中国的なるものを考える(電子版第52回・通算第94回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第53号 2012.12.15 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

やわらかな水の理論の世界4
水に育まれた連帯 hydraulic solidarity
 相変わらず、「水の理論」にこだわり続けている。この夏以来、読んだ水利に関する著作、とりわけコミュニティ・ベースの灌漑に関する著作のなかでは、以下の3冊が特に面白く、かつ有意義であった。
①J.Stephen Lansing, Priests and Programmers: Technologies of Power in the Engineered Landscape of Bali, Princeton University Press, 1991.
②Paul H. Gelles, Water and Power in Highland Peru: The Cultural Politics of Irrigation and Development, Rutgers University Press, 2000.
③Stephen G. Bunker, The Snake with Golden Braids: Society, Nature, and Technology in Andean Irrigation, Lexingtong Books, 2006.
①は東南アジア島嶼部に関わる著作であり、②③は、さらに遠く南米ペルーに関わるものであり、次第に、これまで議論してきた中国西南(雲南)からも、インドシナ北部からも遠ざかっているが、今しばらく付き合っていただきたいと思う。

貢山県城

①『司祭とプログラマー』は、バリ島の灌漑システムにおけるウォーター・テンプルの役割・社会的機能を扱ったものであり、自治的な灌漑組織スヴァクにとって、ウォーター・テンプルが本質的な役割を果たしていることを述べている。タイトルにあるプログラマーとは、主に東南アジア各地において「緑の革命」を推進しようとしたプロジェクト立案者のことである。著者ランスィングは、バリにおける緑の革命が失敗に終わったことの内在的な批判から、伝統的な水利社会におけるウォーター・テンプルとその司祭の役割を見直すべきであることを理解する。ウォーター・テンプルは水利社会における宗教的な機能を司るのみならず、季節ごとの宗教行事に伴うスヴァクの寄合を通じ、スヴァク内のメンバー間の水配分をめぐる摩擦や、各スヴァク間の水をめぐる抗争を調整すると同時に、農業歴に合わせ農作業の進行をもゆるやかにコントロールしていた。さらに、最上位のウォーター・テンプルthe temple of the crater lake及びその主宰者Jero Gdeは、首長や王といった「政治支配」との関係においても、微妙な距離を保ち、全体として灌漑システムが維持・発展していくように、その役割を果たしていた、とある。
②『高地ペルーにおける水と権力』及び③『金色の網目を持つ蛇:アンデスの灌漑における社会・自然・技術』は、インカ帝国が栄えたペルー高地の、灌漑システムに関する人類学的研究である。おそらく著者たちは、多くの研究者と同様に、何故3000メートルを越える高地において、どのようにして精巧な水路や段畑が築かれたのか、或はそれがどのように維持されていったのか深い興味を持ったのであろう。スペイン人によるインカ征服の後、灌漑は維持されず、その多くは放棄された。スペイン人の支配のもとでは、灌漑の維持に不可欠な村落共同体(アイユ)の協働体制が維持できなくなったからである。だが、20世紀後半に入り、農民による灌漑再建の機運が醸成されていく。ただ、協働関連の可視性といった視点から見れば、ゲレスがフィールドとしたカバナコンデCabanacondeとバンカーのフィールドであるウアノキテHuanoquiteに違いがある。以前より、縮小された規模においてではあれコミュニティ・ベースの灌漑を維持してきたカバナコンデの農民の方が共同事業に積極的であり、水路が辛うじて残っているにもかかわらず、ウアノキテは消極的である。違いは、両者が置かれていた歴史的環境にある。私有制大農園アシエンダ(hacienda)の支配の下、労働力を徴発され、農奴同様の扱いを受けていたウアノキテの農民たちは、互いにまとまりが薄いように見える。さらに、アシエンダの相続者の間で水路が分割所有され、また農園主によって新たに水路が増設されたような場合、農民たちは、灌漑を自分たちに属する固有なものとして見ることが難しくなる。すなわち、水利をめぐる協働連関が、カバナコンデの農民たちにおいては可視的であり、ウアノキテの農民たちには不可視となっているといえそうである。

