中国的なるものを考える(電子版第50回・通算第92回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第51号 2012.08.21 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

やわらかな「水の理論」の世界 その3
“桃源郷”の水利システム
 前回、コミュニティ・ベースの水利システムには、協働連関の可視性が備わっていると書いた。小さな村が共同で行う堰や水路の建設においては、互いの協力ぶりが目に見えることは理解できよう。だれが献身的か、誰が手を抜いているか手に取るようにわかる。また、それぞれともに働いた結果が、どのように報われるのかもはっきりわかる。共同労働とその成果が明確に見えるとき、個々の村人それぞれの関係においては好きだとか嫌いだとか、気に入らないやつだとか、生意気なやつだといった感情はあっても、全体としては互いに信頼しあっていると考えてよい。なによりも、そのようなコミュニティ・ベースの水利システムを長期にわたって維持しているということが、互いに信頼していることを意味している。これは、言葉として信頼しているとか、していないということとは、別のことがらである。
 協働連関の可視性は、水利システムの規模が村落や村落連合を越えるにつれ、次第に見えにくくなる。だが、河谷盆地や山間盆地の場合、大規模化するといっても限度がある。盆地ごとの水利システムに依存する雲南やインドシナ北部の場合、水利をめぐる協働連関の可視性は、たとえ規模が大きくなったとしても、それほど損なわれることはなかったのであろう。それが、われわれが、雲南からインドシナ北部にかけて旅する時、感じる居心地よさの原因であろう。旅人は、同じようなシステムを持つ遠くの村の住人であるかのように扱われる。
 コミュニティ・ベースの水利システムにもとづく社会には、なにか淡い信頼感のようなものがある。少なくとも自分はそう思っている。そこが、規模が大きすぎて、農民たちが賦役(労役)のための単なる動員対象となっている専制国家のもとの水力社会(ウィットフォーゲル)とは異なる。水力社会では、村落に住む人々は、大規模公共事業のために地域ごとに割り当てられた賦役の供出をめぐって、互いに負担を押し付け合う関係にある。そのような村落の住民の間に信頼が生まれるのは稀である。一般に、中国、インド、メソポタミア、エジプトなど大河文明地域の村落が共同体ではないのは、村落ごとに繰り広げられているこの負担の押し付け合いに淵源していると考えている。そこで信頼を繋いでいるのは、近隣を構成していることではなく、親族組織への所属である。水力社会に相応しいのは、村落共同体ではなく、宗族(中国)、ゴートラ(インド)、アーイラ(エジプト)などの村落を超えた親族組織である。
 コミュニティ・ベースの水利システムを持つカラコルム南麓のフンザが桃源郷と呼ばれていることは前々回述べた。山田純子・山田俊一『フンザにくらして』(石風社, 2001年)を読めば、桃源郷という形容はいささか誇大に過ぎるような気がするが、本来、桃源郷などと呼ばれる社会とはそういった矛盾や欠点を抱えたものなのであろう。桃源郷に蚤やシラミがいてもよいだろうし、その住民の間に嫉妬や抜け目のなさがあってもいいであろう。前回、チェンマイで知り合った日本人から、この世には三つの天堂(tiantang, パラダイス)があり、それは、昆明、チェンマイ、バリだ、という話を聞いたことを書いた。個人的には昆明もチェンマイも好きな町だが、残念ながら、昆明はあまりにも大都市であり、チェンマイも都市化しすぎているように思う。バリ島については、クリフォード・ギアツ『ヌガラ』(みすず書房、1990年)以来、すっかり「劇場国家」論の舞台として有名になってしまったが、スバクと呼ばれる、すぐれた自治的な灌漑組織を持つことでも知られている。それゆえ、ここでは、バリにフンザを加え、さらにもう一つ追加して、三つの天堂を自分なりに完成させようと思う。今回は、筆者自身が訪れたところから選ぶことにする。2003年、在外研究として雲南を訪れて以来、筆者が訪ねた場所のなかで、天堂と呼ばれるにふさわしい場所は、ベトナム北部のマイチャウ(Mai Chau)である。
