中国的なるものを考える(電子版第58回・通算第100回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第60号 2013.12.17 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

『中国経済の社会態制』(村松祐次)と『クリフォード・ギアツの経済学』(原洋之介)の間で その5 東南アジア・日本・中国--共同性の様々なあり方をめぐって
 前回、農民が、他者(国家や共同体)に依存せず、完全に自己経営しうる社会、例えば古典古代においては、公共の経済は、今日でいうところの、アカウンタビリティのようなものを要求されると述べた。そこが、我々がよく知っている、水利を営むアジア的社会とは異なる点であった。水利を営む社会では、個々の農民の経営には、共同事業(水利事業)が不可欠であり、そのために、個々の農民および彼が属する共同体は、労力の提供はもちろんのこと、必要な場合、資材の提供も求められた。そして、そのような社会に生きる農民と共同体にとって、彼らの賦役の成果である水利施設の運営と維持が適切になされ、彼らの農地に、適時、水が供給されることが第一であり、水利事業を指導管理する共同体の首長や初期国家の王に対し--あるいはその代理人に対して--、公共事業に関し詳細なアカウンタビリティを求めるなどということは二の次の問題であったろう。
 これは、エンゲルス『反デューリング論』における政治支配の二つの道のなかの第一の道の問題である。すなわち、共同事業によって建設された水利施設は、その規模の拡大や機構の複雑化とともに、次第に共同体のものから、共同体のメンバーのコントロールの及ばないものとなる。本来は水利施設の維持管理を司っていた共同職務機関が自立化し、その長である共同体の首長は、共同体の拘束から離脱し、かえって共同体を拘束するものとなる。同時に、共同体の資産であった水利施設も、首長あるいは初期国家の王のものになる。そうなってしまえば、水は、首長や王の恩恵として農民に与えられるものとなる。当然、君主の恩恵として水を与えられている農民たちが、公(おおやけ)に対し、アカウンタビリティを求めるなどということは、難しくなる。
 つい最近読んだ、橋場弦『丘の上の民主政--古代アテネの実験』(東京大学出版会)に、「アテネ民主政発展の起動力となったモチーフ」は、「参加」(パーティシペイション)と「責任」(アカウンタビリティ)だとあり、納得した。とくに、ペリクレス期のアクロポリス再建の目玉であったパルテノン神殿建設に関する会計報告システムが興味深い。まず、建設のためには公金が準備された。直接にはアテネの国庫(アテナ女神の聖財金庫)からであったが、実際にはアテネが預かっていたデロス同盟金庫からの醵出であった。橋場によれば、ペリクレスは、公共事業の運営を民主的に行ない、その収支報告を市民団の厳しい監督下に置き、公私の区別に厳密な、民主政にふさわしい公共事業の手続きを確立することを心がけたとある(橋場, p.59)。たとえば、建造プロジェクトごとに民会から選ばれた複数の建造監督官が置かれ、彼らが事業を監督するのだが、実際に施工する建築業者と請負契約を結ぶのは、抽選された契約官であり、かつ、作業を指導する建造監督官は費用の収支の管理も委ねられているのだが、彼らは一年任期で交代し、そのたびに会計報告を提出しなければならず、会計報告は厳密な会計検査にかけられたうえで、碑文に刻まれアクロポリスで情報公開される(p.60)。また、長期プロジェクトについて、請負業者が、贈賄によって役人に便宜を図ってもらおうとしても、建造監督官や契約官は全体で10数人もおり、かつみな一年交代なので、どうにも割に合わない(p.114)、等々。本当に、すごいシステムだと思う。
