中国的なるものを考える(電子版第51回・通算第93回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第52号 2012.10.09 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

2012年夏・雲南紀行
 9月1日から9月14日まで雲南に滞在した。例年と異なるのは、最初の3、4日を、所属大学の先生方とご一緒したことである。雲南の、特に昆明や大理の、博物館や記念館、遺跡、旧跡などを次々に見学した。そのスケジュールの過密さは、筆者のようなバックパッカー・スタイルの研究者には、想像を絶するものであった。筆者ならば、2週間ぐらいかかるものを僅か4、5日でこなしてしまう非常にハードなものであった。おかげで、日頃足を向けることはない博物館、記念館の展示物を、丁寧に見てまわることができた。また、雲南駅(祥雲県)や、沙渓鎮(剣川県)など、茶馬古道をめぐる歴史景観をも堪能することができた。

1 桃源村にて
 そのなかで、筆者にとりもっとも印象的であった出来事は、9月3日午後の桃源村滞在である。その日の朝、一行は大理のホテルから石鐘山石窟に向かった。だが、着いてみると山内の道が補修中という
写真:下桃源村
 下桃源村
ことで、中に入ることができなかった。雨で崖崩れが起きたらしい。やむをえず、入口近くの歩いて行ける建物をさっと見学し、次の目的地、茶馬古道の跡が残る沙渓鎮に向かった。沙渓鎮の食堂で昼食をとった後、大理に戻ることになった。途中、小さな壩子(バーズ、盆地)の傍を通りすぎた。谷間の奥に集落が見えた。朝、ここを通りかかった時、大理の人でもあるC准教授が、この白族の村は桃原村と言うのだと教えてくれた。何とか一枚写真でも撮りたいと思っていたのだが、あいにく、反対側の窓の席に座っていたので、写真を撮ることは無理そうだった。ところが、突然、車は速度を落とし停車した。前方で、交通事故があったせいだった。車はしばらく動き出しそうもなかったので、車を降りて早速写真を何枚か撮った。どうも事故処理はかなり長引きそうだった。それならば、車中で時間をつぶすより、桃原村で少し休んでいこうということになった。
 村に入ると怪訝な顔をしている村人たちに挨拶して、交通事故で動けない事情を説明し、村の様子を聞いてみた。村は上桃源村、中桃源村、下桃源村に分かれていて、我々が訪れたのは、下桃源村であった。戸数は104戸、同姓村ではなく、複数の姓からなる村であった。最も有力な姓は楊である。田地はどれだけあるか聞いてみた。分からないという。農民が自分の村の農地の大きさについて知らな
写真:下桃源村
 下桃源村
いなどいうことは、ありえないと思う。多分、言いたくなかったのであろう。廟のようなものがあるかと聞くと、本主廟と観音廟があると教えてくれた。本主廟の方が近いというので、そちらに向かった。
 本主廟は山林のなかにあった。扉をそっとあけ、みなで参拝した。廟の主神は大黒天神であり、村を守護している。最後に、僅かだが賽銭を奉納し、またそっと扉を閉め、本主廟を後にした。集落へ戻ると、村の女たちが、観音廟も見ていけば、と言う。ほがらかで、くったくのない人々であった。男たちが煙草をふかし、マージャンなどに時間をつぶしている間、村の女たちは、いろいろせわしく働いていた。若者に出会わなかったところをみると、村に残っているのは、老人と子供たちだけらしかった。若者たちはみな、出稼ぎに出ているか、昼間は近くの町で働いているのであろう。峠の方を見ると事故処理が終わったらしく、峠の中腹で止まっていた車がすでに動き出していた。もう時間がないからと詫びて帰って来た。
 本来、桃源村で、一番知りたかったのは、水源についてであった。だが、田地の大きさを聞いた時の感じでは、あまりあれこれ尋ねないほうがよいと思い、それ以上聞かなかった。本主廟への途中、道の下方に小さな灌漑溝らしきものがあったので、覗いてみた。水がちょろちょろと流れているだけであった。おそらく、水を止め、田を乾かす時期に入っているのであろう。二つの廟のある村の裏手の山は樹木で覆われているので、灌漑用の水はそこから引かれているのだと思う。
 この地方の山が水を含むことは、その日の朝、大理盆地の北で山の中腹から噴き出る湧水を利用した小さな発電所を見ているので、間違いないところであろう。また、盆地を囲む、山と山の谷間から渓流が流れ出ている可能性も高い。つまり、小さな壩子とはいえ、灌漑のための水源は幾つかあると考えられる。下桃源壩子は1.8平方kmの広さである(童紹玉、陳永森『雲南壩子研究』雲南大学出版社、2007年)が、壩子が小さい分、小規模な灌漑でも水は十分に行きわたる。水田からの水は排水溝を通じて、小川に集まり、最後は壩子の外に流れ出て行く。このような小さな水利社会が、この数回、筆者が力説しているように、「協働連関の可視性」に富むものであることは明白であるように思う。
 さらに言えば、このような協働連関の可視性に富む社会が、同姓村である必要はない。同姓でなくとも、隣人どうし互いに信頼が保てるからである。コミュニティ・ベースの灌漑システムを維持するのに十分な協力が得られる。筆者は、華中・華南に同姓村が多い理由の一つは、水源および水利施設など、貴重な資源をコントロールするのに有利だからだと考えている。異姓の隣人の間でも信頼が築ける社会では、同姓だけで村をつくるのは、却って不便である。漢族のように同姓不婚のルールがあるかどうかは別として、同姓村は親戚ばかりの社会であり、婚姻には不便である。娘を嫁に出す親の立場、あるいは姉や妹を嫁にやる兄弟の立場からすると、村内や隣村に嫁がせることが一番望ましい。近くに嫁がせる場合、婿側の家族について、信頼できる人たちかどうか、かなりの程度まで把握できる。嫁に出しても困った時に娘や姉妹を守ってやることができる。あまりにひどい時には、婚家にどなり込んで、娘や姉妹を連れ戻せば良いだけの話である。また、嫁をいびる家からも近くに嫁を出しており、自分の娘や姉妹が他の家で、逆に仕返しされることや、嫁いびりの評判の悪い実家のために気まずい思いをしていることも考慮せざるをえない。それゆえ、嫁をいびるにしてもおのずから限度がある。
 同姓で村ごとに互いにまとまっているより、同姓が各村落に散らばっている方が、便利なことが多い。村落間で対立が生じた時、各村落に散らばって居住している同族や親戚の間で情報交換が行われ、対立の緩和に向かう動きをとることができるからである。逆に同姓村が広く発達した地域において分類械闘が盛んなのは、このような調整力が--もし存在したとしても--ほとんど効かないからであろう。