マイチャウ1
 マイチャウはハノイから南西約70km、車で4時間のぐらい(2003年当時)のところにあり、ホアビン省に属する。2003年8月、3週間のベトナム旅行が終わりかけた頃、たまたま食事をしたハノイのカフェのマスター(日本人)から、マイチャウは桃源郷みたいとところで、自分も一年一度、数日泊まってくる、と聞かされ、それでは自分も是非と思い、ツーリスト・カフェが主催している外国人向けのツアーに参加した。欧米人主体のツアー客のなかに、どういうわけか、韓国人とベトナム人の若いカップルがいて、何かと声をかけ合っているうちにとても親しくなった。男性の林さんはNGOのメンバーで、韓国から派遣されベトナムの環境保護に取り組んでいた。ベトナム人の女性は、おそらくその受入れ団体のメンバーであったように思う。阿水(Ashui)と呼んでほしい、と言っていた。彼ら二人は、恋人どうしで、英語とベトナムを交互に使って会話していた。彼女は大学の第二外国語で中国語を学んだことがあるということで、すぐに中国語を思いだし、僕と他のメンバーの仲立ちをしてくれた。
マイチャウ2
 マイチャウは写真のように周囲を山で囲まれた盆地のように見える。外輪山のなかに盆地があり、盆地の中心にまた小高い山があるように見え、行ったとたん、まるで「壺中の天」の中にいるようだなと感じたことを思い出す。今回、ネットでマイチャウに関する文献がないか、調べていたのだが、ほとんど見つからず、やむをえず、英文で検索しているうちに、Mai Chau Vallayと呼ばれていることを知った。マイチャウの水利についての文献は見つからなかったが、ユー・チューブにたくさん、マイチャウ(Mai Chau Vallay)のビデオがアップロードされているので、関心がある方は是非見ていただきたいと思う。桃源郷という形容に違わぬ、水の豊かな美しい農村風景が堪能できるはずである。
マイチャウ3
 マイチャウに住んでいるのは白タイ族である。農村だけから成り立っているのではなく、河谷盆地のなかに中国でいう鎮のような町がある。行政の中心であり、かつ、農民たちが日用品を買い求めるマーケットにもなっている。マイチャウの灌漑がどうなっているのか、ネットで調べても、ほとんど手がかりがない。だが、マイチャウ峡谷である以上、渓流や湧水に事欠くことはないであろうし、幾つかのビデオの様子から見ても、自然な勾配を利用した重力灌漑が行なわれているように見える。タイ系諸族が得意とするコミュニティ・ベースの灌漑網が築かれているのと考えて間違いないであろう。検索画面から Mai Chau Vallay+irrigation で検索すると、bamboo irrigation のタイトルで、竹を使った送水パイプが写真付きで紹介されており、マイチャウの風景のなかで、みごとな絵になっている。
マイチャウ4
 今回、唯一入手できたマイチャウについての文献、上田博之「ベトナム北部白ターイ族の集落構成と住居形態の研究」『大阪市立大学生活科学部紀要』(第44巻, 1996年)によれば、土地改革(共産化)以前においては、マイチャウの白タイは首長制をとっており、地域社会はムオン(muon)と呼ばれる村落共同体によって構成されていた。ムオンはタイやシーサンパンナの村落組織であるムアン、ムンと同じものであろう。また、もっとも有力な首長、大首長はおそらく、中国でいう明清期の土司のような存在だったのであろう。現在は水稲二期作が行なわれており、調査した村は山間に、水田と河に囲まれる形で集落があり、水田は灌漑施設が完備し、居住地にも水路がめぐらされている、とある。
