中国的なるものを考える(電子版第49回・通算第91回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第50号 2012.06.07 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

やわらかな「水の理論」の世界 その2   
水利をめぐる協働連関の可視性について
 前回は、最近読んだ水に関わる書物の中から、コミュティ・ベースの灌漑システムの例としてカングラ(インド)、フンザ(パキスタン)を紹介した。その後、フンザについて何冊か読んだ。たとえば、山田純子・山田俊一『フンザにくらして』(石風社, 2001年)、 G・T・レンチ『健康の輪--病気知らずのフンザの食と農』(農文協, 2005年) 、宮本輝『草原の椅子』(毎日新聞社, 1999年)などである。最後のものは、小説ではあるが、フンザについて日本人が持っているイメージをよく伝えていると思われる。問題は、レンチが、フンザ国王とフンザ人の関係を以下のように描いていることである。
  「四〇歳からの食養生についていうと、フンザ人はどんな年齢でも若者のように元気だ。それを示すのが、スクラインが見た、七〇歳近くの時にポロをプレーするフンザ国王だった。自分のサイドのキャプテンとして、ゴールの後で、フルスピードでグランドの半分を駈け戻り、ボールを空に打ち上げ、それを相手のゴールに打ち込んだ」。
 レンチの書は1938年に書かれたものであり、上の話は、スクライン『中国の中央アジア』(Chinese Central Asia, 1926)からの引用なので、おそらく1910年代か1920年代のことであろう。国王と呼ばれている人物は、19世紀初頭、フンザの住民を駆り出し用水路を作らせたSilim Khanの子孫だと思われる。前回筆者はミールSilim Khanは強権統治を行なったと書いたが、それはミールが強制した用水路建設が、死人がでるほどの危険な難工事であったこと、さらに、工事現場ではミールとその家来たちがrod(棒 or竿)を手にして村人を見張っていたと書かれてあったからである(Sidky, 1996)。ただ、レンチを読みながら、このミールに強制された難工事をフンザ人は敢えて引き受けたのではないかと思うようになった。というのも、レンチはフンザ人がヒマラヤ・カラコルム登山においては、極めてすぐれたポーターであって、エベレスト登山で有名なシェルパ族に劣らないと書いているからである。フンザ人は困難を怖れず、重労働を厭わず、かつ、どんな時でも快活さを失わない、との評判をとっていた。さらに、フンザの灌漑水路は遠方までよく知られていた。フンザ人はすぐれた職人であって、灌漑技術から想像できる道路、橋、運河建設だけではなく、大工、石工、鉄砲鍛冶、金細工職人としてもずば抜けていた、とある。ということは、フンザの灌漑建設はSilim Khanが最初に行ったのではなく、それ以前から、小規模ではあれ、試みられていたものと思われる。フンザ人の土木技術とか建築技術が、たった一世紀余の間に形成されたというのは不自然であり、むしろ、長い期間に培われたとするのが妥当な推測であろう。
 さて、フンザに紙幅を費やしたため、第三の書についてあまり触れることができないが、一応書名をあげておく。

③Sanjeeb Kakoty, Technology, Production and Social Formation in the Evolution of Ahom State, Regency Publication, 2003.『アホーム国家の発展における技術、生産と社会構成』
 本書は、13世紀以降、アッサム峡谷に王国を築いたアホーム族(タイ系)の水利と政治支配の関係について述べたものであり、実はアジア的生産様式概念の検証を試みたものである。Katotyは、アホーム族の灌漑は規模があまり大きくなく、政治支配とはほとんど関係がないことを挙げ、アホーム国家の水利及びその収取(搾取)様式は、アジア的生産様式であるとはいえない、としている。ただ、そう言いながら、アッサム峡谷の治水(flood control)については、アホーム国家の関与を認めており、先の言説と矛盾している。