2 怒江大峡谷
写真:怒江第一湾
 怒江第一湾
 旅の後半はほとんど怒江大峡谷の間の移動で過ごした。怒江とはサルウィン川上流のことである。9月6日朝、大理を出発し、夜、福貢に到着した。9月初旬の昆明や大理の涼しさ、あるいは朝夕の肌寒さに比べ、怒江流域はかなり暑く、正直驚いてしまった。北に行けば寒いと単純に考えてしまうが、どうも違うようである。
 怒江流域の中心、六庫(濾水県)には2006年に一度訪れている。だが、それ以上北には行かなかった。地図を見ると、福貢県やその北にある貢山県はあまりにも遠く思えたからである。今回、事前にネットで怒江流域を検索したところ、意外に多数の日本人バックパッカーが訪れていることがわかり、これまた驚いてしまった。なかでも、キリスト教会についての記事が目を引いた。まるで、昨年9月の貴州石門坎旅行の続きをやれと言っているみたいだ、と思いながら、今回も是非、教会の写真をとってやろうという気になった。

写真:発電所(怒江流域)
発電所(怒江流域)


 9月7日、福貢のホテルのフロントで、近くに教会がないかどうか聞いてみた。麗江出身だという中年の女性は、自分は地元のものではないので、あまり詳しくないと前置きしながら、いろいろアドバイスしてくれた。福貢の町の中にも教会はあること、彼女と一緒にフロントで働いている20歳ぐらいの女性従業員(リス族)の村にも教会はあるが、山地で遠いこと。また、観光案内でも紹介されている老姆登(Laomudeng)の教会は、さらに遠いなどと話してくれた。高校を出たばかりという感じの若い女性従業員は、物珍しげにやってくる余所者を警戒しているらしく、その後もけっして打ち解けた顔をしてくれなかった。先の中年の女性は、ちょうど、夜勤(当直)が終わって帰宅する従業員に、町の教会まで案内してくれるように頼んでくれた。これで、あまり知られていない町の教会の様子がわかるかもしれない、と期待してついて行ったのだが、残念ながら、閉まっていて中に入れなかった。明日(土曜日)の夜くれば、中に入れるのに、と案内の男性は言ってくれたのだが、翌日は貢山に出発するつもりだったので、もうそのチャンスはなさそうだった。教会の建物は、他の建物と建物の間に囲まれるようにして作られており、外からは教会の建物すら見えないようになっており、外観を写真に撮ることさえできなかった。
 がっかりして戻ってくると、新華書店が目に入った。こんな小さな町の新華書店がつぶれもせずに営業しているのかと思い入ってみると、旅行・地図コーナーで、かなり詳しい『雲南地図分冊』があったので、さっそく買って頁をめくってみる。福貢県の村にそれらしい村はないのかと見てみると、老姆登の地名が目に入った。老姆登は前日夕方、通った匹河(Pihe)の近くにあり、バスを使えば簡単に行けそうだった。
写真:老姆登へ(怒江の谷を見下ろす)
老姆登へ(怒江の谷を見下ろす)
 福貢から1時間半もかからずに匹河に着いた。地図を見ながらしばらく歩いてみたが、到底、徒歩では老姆登につけそうもなかった。やはり三輪タクシー(タイで言うトゥクトゥク)を頼むしかないかと思い、またバス・ステーション近くに戻った。最初に顔を合わせたトゥクトゥクの運転手はいかにも食えない顔の初老の男だった。老姆登へは往復幾らだ、と聞くと40元だという。教会(教堂jiaotang)はあるのか、と聞くと、途端に100元だと値段をつりあげてくる。あんまりなので、ムッとして、他のトゥクトゥクを探そうとした。男は、まあ、待て、待て、と僕に声を、さらに彼の徒弟らしき若い男を呼んだ。やむをえず、若い男にもう一度、老姆登へは往復幾らだと聞くと、60元だと値段を下げてきた。多分、この手のトゥクトゥクは座席4つなので、1人、5元だとして、4×5=20元、そして往復なので、40元というのが、やはり相場だと思う。でも、こちらとしては是非行きたいので、60元でもいいか、という気になった。また、譲ってやったほうが、都合が良い場合もあると思い、60元で乗ることにした。
 若い男が運転するトゥクトゥクはつづら折りの坂をゆっくりゆっくり登っていく。次第に眼下の道や建物がみな小さくなっていく。老姆登へは5分や10分では到底つきそうもなかった。徒歩で登ろうなんて無謀な試みであることがわかった。2、30分ぐらい 昇ったであろうか。トゥクトゥクはようやく、老姆登につ
写真:老姆登教会
老姆登教会
いた。展望台のようになっている見晴らしの良いところで、眼下に広がる風景を何枚か撮った後、老姆登の教堂の前に立つ。さすがに観光案内に載っている写真ほどきれいではないが、それでも十分に趣のある良い建物であった。高黎貢山(山脈)を背景にした写真がやはり一番映える。
