中国的なるものを考える(電子版第48回・通算第90回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第49号 2012.04.26 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

やわらかな「水の理論」の世界その1
「水の理論」への柔軟なアプローチ
 2月5日、NHKで雲南ハニ族の棚田を取材した『天空の棚田に生きる』を放映していたが、運よくみることができた。テレビはふだん見ないが、大河ドラマ『平清盛』があまり評判が良くないので、かえって関心をそそられ、時々みている。その日は、おりよく午後9時から『天空の棚田』が放送されたために、見ることができた。番組では、ハニ族は1300年前から棚田を営んできたと、さかんに言っていた。ハニ族の祖先は、他の部族との争いを避け、現在の雲南南部に移り住み、農耕には不利な山地を耕すことになったといわれている。ただ、雲南南部は雨が多く、哀牢山地に発生する濃霧が、さらに水分を補給している。ハニ族は、山上の森を守り、そこから湧く水を利用し、棚田を築いたのであろう。また、ハニ族の棚田は、その景観の美しさから、以前より青柳健二などの写真家たちの関心を集めており、彼らの写真はネットででも、みることができる。


元陽・箇旧間 冬の棚田(緑春・金平間)

 2004年春節、在外研究で雲南民族大学の教職員宿舎に住んでいた頃、留学生を集め新年会を開いたことがある。ちょうど、元陽県の長街宴を見に行っていた日本人留学生たちが戻って来ていて、ハニ族の棚田の素晴らしさを口にしていたことを思い出す。その時が、ハニ族の棚田を耳にした最初であったかもしれない。長街宴は、棚田の豊饒を祝う祭りだが、村人が総出で、それぞれ自分の家でつくった料理を、長く連ねた食卓に並べる共餐(きょうさん)の儀式である。友人の話では、『単騎千里を走る』(張芸謀監督、高倉健主演)でも、長街宴のシ
元陽
ーンがあるとのことである。実は、筆者は、2008年夏に元陽を訪れている。すでに、元陽は観光地化しており、数は少ないが欧米の観光客も顔を見せており、棚田めぐりは、その格好の観光コースとなっていた。元来がへそ曲がりの筆者は、元陽附近の小さな棚田を見たことで満足し、天空の棚田を見ることをあきらめてしまった。聞けば、2013年には元陽の棚田が世界遺産に登録されるとのことだが、もしそうなれば、麗江と同じように、観光客で溢れかえることになるだろう。今度は行くこともためらわれることになるかもしれない。
 ハニ族はチベット・ビルマ系の民族である。多くの支系があり、共産中国成立以前は、それぞれ別の名称で呼ばれていた。共産中国成立以後、民族識別の際、ハニを総称とするようになった。東南アジアでアカ族と呼ばれる人びととほぼ同じである。ハニ族は彝族に近いと言われている。ブロガーのなかには、ハニか、あるいは他のチベット系の民族かの相違は、この棚田を営むかどうかが大きな決め手となったといわれていると語っているものがいるが、どうであろうか。彝族にも棚田を営む人たちがいるからである。
 ヤフーやグーの検索画面から、天空の棚田、と入れると、ブロガーが書いた沢山の記事が出てくる。筆者と同じように、『天空の棚田』を見て、みな感動したのであろう。ありがたいことに非常に詳しく書いている人もおり、各ブロガーの記事を丹念に追っていけば、番組の内容がほぼ再現されることになる。そして、そこからブロガーたちが何に感動したか理解できる。田越し灌漑を中心とする村人たちの共助、不公平にならないよう棚田の上と下、二箇所の土地を各戸に分ける土地システム(普高老村)、村人の選挙で選ばれた溝長による公平な水分配、年中田に水をはり、害虫を食べる鯉が育つ有機農業、棚田の生命線ともいえる畦づくりでの刻苦奮闘、エコ・システムを配慮した自然と共生する農業など、我々の社会からすでに失なわれてしまったものを描いていたからである。棚田特有の、水路を通さず、一つの田から、隣の別の田へ、あるいは上の田から下の田へ水が流れていくような灌漑方法を田越し灌漑と呼ぶが、おそらく、このような水のあり方が、アジア農村社会の特有のあり方を象徴している。というのも、このような農業においては、農民それぞれの経営(農民の自己経営、小農民経営)は、つねに他の経営(隣の他の所有者)あるいは水を管理する共同体との関わり抜きでは成立しないからである。つまり、自己経営は、ここでは共同体の存在や関与抜きでは成立しないのだ。