 我々が知る水利社会の公共事業は、なかなか、そのようにはならない。理由は上述したとおり、そもそも水利社会の公共事業にアカウンタビリティを求めることには、無理があるからである。ただ、それでも規模が小さな、コミュニティベースの水利システムにおいて、共同事業が共同体のコントロールのもとに置かれており、共同事業における協働連関の可視性(第49話参照)が維持されている場合、アカウンタビリティに近いものが求められる可能性がある。だが、水利施設の建設や維持管理が、共同体がコントロールしうる規模を超えた場合、やはり難しくなる。
 先ほどのアテネの公共事業になぞらえるためには、なによりも、水利事業において、請負業者などといったものが存在しなければならず、そのためには、貨幣経済の発展のほか、水利技術の市民化または町民化といったものが生じていなければならない。水利社会の土木技術はおそらく、最初、共同体や共同体を束ねる首長層に蓄積され、さらには、初期国家の王のもとに蓄積されたであろう。技術者たちは、共同体に抱えられるか、首長や王に抱えられるか、そのいずれにせよ、共同体や公(おおやけ)と運命をともにする人々であった。
 時代はくだり、各地で溜池を築き、橋を架けた行基のような僧侶集団が土木技術を有していたことは、技術が共同体や国家が抱え持つ時代からの乖離を意味するようにも見えるが、満濃池(香川県)修築における空海のように、むしろ、僧侶がもっている技術というのは、まだ共同体や国家のための技術の延長であると考えられる。また、戦国大名たちが抱えていた金山衆や黒鍬組といった鉱山技術や土木技術に長じた集団の存在は、技術の市民化や町民化に近づく内容を持つとはいえ、大名が抱えるということ自体が、国家や共同体のための技術である状況を抜け出していない。だが、土木技術が町方に普及した江戸時代、請負業者が登場する。かの木曽川・長良川・揖斐川の河口の三川分流をはかった大規模改修工事、宝暦治水(1754-55)においては、御手伝普請を命じられた薩摩藩は、多大な犠牲を払いつつ工事を完成させるが、個々の難工事はいずれも町人請負とし、数組の江戸町方の土木技術者に工事を委ねている(牛嶋正『宝暦治水』風媒社)。また、現地で調達しなければならなかった労働力と資材については、薩摩藩がそれにふさわしい対価を支払っている。それゆえ、この宝暦治水において、薩摩藩はさらに莫大な負債を背負い込むことになる。

 自分のゼミでの出来事である。いつも、2年生の後期には、現代中国経済に関する著作を輪読してもらうことにしている。現代中国経済を扱うテキストには、まず、建国期から文革期までの、社会主義計画経済についての言及が必ずある。ちょうど、人民公社期における生産性の停滞と、それを打破するための個人請負による生産責任制の実施に話が及んだ時、どうして、個人請負ではなく、集団請負にならなかったのか、という質問が出た。
 筆者は思わず、いい質問だなと思った。30年前に読んだ、メドヴェージェフ兄弟の著作『フルシチョフ権力の時代』(御茶の水書房)において、強制集団化以後のソ連農業の失敗を概括し、「とりわけ農業においてこそ、個人の発意と自由とが鼓舞されるべきであった」(p.199)と書いてあったことを思い出す。たしかに、そうであろう。だが、もし、集団化されたのがロシア人や中国人ではなく、日本人であったならば、どうなったであろうか。計画経済のもとでは、どのようにやってもうまくいかないだろうが、ある程度、市場経済を取り入れ、合作社(組合)あるいは村落共同体の請負制のもとでならば、何とかうまくやれそうな気がする。国家への供出を超えた部分は、すべて合作社や共同体のものになるのならば、意外と、みな、普通に、一生懸命働くのではないか、などと考える。
 ただ、先の質問に対しては、中国人は実は集団による請負は苦手である、といったような答えをしてお茶を濁した。集団による請負がうまく行くためには、一緒に働く仲間への信頼がなければならず、そのためには長い訓練が必要なのだ、などと言いたかったのだが、うまく答えられたかどうかわからない。
