中国的なるものを考える(電子版第53回・通算第95回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第54号 2013.02.11 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

やわらかな水の理論の世界5
水と賦役corvée
 相変わらず水文献にこだわって読んでいるが、今回が最終回である。今回とりあげるのは、次の二作である。
①Salbatore Ciriacono, Building on Water: Venice, Holland and the Construction of the European Landscape in Early Modern Times, Berghahn Books, 2006.
②Thomas F. Glick, Irrigation and Society in Medieval Valencia, Belknap Press of Harvard University Press, 1970.
 前回は、南米ペルーの話であったが、今回は、ついに西欧にまで飛んでしまい、いよいよ中国から遠くなってしまった。ご寛恕ねがいたい。上記二著はいずれも西欧社会における水利の在り方に関したものである。筆者は、以前より、「アジア的な社会」とは異なった社会において、水利事業がどのように営まれるか、水利システムがどのように維持されるのか、調べてみたいと思っていた。
マルクスの水についての有名な一節に、以下のものがある。

 天候と地形上の条件、とくにサハラからアラビア、ペルシア、インド、タタールを経て、アジア最高の高原にまでひろがっている広大な砂漠地帯のために、運河と用水とによる人工灌漑が、東洋農業の基礎となった。エジプトやインドと同様、メソポタミア、ペルシアその他でも、洪水を利用して土地を肥沃にし、高い水位を利用して灌漑水路に水を注いだ。このように、水を節約して共同につかわなければならない根本的な必要から、西洋では、フランドルやイタリアの例のように、私的経営が自発的な連合を結ぶのが促進されたが、東洋では文明があまりにも低く、また地域があまりにも広大で、自発的な連合を生み出さなかったため、とうぜん集中的にはたらく政府権力が介入することになった。ここからして、一つの経済的機能、すなわち公共事業をおこなうという機能が、あらゆるアジアの政府に帰した」(マルクス「イギリスのインド支配」『マルクス=エンゲルス全集』第9巻, p.123)。

大理三塔


 つまり、マルクスは、ヨーロッパにおける水利の代表として、フランドルとイタリアを挙げ、そして、その水利の特徴の一つを、私的経営が自発的な連合を結ぶのを促進したと述べている。これは、具体的には一体どのようなことを意味しているのだろうか、とても気になるところである。フランドルとは厳密にいえば、現在のベルギーと北フランスに跨る地帯だが、多分、マルクスは、ここではオランダを含めて使用していると思われる。
①『水と闘いつつ築かれた都市および農村:ベネチア、オランダおよび近世西欧における景観の成立』。原著タイトルにある Building on Water は、筆者にはうまく訳せない。やむをえず、上記の訳をあてた。タイトルのとおり本書は、ベネチアおよびオランダの水利事業に関する著作であり、著者のもっとも大きな関心は近世ベネチアの水利事業に向けられている。近世ベネチアにおいて--中南米における銀の産出とスペインへの移送に伴った--価格革命以降、食料価格の高騰につれ、耕地拡大への意欲が増した。農産物の国内需要の拡大をもたらしたものとして、オスマン帝国や南イタリアからの食糧調達の難しさ--忌避--を挙げている書物もあり、そちらの方が主要な理由なのかもしれない。
 ベネチアにおいて沼沢地の排水を整備し、農地を造成し、農地のために水を要求したのは大土地所有者=土地貴族であった。大規模な事業は土地所有者がコンソーシアムconsortiumをつくって対応したようである。彼らは経営のための投資として水に投資し、農業用水を買った。ところが、このような水田の造成に対し医者や学者などの反対があった。水田が健康に対する悪い影響があるとの理由からであったという。この反対は、大勢とならなかったようだが、我々とはまったく異なった景観に対する見方からであり、それ自体とても興味深く思う。
 ベネチアにおける水利は、ラグーン(lagoon,潟)との関わりが重要であった。ラグーンの現状を変えることにつながるような水利事業は認められなかった。ラグーン(ラグーナ)の重要性、ラグーンの保護については、ベヴィラックワ『ヴェネツィアと水 環境と人間の歴史』(岩波書店、2008年)に詳しい。ラグーンは、貿易都市ベネチアの港を維持するためには不可欠であった。ミレトスやエフェソスといった古代の著名な港が、土砂の流入と堆積により、次第に陸地と化したことを思えば、当然の顧慮であった。また、ラグーンは、海からの嵐を和らげるため、あるいは防衛上、不可欠とみなされていた。
 このラグーンを守るため、ベネチアは、水を専門とする行政職を置き、森林の伐採や、農地の拡大など、行き過ぎた開発による土砂の海への流出と堆積を、なんとか防ごうとしていた。だが、ベネチア共和国は、寡頭制支配であったとしても、アジア的な社会ではなく、私的所有を保護する社会であった。そこでの、私的な経営の発展、あるいは私的経営にもとづく経済活動の増大は、当然にも、資源として樹木を消費し、農地や水の利用を促し、そこから土砂や様々な廃物の、河川や海への流出は避けられなかった。まさに、先進工業国が遭遇した環境問題と同じ問題にぶつかっていたのである。ベヴィラックワは、16世紀ベネチア農業の動向について「この当時、レトラットと呼ばれる農業組合が誕生して普及し、農業家たちはこの組織に結集して、新しい土地の開墾や干拓、灌漑システムの組織化に集団で対処しようとしていた」といっており、この農業組合レトラットと先ほどのCiriaconoが言及した大土地所有者のコンソーシアムとは同じものであろう。

