中国的なるものを考える(電子版第55回・通算第97回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第55号 2013.06.26 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

村松祐次『中国経済の社会態制』と原洋之介『クリフォード・ギアツの経済学』の間で その二
 現在、1960年代の西欧におけるアジア的生産様式論争について、論文を書き出したところであり、残念ながら、それ以外には、ほとんど時間が割けなくなってしまった。依拠すべき資料、文献のほとんどがフランス語、ドイツ語であり、たどたどしく読むことしかできない筆者の語学レヴェルでは、じつに手に余るテーマである。単に引用するだけ、あるいは内容に言及するだけでも、同じ論文を何度も読み返さなければならない。ほんの少し書くだけでも、時間があっという間に過ぎてしまう。だが、この10数年、ずっとアジア的生産様式論争を追っかけてきて、やはり、何故、1964年に、フランスを中心に西欧において、論争が勃発し、その後大きな影響を与えたのかを、自分の目で確かめたかったという理由が一つ。また、遅かれ早かれ誰にでもやってくる、記憶や思考の衰えや、視力の衰えの前に、アジア的生産様式論争に関して知っていること、気がついたことは、できるだけ書いて残しておきたいと考えているからでもある。
 目下、時間がないとはいえ、上記のタイトル(「『中国経済の社会態制』と『クリフォード・ギアツの経済学』の間で」)でエッセーを書くことは、かなり前から決め、実際にそれについての読書も、少しずつ進めて来た。いつも、この欄のエッセーを書く前には、数日、関連の資料や著作を集中して読むことにしているが、今回はそれもできないので、どうしてこのようなエッセーを書きたいと思ったのかから書き出し、それで書けるところまで書いて、次回に繋げたい。
 さて、前回、二つの水利社会、すなわちウィットフォーゲルがいう水力社会と、コミュニティ・ベースの水利システムにもとづく社会を、商業や商人に視点を据えて比較してみるつもりだと書いた。本来は、二つの異なった水利社会に住む人間が、遭遇した時、何が起こるのか、とくに、市場(経済的なコミュニケーションの場)において、どのようなことが起こるかを描きたいのだが、実のところ手元に適当な資料がない。というのも、書きたいのは現在の出来事ではなく、過去の出来事であり、かつ、なるべくプリミティブな状態での交渉、始まりの状態を想像してみたいからである。
 では、どうして比較の対象として商業や商人、あるいは商行為に関心を持ったのかというと、見知らぬ者どうしが出会う時、どのようにして関わりをつくるのか、あるいは関わりがつくられるのか、ということに興味があるからである。異なった文化的な背景を有する見知らぬどうし--あるいはあまり知らないものどうし--が、物のやり取りをする、売買をするというのは、何でもないことのように思われるけれども、実際には数々の難しさを抱えつつ、かつ、それを越えて行なわれる。互いに余っているものを、一回きり、交換するだけならば、仮に損しても得してもそれほど大きな問題ではないように思うが、ずっと長く付き合うとなれば、話は別であろう。
 もう40年以上も前、河野信子の著作のなかで、海産物を背負って農村に行商に行く、朝鮮人の女性と、それを迎える農家の嫁たちとの出会いを、関係を紡ぎだす行為と表現していたように思う。あまりにも遠い過去のことなので、記憶があいまいで、その本の名前も覚えていないし、著者が河野信子ではなく、森崎和江だった可能性もある。いずれにしても、九州の漁村と農村の話であり、「サークル村」出身の女性が書いたエッセーだったように思う。また、関係を紡ぎだす、という表現も、別の言葉で語られていたかもしれない。
 取引、売買というのは、当事者どうしが、互いを信頼していなくても、その必要があれば行なわれる。同じ文化を持つ人々の間でも行なわれるし、異なった文化を持つ人々の間でも行なわれる。また、一般的にいえば、農民というものが商人を信用していないという点については、どの世界においても、共通しているように思う。たとえ、商人が農民出身であっても、農民たちは、商人を、欲得づくの信頼に足りない人々だと考えているように見える。ただ、農民と商人の関係というものは、社会によって随分異なる。それゆえ、その社会に生きる人々の間の信頼の程度をはかるのにふさわしい例が多いのでは、と考えている。