元陽新街鎮 南定河(孟定・耿馬間)


 史軍超『金穀魂--雲南稲作文化之自然崇拝』(雲南出版集団公司&雲南美術出版社、2008年)によれば、雲南の稲作文化は三形態に分かれる。壩区の水田稲作、亜熱帯山区の棚田水稲、そして亜熱帯山区の刀耕火種(焼畑)である。それぞれに雲南の農業景観を形作っているが、目下のやわらかな「水の理論」で対象とするのは、最初のタイプと第二のタイプである。壩区とは壩子(坝子, bazi, バーズ)、雲貴高原特有の河谷盆地、山間盆地のことである。
 以前より、壩子(バーズ)が雲南の歴史で重要な役割を果たしていることは理解していたつもりであった。だが、それを水の理論に結びつけて考えることはなかった。それを教えてくれたのは、若狭徹『古墳時代の水利社会研究』(学生社、2007年)である。若狭がフィールドとしているのは、群馬県の南東部に開ける平野部である。そこでは、利根川に流れ込む多数の支流が流れているが、その小水系に沿い、古代において数多くの古墳あるいは古墳群が築造されている。ウィットフォーゲルに触発され、各々の水系の水利を担う共同体の長たちの間から、政治支配への歩みが生まれたと、若狭は考えたのであろう。それを読みながら、筆者は、ふと、この小水系を壩子(バーズ)に置き換えると、雲南古代における首長制の展開とか初期国家の成立がわかるのではないか、と考えた。残念ながら、雲南には古墳にあたるものはない。それゆえ、明確な指標が欠けているといえるかもしれない。だが、壩子を中心とした水利社会の成立というのはとても魅力的に見えた。若狭徹(2007)は、ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』(1957)を肯定的に引用している極めて数少ない著作の一つである。ようやくにして、日本においても、ウィットフォーゲル・パニックとは無縁の研究者が登場したといってよいと思われる。
 このエッセイでも、アジア的生産様式論争、或いはその周辺の話題について、よく書いてきたが、そこから筆者の関心は、次第に灌漑や治水の歴史にひろがり、さらに最近は、「水の理論」の再評価につながるテーマで論文を、書くようになっている(福本勝清「マルクス主義と水の理論」『明治大学教養論集』№462、2011年;「水の理論の系譜」(一)『明治大学教養論集』№476、2012年)。
 昨年、amazon.comで、灌漑と具体的な地域や国の歴史とを組み合わせて検索したところ、かなりたくさんの書名が出て来て、社会経済史に関わるようなものはできるだけ入手するようにしたところ、あっという間に30冊以上集まり、書棚に並ぶことになった。ところが、その後、右目が使えなくなってしまい、読書量を落とさなければならなくなり、一気に読むということはできなくなっている。それでも、少しずつ読んでいるのだが、意外に面白い著作が多くて困っている。左目を疲れさせないため、一日、多くても30~50頁ほどしか読まないようにしているのだが、思わず内容につりこまれて、それ以上読むことがしばしばある。そのなかから、少し雲南にかかわる話題をひろってみたい。
 といっても、筆者は、その実、雲南の農業--現状についてであろうと、その歴史についてであろうと--に詳しいわけではない。興味を持ちながら、そしてかなり雲南史に関する書物を貯め込みながら、ずっと、「つん読」状態が続いている。今回は、水の理論に触れながら、雲南と水の関わりの歴史を学んでいくつもりである。