大理盆地

 Ciriaconoは近世以降、オランダあるいはその他のヨーロッパの地域においても、私的な会社組織が沼沢地へ向けた資本のメイン・ソースであったと述べる。実際には、国家あるいは地方政府もまた沼沢地の干拓には関心を寄せていたと思われる。耕地が増えれば、農民も増えるからである。それにしても、一般に、水利のイニシアティブを私的な会社組織がとるというのは、我々の世界には全くないとはいわないけれども、やはり違和感がある。ただ、私的イニシアティブといっても、中世以来、封建諸侯による開拓農民の勧奨によるもの--この場合農民に自由を与えることが多かった--、また修道院が傘下の農民を率いて行うもの、さらには農村自治組織ウォーターボードによるものなどがあり、単純ではない。
 近代以降、オランダが西欧の水利事業の先進地域とみなされ、各国はオランダから水利技師を招き、時には資本も招いて、干拓あるいは沼沢地の排水事業を行うことになるが、その時も、会社組織をつくり投資を募り、事業を行うことになる。水利技師が中心となって投資会社を作ることもあったといわれる。投資家は、投資比率に応じて新たに造成された農地を獲得する。時代によって、あるいは地域によって異なるであろうが、取得した土地を小作に出す場合もあれば、農業家または農民に売って投資を回収する場合もあったと思われる。この辺も、我々にはなじみのないところである。というのも、もし、アジア的な社会でこのような開発が行われれば、かならずといってよいほど、周辺の農民を動員して行なわれることになり、そうである以上、治水・灌漑のみならず、干拓も、国家や地方政府の関与抜きには行えなくなる。純粋に私的なイニシアティブで行われるのは、極めて小さな規模の場合だけである。

②グリック『中世バレンシアにおける灌漑と社会』は、水の理論に関する名著だと思う。ただ、対象はウィットフォーゲルの言う水力社会ではなく、また、この間、力説してきたコミュニティ・ベースを中心とした水利社会でもなく、確立した私的所有に根差す、西欧の水利社会である。
 バレンシアの灌漑地はウエルタhuertaと呼ばれた。町の人間は城壁の外に灌漑農地をもち、主穀やブドウを植えていた。バレンシアの市と町は、都市およびその管轄下にある土地(農地)に対し、司法権jurisdictionを有していた。市や町が新しい水路(canal)を築く場合、議会あるいは行政当局は、そこに明確な司法権を設定した。アラゴン王のもとにあるバレンシアの、最終的な司法権はアラゴン王に属したとはいえ、実質的にはバレンシア市や町が保有していた。すなわち国王から特許状を得ていた。とくに、バレンシア市は、国王ハイメ二世(1291-1327)の特許状を拠り所とすることができた。
そのアラゴン王は、灌漑の発展のために投資しようともしなかったし、またそれを自己のためのコントロールしようともしなかった。では、灌漑投資は誰がしたのであろうか。灌漑のための投資は主に土地所有者などのグループがカンパニーを作って行い、市や町は市民が負担できないほどの規模の事業にのみ関与した。具体的な水路の掘削や補修工事は、人手を集め賃金を払って行われ、工事に必要な資材もまた金銭をもって調達している。灌漑プロジェクトにおいては、賦役corvéeはほとんど用いられなかった。特にバレンシア市においては賦役ではなく、賃金による雇用を好んだようである。