 筆者が考える長い訓練とは、数百年単位のものである。たとえば、世界に200年以上続いた企業は5586社あるが、その半数以上の3146社を日本が占めている(2008年5月韓国銀行の調査による:ウィキペディア参照)。第2位はドイツで837社、続いてオランダの222社、フランス196社である。前稿(第57話)で述べた、ドイツ東方植民における水利に長けたフランドル人、オランダ人、ドイツ人植民者の存在と、これらの数字がどのような関係にあるのかを、少し想像したくなる。多分、偶然であろうが、偶然とするには、やや惜しい気もしている。
 ここでの企業は、私企業のことであり、ほとんどが従業員300人以下の、いわゆる老舗であろう。因みに、韓国には200年以上続いている老舗はなく、100年以上が2社存在する。中国については共産革命後の国有化のあおりで、統計が難しく、たしかな数字は出ないと思われるが、ネットでは150年以上続いた老舗が数社(多くとも10社を超えない程度)あるといわれている。なお、改革開放後の中国の中小企業は、平均寿命2年半であると言われている。短すぎる気がするが、実際にはどうであろうか。老舗といえば、家族経営を想起するが、家族や従業員も含めて、集団で営んでいることは間違いなく、家族経営の場合、長期にわたって維持するためには、家族の分裂あるいは相続による経営分割を阻止しなければならず、家族と従業員の間、さらに従業員間の揉め事を解決しなければならない。それらから、長期にわたる集団としての訓練を受けた人々が経営者や従業員である日本の私企業が、他の国々の企業より、長く持続しうることは、容易に想像しうる。そして、筆者は、この集団としての訓練をほどこしたものが--いろいろ考えられるが--、究極的には、盆地・小平野を中心とする、小水系の水利事業(コミュニティベースの水利システム)だと考えている。
 では、日本の社会システムは、同じように起源に小水系の水利システムをもつインドシナ諸国の社会システムと異なるのはどうしてであろうか。ここでは、ミャンマーを中心に考える。高橋昭雄『ミャンマーの国と民』(明石書店)では、日本の村とミャンマーの村の違いについて詳しく語っている。日本の農村社会は、土地私有の発生後も、小さな地域を単位に強い結合力を保ちつづけてきた。その単位がムラ(村落)であるがゆえに、村落共同体と呼ばれてきた。村落のまとまりは、血縁のまとまりとは別であり、村のなかでは、同族や血縁のまとまりに優先する。
 それに対し、ミャンマーの農村には、村落はあっても、村落は共同体ではない。村落は、余所者が定住しようとした場合、容易に受け入れる。また、村落は歴史的にみて、水利についても、地租の徴収や農地管理についても、役割を果たしていない。高橋の著書を読みながら、10数年前、一夏休みをかけ『中国農村慣行調査』(全6冊、岩波書店)を読了したことを思い出した。『慣行調査』はまるで共同体探しの書であった。だが共同体の兆候はあれども、少し深く掘り下げてみると、それは単なる個々の村民間の共同関係にすぎず、華北の村落には共同体と呼べるほどの強いまとまりがあるわけではなかった。その点については、ミャンマーの村も同様であり、高橋は「生産活動における村の役割は非常に小さく、また村の凝集性を前提とするあるいは促進させるような生産活動もない、というのがミャンマー農村である」(高橋, p.162)と総括している。だが、ミャンマー人は姓をもたず、親族や血縁の役割には限りがあり、中国の宗族のような強固な親族組織が、村落共同体の代わりに存在しているのではない。
