中国的なるものを考える(電子版第59回・通算第101回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第61号 2014.02.26 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

「殺到現象」再考―「殺到する経済」と技術の伝習
 前回の話題をもう少し、続けたい。自分の2年生のゼミの輪読で使用したテキストは、丸川知雄『現代中国経済』(有斐閣アルマ、2013年)であった。多分、読書をしなくなった最近の学生たちには、けっしてやさしい本ではなかったようだが、ゼミ生は一生懸命、レジュメをつくり、パワーポイントを使って、プレゼンテーションをしていた。筆者にとっては、その一節、「温州における産業集積の発生」は、とくに面白かった。なぜなら、この温州における産業集積は「殺到現象」そのものだったからである。「1979年に国有靴メーカーに勤めていた人物が退職して出身地の仙降鎮に戻り、そこで廃プラスチックを溶かして靴底を作り、それと甲革とをはんだゴテでつなげて作ったプラスチック靴を作り始めた。物不足の時代にあってはこんなものでもよく売れて彼はひと儲けしたが、するとその隣人たちが彼の真似をしてプラスチック靴をつくりはじめた。5年後の1984年には仙降鎮のプラスチック靴メーカーの数は1500社になり、8000人がそこで働いていた」(丸川, pp.285-286)。まさに殺到であろう。
 筆者が見た殺到の迹は、農村を走る新道沿いに、たくさんの旅館、レストラン、自動車修理工場が次々とつくられたのだが、客が思ったほど来ず、八割ぐらい店がみな閉まっている光景であった(第57話)。同じ殺到でも、違いは鮮明である。ここ温州ではうまくいったのである。その結果、温州では、各地区(鎮)ごとに、それぞれ特色のある産業集積が存在するという。多数の新規参入と競争の激化につれ、粗悪品が増えるのではないかと考えられるが、丸川は、悪評が広がり、需要が減り、利潤率が下がるとともに、コミュニティの誰かがこれまでの事業とは少し異なる事業を始め、それが成功すると、また周りが真似を始め次のブームが起こると説明している。
 筆者にとってはマイナスとしてしか捉えられない殺到を、丸川は、プラスの面から捉えており、中国経済の活力の一部として見ているのであろう。なるほど、とも思う。また、殺到現象と、中国の中小企業の平均寿命がひどく短いのと、少なからず関係があるのであろう。社会全体から見れば、殺到が繰り返されているかぎり、あるいは殺到が一つの恒常的なシステムであるかぎり、他者にとっては、つねに参入の余地がある、ということになる。逆に言えば、日本のように、既存の企業あるいは集団や組織が長くつづくということは、新規参入の余地をかなり狭めることになるのかもしれない。明治維新や第二次世界大戦直後のような、体制転換の際以外には、なかなか新手には登場する舞台がない、といえるのかもしれない。
 殺到ということが、中国の経済にとって恒常的な現象なのかどうか、現代経済をフィールドとしているのではない筆者には、確信をもっていうことができない。たとえば、東一眞『中国の不思議な資本主義』(中公新書クレラ,2007年)には、交差点に自動車が我勝ちに殺到すれば、全体の膠着状況を招き、自分自身も身動きがとれなくなるように、中国経済にも基本的に全く同じ殺到の構造を見ることができるとし、「中国経済は基本的に『殺到する経済』である」(p.85)と明言している。東によれば、「『殺到する経済』とは、『儲かる』と思われる業種にドッと大勢の人々、会社が押し寄せて、すぐにその商品が生産過剰に陥り、価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる経済のこと」である。数年前、筆者はこの一節を読んだはずであるが、それほど気に留めなかったように思う。理由は、短期的にはともかく、長期にわたる経済発展というのは、もっと合理的な現象の集積であるはずだと考えていたからであろう。中国社会が殺到に満ちていることは肌に感じていたはずだが、それが中国における経済現象の主流であるとは考えなかった。だが、丸川が挙げた温州の事例は、殺到を経済現象のもう少し中心に近いところに置け、と言っているように思われる。