 写真でもわかるように、2003年、筆者が訪れた当時の雰囲気から、まるで、観光客向けにエコ・ツアーでもやるつもりなのかな、という印象を受けた。ゆったりとした生活ぶり、のどかさ、風景の美しさで、当時からすでに、少しずつ知られるようになっていたが、今回、ネットで検索してみると、旅行社はこぞって桃源郷をうたい文句としてマイチャウ観光を宣伝しているようである。ただ、筆者はやはり、あまり知られていなかった当時のマイチャウの方が好きである。
 実際には、この世に、桃源郷も天堂もありはしない。でも、フンザ、バリ、マイチャウと並べてみると、何となく桃源郷とか天堂と呼びたい雰囲気がわかってくる。どんなに風景が美しくとも、あるいは金儲けのための見え見えの過剰なサービスがあったとしても、誰も桃源郷とは呼ばないであろう。住んでいる人間が穏やかで、互いに信頼していて、かつ観光客に親切でなければ、そう呼ぶ気になれないであろう。もちろん、親切といっても限りがある。観光客は余所者にすぎず、なかに、詐欺師もいれば、スリもいるであろうし、金を払えば、何だって買えるなどと横柄な態度をとる者もいる。そんな輩に親切にすれば、利用されるだけである。それでも、観光地や保養地に、人柄の違いは存在する。居心地の良いところと悪いところがある。桃源郷と呼ばれるためには、余所者にとっても居心地が良くなければならない。そして、フンザ、バリ、マイチャウらの、居心地の良さの要因として、コミュニティ・ベースの灌漑システムが有する協働連関の可視性と、その上に築かれた社会の信頼関係がある、という筆者の推測は、それほど間違っていないと思われる。

 さて、ここまでくると、やはり桃源郷という言葉の典拠となっている陶淵明「桃花源記」に触れざるをえない。ただ、古典については全くの門外漢なので、陶淵明であろうと、「桃花源記」であろうと、ほんの少し言及することすら畏れ多いと考えているので、現在の議論に関する点について、印象を二、三、書き留めておきたい。なお、「桃花源記」の訳および解釈は『一海知義著作集』1・2 (藤原書店、2009年、2008年)及び伊藤直哉『桃源郷とユートピア』(春風社、2010年)を参照している。誰もが知っていると思われるが、あらすじは以下のようである。
 舟で谷川を登っていった漁師が桃林の奥の、山の麓の水源に洞穴を見つける。そこを抜けていくと山間盆地に田が広がっているのを見つける。田のほか、家も、池も、そして桑や竹の林もあり、あぜ道が縦横にかよい、鶏や犬の鳴き声が聞こえる。そこで彼は、秦代に戦乱を避け、人に知られていない山間盆地に逃げ込んだ人たちの子孫に出会う。彼は数日、親切にもてなされた後、例の洞穴を通って元の世界に戻って来る。だが、その後、洞穴を見つけようとしたが、その桃源郷への入り口はすでに閉ざされてしまっていて、見つけることはできなかった。
マイチャウ5
 では、果たして、この秘境、秘密の山間盆地の住民たちは、何を主穀にしていたのであろうか。中国語の田は、水田にも畑にも使われるが、陶淵明が長江沿いの尋陽(九江)の人である以上、自然な発想として、水稲農業をやっていたと考えて間違いないであろう。原文に「美池」とあるが、多分、貯水用の溜池のためにつくられたものではないであろう。というのも、溜池では水が不足しているような印象を与えるからである。桃源郷ののどかな田園風景に水不足は似つかわしくないように思う。つまり、筆者は、そこには山間盆地の渓流を利用したコミュニティ・ベースの灌漑システムがあったと考える(渓流分水型重力灌漑)。水田を潤した水は、小川に注ぎ、最終的には、どこか山間盆地の外へ流れ出なければならないが、おそらく洞穴の前に会った水源というのがその水流であろう。このようなことを書くのは、水はけが悪い田畑は、農業にとっては災いのもとであり、ただ農民を苦しめるだけなので、やはり水はどこかに流れ出なければならない、と思うからである。