沙渓鎮

 ゲレスはカバナコンデの人々の間で、1980年代前半まで毎年春先に行われてきた、彼らの水源である母なる山、聖山Huacla-Huaclaへの巡礼について、春先の日差しのなか雪の上を歩くことが巡礼者に雪目snowblindをももたらすような、その集団的苦行が、彼らの間の連帯solidarityを、新たなものに更新してきたと述べている。また、バンカーはインカ時代の農民たちにあって、その後ウアノキテの農民の間で失われたものは、ローカルな連帯solidarityであり、それ--協業とその成果--をもたらすローカルに即した「知」であると考えている。バンカーのタイトルにある黄金の網目をした蛇the snake with golden braidsとは、三千数百メートルの高地に、地を這い、時には地中に隠れ、また再び地表に現われてくるように、延々と流れる細い水路を象徴している。民衆の神話のなかで、この蛇は、スペイン人の到来とともに再び現れてくることはなくなったのである。
 実は、先ほどのランスィングも、ウォーター・テンプル・ネットワークに代表されるバリ島の自治的な灌漑組織の本質として、hydraulic solidarityを挙げている。ここでは一応「水利をめぐる連帯」とでも訳しておきたい。棚田や田越し灌漑からなるバリの農業景観から、本シリーズの冒頭で紹介した棚田の民、ハニ族のコミュニティの在り様を想起すれば、この連帯の意味が良く理解できるはずである。ランスィングはウィットフォーゲル「水の理論」の代表的なコンセプト、水力的官僚機構hydraulic bureaucracyに対し、バリ島のような水利社会においては、コミュニティ・ベースの灌漑システムに見られるhydraulic solidarityをより本質的なものとして強調している。筆者の「協働連関の可視性」は、水利事業だけではなく、水利を含む協働事業--たとえば焼畑農業における協働による火入れなど--についてのものであるが、このhydraulic solidarityが指示するものと、ほぼ同じ認識を共有していると考えている。つまり、水利を通して連帯が培われるのは、その事業において協働連関の可視性が保たれているからであり、何らかの理由でそれが維持できなくなれば、連帯は消え去るという関係にある。危機は、ペルー高地においては、スペイン人たちが押しつけた植民地の諸制度、とりわけアシエンダによってもたらされた。バリ島においては、緑の革命とともにもたらされた上からの農業の改革も、程度は異なっていても、同じように働いたのである。新しい種子(高収量品種)、化学肥料と農薬の投入、そして水利機構を含む農業機構の変更、農業経営における私的契機の重視、それらはそれまでの水利社会に存在したhydraulic solidarityを傷つけるものであった。すなわち、いずれも、水利システムが外からの干渉を受け、水利機構・水利施設が農民にとって外部化するとともに、農民たちは、これまでは自ら--コミュニティ--のコントロールのもとにあった水利システムにのなかに、協働連関の可視性を感じることができなくなっていく、ということを示している。