 今、筆者が考えているのは、もし東がいうように中国経済においては殺到が基本だとすると、それをどの時代まで遡及させうるのか、ということである。たとえば、第一次世界大戦中から大戦後にかけての民国期中国の経済発展も、同じような現象だったのであろうか。あるいは、明清期のいわゆる「資本主義の萌芽」と呼ばれる現象も、畢竟、この類の現象だったのだろうか。
 殺到現象の根底にあるのは、以前にも触れたとおり、信頼すべき情報をもたないこと、隣人は敵だと考えていることである。隣人や知り合いが何か儲けになる事業を始めたら、「花坂爺さん」や「こぶ取り爺さん」の隣の爺のように、とにかくそれを真似る。技術や方法の核心はわからないが、ともかく、見様見まねで、類似品や粗悪品を作って、売りさばく。そのような場合、別に親しく教えてもらっているわけではないので、隣人や知り合いを出し抜くことに、なんのてらいも呵責もない、ということになるだろう。そのような不義理を当然だとする風潮のなかで育てば、かりに他人がつい親切に技術や情報を教えてくれたとしても、教えてくれた相手=お人よしを、出し抜くことに躊躇をしないであろう。
 同じようなことは別に中国でなくとも日本でもありそうだが、でも、やはり異なるところがある。たとえば、前稿で述べた、しばしば旅へ出かけ、そこで知った養蚕やミカン栽培を村に普及させた宮本常一の父善十郎のような存在は、例外であったのだろうか。いたる所に、溢れるほどたくさんいたかどうかは別として、おそらく、それほど稀ではなかったであろう。彼のような人物がいる場合、しかも、どこかから新しい技術や方法をもたらし、自分でも試行し、改良し、それを隣人や友人に直接に、ただで、あるいはただ同然で、教えてくれるような場合、隣人は、別に、見様見まねでやる必要はない。感謝の気持ちをもちつつ、とにかく先駆者から学べばよい。
 村人あるいは他村のものに、新しい情報や技術を教えるような人々は、各地にいた。篤農家という言葉を『デジタル大辞泉』で引くと、「農業に熱心で研究的な人」とある。だが、この研究成果を自分の事業のためにしか使わない人を篤農家と言わないであろう。多分、事業に成功し地方に羽振りを利かすようになれば、豪農とでも呼ばれるのであろう。それに対し篤農とか老農のニュアンスには、人に教えるというイメージが含まれる。どうしてであろうか。
 江戸期でなくとも、どの時代にあっても小農民が、安定した農業を営み続けるということは難しい。たとえ一時、小康を享受していたとしても、何かあれば、あっという間に借金地獄に陥ることは、どの農家にも起こり得ることであった。それゆえ、村落共同体が、そのようなリスクを回避するため、様々な工夫をこらすようになったのであろう。その一つが前稿で紹介した「無年季的質地請戻し慣行」だと考えれば、日本的な村人のあり方が、よく理解できる。篤農家や老農が教えるのは、同じ村人だとは限らないが、それでも、教えを乞う他人に、様々な知恵を授けるのも、そのようなリスク回避の工夫の一つであった、と考えることができると思っている。篤農家や老農が、村人や他村の農民たちに教えることによって得られるものは、多分、経済的な実利ではなく、評判、尊敬を受けることであろう。篤農家と教えを受けた者との紐帯が強固であれば、二宮尊徳の報徳社などのように農業結社に進むケースもあったであろう。