もし、盆地の外への水流が、はっきりとした川の流れをとれば、それを溯るものが出てくることが考えられ、秘密の山間盆地はいずれ人に知られてしまうであろう。外への水流は川の流れの形をとってはならないのである。では、この盆地の外への水流と洞穴の関係はどうであろうか。本来、水は、水面下に隠れていた洞穴を通って盆地の外に流れで出ていたのだが、減水期かなにかの時に偶然に洞穴が水上に現れ、漁師に発見されてしまったと考えるのはどうであろうか。多分、これらは、余計な推測であろう。ただ、陶淵明は実際に農業に携わっているので、そこまで考えて詩文をつくったと考えるのも、一つ楽しい想像であろうと思う。
マイチャウ6
 陶淵明はこの桃源郷のイメージをどこで得たのであろうか。北方の塢に由来するものとする説がある。塢は本来、砦のことである。魏晋南北朝期に、民衆が戦乱を避け険しい山中の小盆地に移り住み、砦を築き、塢主を中心に共同生活を送ることが行なわれたが、この山中の小王国あるいは「共同体」も塢と呼ばれる。曹操と同じ時代、田疇の徐無山の塢には五千の農民が彼の徳を慕って移り住んだといわれている。陶淵明「擬古 其の二」は田疇(田子泰)を称えており、そこから「桃花源記」への北方の塢の影響を考える説が出てくるのであろう。これについては、大室幹雄『桃源の夢想』(三省堂、1984年)が、陶淵明の描く桃源郷には塢主がいないことに注目しているのは卓見だと思う。筆者の理解によれば、水力社会(ウィットフォーゲル)に住む人々が一時的に塢堡に集住しても「共同体」などにはならない。塢主の性格や指導力によって多少の違いがあるが、数百人、数千人も集まれば、結局は抜きんでた力の持ち主による強力な統治に頼るほかないのである。塢主にそのような力量がなければ、混乱しかもたらされないであろう。
 塢主がいなくとも、傑出した力の持ち主がいなくとも、穏やかな自治を営んでいる「桃花源記」の世界は、水力社会のイメージとは、かけ離れていると考えるべきである。上述したように、「桃花源記」の世界の水利は、コミュニティ・ベースものであり、力による統制を必要としないものであった。また、コミュニティ・ベースのものであるがゆえに、メンバー間の協働連関の可視性が保たれ、互いに信頼しあえる関係にあったと考えることができる。だとするならば、やはり、陶淵明が現実に生きていた江南の、小水系の水利に縁のある世界に、その淵源を求めるのが妥当であろう。
徳夯(苗族の郷:湘西)
 「桃花源記」の漁師は武陵の人だとある。そこから武陵の蛮、五渓の蛮を想起するのは当然である。プロト苗族である武陵蛮は、五渓蛮の別名の通り、洞庭湖以西の、沅水流域の小水系に沿って暮らしており、渓谷に住む彼らが、小規模な重力灌漑を行なっていてもよいように思われるが、伍新福・劉伯亜『苗族史』(四川人民出版社、1992年)や伍新福『中国苗族通史』上(貴州人民出版、1999年)には、南北朝期に武陵蛮が灌漑を行なっていたとは書かれていない。この地域での灌漑農業についての言及は宋代のものである。
 それに対し、呉永章『瑶族史』(四川民族出版社、1993年)は、南北朝期における漢水流域(雍州)や長江中流域(荊州)の蛮はすでに灌漑による水稲耕作を行なっていたと書いている。それを考慮にいれるとすれば、諸家がいうように、陶淵明が渓蛮(プロト瑶族)陶侃の子孫であることから、「桃花源記」の世界には、渓蛮が住む山裾の世界が投影されていると考えるのは、妥当であろう。渓蛮は漁猟を行なっていたともいわれ、彼らが水辺に住む人々でもあったことがわかる。そこから、彼らがコミュニティ・ベースの灌漑農業を行なっていた可能性も考えることができよう。また、陶淵明とその親族が住む尋陽(九江)柴桑一帯に渓人が雑居していたとあるが、彼ら(あるいは陶淵明の親類縁者)の話から、渓人の故地において行われていたコミュニティ・ベースの灌漑システムにもとづく原初的な水利社会のイメージをつかんだとも考えられよう。
吉首郊外(湖南西部)