 高橋は、村でもなく、宗族のような親族組織でもない、ミャンマー農村に存在する多数の共同諸関係の存在について述べる。村人の相互交流は濃密であり、人々は頻繁に顔合をわせ、一緒に行動する。それを高橋は「頻会」と呼び、それが農村社会の様々な共同諸関係を媒介していることを指摘している。まず様々な二者関係があり、さらに、レッサー・アライッ(金銭を伴わない労働交換)、早乙女組合、農民と農業労働者の雇用関係、寺院や自宅での斎飯儀礼、初転法輪組、県や郡の指令による道普請や水路掃除等々の、「頻会」により、濃密な社会ネットワークが形成され、そして、さらに、葬式や結婚のための社会奉仕組合、パゴダや僧院に向けた仏塔管理委員会、斎飯供与組、火事や牛泥棒などの防犯のための治安委員会、あるいは消防委員会、飲料水利用組合等々、目的や用途ごとに様々な集団が形成される。高橋によれば、「才覚や企業家精神さえあれば極短期間に富を蓄積し、村の政治経済の中心人物になれるチャンスをミャンマーの村は提供してくれる。出る杭が打たれるようなことはないのである」(p.105)とある。そうすると、地域のリーダーは、このような多数の共同諸関係に所属しつつ、影響力を行使したり、支持者を募ったりするのだろう。
 このような社会システムは、やはり東南アジア的であるといえる。たとえば、クリフォード・ギアツの描くバリ島には、まさに様々な共同関係が存在する。それらを体現する集団はスカ(スク)sekaと呼ばれるが、ギアーツは、それを5つのカテゴリーに分けている。寺院の会衆、水利組織(スバック)、親族集団、そして音楽バンドのような任意集団もスカである。そして、集落に住む住民の集団も、一つのスカをつくっていることになる(ギアーツ『行商人と王子』)。この、住民の集団、つまり村もまた、一つのスカにすぎないというところが、日本ともっとも異なっているところであろう。周知のように、日本では、村のまとまりは、それらのすべての共同諸関係に優先するからである。日本の村のまとまり、凝集性は、この、農村の共同諸関係が、村に集約されている、ということから来ていている。
 日本の社会を、様々な共同関係はあっても、村に集約されているわけではない東南アジアや、強力な父系的親族組織が存在する中国・朝鮮から区別するものは、この日本の村のまとまり、凝集性である。
 村が強固なまとまりを持っていること、村が共同体であるということは、日本の村の強さであるが、逆にそれは、村人にとって、自己が所属している村の重たさ、身動きのとれない不自由さでもある。高橋昭雄は、自分が生まれ育った村の重たさについて、幾つか辛い経験を書いている。農村出身とはいえ、北海道生まれの筆者などには到底我慢ができないところを、父母など家族のことを考え、我慢し、耐えながら、付き合っていたことがしのばれる。
 日本の村は如何にして共同体となったのであろうか。あるいは、日本の村のこの強い結合、まとまりは、どのようにして作られたのであろうか。戦国時代の自衛する村を描く藤木久志や、江戸時代の村の自立性を描く渡辺尚志の、一連の著作から、農民たちが生きるために、どのように村に依拠し、農業を持続的に営むために、どのように村を生かしてきたのか、すなわち、村のまとまりが如何に作られてきたのかが理解できる。
 高橋昭雄は、日本の村の特質、村のまとまりの由来を、年貢の村請けとの関連から述べている。ただ、村のまとまりは、それ以前からすでに形成されており、その起源は、多分、
 古代末期の開発領主と領民(荘民)の関係にまで遡るのであろう。それ以前のことについては、残念ながら、筆者には分からない。結局、領主は領民から賦役を徴発し貢租を徴収するために、農民のまとまりを利用し、自己の所領を他の領主から守るために、領民の支持をあてにせざるをえなかったのであろう。次第に、領民のまとまりである村は、領主に対し交渉団体のような役割を果たすようになり、その交渉が決裂した暁には、領主に対し武器を手にして闘うようになる。平和的な交渉にしろ、武器を手にした交渉にせよ、村のまとまりこそが、農民が生きていくための武器となった。村のまとまり、凝集性、共同性が、他の共同諸関係に優先する社会は、このようにして作られていったのであろう。