 では、村を越えて、地域社会を考えてみる。筆者に関して言えば、このような地域における技術の伝播について、最初に関心を植え付けてくれたのは、幕末以降の、日本の資本主義的発展を論じた戸田慎太郎『日本農業論―日本資本主義発展における所謂半封建的農業関係の具体的系統的把握』(叢文閣, 1936年)、木村荘之助『日本小作制度論』(上巻、叢文閣, 1936年)などの著作である。筆者の周囲にある日本経済史の文献は、今でも、上記のような、日本資本主義論争に関わるものがほとんどである。ここでは、その論争一翼として、服部之総や土屋喬雄を中心として展開された「厳密な意味でのマニュファクチュアをめぐる論争」(厳マニュ論争)から、地方特産物や地場産業の形成における技術の伝播についての記事を検討してみよう(旧仮名使い、旧漢字は、現代風に改めて引用する)。同じような例が多いので、気になる方は、適当に読み飛ばしてもらいたい。
 たとえば、秋田の横手木綿は、佐竹の旧領常陸から最後に移住した一部下層武士--彼らは横手付近に墾地を与えられた半士半農の形で定住し「野御扶持町衆」と呼ばれた--の内職に由来する。彼らは扶持のみでは、到底生活が成り立たないがゆえに、製織に活路を見出したのだが、その木綿製織の技術は彼等が関東から身につけて持ちこんだものであり、これを横手の酒造最上忠右衛門が一手に扱って売り出したのが横手木綿の濫觴だった、とある(「幕末秋田藩の木綿市場及び木綿機業」服部之総著作集2,理論社)。服部が引用している『横手郷土史』を、孫引きすると、以下のようである。「機織は室内にてなし得る業なれば士族の内職としては最も適した事である故野御扶持町衆より伝習する士族漸く増加し、…士族町にはこの業に従事する者年々に増加し、数年ならずして各町到る処機杼の音紡錘の音を聞かぬはなきに到った。既にしてこの業漸く町家にも拡まり他町村にも及び、文化文政の頃には年産額二十万反を算し、米沢南部等迄輸出するに至り、横手木綿の声名大いに高まった。…天保後越後より職工五人を招聘し数十台の大機具(高機の謂い)を造らしめて之を貸与し、大いに之を伝習させたから縞木綿・兜羅綿をも織出すに至り、横手木綿の声価益々高くなった。忠右衛門の貸機具のみで四百七十台に上ったといえば、その盛大なる事知るべきであろう。小禄士家の生計の苦も為に大に緩和したという(『横手郷土史』)。
 続いて土屋喬雄『日本資本主義史論集』(黄土社)が多数例を挙げている、各地特産織物から、二、三例を挙げてみる。まずは、能登縮の例。「能登縮は藩政時代の初期において盛んに製織せられたが、後久しく近江布や、越後縮に圧倒されていた。然るに文化年間に至り、其地に縮織業を再興せんとする者あり、『徳丸村彦左衛門、能登郡下村次兵衛と謀って、藩より資源五貫目を借り江洲布以上の製織を為さんと企て、遂に文化十一年二月茶屋三兵衛(本江村)を江州に派遣して男工一人、女工二人を招聘し、河合氏の手代三木権右衛門の家を工場に充て、能登部下、徳丸、上三ヶ村の女工十三人を選び、花絈の製織を伝習せしめ』たが、これ同地方における江州風麻布製造の濫觴で、これによって大いに越後縮の輸入を防遏することが出来たという」(「石川県史」第三編、一七四頁)。
 次に、福井藩の例。「今之を年代順に見るに、同藩の木綿織については既に文政年間に之を見る。「福井県史」第二冊(四六一頁)には『木綿織としては、丹生郡に石田縞あり、文政年中下石田高島善左衛門地方の副業を起さんとし、美濃に至りて同地の機業状態を視察し、その職工を聘用し、工場を設けて盛んに製品を出すに起因せり』とある。麻織についても同一形態が見られるが、同書(四六〇頁)には粟田郡の重野六十九なるもの『安政三年その女を近江国神崎郡宮部村に派し、窃かにその技を習得して帰るや、直に伝習所を設け、女工三十余名を養成して製品を大阪に輸出し、益々その法を盛んにし、猶窃に近江より職工聘したりしかば、製造家三十余戸、機数五百基に達するに至れり』とあるから、相当のマニュファクチュアが少なくなかったことが察される」。
 最後に久留米絣の例。「久留米絣は周知の如く、天明年間久留米通外町に生れた井上傳女が寛政十一、二年の間に創始した独特の木綿絣である。「久留米絣之碑」文に『傳十五六歳其技益精、受業其家者、常二十有余人、四十歳之時受其教而開業者、幾及四百人…』とあるのを見れば、傳の家では一種のマニュが行なわれていたものと言えるが、それは絣織の技術伝習を主として目的としたものであったから、厳密な意味におけるマニュとは区別されなければならないであろう」。碑文の意は「伝、十五、六歳にして、その技益々精(妙)なり、その家に業を受けるもの、常に二十余人、四十歳の時、その教えを受けて開業する者、ほとんど四百人に及ぶ」と読めば良いのだろう。
