なく会沢に行き、10日の朝、昆明に戻ることにした。会沢に着いたのが16時半頃であった。町の雰囲気として、どうにもありきたりの街で、泊まる気になれずにいると、17時発昆明行きのバスがあることを知った。もともとは16時半発の便が17時に延びたらしい。深く考えず、早く昆明に着いた方が良いと考え、そのまま昆明に向かった。昆明北部車站についたのは夜9時前であった。96番のバスに乗って10時過ぎに一二一大街に着いた。旅のスケジュールを予め縛っておきたくないので、よほどの時でないかぎり、ホテルを予約することはない。その時も、そうだった。慌てて建設路の如家酒店に向かう。だが、入り口から覗くと、たくさんの若者たちが受付カウンターの周りを取り囲んでいた。何となく胸騒ぎがしたが、如家酒店は若者にも人気だと聞いていたので、新金花賓館ならばそんなこともないはずだと新金花賓館のある昆師路に向かった。新金花賓館は一昨年の大晦日から3日泊まったことがあるが、さびれていて、とても満員になるとは思えない、さえないホテルであった。ところが、おどろいたことにそこも、受付の周りを若者たちが二重、三重に取り囲み大変な騒ぎであった。
 はっと気が付いた。いつも、8月の終わりには、こんな風景が繰り広げられていたことを。新学期、新入生が来校して報名(baoming)することになるが、昆明に来た最初の数日をホテルで暮らす学生が出てきた。その結果、8月下旬から9月初旬は、大学街である一二一大街周辺のホテルは満員となる。たぶん、大学生活のスタートをなるべく良いホテルに泊まって始めようとするのであろうが、その割を食うのは、我々外国人である。というのも、大学街の周囲で外国人が泊まれるのは、わずか4つしかない。それが学生たちで埋まれば、我々は大学街から遠く離れた地区でホテルを探さなければならない。そのことはいつもなら用心していることなのだが、まさか9月9日にもなって、そんな事態が来るとは思いもしないことであった。
ともあれ、宿は探さなければならない。一番良いのは昆明駅周辺である。そこなら無数のホテルがあり、外国人が泊まれるホテルも、たくさんある。また、客引きについて行って、実は日本人だが、と名乗る方法もある。本来は外国人を泊められないホテルでも、客引きが必要なホテルは、そんなことにかまっていられない。また、雲南のホテルの客引きは、相手が外国人だからといって、ビビったりしないので、断られることもない。
 問題は時間であった。夕方ならばともかく、もう10時をとっくにすぎた時間に、タクシー以外に新金花賓館のある昆師路付近から昆明駅まで行く方法はない。慌ててタクシーを拾おうとしたが、タクシーがつかまらない。幾ら待っても、タクシーは明かりを落としたままどんどん通り過ぎていく。そのうちバイクが数台、次々やってきた。バイク・タクシーと言いたいところだが、多分、ヤミでやっているのだろう。昆明駅まで幾らだと聞くと、20元だと答える。ふざけるなと思い、行け!とばかりに、手を横に振った。駅まで20元ならタクシーと同じではないか。人の弱みにつけ込んで、と思って余計に腹が立った。ところが、その後はタクシーばかりか、バイクもやってこなくなった。待っても、待っても、つかまらなかった。こんなことなら、あの時、バイクに乗れば良かったと思ったが後の祭りであった。
 すでに時間は11時をすぎ、だんだん、車の流れも、人通りも少なくなり、次第に心細くなってきた。以前ならば、知り合いの留学生がいる雲南民族大学の教職員宿舎を訪ねれば、一晩ぐらい泊めてもらえたであろうが、とっくにみな帰国してしまっている。駅までは歩けば2、3時間くらいかかるだろうし、歩いているうちに、公安にでも誰何されれば、格好悪いし、などとくだらないことを考えていた。