 まず、商業というものがまだ専業化されていない社会については、中尾佐助『秘境ブータン』(現代教養文庫, 1971年)が参考になる。中尾がブータンを訪ねたのは1958年のことである。ブータンは、おそらくはもともとは東南アジア系の原住民の上に、チベット系の移住民が融合したような社会であり、かつ王家など支配層はチベット系の人々が占めている。ブータンは、急峻な山岳が多いにもかかわらず、狭い谷間で米をつくり、その余剰をチベットに輸出していた(チベット動乱によって国境が閉鎖されるまで)。農民たちは、思い思いに、それぞれキャラバンを組み、家で余った米を馬の背に載せ、峠を越えて売りに行っていた。替わりにチベットからは主に食塩などが運び込まれた。ところが、農民からは、当時、他の農民の余剰をも買い、それを集荷して売りに行き、利鞘を稼ぎ財産を築くような、商人は出ていないとのことであった。それに対しチベット人はすでに専業的であった。彼らは、なかなか抜け目のない商人であり、ブータンの小さな貿易でさえ、ほとんどチベット人に握られていたとある。ブータン人が専業化しないということは、農民たちが商業上利益を得る--間に入って利鞘を稼ぐ--ということを、農耕や牧畜上の成功--農地を拡大したり畜群を大きくしたりすること--に比べ、あるいは役人になって出世することに比べ、劣ったものと考えていたからだと、中尾は述べている。
 フンザやカングラ、アッサムといったヒマラヤ・カラコルム山脈周辺のコミュニティ・ベースの水利社会についての著作を読み、ネパールやブータンにおける農業はどのようになっているかが気になっていた筆者にとって、この中尾の著作はとても興味深いものであった。ブータン人は、2500メートルの高度までなら水稲農耕を営み、米のほか、バターなしでは暮らせないというのも、意外でもあり、おもしろく感じた。このような水稲農耕と牧畜の組み合わせは、東南アジア系とチベット系の融合からなるブータン社会の特徴をよく伝えているように思う。
 だが、残念ながら、ブータンの農民たちが、谷間の水利をどのように築き、維持しているのかについては、ほとんどわからない。同書において、水田の記述はたくさんあるが、どうも中尾は、具体的な農村組織の在り方や農民の労働編成といったことには、それほど関心がなかったように見える。
 ブータン農業にもっとも深く関与したのは中尾の学生であった西岡京治である。1964年から28年間、1992年現地で死亡するまで、農業専門家としてブータン農業の指導に当たっていた。残念ながら西岡京治・西岡里子『ブータン・神秘の王国』(NTT出版, 1998年)は、水利についてほとんど触れていない。ただ、少ない記述から、水路を掘るにしても、橋を架けるにしても、徹底的に、農民たちがコントロールしうる規模でやる、というのが西岡の農業指導の基本方針だったということがわかる。規模を大きくして、自分たちの力ではどうにもならず、中央に依存しなければ築くことも維持することもできない、ということを西岡は断固として拒否していたようである(同書, pp.245-249)。まさに、コミュニティ・ベースの共同事業として、水利や架橋が考えられている。そして、それが、ブータンのような照葉樹林文化地帯の農業にふさわしい規模なのであろう。写真をみるかぎり、西岡夫妻が住んだパロ谷は雲南でいう壩子(バーズ、盆地)に見える。また、首都ティンブーも、旧都ブナカも、写真が少なくあまり確かではないが、同じく壩子であるように見える。
 「ブータンを訪れる外国人の目を奪うものは、山腹に点在し、自然の風景と調和し、その中の溶け込み、その一部となっている民家であろう。ブータンの伝統的特徴は、農家は一軒一軒がかなり離れて建っており、集落がないことである」と書いているのは、今枝由郎『ブータンに魅せられて』(岩波新書, 2008年)である。では、農民たちのコミュニティがどのように作られているのか、堰や水路などの水利施設がどのように築かれ、維持されているのか知りたいところだが、なかなか思うように答えは得られない。だが、チベット仏教研究者である今枝は、ブータン人が、見知らぬ人が困っている時、どう振る舞うかについて、以下のように書いている。ある時、ティンプ(首都)のあちこちをドライブしていた今枝は、狭い道に迷い込み、排水溝の上を覆うコンクリートの板の上を走るはめに陥る。後、もう少しで道に出るはずだったが、かなりの段差があって、彼の車ではうまく降りられそうもなかった。だが、そこを通りかかった人たちが、何も言わないうちに、あちらこちらから石を持ってきて、段差を埋め始めた。わずか数分のうちに段差は埋まり、誘導してくれる人もいて、車は無事通り抜けられ、道に下りることができた。だが、すでに、助けてくれた人たちはお礼も待たずにみな立ち去ってしまっていた。通りすがりの人間で、そこで何が行なわれているのかを知りながら、黙って通り過ぎる人はなかったという。この辺--彼らの素朴さに加えて、やさしさや信頼感--が、ブータンがいまだに「半鎖国」状態を続けているにもかかわらず、ブータン愛を貫く外国人が多い所以であろう。