 引用が長くなったが、ここで注目したいのは、技術の伝播を「伝習」として表していることである。実は、江戸から明治にかけての、技術(情報)の伝播について、ネットを使って検索してみたのだが、出てくるのは、みな最近の出来事に関する記事ばかりで、思うような結果を得られなかった。だが、服部や土屋の著作から、伝習がキーワードであることに気づき、再度検索したところ、参考になる記事が幾つも出てきた。
 たとえば、雲州(出雲)そろばんについて。「現在,国の伝統工芸品に指定され,そろばんの主産地となっている雲州そろばんは,江戸時代の天保初年頃から仁多郡亀嵩村(後:仁多町,現:奥出雲町)の大工であった村上吉五郎によって製作されていた。名工として評判の高かった村上氏は,周囲の勧めもあって芸州(広島)の塩屋小八が製作したそろばんを真似て試作を行ったのが,雲州そろばんの起源だといわれている。当時,そろばんの製法は極秘であったため,製造が広まらなかったものの,1850年(嘉永3 年)頃から横田村(後:横田町,現:奥出雲町)の高橋常作が技法を習得することに成功した。以後,横田村では多くの手工業者がそろばん製造の伝習を受け,明治初年には亀嵩村をしのぐ生産高となっていた」(「島根県を中心とした産業発展の歴史(明治・大正編Ⅰ)」中国電力㈱エネルギア総合研究所 エネルギア地域経済レポート No.461 2012年12月)。続いて、土屋も例に挙げていた福井鯖江の石田縞について。「今から五代前の先祖高島善左衛門がまだ若かった頃、母が仕事着をバッタンコバッタンコと手織りで織っているその後に立って彼はじいっと考え込んでいた。そして、善左衛門はこの姿を見てなんとかしてこれを産業化出来ないものかと考えた。その頃、すでに他県では原糸業や織物産業が芽ばえていることを知り、寺小屋の先生に教えられた「天は自ら助くるものを助く」と、いう古言を信じて村の生計を立てる産業を起こそうと志を立てた。そして同志を募り織物の先進地である美濃国(今の岐阜県)へ大野から山を越え、険しい山道をたどって美濃に着いた。ここで、修行すること三年。ついに足踏みの機織を組み立て、自ら車に積んで石田へ持ち帰った。そして人々に教え手織りから足踏み機へと替わり、ここに石田縞が起こったのである」(鯖江市「繊維の歴史--石田縞織り」http://www3.city.sabae.fukui.jp/jiman/sangyo/seni/syousai/syousai.html)。
 このような例は、他にも、数えきれないほどあると思われる。そして、これらの例から、村を基盤とした技術の伝播、あるいは村を越えた地域社会での伝播、そして藩に主導された伝播など、近世から近代にかけての技術の伝播の独特なあり方が浮かび上がって来る。もちろん、これらの例、特に藩主導の殖産政策は、商工業に対する搾取強化策の一環であり、さらに織元による織機の貸出しは、問屋制家内工業の織工に対する支配強化であるとみなされる。また、伝習のプロセス自体に、「教える―教えられる」関係を通して、一定の秩序がつくられる側面も存在する。だが、そうであっても、我々の過去の社会の技術伝播のあり方が、独特の媒体、関係、組織を通じて行われていたという事実を変えるものではない。少なくとも、これら「伝習」を通じた技術の地方への拡がりは、最初の例、殺到による小企業の簇生とは、異なっている。