大理盆地

 水をめぐる最大の抗争は、1413年に生じた。3人の貴族(Lord)がバレンシア市に優先権がある水路の水を自領に多く流そうとして、市の水役人juratesおよび水利機構と衝突した。市は水役人の報告を聞くや、領主から市の水利権を守るため、100名の騎兵と1000名の歩兵の募集を決め、3日分の手当てを用意し義勇兵を集め始めた。武力衝突を前に3人の貴族はすぐに和解を求め、市の権利を守ることを誓い、保証人を市に差出した。貴族たちが強気に出たのは、国王フェルナンド一世(1412-1416)の彼らあての書簡であったが、市議会は彼らが国王の手紙を恣意的に理解したものと断じ、貴族たちにはもともと存在しない権利を主張しているとしてその要求を退けることができた。
  グリックが描く中世バレンシアの灌漑機構の在り様は、我々が知るものと大きく異なる。水路の管理者cequierは、それぞれの灌漑コミュニティの全体集会で選ばれ、かつ灌漑コミュニティの権利が、水を管理する役人たちの司法権(裁判権)のもとに統括され、守られている。その方法は、西欧における放牧地や草地、森林などの共有地(コモンズ)を管理運営するやり方と同じではないか思われる。
 中世バレンシアの灌漑システムにおいては、賦役はほとんど用いられていない。新たな水路を築造する場合、まず、それが個々人あるいはグループとして行う場合においても、あるいは町や市が行なう場合においても、投資として行われた。先に一定の元手、資本が準備され、それによって人を雇い、資材を購入して、建設されたのである。そのようなことは、一定程度、アジア的社会においても行われるかもしれない。だが、アジア的社会においては、人を動員するのに、あるいは物資を調達するのに、予め資本があるかどうかは、状況次第である。アジア的社会における王や首長が、共同体農民を動員し、水利事業を行う権力を、仮に勧農権と呼ぶとすると、その勧農権の保持者は、手元に資本がなくとも、農民を動員し、物資を調達することができる。もし、事前に手元に余裕があれば、働き手に報酬を払うこともあるであろうし、物資に代価を払うこともありうる。少ない資本しかなければ、少なく払うことで済ませるであろう。

騰衝郊外

 中世バレンシアのようなやり方では、灌漑が一挙に広がることはない。オランダの干拓地のように、ゆっくり、少しずつ拡張しうるだけである。ところが、バレンシアにおいては、もっとも元手がかかる最初の灌漑施設の築造、灌漑システムのための基盤づくり、すなわち大がかりな初期投資を行なったのは、バレンシア人ではなく、それ以前の、アラブ人であった。バレンシアの灌漑の起源については長く論争が続いており、アラブ人の侵入以前に、ローマ帝国の時代から、すでに始まっていたとされるが、規模を大きくしたのは、やはりアラブ人だったと考えられる。スペインを統治した後ウマイヤ朝のカリフたちは、アジア的社会の君主としても、またスペインの征服者としても、農民たちを賦役に動員し、水利事業を行うことを当然の統治行為として考えていたであろう。彼らが農民を駆使して築いた灌漑施設を、レコンキスタ(国土回復戦争)以後、キリスト教徒であるバレンシア人が引き継いだ、それゆえ、大がかりな初期投資をしなくて済んだのだと考えられる。