 ただ筆者にとって、タイ系諸族における国家と水利の関係を知る手がかりになって、とても面白かった。また、王国の国家儀式のなかにヒンズー教を受け入れながらも、社会自体はそれほどヒンズー化していなかった点も興味深い。貴族も農業に従事したとあるが、おそらく実際に自分で農作業をすることはなかったとしても、農田に出かけ農作業を見まもるぐらいはしていたらしいことを読み、カースト的な縛りのきついインドではなく、なんとなく東南アジアっぽいなという印象を受けた。
ティーポー(ミャンマー・シャン州)
 アホーム族は、もともと雲南とビルマの国境地帯--雲南徳宏地区とミャンマー・シャン州周辺--に住んでいたシャン族の支系であり、13世紀前半にアッサム峡谷に進出した人々である。タイ系諸族は河谷盆地・山間盆地の灌漑にすぐれており、その一部は雲南からインドシナ半島北部の河川沿いに次第に南下し、タイやラオスの河谷盆地・山間盆地に進出し、タイ中央平原北部にスコータイ朝を築く。だが、どうもタイ系諸族は、大規模水利を梃子とした王権の強化とかには、あまり関心がなかったように思われる。
 つまり、河谷盆地や山間盆地の灌漑に慣れたタイ系諸族は、国家建設以後も、あまり大規模な水利建設を行わなかったようである。はっきりしているのは、チャオプラヤー・デルタの水利に手をつけたのは、近代技術の導入が可能になった20世紀--しかも本格化したのは1950年代--になってからであり、それ以前の伝統王朝は、デルタの水利に手をつけることは、ほとんどできなかったということである。昨年末のタイの洪水は、広大なデルタ地帯の水というものが、如何に制御不可能なものなのかを、まざまざと見せつけてくれたわけだが、河谷盆地・山間盆地の灌漑に習熟したタイ族も、南下後、アユタヤの南に広がるデルタの水を茫然と、なすすべなく眺めていたに違いない。ただ、タイ人はそこから、大地が冠水している間、水の中で成長する浮稲の作付けを始めたと、石井米雄は述べている。このような、氾濫原の農業への転換を、石井は、堰、堤防、用水路建設といった手段や方法による水の制御(工学的適応)ではなく、自然に従いながら、その自然に合った農業への転換として農学的適応と名付けた。
瑞麗(雲南徳宏)
 では、タイ系と同じく、雲南から南下したといわれているビルマ族はどうであろうか。ビルマ族もまた灌漑に習熟していることはよく知られている。とくにパガン朝やタウングー朝などが築かれた中央平原(上ビルマ)の灌漑は、かなり大規模なものであるといわれている。たとえば、
④Michael Aung-Thwin, Irrigation in the Heartland of Burma: Foundation of the Pre-colonial Burmese State(ビルマ中核地帯の灌漑:ビルマ前植民地時代の基礎), Northern Illinois University, 1990”によれば、19世紀前半には、中央平原(上ビルマ)の主要6灌漑地区の耕地によって、400万人弱が食べていけたと推計している。著者は英語のビルマ史の書き手として知られている。彼が挙げている灌漑耕地面積はエーカー単位だが、換算すると全体で30万ha弱である。当時、中央平原の灌漑耕地は89.5%であるとみなせば、400万人弱分の食糧を産出しえたという数字はひどく的はずれなものではないと思われる。1haで13人を養うことになるが、幕末の三反百姓が一家4人をかつかつ食べさせることを想像すれば、ほぼあたっていよう(3反はほぼ0.3ha)。計算上の数字であるにせよ、この400万人弱という規模は、これまでのコミュニティ・ベースの灌漑と比較すれば、とてつもない規模に映る。だが、ミャンマーの伝統的な政治システムは、清朝と堂々と張り合ったコンバウン朝でさえ、どうみても中央集権的とか、専制的とは言えないようである。灌漑面積がただ大きいということと、そのシステムが水力的(hydraulic)であるということは異なっていると解すべきであろう。また、「水力的」と形容された場合においても、その深度を問わなければならないと考える。ただ、多くの人口を養えたということは、周辺諸国に対し軍事的に優位に立つことを意味する。それが、二度にわたるアユタヤ攻略(1569年, 1767年)につながったのであろう。
 さて、話をまたコミュニティ・ベースの灌漑に戻すと、タイ系諸族はコミュティ・ベースの灌漑に愛着をもっていた人々ではないかと思われる。おそらく、ビルマ族も同じであろう。タイ族の農村コミュニティはムアンと呼ばれているが、それがたとえ、日本の村落共同体ほど強固なものではないにしても、河谷盆地・山間盆地の灌漑システムの維持によく機能していたのではないかと考えている。