 この教会の信者(プロテスタント)たちは主にヌー族(怒族)である。また、信者にはリス族もいるとある。それにしても、このような高山に住み、眼下を見下ろすことと、平地に住み高山を見上げることの違いの大きさ、景観と生態環境の大きな違いに、感銘を受ける。
 9月8日、福貢から貢山へ移動。貢山のホテルの老板娘(女将)はどうもヌー族らしく、半分ぐらいしか会話が通じない。明日、丙中洛(Bingzhongluo)に行くつもりだが、丙中洛に教会があるかどうか知っているかと聞くと、知らないと答える。知らないわけはないだろう、と思いながら、それ以上は聞かなかった。ひょっとして言いにくい事情があったのかもしれない。でもやはり、まだまだ、「自分たちが観光業に携わっているという自覚が足りないのでは」と思わざるをえなかった。9月9日朝、バスで丙中洛に向かう。老姆登の時とは違い、教会があるかどうか、あるいは見つかるかどうか、はっきりせず、少々不安であった。1時間半ぐらいで、丙中洛につく。おりから、たくさんの子供たちがバス停で待っていた。日曜日にどうしたのだろう、と思いつつ、男子に聞いてみた。すると、休みが始まり、みな家に帰るところだという。へぇー、と思いながら、その少しイケメンの男子に教会の話まで聞いてみることにした。子供たちは丙中洛中学の生徒で、学校は、この奥にあると、谷間に向かう道を指さす。じゃ、君たちの学校の近くに教会はあるのか、と聞くと、すぐ近くに教会がある、とのことであった。念のためと思い、デジカメを取り出し、前々日に撮った老姆登教会の写真を見せながら、こんな風な十字架があるか、と聞いてみた。ある、十字架がある、との答え。間違いなさそうだった。彼に「ありがとう」を言って、すぐ谷間に向かう道を歩き出した。
写真:丙中洛バス停
丙中洛バス停
 写真にも映っているが、超市(スーパー)横の壁のところに、「石門関Shimenguan」の標識が立っているのも、何かの縁かなと思い、谷に向かう道を下りていく。最初、学校からバス停に向かう生徒たちが三々五々やって来ていたので、中学校はすぐにでも見つかる様子であった。でも、途中から、生徒たちはまったくいなくなってしまった。みな、すでに家路についてしまったのであろう。途中から道は緩く大きなカーブを描きながら、谷に向かって緩やかな坂道が続いており、本当に目的地に辿りつけるかどうか、わからなくなってしまった。まったく通る人のいない道をとぼとぼ下って行くと、ラマ教風らしき建物(ラマ塔)が見えた。教会の谷に、ラマ教の建物
写真:丙中洛中学
丙中洛中学
か、と思うとより不安になった。だが、さらにしばらく行くと「丙中洛門戸重丁村」の案内板が見えてきた。多分学校であろう、遠くに白い建物が見え始め、ほかにも確かにそれらしいものがありそうだった。元気が出て、渓流に架けられた橋を渡り、流れに沿った道を急ぐと、丙中洛中学の校門の前に出た。
 重丁村のカトリック教会もすぐ見つかった。少し躊躇したが、中庭に入っていくと、白い教堂が立っていた。おりから日曜のミサが続いているらしく、讃美歌が聞こえてきた。女性の声に主導された美しい讃美歌を聞きながら、しばらく佇んでいると、外から観光客らしい中国人が2、3人入って来て、さらに教堂のなかに消えていった。おそらく、都会のカ
写真:教堂への道
教堂への道
トリック信者なのであろう。観光がてらやってきて、参拝するつもりなのであろう。だが、クリスチャンでもないのに、同じ行動をとることはやはり憚られた。中庭に居たのは10数分ぐらいだったと思う。外に出て、なおも谷に向かって歩く。多分、石門関に向かう道なのだろう。だが、どのぐらいで着くのかわからないので、やむなく、戻ることにする。のどかな谷間の風景を写真に収めながら、再びバス停に向かってゆっくり歩き出した。
 9月10日、貢山から六庫へのバスのなかで、筆者が日本人だと知って隣の席に座ってきたヌー族の老人は、にこにこしながら、さかんに声をかけてきた。だが、怒江地方の方言らしく、言っていることがさっぱりわからない。ただ、話の途中で、一瞬、基督教(jidujiao、プロテスタント)と聞こえたので、基督教徒なのかと聞いてみた。いや天主教(tianzhujiao、カトリック)だといって、胸に下げている十字架を見せてくれた。家族もみな天主教かと聞くと、そうだと答えた。じゃ、ご両親はと聞くと、基督教だったという。そして「対不起duibuqi」と言葉をつけ加えた。自分の代で信仰を変え、両親を裏切ってしまった、申し訳ないという意味だろうと思う。その後も、彼はさかんに話しかけてきた。終には、車中ずっと飲んでいた白酒(baijiu)を押しつけてきて、飲め、飲めと言って筆者を困らせた。
写真:重丁教堂入口
重丁教堂入口