 長い紹介になってしまったが、以上の二冊の著書の、水をめぐる議論の積み重ねのなかで、何となく、ようやく、マルクスやウィットフォーゲルが示唆した文明の相違について、理解できるようになってきたのかなと思っている。
 なお蛇足だが、バレンシアというと、すぐにバレンシア・オレンジという連想が湧く、と友人が教えてくれた。実はこのオレンジも、アラブ人がスペインに持ち込んだ果物であり、やはり当初は灌漑を必要とするものであった。ネットで、バレンシア・オレンジと入れて検索すると、たくさんの記事にぶつかるが、今もバレンシアでは、オレンジは灌漑と浅からぬ関係があるようで、灌漑を使って栽培しているオレンジが多いとある。
 ほかにアラブ人がスペインに持ち込んだものに、綿やアルファルファがあるが、水稲栽培もそうであるらしい。ところが、先ほどのベネチアの例と同じく、中世バレンシアにおいても、水稲は病気ともたらすとされ、市のウエルタでは栽培が禁止されていたとある(グリック)。また、ウィキペディアのパテルナ(Paternaはバレンシア近郊の町)の項には、1769年、王令によりマラリアの発生を防ぐためにコメ栽培を禁止とある。また、旅行記(ブログ)のなかには、バレンシアで見た水法廷について紹介しているものもあり、中世以来の水利機構に培われた独得の司法権(裁判権)が、現在にまで継承されている様子が伺える。

蘭州・固原間(甘粛)

 やはり問題は水をめぐる賦役corvéeの問題に行きつく。アジア的社会の水利では、農民の賦役(夫役)は不可欠である。賦役労働なしには治水灌漑事業もなければ、その維持管理もない、といってよい。それに対し、中世バレンシアにせよ、フランドル=オランダにせよ、そしておそらくベネチアにせよ、水利において賦役は存在しないか、最小限度に抑えられている。
 これをもう少し詳しく説明すると、水なしには農業を行なえないアジア的な社会において、堰や水路の建設あるいは堤防建設のための労働は、小農民の個々の経営にとっては経営外の労働という意味で剰余労働であるが、それぞれの経営にとっても、生産条件の再生産にとっても不可欠である以上必要労働とみなされる。すなわち共同体のための必要労働である。国家成立以降、この労働は王やその代理人の命を受けた賦役の形をとる。それを共同体のための賦役労働と呼ぶ(望月清司)。戦前における水の理論の指導者、マジャールはこれを社会的必要労働と呼んでいる。
 本来、コミュニティ・ベースの治水・灌漑を考えると、このための労働は、おそらく自発的なものであっただろう。だが、それが次第に規模を大きくするにつれ、単なる自発性では支えきれなくなる。だが、それでも、コミュニティ・ベースのシステムを維持しえているかぎり、外部の力による労働の強制(賦役)ではなく、習慣や内部的な「掟」による強請、あるいは族長や長老による譴責など(共同体的規制)によって、労働への動員が果たせられたと思われる。だが、国家が成立し、懲罰装置を備えた行政機構により労働への動員が行なわれる時、労働は強制されたものになる。ただ、それでも初期国家の段階においては、その強制もそれほど行き過ぎたものにならない。古代日本や、中国西南の盆地連合政権(盆地・小平野連合政権)などの場合、地方のそれぞれの盆地の実情を無視した、農民の大量動員は、却って政権を不安定にするだけであっただろうし、各盆地の水利は、依然としてコミュニティ・ベースの水利システムの性格を留めることになったと思われる。
 それに対し、大河流域や大平原の水利システムは、そのようなコミュニティ・ベースの水利システムの制限をはるかに越えるものである。各地域の実情を逐一考慮しては、大河流域の治水も大平原の灌漑も行えない。また、大河流域や大平原においては、主穀は容易に王都に搬送されうる。つまり、主穀が王都(副都もしくは主要軍屯地)に容易に集荷される社会においては、その分、中央政府は、個々の地域に配慮する必要がなくなる。