さて、雲南の壩子(バーズ)やタイ・ミャンマーの水利システムの特徴について、海田能宏の、東南アジアの水利システムに関する説明がとても参考になる(「<水文>と<水利>の生態」, 渡部忠世編『稲のアジア史』第一巻, 小学館, 1987年)。以下、長文だが引用してみよう。
「山間盆地と火山山麓のこの二区における水利システムには、大陸部と島嶼部に分かれるにもかかわらず、共通する部分が多い。山間盆地は広い集水域からの安定した流出水に、火山山麓の場合は湧水というきわめて安定した水源に依存し、渓流あるいは小河川から取水し、適当な勾配をもつ水田地域に灌漑水路網を巡らせる、いわゆる渓流分水型重力灌漑組織を持っている。これらの河川は小集団で制御可能であり、したがって一般的には、灌漑組織は比較的小さな水利共同体組織によって管理される。
 東南アジアの国々の歴史的な核心域はこの渓流分水型灌漑組織網の見られる地域に一致している。例えばタイでは北タイ山間盆地のチェンマイがそうであり、ビルマの最初の統一国家であるパガン王朝(一〇四四~一二九九)を支えた灌漑稲作地であるチョウセ、ミンブなどの上ビルマ乾燥地域の水利組織も有名である。ジャワ島では、ソロ、スラカルタ、ジョクジャカルタなど中部ジャワ世界の核心域は、標高三〇〇〇メートル級の火山の裾野の灌漑稲作を経済的基盤としてきている。バリ島のスバックと呼ばれる水利システムも、火山山麓の湧水と渓流取水を主体にした灌漑組織網の代表的なものである」。
大孟龍(シーサンパンナ)
 実に納得のいく説明だと思う。筆者はここから、思わぬ発想を得ていることを付け加えておきたい。このような重力灌漑組織を基底に持つ社会の特徴とは何かである。一言でいえば、居心地のよさである。正確に言えば、我々にとっての居心地のよさである。これはとても大事なことだと思う。2003年、在外研究で昆明に向かった筆者は、折からのサーズ流行のためビザの書き換えができず、やむをえずチェンマイで2か月暮さなければならなくなった。その時、偶然知り合ったシルバー・ボランティアの方(日本人)が、僕が昆明からやって来たというと、とても懐かしがり、猛然と中国語で話しかけてきて、昆明、チェンマイ、バリ島は、世界の三つの天堂(tiantang, パラダイス)だと言ったことを思い出す。昆明はもちろん良いところだが、200万の大都市であり、とても天堂などと呼べるところではない。チェンマイも20万都市であり、やや違うということころだろうか。でも、いずれもこの三つの場所は、先の重力灌漑組織を基底に持つ社会であるという点で、共通している。昆明は雲南最大の壩子(バーズ)にの上につくられた町である。実際には、同じように壩子(バーズ) の上に築かれた景洪や大理ではなく漢族の町、昆明がどうして居心地のよい社会になったのかについては、いろいろ歴史的な説明を加えなければならないが、話せば長くなるので後日にしたい。
ハノイからマイチャウへの休憩地にて(ベトナム北部)
  重力灌漑組織を基底に持つ社会が我々にとって、どうして居心地がよいのであろうか。それは、前回紹介した、天空の棚田を営む元陽ハニ族の話が参考になる(NHK『天空の棚田に生きる』2012年2月5日放送)。すなわち、農民1人1人仕事が、他人の労働と繋がっているという意識である。棚田のような田越灌漑の場合、共同作業により堰や長い水路を作る必要はない。だが、原初、山林に挑み、山肌を切り開き棚田に変えることは、共同労働によるものであった。水源となる山上の共有林の保全もまた共同の責務であろう。さらに、水は他人の田から流れ込み、そして自分の田から他人の田に流れ込む。畔は地質のせいで脆く、畔づくりに手を抜けば、決壊する可能性が高い。もし、自分の田の畔が崩れれば、田が損なわれるばかりか、その土砂で他人の田の稲を傷付け、さらに勢いよく流れ込む土砂と水で他人の田の畔を壊す可能性もある。それゆえ、農閑期の畔直しは丁寧にしっかりと行わなければならない。自分の田だけを良くすることはできない。棚田全体を良くしなければならない、と普高老村の農民は述べる。そのためには、村人の輪が重要となる。負担が不公平にならないよう、各戸に、集落に近い田と遠い田を組み合わせて分けるシステムや、水を公平に配分するために溝長を選挙で選ぶ制度も、村人の輪を築くことに役立っている。