 怒江流域にいたのは、足掛け7日間である。怒江大峡谷は、金沙江の峡谷と同じように、山が水流の直前まで迫っており、耕せる平地はほとんどない。それゆえ怒江大峡谷において、壩子と呼べるのは、多分、濾水、福貢、貢山の各県城のほか、丙中洛を含め数えるほどしかない。いずれも、小規模なものである。後は、みな山の実りに依拠して暮らさなければならなかったであろう。怒江の水流は急なので、水運に使えなかったと思われる。

写真:老姆登教会
丙中洛重丁教堂

 現在の怒江流域では、六庫周辺の山に樹木が乏しい。北上するにつれ、樹木が少しずつ多くなる印象をもった。筆者が気にしている水については、流域の所々に小さな水力発電所を見かけたので、山から水が出ることは確かであろう。ただ、峡谷の両側にそそり立つ山々のいたるところから水が出るのか、あるいは所々からしか水が出ないのか、わからない。ともかく、山から水が出ること、さらに怒江流域の温かさを考えると、耕作可能な平地に恵まれなかったのは残念であったように思う。それでも棚田を流域のところどころに見ることができた。小規模とはいえ水力発電を可能にするぐらい、水が湧き出る山がある以上、棚田も可能である、ということであろう。

棚田(貢山・丙中洛間)


 古くから「刀耕火種」(焼畑耕作)を行なっていたリス族ではあるが、そのためであろう、怒江流域の山地から多くの樹木が失われることになったともいわれる。そのような状態を緩和すべく、雲南各族は早くから水田耕作を試みていたが、リス族も、すでに1949年以前から水稲耕作を行なっていたとある(尹紹亭「雲南の刀耕火種(焼畑農耕)及びその変遷」『ヒマラヤ雑誌』№10、2009年)。
 筆者の乏しい知識では、リス族といえばすぐキリスト教を連想してしまう。民国期の怒江流域のプロテスタント布教では、Isobel Kuhn(1901-1957)がよく知られている。Amazon.comで、何冊かイゾベル・クーンの本を注文したので、彼女たちの怒江流域における伝道活動について、いつか紹介できればと思う。