芒市の壩子

 たとえば、戦国末期、孟嘗君など戦国の四君は食客三千人を擁したといわれているが、三千という数字が誇張であったとしても、そこで示されているのは、多数の非生産者を養うに足る社会的余剰の存在である。さらに言えば、土地から遊離した高等遊民の多さも際立つ。ところで、四君は王ではなかった。ということは、それぞれの王都にはおそらく、四君の周囲にもまして、多数の文人、武人、官僚志願者が集っていたはずである。そして、そのような高等遊民は、戦国時代初期、魏の西門豹が農民を動員して12条の用水路(西門渠)をつくったとされるような、大規模な農業開発の結果、王都に集められた主穀や物資で養われていた。王は、自ら開発を主導した地域を王の直轄地(県)にすることができた。派遣すべき官吏は、王都に集まる文人や武人のなかから適任者を容易にみつけることができたであろう。もし、その官吏が任地において土地の有力者と結びつき地方の豪族にでもなる気配があれば、ただちに王都の高等遊民のなかから新手が選ばれ代わりに地方に送り込まれたであろう。このような官吏たちは、王のために地方の統治や開発に励むことになる。いずれにしても、その結果は、ますます王都は肥大化し、かつ、農業開発、すなわち水利事業は規模を拡大させることになる。そして、王都の政策は、地方の実情へ関わりを薄くすることになる。大規模公共事業に向けた農民の大量動員は、地方の実情を無視して行なわれ、コミュニティを混乱させる。農民間の負担の押し付け合いは、結局、農民が暮らす村落が共同体ではなくなるということを意味する。
 コミュニティ・ベースの水利システムをなお残している初期国家と、それとは比較にならない規模の水力社会の上に築かれた専制国家は、対照的であるとはいえ、重要な共通点が存在する。すなわち、君主は、公民あるいは良民に賦役労働を強制することができるという点である。古代ギリシア人にとって、公共事業に駆り出され働かされるペルシアの農民たちは、奴隷のように見えたであろう。ポリス市民にポリスの王あるいは執政官は、労働を強制することはできない。何故ならば、かれらは同輩中の第一人者にすぎないからである。この原理は、基本的には古ゲルマン社会においても、中世社会においても、同じであった。部族の首長と部族メンバーの関係、あるいは王と自由農民の関係において、前者は後者に労働を強制することはできなかった。我々にはなじみの、領主と農奴の関係は、後者が前者に人身的に隷属しているということ、あるいは土地を通してやはり強い従属関係にあるということから来ており、そこから農奴や隷農は、領主に一定期間、労役を提供する義務を負っていた。水の思想家玉城哲は、たとえ大規模ではなくとも、規模はそれよりも小さくとも、アジア的社会の水利システムそのもののなかに、専制主義の萌芽、潜在を認めていたように思う(『風土の経済学』新評論、1976年)。
 最後に、中国古代におけるコミュニティ・ベースの水利システムを考えてみたい。かつて木村正雄が、邑制国家の水利システムによって造成された農地を第一次農地、戦国時代以後の大規模水利事業により造成された農地を第二次農地と呼び、この第二次農地こそが専制国家の経済的基礎だと述べたことがあった。この日本版「水の理論」は、不幸にもウィットフォーゲル・パニックのあおりを受け、理論的な後継者を失った。やわらかな水の理論の視点において、注目すべきは、初期国家の礎となった第一次農地である。初期国家を成立させたとはいえ、第一次農地は、やはりコミュニティ・ベースの水利システムに由来するものであると思われるからである。
 天野元之助以来の旱地農法(乾地農法)の立場からいえば、華北農業自身が水利に依存しないものである以上、第一次農地にせよ、第二次農地にせよ、それらを国家の成立や政治支配と絡めて論じること自体が無駄なのかもしれない。だが、中国古代のエコ・システムが現在と同じであったなどという者はいないであろう。今から約3000年前、西周時代の華北はおそらく、現在よりもはるかに湿潤で、森林も多かったと思われる。とすれば、湧水に恵まれた山や谷も多かったことが考えられ、渭水盆地周辺の山麓には、あるいは黄河各支流(たとえば汾水や洛水)を溯れば、湧水や渓流を利用したコミュニティ・ベースの灌漑を営む社会が存在していた可能性があろう。谷口義介『中国古代社会史研究』(朋友社、1988年)や小南一郎『「詩経」 歌の原始』(岩波書店、2012年)を読んで、ますます、そう思うようになった。筆者ごときが「詩経」に言及するというのは、実におこがましい話だが、詩経に歌われている首長と共同体成員の社会関係は、まさにコミュニティ・ベースの水利社会の特徴を反映しているように思われる。