 上述の例にもあったが、地方の名士の娘が、門外不出の織物技術を習得するため、他国に赴き、機織工となって働き、習得し、国に戻ったあと、地域の娘たちにそれを教え、普及させた場合、その娘と娘を送り出した者たちは、その技術とそこから生まれた製品に対し、一定の権利と責任を有したであろう。特にそれが組織的に行なわれた場合、その組織は村や地域社会のまとまりと密接なつながりを有し、技術の維持や品質のコントロールに有利に働くのではないかと思われる。というのも、そのような伝習関係のなかで、技術を習得した者たちが、伝習組織のコントロールを無視し、類似品や粗悪品を作りつづけるとしたら、村や地域社会のまとまりは、有形無形の圧力を加えることになるだろうからである。近代に入り、各所の地場産業は、製品の品質維持に特に意を用いたが、先の伝習組織を引き継ぐ形で、業界団体が成立した場合、そのような品質維持のためのコントロールは、より有効に働いたと思われる。
 幸か不幸か、我々は、現在、近世や近代の「伝習」を可能にした地域社会や、その社会関係や人間関係のもとで暮らしているのではない。我々は、長期にわたり同じ社会に属し、同じ社会関係において生活するということもなくなりつつあり、かつ多くの技術や技術情報は、教育機関による人材養成、公的機関による情報サービス、技術ジャーナリズム、技術市場など、よりオープンな世界において獲得されうる。ただ、それにもかかわらず、教える者と教えられる者の間に、昔、身に付いた「伝習」へのこだわりがあるように思われる。長期にわたる社内研修や、関連企業への技術習得のための出向、などにまだ、その雰囲気を感じる。それらは、技術あるいは技術情報の伝授、技術教育、技術移転を、長いスパンのもとで培われた一定の信頼関係の上で行うということであろう。だから、このシステムのもとにおいては、海外から研修に招いた研修生が、研修後、帰国し、レベルアップした技術を元手に、ライバル企業に自分を売り込むなどということは、本来、想定されていない。だが、残念ながら、現代企業の取引相手は、そのような日本的な信頼関係を前提とする企業であるとは限らない。また、企業の従業員も、日本人とは限らない。たとえ、日本人であっても、海外で育った者、海外留学組、外資企業で訓練を受けた人々など、様々であり、かつ、日本企業は海外企業との厳しい競争から、長期にわたる雇用関係を従業員に約束できなくなりつつある。
 企業によって作られている物は、年々歳々、移り変わっていく。だが、作る人間たちの文化的な規範意識、美意識、あるいはモノづくり精神などは、それほど急速には変わらない。それらの規範意識や精神を活かした企業行動をとりつつ、海外への技術移転を果たすと同時に、国際的な競争をも生き残ることが可能であろうかと、自問せざるをえない。

 戦前台湾において、嘉南大圳の建設を指導した八田與一の生涯を描いた古川勝三『台湾を愛した日本人』(創風社出版)に、烏山頭ダムの完成後、通水可能となった嘉南平原の農民たちに対し、日本人技術者を中心として、徹底した農業指導が行なわれたことが書かれてある。嘉南大圳の通水地域(15万ha)では、水稲、サトウキビ、野菜などの雑作、を交替で栽培する、三年輪作が行なわれていた。実は、嘉南大圳は、設計時より、嘉南平原全体を、毎年、水稲栽培可能にするには、水量が不足していることが知られていた。水量に見合ったより狭い地域に通水するか、荒蕪地であった嘉南平原全体を潤し、水量の不足を、それ見合った農法(三年輪作)によって克服するのかの選択を迫られた結果、嘉南平原のすべての農民に水の恩恵を感得してもらうべく、八田は後者を選択する。それゆえ、三年輪作を農民たちに教えることは、嘉南大圳建設の目的達成のためにも、欠かすことができない事柄であった。農民たちの好みや作物市況に任せ、みな水稲に偏れば、水不足に陥ることは明らかであった。徹底した農業指導が行なわれた所以であり、その成功が、八田などの声望をいっそう高めることになったといわれている。