 時間がたつにつれ、本当に困り果ててしまった。ふと周囲を見ると、○○旅社という看板(牌子)が目に入った。昆明のような省都になると、外国人が泊まれるホテルと泊まれないホテルの線引きがはっきりしている。それでも、県城クラスのホテルのように、困った外国人を一晩泊めてくれるケースもあるので、もう頼み込むしかないと、後先を考えず、旅館のなかに入って行くと、制服を着たいかめしい感じの50歳ぐらいの男が座っていた。まずいと思ったが、カウンターにいた受付の二人の女性に部屋はあるかどうか、聞いてみた。ある、100元だという。日本人だけでも泊まれるかと聞くと、「対不起duibuqi(ご免なさい)、ここは対外非公開の単位(danwei 機関)のホテルなので、外国人を受け入れることはできません」との答えであった。やっぱりそうか、と思いながら、とにかく窮状をそのまま訴えてみた。意外なことに、例の50歳ぐらいの怖い感じの男性が、じゃ、自分も一緒にタクシーを捕まえてやるからと言ってくれた。二人でまた往来に出てタクシーを捕まえにかかった。だが、同じだった。10分ほどすぎた頃、彼が、自分の単位(danwei)が使っているタクシー会社に電話して、タクシーを呼ぶといって携帯を取り出し電話をかけ始めた。その時、ようやく、近くで客を降ろしたタクシーが一台近づいてきた。男は電話を慌てて切り、タクシーを止め、数こと、運転手に声をかけ、僕をタクシーに押し込み、そのままホテルに戻って行った。僕はお礼を言おうと、慌てて、タクシーの中からドアーの窓を叩いて合図をしたのだが、多分、聞こえなかったのであろうか、振り向いてくれなかった。今から思えば、車を降りて、お礼を言うべきだったのだが、それができなかったことが悔やまれた。
 あの男性も親切だったが、運転手もまた人がよさそうだった。さかんに声をかけてきて、現在、昆明は韓国人も日本人も多いとか、昆明に来るのは昆明の気候がよいせいだとか言ってきた。韓国人が多いのは知っているけれど、日本人は以前と比べるとすごく少ないとは思ったのだが、そのまま聞いていた。駅周辺につき、初め、すごく豪華なホテルに入っていった。僕は慌てて、こんな高級なところは困る。バックパッカーには、こんな立派なホテルはふさわしくないというと、笑って、じゃ星二つのところへ行こうといって、知っている二つ星のホテルで降ろしてくれた。福保大酒店だった。運転手にお礼を言って、中に入っていくと、どこにでもある普通のホテルだった。一晩幾らだと聞くと160元だった。外国人も泊まれるか、というと、もちろんと答えてきた。ついでに、「どこも満員だからここに来たんでしょう」と言う。普通なら受付けのくせに客に対して言い過ぎじゃないのかと思うのだが、この日ばかりは、「まったくその通りだよ」、「一二一大街付近は学生で溢れて、泊まれなかった」と正直に答えた。
 こんな話は、本当にみっともない話で、本来とても人に話せることではないが、そんな困った時にも、正直に話して、頼み込めば何とかしてくれるのが雲南人だし、雲南旅行の醍醐味なんだと思う。人の弱みにつけ込んで、あぶく銭を稼ごうとする輩がいないわけではないが、一肌脱いでくれる人もたくさんいる。
 それにしても、何故、あの旅館の受付の女性は、「対不起」(ご免なさい)と言ったのだろうか。今までの経験から言えば、非公開単位(機関)の旅館などに飛び込む外国人の方が間違っているのであり、受付がご免なさい、などということを言わなければならない理由など、全くない。少なくとも中国人ならそう思うはずだ。非公開単位向けの旅館が外国人を泊めれば、当然、罰せられるだろう。断って当然なのだ。謝る謂われはない。きっと、あの受付の女性は、困って訪ねてきた人を助けてあげられない、だから、「対不起」と言ったのだ。多分、その一言が、あの制服を着た男性を動かしたのだろう。また、あの時、男性が助けてくれず、やはり僕が自力で、他の宿を探すことになったとしても、あの「ご免なさい」を、今と同じような気持ちで思いだしたであろう。僕は、彼女の一言に救われたのだった。