 そして、そのように考えれば、農耕儀礼、籍田における共同耕作の意義や、井田制における公田の位置づけも理解しやすいと思われる。前回、アンデス高地の水利の例を紹介したが、山本紀夫(『じゃがいもとインカ帝国』東京大学出版会、2004年)などによれば、インカ帝国は、農村共同体の共同労働に依拠していた。村落の土地(段畑)は三つに分かれていた。インカ王の畑、太陽の畑、そして各農村共同体の畑である。各村落に割り当てられたインカ王の畑、太陽の畑は、共同体の土地と同じように、共同労働で耕作された。インカ王の畑、太陽の畑の収穫物は王への貢納や神への供物とされたほか、収穫されたトウモロコシは酒に醸され、祝祭の折、村民に振る舞われた。そのほか共同の備蓄とされ、孤老、寡婦、孤児などの救恤のため、あるいは飢餓の救済のため使用された。また、インカの畑や太陽の畑を耕す時、村民は晴れ着を着て、歌いつつ働くように命じられたとある(モーリス・ゴドリエ『人類学の地平と針路』紀伊國屋書店、1976年)。おそらく、公の田を耕すこと自体、祝福されるべきことであったと考えられていたのであろう。
 籍田や井田制がどのようなものであったのかどうか、様々な議論がある。ここで籍田といっているのは、後世の宮廷儀礼としての籍田ではない。西周期の、農耕儀礼とはいえ、服属する諸氏族による賦役によって営まれた一種の収取様式としての籍田である。井田制に関しては、存在そのものに異論がある。だが、形態はどうあれ、井田制の公田にあたるものが存在した可能性は高いであろう。そしてそれらの収穫物が、王や首長への貢納や神への讃仰にだけではなく、農民あるいは村民への祝祭に供され、さらに共同の備蓄とされ、救恤に使われたとしたら、政治支配の成立や安定に寄与したことは疑いないであろう。そして、そのような王が、治水を司る禹の子孫、後継者とされたのも理解できる。というのも、国土が王の治水で築かれたものである以上、水と土地の所有者である王への貢納、賦役の提供は臣民の義務となるからである。
 さらに、見のがせないのは、詩経国風の恋愛歌謡が、歌垣の名残ではないかとするマルセル・グラネ(『中国古代の祭礼と歌謡』平凡社、1989年)の著名な指摘である。もしそうだとすれば、古代華北の生態景観は、現在のものとはまったく異なったものとなる可能性がある。歌垣が存在している、あるいは過去に存在したとされる日本、そして中国西南からインドシナ北部にかけての景観--照葉樹林地帯--は、豊かな森や水によって特徴づけられるからである。そこから、焼畑耕作やコミュニティ・ベースの灌漑システムの存在を想像することは、それほど無理なことではない。
 もう一つ重要なことがある。歌垣は、四鄰および近隣の共同体への信頼なしには存在しえない。娘や息子を歌垣に参加させるということは、娘や息子への家父長制的な婚姻の統制を困難にさせる。かつ、娘や息子たちが選んだ伴侶を、両親が受け入れるためには、近隣のコミュニティを信頼していなければならない。それらがなければ、歌垣が存続し続けることは不可能である。
 そうであるとすれば、西周社会を支えていたとされる宗法をどのように理解すればよいのだろうか。宗法を根幹とする家族制度は、歌垣の慣習とは相いれないであろう。江戸時代、武士階級の婚姻と農村の婚姻慣習が異なっていたようなことを想像すればよいのであろうか。さらに、このような歌謡を含め、詩経を編纂した春秋時代の士大夫(たとえば孔子)は、それらのことをどのように考えていたのであろうか。一般に、統制のとれた婚姻のルールを持つ支配層は、民衆の比較的自由な婚姻慣習を淫なるものと軽蔑する傾向が強いが、もし、軽侮の情が強ければ、現在、我々が目にしているような詩経は、編纂されることはなかったであろう。あるいは、そこには、編纂者たちの、古き社会--近隣どうしが信頼しあっていた社会--への郷愁のようなものがあったのであろうか。