 「水の理論」とは、マジャールやウィットフォーゲルのアジア的生産様式論あるいはオリエンタル・デスポティズムに関する議論を指している。それを、筆者は堅い、ハードな水の理論ととらえ、それに対し、やわらかな水の理論を発想してみようと考えている。もう少し言及すると、水の理論とは1957年以降、一般に、専制主義の発生を説明するための、大規模水利と政治権力に関わる議論として存在した。水利はその設備の規模によって、大規模なものと、それ以下の小規模なものとに分かれたのである。ウィットフォーゲルは、灌漑・治水を伴う農業を、水利農業(hydroagriculture)と水力農業(hydraulic agriculture)とに峻別する。もちろん、専制主義を成立させるのは後者、大規模水利に支えられた水力農業である。だが、マルクス主義の創始者たちや、水利に大きな意義を認めていたローザ・ルクセンブルクは、そうは考えていなかった。彼らは、共同体(もしくは共同体連合)がコントロールできる規模のものと、もはやそれの力ではコントロールできない規模のものとを分け、後者を大規模(公共事業)と呼んでいたのである。個々の共同体や共同体連合のコントロールを超えた水利(大規模公共事業)を担うものの誕生こそ、政治支配(国家)の成立であった(エンゲルス『反デューリング論』における政治支配成立の第一の道)。分ける基準が違っていたのである。マルクス主義の創始者や初期マルクス主義者たちは、共同体のコントロールが及ぶのかどうかで、規模を分けていたのに比し、ウィットフォーゲルは専制主義を生む規模かどうかで分けていたのである。つまり、議論における関心が異なっていたのである。日本における水の理論の総帥ともいうべき木村正雄の第一次農地と第二次農地の区別は、ウィットフォーゲルの分類に対応したものであった。それゆえ、1957年以降のウィットフォーゲル・パニックのとばっちりを食ったのものまた木村正雄であった。
 水利の規模と政治支配の成立の関わりを図示すると

第1ステージ   過渡期1 第2ステージ   過渡期2 第3ステージ
共同体のコントロールが可能な規模    共同体のコントロールを超えた規模  
  専制主義を発生させない規模    専制主義を発生させる規模

 なお、議論が重複するが、第1ステージにおいては、いまだ政治支配は成立していない。
 ウィットフォーゲルの水力理論は、第2ステージから第3ステージに関わる水の議論であった。木村正雄も同様である。だが、ここでは従来の水の理論が問題にしていた第2ステージから第3ステージへの転換(第2フェーズ)に焦点をあてるのではなく、第1ステージから第2ステージへの転換(第1フェーズ)における水利と社会の関わりを検討することで、水の議論に、ハードな「水の理論」とは別の可能性を見出せるのではないかと考えている。そのことを教えてくれたのが以下の著作である。