 渡辺尚志は、白川部達夫『近世質地請戻し慣行の研究』(塙書房)に依りつつ、無年季的質地請戻し慣行について強調している(『百姓たちの幕末維新』草思社)。借金の担保として質入した土地は、期限以内に請け戻さなければ質流れとなるが、江戸時代の農村には、いったん質流れとなった土地でも、何年経とうが元金を返済しさえすれば請け戻せる慣行が広く存在していたというのだ。それは、村の掟として維持され、質流れ後、10年、20年経った後でも、場合によって100年経っても、請け戻しが可能であった。おそらく、この恩恵を被ったのは、多くは中小百姓であったろう。多分、貸し手は村の上層百姓であったと思われる。貸し手からすれば、質流れにより土地が自分のものになったとしても、後で請け戻されるというのは、面白くなかったであろう。だが、周囲から、村のためと言われれば、やむをえず応じざるを得なかったのではないかと思われる。年貢が村請けであったということが、そのような慣行をもたらす要因であったと思われるが、それ以上に、村のまとまりが重視された結果であったと思われる。
 村の強固なまとまりは、両義的である。村人にとってプラスでもあり、マイナスでもある。そこから、様々な可能性が引き出される。たとえば、戦後の交通手段の発達で、都市向けの野菜出荷が容易になった茨城県坂東市(旧岩井市)の、利根川北岸の小さな集落の農民たちが、トマトやレタスなどの共同出荷を始めた。この集落は、もともとは千葉県の飛び地であったが、茨城に編入され、その結果、利根川南岸にある本村から切り離されてしまった。彼らは自らのコミュニティをつくりあげていく。おそらく土地が悪かったのであろう、男たちは農業以外の収入を求めて農閑期には出稼ぎにでなければならなかった。他集落に先駆けて始めた蔬菜栽培は、出稼ぎからの脱却を目指すものであり、栽培技術に優れたY氏を中心に、協同出荷に加え、トラクターなど農機具の協同購入、協同使用をはかっていく。地域農協が「園芸部」を結成した際には、蔬菜づくりに自信を深めていた彼らも、積極的に関わることになる。また、Y氏と同じような、それぞれの地区の、野菜作りの名人たちも「園芸部」に参加し、その組織化を助けた(和田正『協業と社会の民俗学』学術出版会)。おそらく、野菜作りの名人たちは、そのような組織のなかで得られる報酬あるいは尊敬に満足し、それを糧としたのであろう。だが、社会によっては、せっかく創業した事業の利益を、できるかぎり自分たちの手元に残るように、つまり他人に渡さないように、事業を企業化し、周辺農家をその私企業のもとに組み込み、利用するやり方もありえたはずである。あるいは、成功した農家を羨み、近隣の農家や集落が、見よう見まねで低品質な野菜を出荷し、結局は、地域ブランドの成立を阻止するなどといったケースもありえたはずである。
 なぜ、始業した村人は、せっかく習得した技術を無償で村人に教えるのであろうか。実のところ、このような人たちは、日本のいたるところに存在したに違いない。宮本常一の父、善十郎は、時々、農閑期に家族に行き先もつげずに旅に出かけ、広い世間をみて帰ってきた。「村に養蚕を普及させ、養蚕界の不況がくると、やがてミカンを村へ植え広めた。しかも、別に功績らしくも見せかけずに、知らぬままに広めていった」(木村哲也『「忘れられた日本人」の舞台を旅する--宮本常一の軌跡』河出書房新社)。だが、実際には、蚕がうまく育たないとか、養蚕失敗にともなう苦情につきあったのも彼であったろう。
 宮本常一の名作『忘れられた日本人』(岩波文庫)に登場する島根県邑智郡の田中梅治翁は、1909年、村人が高利の金を借りたために農地を手放さざるをえなくなることを憂い、田所信用組合を設立する。何とか村人の間に貧富の格差が広がることを防ごうとしたのだった。「それでもさすがに昭和初期の全国的な農村不況の時には借金の焦げ付きもあったが、翁はその責任を負って自家の田畑を売ってまで組合の赤字を減らす努力をしている」(木村哲夫前掲書)。木村によれば、翁が売った田畑は、その子息が苦労して、取り戻したという。