石宝山・沙渓鎮間

 このシリーズ(『やわらかな水の理論の世界』)では、何度か信頼という言葉を使っている。たとえば、コミュニティ・ベースの灌漑において、水利を共同で営む村人たちは、互いに信頼しあっている、といった具合に、である。その場合、たとえ、個々のメンバーどうしが嫌いあっていても、全体としては、信頼は維持されていると考えるべきである。
 この信頼とは、同じ共同体の個々のメンバーに対する信頼というよりも、共同体自身への信頼、あるいは共同体が築き上げてきた制度とかシステムへの信頼といった方があたっていよう。この個人的な感情とは別の、制度やシステム、あるいはそれをもさらに越えた、社会そのものへの信頼というものがあることに気が付いたのは、最初の中国滞在においてであった。
 1980年代前半のことである。留学した当初、バスに乗ることさえ大変であった。バスを待っている人々は列を作らず、列を作ったとしても、途中からの割り込みは普通のことであった。せっかくバスが来ても、誰も彼もがワッと入口に殺到し、次々と押し飛ばされ、バスに乗れないことがしょっちゅうであった。1981年秋の国慶節(10月1日)のおり、琉璃廠(Liulichang)の中国書店に行こうと思い、当時の北京大学の正門近くのバス亭に並んだのだが、祝日に出かけるバス待ちの人の群れに押され、なかなか乗ることができなかった。何台待っても乗れそうもなかったので、やむをえず、一つ手前のバス停に行って待ったのだが、それでも乗れず、さらに一つ前のバス停に行って、ようやく乗れたことを思い出す。
 その後、バスに乗ることは、かなり容易にできるようになった。まず、バスを待つとき、前の人間の背中にぴったり体をつけ、割り込みを防ぐため胸一つの隙間さえ空けないようにするとか、バス入口の取っ手(把手)に手が届いたら、それをつかみ、強く引きつけるようにして自分の体をバスに近づけるとか、さらに肘を外にまげて、自分とバスの間の隙間を縫うように割り込んでくる者を阻止するとか、いろいろな手段を駆使して乗るように努めた。最初、こんなことまでしてバスに乗らなければならないかと、惨めに思ったが、混んでいる時には、そこまでしなければ乗れない以上、そうせざるをえなかった。
 ただ、今思えば、重要であったのは、技術的なことよりも、多分、思い切りであったと思う。どうしても乗りたいと思い、手段をつくして乗りこもうとする時、日本で通用した行為を捨てる思い切りである。日本にいれば、普段列を作っている時、体をできるだけ前の人の背中に近づけるなどということは必要ない。また、そのようなことは普通できない。だが、胸一つ空ければ、そこに割り込んでくる者がいる社会では、必要な時にはそうしなければならない。見知らぬ他人に対し、列に割り込む疑いや、割り込まれる不安が強いほど、あるいはまた、見知らぬ他人が、ルールを破っても痛痒を感じない人間であると思えば思うほど、警戒を怠ってはならない。そこから、そうしなくてもよい社会とは、どういう社会であるかを知ったわけである。すなわち、そうしなくてもよいということは、見知らぬ他人を、同じ市民的秩序のもとで暮らす人間として--おそらく最低限--信頼している、ことを意味している、ということである。
 中国留学から戻ってきて中国語学校で中国概況のようなものを教え始めた時、つねにこのような話--バスを待つ話や行列をつくる話--をして、それを伝え聞いた中国人の老師(先生)たちの顰蹙を買っていた。大学で教えはじめ、ゼミ生にも同じような話をしていたところ、5年ほど前、北京に短期留学した学生から、バスの乗る時、先生が言っていたようなことは、もうありませんでした、と言われてしまった。

福貢県城

 似た例はほかにもあげることができる。同じように1980年代前半の留学中の旅でのことである。当時、中国の汽車では、お湯のサービスがあった。車掌がお湯の入った摩耗瓶を抱えて、乗客にお湯を振る舞っていた。あるいは、乗客が自分の魔法瓶を持ってお湯をもらいに行くこともできた。ある時、多分、まだ発車したばかりか、あるいはボイラーの調子が悪く、お湯がまだ沸いていないことがあった。乗客の一人が魔法瓶を持ってお湯をもらいに行ったが、まだ沸いていなかったので、そのまま帰ってきた。別の乗客が同じようにして、魔法瓶を抱えてお湯をもらいに向かい、前の客と途中ですれ違った。当然、お湯はまだ沸いていないと言われたのが、そのまま魔法瓶を抱え、お湯をもらいにいった。だが、同じようにして空の魔法瓶を抱えて帰ってきた。魔法瓶を持った三番目の客がお湯をもらいに向かい、二番目の客とすれ違った。当然、まだ沸いていない、と言われたのだが、同じように、お湯をもらいに向かい、そしてまた、空の魔法瓶を抱えて帰ってきた。多分、同じことが、その後二、三回、繰り返された。
 その時の感想は、どうして乗客たちは、たとえ見知らぬ他人から教えられたことであるとはいえ、お湯はまだ沸いていないということを信じないのだろうか、ということであった。前の客が嘘を言っているとでも思っているのだろうか。あるいは、自分だけは特別で、他人の場合は、湧いていないけれども、自分の場合は湧いていると思っているのだろうか、とも考えた。もし、うっかり他人を信じて行かず、その直後、別の人間が出かけてお湯をもらって来たら、ひどい失敗だとでも思うのかもしれない。そして、自分が行った時には、もうお湯がなくなっていたとしたら、悔やみ切れないのかもしれない。いずれにしても不思議な光景だった。
 でも、今だったら、疑問に思うべきなのは、どうして我々は信じるのか、ということであろう。我々だったら、たとえ見知らぬ他人から教えられたとしても、信じるであろう。また、信じていいかどうか確信がなくても、わざわざ教えてくれた人の前で、その助言をあえて無視するような行為は、余ほどの場合でなければ、できないだろう。では、見ず知らずの人間に対しても、何故、そうできないのであろうか。それはおそらく、我々が普段、見知らぬ人間に対しても、同じシステムの下で生きている人間、あるいは、それに準ずる者として、遇しているからであろう。同じシステムの下で暮らす人間、あるいは似たようなシステムの下で暮らす人間である以上、その人間は、我々の社会の人間と同じ程度に信頼しうるし、また同じ程度に信頼できない、ということになる。