① H.Sidky, Irrigation and State Formation in Hunza: The Anthropology of fa Hydraulic Kingdom, University Press of America, 1996.
 『フンザにおける灌漑と国家形成』は、カラコルム山脈南麓のフンザ峡谷(パキスタン)における灌漑と政治支配の関係を論じたものである。フンザにおける灌漑事業を国家組織成立に結びつけ、ウィットフォーゲルの水力理論を実証しようとした野心作である。だが著者Sidkyの意気込みとは反対に、フンザの灌漑は、ハードな水の理論が要求するような大規模なものではない。むしろ、第1フェーズ(phase)、すなわち第1ステージから第2ステージにかけての、やわらかな水の理論の枠組みに属するものである。フンザ峡谷の可耕地はわずか90平方キロメートルにすぎない。古代雲南の初期国家、南詔の発祥
巍山
地である壩子(巍山盆地)は167平方キロメートルである。可耕地という表現と壩子の面積が、同じものを表しているかどうかわからないが、おそらく比較可能な数字であろう。だが、灌漑建設を始めた19世紀初頭、フンザの人口は2500~3000人であった。灌漑が成功し、人口が増加したといっても、1900haの農地に7800人の人口を擁するに至ったというぐらいであるから、どうみても、大規模灌漑とは縁がなさそうである。なお、1980年代中葉、フンザ全体の人口は、32300人であった。
 Sidkyがウィットフォーゲル理論の再評価と意気込む理由は、18世紀に灌漑建設を主導したミール(mir 藩王)が、強権統治を行ったからである。ミールSilim Khan(1790-1824)は、政敵を片づけ威信を確立するとともに、村人を駆り立て、氷河の融水を耕地に引くべく強引に灌漑建設を進めた。当時、フンザは鉄製農具さえ容易に入手できなかったとされているので、岩石の多い山岳地帯の水路建設は困難を極めた。最初の用水路は数キロの長さであったと思われるが、完成に7年を要したとされる。二番目に造られたものが一番長く10キロを少し超える程度であった。ミールは農民たちを動員し、無理な作業で死者が出るのもかまわず、工事を進め、灌漑耕地の増大に成功したのである。灌漑耕地はミールの所有であり、農民たちは耕作権を持つにすぎなかった。耕地、収穫、人口らの増大が、ミールの威信と権力の一層の拡大を導いたことはいうまでもない。強固に確立した威信は、村人をいっそう賦役に駆り立てることに役だったであろう。また、税収や人口の増大は、ミールに直接の家来を増大やしたり、昇進させたり、また武装させたりすることに貢献したであろう。村人と隔絶した地位の中央集権的な官僚階級の創出と、専制主義支配の成立とかは、以上のことを指して言っているのであろう。
 だが、筆者は、著者が言う官僚機構とか専制主義という形容は大げさであると思われる。ミールの家臣たちはとても官僚機構、官僚組織といえるほどの存在ではない。また、専制主義も、地方に君臨する独裁者の恣意的統治ともいうべきものであって、中国の土皇帝のそれと異ならないものである。だが、20世紀に入り、フンザを訪れた人びとは、こぞって、村人(イスラム教徒)の健康ぶり、長寿、性格の良さ、忍耐強さ、勤勉ぶり、そして春には杏の花が咲く美しい峡谷の景観を褒めたたえるようになった。1974年、パキスタン政府により藩王が廃止される。伝統的な統制者を失なったため、水の配分などを巡って村落間に混乱が起こったようであるが、でも、その後に見えてきたものは、コミュニティの自立性、自らが作りあげた自然と共生する社会システムに対する信頼、あるいは水利建設のための協働のうえに築かれた隣人に対する信頼などといってものではないか、と思っている。それが、実は、ここで言う「やわらかな水の理論の世界」なのである。フンザ観光の宣伝に使われている「桃源郷」などという言葉をにわかに信ずる気にはなれないが、そこには、そう呼ばれるだけの理由がある、と考えられる。