 壩子(バーズ)の灌漑システムは、このような棚田の作業とは随分異なる。だが、堰や水路は共同作業により築かれ、共同で維持しなければならない。天空の棚田地帯とは趣が違うとしても、壩子(バーズ)の灌漑組織のメンバーは互いに密接な協力関係にある。そして、そのような共働労働の成果をともに享受する関係にある。このように、共同事業に参加する農民の、共同労働の如何、およびその成果の如何が明確に把握されうることを、協働連関の可視性と呼ぶことにする。つまり、比較的小さな水利共同体組織の利点とは、まず、共同労働参加者の、この協働連関の可視性にあると考えられる。そして、この協働連関の可視性が、参加者相互の信頼を育んでいる。重力灌漑を基底とした社会の居心地の良さとは、この信頼感に由来するものであろう。
 では、この協働連関の可視性は何によって阻害されるだろうか。まずは、①水利規模の拡大であり、②水利機構の複雑化、③外部による関与、④負担の加重と不公平化、⑤成果の不公平な分配、などが考えられる。とくに①が重要であろう。規模の拡大は結局②から⑤をもたらす可能性が高いからである。
 再度、前回載せた表を見ながら考えてみよう。

第1ステージ   過渡期1 第2ステージ   過渡期2 第3ステージ
共同体のコントロールが可能な規模    共同体のコントロールを超えた規模  
  専制主義を発生させない規模    専制主義を発生させる規模

 現在問題にしているコミュニティ・ベースの灌漑は、第1ステージに属する。また、チェンマイを中心とするランナー・タイ(王国)の灌漑は、第2ステージの初期に属するものだと思われる。基本的には、まだコミュニティ・ベースの灌漑システムの特徴をよく残していると考えられる。おそらく、パガン朝以降のビルマ中央平原の灌漑システムも、規模は大きくとも、コミュニティ・ベースの性格を未だ失ってはいないのだと思われる。たしかに、共同労働は賦役となり、次第に強制的性格を帯びるようになっていく。だが、工事の必要性は動員される農民たちも理解しており、かつ共同労働(賦役)の成果は、動員された多くの農民たちも享受することが可能であった。多分、江戸時代の利根川の治水事業は、第2ステージの後半に当たるものだと思われる。もし、利根川の大規模な治水工事が古代に敢えて行われたとしたら、それを担う国家は、極めて水力的な色彩を強めたはずである。
マイチャウ(ベトナム北部)
 第2ステージの終わりから第3ステージに入ると、大きな変化が生じているのがわかる。その代表例は、たとえば吉岡義信『宋代黄河史研究』(御茶の水書房, 1978年)の世界である。黄河は宋代に幾度となく決壊したため、黄河改修への動員は、実に頻繁に、しかも広範囲に行われている。ちょっとした改修工事に、役夫、5千、あるいは1万を集める、などというのは普通のことであった。大きな工事になれば、平均で、役夫10万前後が動員された。
。また、堤防などの修築のための資材の供出も、重い負担であり、かなり遠方の諸県まで供出を命じられた。水利機構は複雑化し、かつ新法党・旧法党の政争と絡んでいた。決壊した黄河をどのように修復するかという問題は、決して技術的な問題ではなかったのである。農業の利害だけではなく、国防上の問題が絡み、かつ、互いに争っている官僚たちの思惑が絡んでいた。そうなると、農民はただ命令を受けとり、動員されるだけの存在となった。たしかに、洪水にあった農民にとって堤防の修築は必要なことであったが、数年に一度、氾濫に見舞われる可能性がある農民たちが動員されるのと、ほとんど黄河の氾濫に関わりのない農民が動員されるのとでは、動員される側から言えば、まったく異なった事柄であった。動員は農閑期に行われたが、工期が延びれば、春耕に間に合わないこともあった。また、難工事の際には、役夫が死ぬ危険性もあった。官衙の命により、ただ負担だけを押し付けられる農民が多数出てくるのは必定であり、それに対し、農民たちができるかぎり負担を逃れようとするのは当然であった。金や力あるものは、負担を貧しい農民に押しつけた。国家による大規模な水利事業は、それに動員される農民の意志とは、ほとんど無関係に、行われることになる。だが、動員を命ぜられた農民たちにそれを拒否する自由などなかった。コミュニティ・ベースの灌漑システムにおける協働連関の可視性とは対極的な世界がここにある。それはコミュニティの共同事業・共同作業というものに対し、不信と猜疑の眼差しを向ける世界であり、隣人ではなく身内・肉親しか信用しない人々の世界である。(続く)