 また、上の今枝の記述に、小水系の民、コミュティ・ベースの水利社会の人々特有のやさしさ、他者への信頼感があると考えるのは、筆者の独りよがりというわけでもない。互いの協力関係が見えたり感じられたりするところでは、人は自然に親切に振舞うに違いないと思っている。筆者が生まれ育ったところは、北海道の農村であったが、地方都市と農村が入り混じったところであった。当時、町の人口は3万余だったと思う。このようなところでは、みな互いに、知り合いか、知り合いの知り合い、の間柄であった。このような小さな社会では、誰かへの親切は、回りまわって、いずれ自分に返ってくる可能性がある。実際には、誰もそんなことは考えずに、普通に--都会人から見た--親切をやっている。観光客も、たとえ初対面でもその恩恵にあずかることがあるはずである。だが、都会ではそうはいかない。筆者が高校を出て、都内に就職し、工員をやっていた頃、書店で、本を探している人がいたので、頼まれもしないのに、その本を探し出し、手渡したところ、ひどく当惑されたことがあった。そんなことが二、三回あった後、もうそのような余計な親切はしなくなった。ここは、自分が生まれ育った社会とは異なった原理から成り立っているのだ、と理解したからである。
 こんなことを書けば、日本は小水系の水利社会であり、お前がいっていることと矛盾するのではないか、と思われるかもしれない。たしかに、日本の社会システムは過去において、小水系の水利社会を基調としていた。あるいは、小水系の水利社会においては、たとえ、水利に関係しなくとも、小さな社会の共同事業の積み重ねは、互いの関わりを密にし、その成功は、協力の確かさをつくり出す。だが、小水系の水利社会に存在した協働連関の可視性は、近代的な技術の導入による水利事業の大規模化や、巨大都市の誕生により、大きく失われる。
 次は、前回もとりあげたバリ島の例である。典型的なコミュティ・ベースの水利社会であるバリ島には、種々様々なグループ、伝統的な共同行動の組織(seka/sekaha)が存在し、それぞれ共通の利害を担い活動している。バリ島ではその伝統的水利システム、スバック(subak)があまりにも有名だが、スバックにもとづく文化的な景観として、ついに、ユネスコの世界遺産に登録されたらしい。ネットを検索すると、スバックの組織はスコ・スバック(sekaha subak)と呼ばれるとある。中世・近世に強力な村落共同体を持つ日本に生まれたものとして、このようなバリ農村の多様な社会的諸関係を理解するのは、かえって難しい。多分、親族組織、宗教組織、水利組織あるいは、日本では座とか講といった農村組織やネットワークが、村落(ムラ)を越えて広がり、村落すらもそのような農村組織の一つにすぎない社会をイメージすればよいのだろうが、それとてもそのような諸関係をきっちり村ごとにまとめていく農村社会に馴染んだ我々の思考から自由になるのは容易ではない。
 筆者は、商業とかビジネスといったものも、先ず、それぞれの社会の人間の繋がり方に依拠して、あるいはそれを利用して、培っていくのだと思っている。たとえば、ギアツ『行商人と王子』(Peddlers and Princes, 1963)では、タバナン(バリ島)から遠く離れた山村が自分のところに小学校をつくろうと、まず村の田(riceland)などの共有財産を売り、中古のバスを買い、土地を持たない村民が運転手となってタバナンへの路線バスを運行し、その収入で小学校を建設し教師を雇ったとある。ギアツは、インドネシア独立後、バリ島の首長層が始めたビジネスの例を多数あげているが、強く印象づけられたのは、むしろこの山村の話である。政府主導による学校建設が、予算不足と僻地を理由に引き延ばされたために、やむをえず村が行動を起こさなければならなかったのであろうが、実際に農民がこのようなビジネスを行なうというのは、大変なことだと思う。村人の間に信頼感や相互扶助の伝統がなければ、なかなか実行に移せないことであろう。ギアツもこの事業(venture)の成功は、村生活における相互の信頼と連帯感に依拠したものだと述べている。