②J.Mark Baker, The Kuhls of Kangra: Community-Managed Irrigation in the Western Himalaya, University of Washington Press, 2005.
 『カングラのクール:コミュニティが管理するヒマラヤ西部の灌漑システム』とでも訳すのであろうか。クールkuhlは用水路のことである。本書はカングラ峡谷(インド、ヒマラヤ南麓)の灌漑組織が自立的で、なおかつ緩やかな組織的性格を持つことを明らかにしたものである。主要なクールが715、小さなものが2500以上あり、それらが3万haの耕地を潤している(2002年)。クールの長さも様々である。100メートルに満たない短いものから、40キロメートルを越す長いものもある。
 筆者には、灌漑あるいは用水路の築造と維持・管理には、コミュニティ・メンバーの緩やかな結合でよいのだ、という点が新鮮であった。というのも、雲南にせよ、東南アジアにせよ、もし村落共同体のようなものがあったとしても、日本のようなタイトな結合のものではない、ということは、頭のなかでは判っているつもりであっても、灌漑の主体であるコミュニティという表現から、どうしても、タイトな結合の共同体を想像してしまうからである。緩やかな結合でも、堰や用水路は築けるし、維持・管理のための賦役も動員しうる、というのが興味深い。
 おそらく、ウィットフォーゲルの水の理論と距離を置こうとするためであろう、ベイカーは、カングラ峡谷に張り巡らされたクールが、政治権力とはそれほど関わりなく、それぞれのコミュニティによって自立的に維持・管理されていることを強調している。彼は共有財(コモンズ)の理論を参照しつつ、それではすまないもの—-個々の農民の単純な利害意識を越えてクールが維持されてきたことや地方エリートの灌漑建設主導による地方における威信の樹立--を、インド固有の歴史的文化的なコンテキストから明らかにしようとしているようにみえる。その点において、名前は揚げていないが、Burton Stein「セグメント国家」以来の、水利社会論との関わりを想定することができるかもしれない。スタインのセグメント国家論は南インドを照準としたものだが、王、諸侯及び地方豪族、寺院と、灌漑との、深い結びつきを明らかにしている。なお、このような結びつきは、最近のJulia Shawの仏教遺跡サンチ―発掘にもとづく仮説(王権--地方豪族--僧院--灌漑)によると、古代インド以来のものではないか、と思われる。
 カングラの灌漑はおそらく1千年以上の歴史を有していると思われる。カングラは、ヒマーチャル・プラデシ
ベイカー『カングラのクール』
ュ州に属する。この地方は、中世以来、ヒンドゥー諸王の小王国が築かれてきた。村落規模の、あるいは村落を超える規模の灌漑は、当初、王権や地方首長層、あるいは地方豪族、寺院などの支援を得る必要があったと思われる。だが、地方における技術や経験の蓄積につれ、次第にそれらをあまり必要としなくなったのであろう。ヒマラヤ南麓の雪どけ水に依存したコミュニティー・ベースの重力灌漑システムが、王権、地方豪族、寺院などの支援をそれほど必要としなくなったがゆえに、王権、豪族、寺院などの興亡を越え、維持されている可能性も、あるのではないかと考えている。
 ベイカーは、同書の冒頭を、20世紀に起きた二つの厄災について語ることから始めている。1905年4月4日、ヒマーチャル・プラデシュを襲った地震により、2万人(一説によれば2000人)の死者が出たこと、村は崩壊し、道は破壊され、橋は崩落したことを述べる。カングラのクールもまた大きなダメージを受けた。折から、ちょうど田植えの開始期でもあり、もし田に収穫がなければ、カングラ峡谷が飢饉に襲われることは必死であった。飢饉の到来を恐れた植民地政府は、専門家と工兵隊を派遣し、破損された灌漑システムの復旧に努めた。この緊急措置が功を奏し、灌漑路は修復され、飢饉は回避された。
 1952年、Neugal川が氾濫し、隣接するカングラの二つのクールにも被害が及んだが、二つのクールの農民は、応急の措置をとり、損害の少なかったクールPatnuhlを修復するとともに、三年をかけ損害の大きかったクールMenjhaへの分水路を50メートル上流に移行させ、Patnuhlの農民が、幹線からの水の一部をMenjhaに分流させることによって、二つのクールの修復に成功した。
 1905年の例でいえば、植民地当局の報告のせいか、自らの措置の効果的であったことのみが語られ、カングラの農民たちが如何に灌漑システムの修復に努めたのかについて、まったく語っていない(少なくともベイカーの引用からは、そう窺がえる)。だが、1952年の例から見ても、農民たちは自らの灌漑システムを守るためにも、そして緩やかな結合であったとしても、自らのコミュニティを守るため、灌漑システムの修復のための努力を惜しまなかったと思われる。(続く)