丙中洛

 そのことを強く感じるのは、雲南その他でタイ族の村を訪ねたり、あるいは台湾を旅行している時である。旅人として、自ら近づいてくる見知らぬ他人に用心するのは当然であるが、たまたま道を歩いていた通行人に道を尋ね、彼らが親切に道案内をしてくれることまでは、疑わなくてよい。もちろん、そんな時でも、最低、用心することにこしたことはない。雲南、タイやビルマでも、旅先で何度も騙された経験を持っているので、手放しで、雲南人やタイやビルマの人々を礼讃しているわけではない。
 たとえば、雲南滞在中、水かけ祭りの時、タイ族の村を訪ね、たまたま道を尋ねた娘さんに祭りの会場まで案内してもらったことがあったが、そのような時感じるのは、彼や彼女たちは、自らの社会と同じような社会に暮らす人間として、見知らぬ我々に接している、という印象である。それ故、少しぐらい我々に親切にしたところで、何の報酬を求めることもなく、用がすんだら、あっさりと立ち去ってしまう。見知らぬ他人に近づくことがリスクのある社会では、あるいは見知らぬ他人にちょっとした親切をすることが、普段は行わない何か特別のことをしていると感じる社会では、そのリスクや何か特別なことに対し、報酬を求めるのが当然だという気になるのではないかと思われる。留学以来、大陸で見知らぬ人間やあまり知らない人間から親切にされると、その代わりに何か代償を求められるのではないかと、つい身構える癖--自然と身体が固くなる--がついてしまった。1995年台湾に3週間旅行した時、あるいは2003年から2005年、2年間雲南に滞在したおり、それらの社会では、そのような身構えをする必要はないことを知った。そして雲南滞在中、時々回った、東南アジアでは、身構えるとか、足元を掬われるのではないかと、絶えず気を張りつづける必要のない社会が、大きく広がっていることを知り、正直なところホッとさせられた。
 このように、やってきた旅人(余所者)を、親切にもてなしても、報酬をもらうことさえ思いつかない。あるいは旅先であった見知らぬ他人の言うことを、普通に信じてしまう。これらは、見知らぬ他人を同じシステムのもとに生きている者、あるいはそれに準ずる者として見なし、その言うことを自分たちの社会における他人の言うことと同じぐらい信用する、というようなことがなければ、起きないことだと思う。
 そして、このような振る舞いをする社会が、どの程度まで広がっているかを、おおよそ想像できると考える。それは、例の、近い過去の歴史において、hydraulic solidarityが存在していた社会、あるいはコミュニティの協働事業において、協働関連の可視性を維持していた社会である。具体的にいうと、日本から、台湾、フィリピンを経てインドネシアまで、さらに、そのインドネシアから、タイ、ミャンマー、あるいはラオス、カンボジア、ベトナムなどインドシナ諸国を北上し、雲南までの社会である。