 さて、本来は中国の商業史から例を引きたいところであるが、あれこれ中国商業史に関わる著作をめくっても、実際の商行為が具体的にどのように行なわれたのかはほとんどわからない。何冊か中国商業史に関する著作を図書館から借りてきたのだが、どうも自分が求めている本ではなさそうなので積読のままである。そこで過去に読んだA.M.ヒル『商人と移民』(Merchants and Migrants: Ethnicity and Trade among Yunnanese Chinese in Southeast Asia, 1998)をひっぱり出してもう一度めくってみた。とはいえ、1949年以後、国民党軍ともにタイやビルマに移住した雲南人の商売のやり方は、あまり、南洋華僑のそれと違っているように見えない。当初、主として山地に住んだ彼らが、小さな自分の土地からとれた農産物を近くのマーケットに持ち込み、そこを中心に商売を始めるとか、個人の才覚、あるいは刻苦奮闘で小銭をため、次第に商売を大きくしていくとか、親族組織や同郷者のネットワークを利用するだとか、ほとんど同じだといってよい。ただ、ヒル・トライブが住む山村と地方都市のマーケットの間に介在し、商売をやや手広くやるようになっても、雲南人はヒル・トライブに対して、例外はあれ、やわらかな物腰(benign attitude)で接していたと書いている。benignをどう訳すかで、日本語の印象はずいぶん異なる。たぶん、雲南人が持っている当たりの柔らかさのことを言っていると思われるが、ヒルがわざわざ、それを書いたのは、アカ族、ラフ族、シャン族といった、北部タイの山岳地帯に住む少数民族に対し、極端な優越感を示したり、ひどい搾取はしなかったということであろう。一般に華僑は原住民に対し、民族的な優越感を抱くといわれている。インドネシア、フィリピン、あるいはマレーシアのようなマレー系諸民族の間では、華僑に対する敵意が存在するように思えるが、それというのも、華僑の優越意識や、アグレッシブな商行為が、そのような反感を生むことに繋がっているのだと考えられる。それに対し、ヒルの記述は、雲南人の、特に北タイにおけるそれは異なっている、ということを示している。
 A.M.ヒルが言う雲南人(Yunnanese)とは雲南漢族および雲南回族の移住者のことであるが、雲南人の当たりのやわらかさは、我々も雲南で普段感じることができる。それは彼らが漢族であろうと、回族であろうと、みな雲南化したからだともいえる。モンゴル帝国による大理征服以降、雲南に入った回族も漢族も、みな雲南における「熟蕃」と通婚を繰り返している。「熟蕃」とは、移住者(漢族)に嫁を与えた原住民(蛮族)のことである。それに対して与えることを拒否したのが「生蕃」いうことになる。「熟蕃」との通婚を繰り返し、「熟蕃」を漢化することによって、漢族は雲南化することになったともいえる。そのプロセスは、水力社会の民であった漢族が、徐々に、小水系の民、壩子(盆地)の民に文化変容していく過程でもあったと考えている。やや大胆な仮説ではあるが、そう推論している。
 実は、この半年、日本中世における商業がどのように発達したかについて、豊田武『座の研究』(吉川弘文館, 1982年)、脇田晴子『日本中世商業発達史の研究』(御茶の水書房, 1969年)など中世商業史に関する著作を、少しずつ読んできた。残念ながら、紙幅も尽きかけているので詳述できないが、先ほど、それぞれの社会の商人たちは、それぞれの社会の農村組織の在り方に依りつつ、あるいは、農民間の関わり合いの在り方に依りつつ、商売を始めたと述べたが、日本の商人たちも同じである。中世の商人たちの組織である座は、村落の組織であった宮座にその起源があるといわれている。商人たちは、座に依りつつ、内部的に結束し、外に向かっては、他の商人集団と激しく争った。本所と呼ばれる寺社など荘園領主に座役(一種の貢租)を納めることで、それらから、できるだけ広い範囲において販売についての権利を獲得すること、他の商人グループの進出を排除すること、権利をめぐる訴訟に勝利すること、そして商路の安全を確保することなど、多くは集団として行動することによって、解決しようとしたのである。
 そのような商業をめぐる様々な困難に立ち向かうために、農村出身の商人たちは、村落共同体に代表される農村における組織原理をまず援用したのであろう。また、座内部の結束はメンバーが、互いに差はありつつも総じて比較的平等であったことから、あるいは差はあれどもそれなりにバランスがとれていたことからも力を得ていたと思われる。これも、中世農村の村落共同体の在り方とほぼ同様であると考えられる。日本の、中世や近世の商人たちの間における、信用とか信頼といったものは、商人以外の人たちからみれば、何となく、うそっぽくて、あまりふさわしくないようにみえたかもしれない。だが、様々な困難を乗り越えつつ、長期に商いを維持するためには、仲間同士の信頼のみならず、顧客から信用をえなければならなかった以上、商人も、他の集団と同じように、信頼とか信用を重んじたのは当然であった。
 そして、このような集団内部の信頼とか信用といったものは、内部における競争の抑制に役立ったと思われる。たとえ、内部統制のために、厳しい規則を定めなくとも、信頼とか信用といったものは、互いの間の競争を抑制する効果をもつと考えている。(続く)