 では、陶淵明自身はどのような水利システムのもとで暮らしていたのであろうか。陶淵明をめぐる自然環境、農業環境について関心を示しているのは上田武『陶淵明像の生成』(笠間書院、2007年)であり、とても参考になる。九江柴桑は北に長江、東に鄱陽湖、南に廬山の山なみがあり、西北の平地には大小の湖沼が散在したとある。だが、さすがに水利については「彼の生家が、柴桑県城から程遠くない、低湿な平原にあった」とする以上は具体的なことは書かれていない。九江市と西隣の徳昌市の地図を覗くと、平地には幾つも小河川が流れ込み長江に注いでいるように見える。とすれば、このような小河川を利用した水利が営まれていた可能性はないのであろうか。
 陶淵明の誌文に描かれた近隣の雰囲気からすると、彼らが生活していた農村は、貢租や賦役の負担を、互いに押し付け合っているようには見えない。むしろ、肉親や親族とのつきあいと同じように、近隣とのつきあいを大切にしている様子が伺える(「雑詩十二首之一」)。おそらく、陶淵明が暮らしていた農村社会は、水力社会特有の、大規模公共事業による苛酷な動員体制に未だ巻き込まれていなかったか、あるいは強く巻き込まれてはいなかったのであろう。魏晋南北朝が始まる400年前、万里長城建設のため大量の農民を動員・使役し、それが秦滅亡の原因となった。実際のところ、漢代も、大量の農民の賦役に駆りたてる公共事業に事欠かなかった。また、魏晋南北朝が終わってまもなく、隋の煬帝による大運河建設が行なわれ、煬帝の命を縮めることになった。
 魏晋南北朝期に特有なことは、これまでは華北中心であった大規模公共事業が江南においても始まったということである。秦代の霊渠建設のように、長江以南においても、大規模水利事業がなかったわけではない。だが、江南全体からいえば、それは例外的であった。三国時代の呉の建国は江南の歴史にとって一つの画期であった。国家建設(state formation)のため、江南の開発を主導した三国時代の呉以降、華北あるいは中原で培われた大規模水利システム特有の動員体制が江南の地にも導入されることになった。水利には、水運も含まれる。江南における国家形成は、主穀の搬送及び水軍強化のための、水運の発展を促した。運河の開削や拡張は、大量の農民の動員を必要とした。大規模公共事業は水利事業ばかりではない。呉や東晋が進めた王都(建業→建康)の建設もまた大量の労働力の投入を必要とする公共事業であった。呉が行なった山越征伐と、山越の平地への強制移住は、労働力確保のための大量の人狩りの性格を持っていたのであろう。
 西晋末の華北の混乱を避け、北方の農民が江南に移住し、長江デルタの農業発展を促進した。同時期、江南の主要河川である贛江、沅水、湘江流域などの開発も進む。華北平原の水利と、水稲農業を中心とした江南の水利は異なる。だが、同じ水稲農業においても、広大な低地の水利は、コミュニティ・ベースのシステムでは歯がたたない。安定した耕地の造成のためには、水患を防ぐための築堤などのように、国家なり地方政府の関与を必要とする。
 かくして華北で成立した水力社会とその動員システムが江南社会に押し寄せ、次第に江南山麓のコミュニティ・ベースの水利システムにもとづく社会を呑みこみつつあった。六朝時代とは、そのような時代であったと考えられる。
 おそらく、陶淵明が感じた生きにくさとは、社会が大きく変わる、その場に居合わせたがゆえのものであった。彼は、水力社会特有の官僚システムについになじめなかったのであろう。水力社会がもつ圧倒的な生産力、そこから生まれた大量の高等遊民・士大夫・官僚が作り上げる文化や文明の魅力に、一方では強く惹かれつつも、一方では官界の周縁を行きつ戻りつ逡巡しつづけたのであろう。彼の憂いは、彼の時代、彼の社会に根差したものであった。だからこそ、桃源郷は、水力社会(専制国家)に呑みこまれないため、再びその入り口を閉ざし、外界からその存在を隠なければならなかったのである。
 (続く)