桃源の壩子

 ただ、これらの地域の個々の水利システムについて、詳しく知っているわけではない。とくに、台湾における水利については、そうである。地形的には、急峻な山地が多く、盆地や渓谷、渓流が多い台湾は、日本や東南アジアと同じく、コミュニティ・ベースの灌漑に向いているといえる 。日本統治との関連で八田與一の烏山頭ダムと嘉南大圳(たいしゅう)があまりにも有名であるが、むしろそれ以前の、福建系、客家系移民と平埔族との関わり、そして彼らが如何なる水利社会を営んでいたのかが重要であろう。あるいはさらにそれ以前の台湾原住民、特に平埔族の水利について、知りたいと思うのだが、筆者の手元にある潘英編『臺灣平埔族史』(南天書局、1996年)には、平埔族は元来、旱田農耕であり、游耕を行なってきた、と述べている。畑作を行ない、地力が失われれば、土地を移動して耕作を続けたのであろう。さらに先行研究に拠り、水稲を行なうようになったのは、1630年からで、漢人から伝わったものであろう、と述べている。きっと著者たちは、台湾における水利農業の成立は、福建人の到来以後のことだと考えているのであろう。
 フィリピンについては、大崎正治『フィリピン国ボントク村:村は「クニ」である』(農山漁村文化協会、1987年)が参考になる。おそらく、スペイン人の到来以前のフィリピンはルソン島北部山岳州ボントク村に見られるような棚田の風景が、より広汎に見られたのであろう。因みに、棚田の景観で初めて世界遺産に認定されたのは、同じくフィリピン・イフガオ州・コーディレラの棚田群であるが、大崎は、ボントクの棚田は、スケールの大きさと美しさにおいて、フィリピンの棚田の中で随一だと述べている。大崎は、とくに村落の農民たちの共同作業、結(ゆい)と祝祭の結びつきに注目して、彼らのhydraulic solidarityを熱心に描いている。高地を中心に、棚田が広がる世界、それがフィリピン農村社会の原風景であったように思う。ただ、フィリピンもペルーなどと同様に、スペイン植民地制度に苦しめられた経験を持つ。一説によれば、高地で棚田を営んでいた諸部族の多くは--北部山岳地帯を除けば--、平地に住むことを強制され、またその多くはアシエンダの支配の下で暮らさざるをえなかったとある。すなわち、植民地支配が、フィリピンの水利社会が以前有していたhydraulic solidarityを損なった可能性がある。

怒江の吊り橋

 ベトナムは、これまで述べてきた重力灌漑の世界とは異なり、トンキン・デルタの治水をその水利の中核としている。だが、桜井由躬雄らは、デルタ地帯の農耕の発展は、国家による大規模水利事業の前に、まず、自然堤防や残丘といった微高地に、はりつくように住みついた農民たちが、うまずたゆまず耕地を造りだすことによって進められたと述べている。トンキン・デルタの村落は、我々のイメージでいえば輪中共同体であり、その共同体連合の上に、マルクス『資本制生産に先行する諸形態』において、諸共同体の上に君臨する包括的統一体と呼んだイメージそのままに、国家(王朝)が乗っかっていたのであろう。カンボジアについては、古代クメールにおける水利の性格をめぐって、石澤良昭のアンコール水力都市説と、福井捷朗のタムノップ(土堰堤)による小規模灌漑論が、真っ向から対峙している。ただ、農民世界の在り様を考えるためには、おそらく後者の方に比重を置かざるをえないのでは、と考える。
 では、ミャンマーから、さらに西に向かっても同じような世界が広がっているのであろうか。すでに言及したアッサム、カングラ、フンザに加え、同じくヒマラヤ南麓のブータンやネパールを含め、その可能性はあると思う。だが、それがヒマラヤ南麓からカラコルム南麓へかけて、たとえ細くとも、帯状に存在しているのか、あるいは個々に孤立して点在しているのか、今、それを言うことはできない。クールに代表される重力灌漑システムがどの程度存在するかも、いまだ把握しえていない。情報が少なすぎるし、また旅の経験もない。幸いにもミャンマーの対外開放が本物になりつつある。以前より外国人がミャンマー北部、たとえばミッチーナから直接アッサム峡谷に向かうことができる日がくるのをずっと心待ちにしているのだが(すでに高速道路の建設が始まったというニュースもあるので)、その折、もし体力がまだあれば、さらにヒマラヤ南麓を西に向かい、自分の目と耳で、実際はどうなっているのかを体験したいものだと考えている。