 おそらく、これに類似したことは、屛東二峰圳を建設した鳥居信平たちも行っていたと思われる(平野久美子『水の奇跡を呼んだ男 日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』産経新聞出版)。ダムや水路をつくることだけではなく、その水を受ける農民たちが、農業の質、生活の質を変えることが、水利建設の成果を確かなものにすることに繋がる。たしかに、鳥居信平は台湾製糖の技師であり、二峰圳建設は主要には会社のためであった。また、八田與一にしても、台湾総督府の技師であり、嘉南平原の農業開発は、日本の台湾支配を強化するものであった。だが、彼らが現地の農民たちに対する関わり方に、彼らが育った社会の、技術伝播の在り様が息づいているように見える。今日の台湾における八田や鳥居の評価から、それは、かなりの程度、伝わったのではないか想像される。

 ここまで書いたところで、20年以上も前、本田宗一郎の創業記―日経に連載されていた『私の履歴書』―を読んだことを思い出した。あわてて近くの図書館から『私の履歴書』(経済人6,日本経済新聞社)を含めて本田宗一郎についての書籍を5冊ばかり借りてきて読んでみた。戦後、浜松において本田宗一郎がオートバイを作り始めた時代、まさに、雨後の竹の子ように、企業が簇生した時代であった。戦後オートバイのメッカは浜松であり、ひところは全国生産の70%近くまでが浜松周辺で作られていた、とある。一時、全国に200社近くあったオートバイメーカーも、昭和33年頃には、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキのわずか4社しか残っていなかった。じゃんじゃんできて、じゃんじゃんつぶれて行ったのである(片山修『本田宗一郎と「昭和の男たち」』文春新書)。日本でも「殺到する経済」の時代があったのである。おそらく、敗戦による、古い価値観、古いシステムの崩壊がその背景にある。そして、絶対的な物不足から、何をつくっても売れたということが、無数の企業簇生を導いたのであろう。
 『私の履歴書』(経済人6)には、本田宗一郎のほか、シャープ創業者早川徳次の「履歴書」も載っていた。本田にしても、早川にしても、早くから丁稚奉公に出ていたこと、本田も早川も、奉公先の経営が傾いたにもかかわらず、彼らは主家(親方)を捨てることなく最後まで奉公し、主家の了解を得て独立したことが記されてあった。早川は自分の錺(かざり)職人としての徒弟時代について「ここで私は技術屋としての腕とともに、人の世の情けというものを授かったのが、何物にもかえがたい収穫だった」と述べている。また、本田も東京の自動車修理工場の6年間の修行の後、主人の信用を得て、‘のれんわけ’という形で独立し、浜松で自動車修理業を始めている。彼らは自らの技術に誇りを持ち、競争を怖れてはいなかった。彼らが戦後の企業簇生の時代を勝ち抜いたのも、技術の粋を競い合った結果であった。
 筆者が北海道の工業高校電気科を出て、都内の、100人くらいの電子工場に就職したのは、1967年のことであり、戦後、すでに22年たっていた(現在の中国は、1992年南巡講話以来、ちょうど22年である)。同僚たちはみな一人前の技術者になることを目指し、給料が低いからといって、努力を怠たるなどといったことはなかった。従業員の出入りが多く、流動性が大きかった。1967年は、ちょうど学園紛争が始まった年であり、ニューレフトが公然と登場した時代であった。筆者はそちらの方に強く惹かれるようになり、技術者になる道から早々に落ちこぼれてしまった。だが、最初の職場で学んだことは、その後の人生にとても役立ったと思っている。そこでは、高い技術―当然その技術を習得した者―に対する尊敬があり、そのような高い技術は日頃の努力の積み重ねにより獲得されるものと考えられていた。技術者のなかに職人気質がまだ強く残っていた。また、技術者たちはプライドが高く、後で出来あがった他人の成果を盗めば良いなどと誰も考えていなかった。自分のことしか考えていないような、油断のならない人間でも、技術の研鑽という点においては、同じ考えであったと思う。また、教えを請えば、あるいは頭を下げれば、教えてもらえる世界でもあった。
 ただ、技術者たちは、販売や営業、つまり交渉事は苦手であった。筆者はその後、幾つか仕事を変えたが、自動車バッテリーの代理店や秋葉原の電子部品商社などに務めた経験から、営業や販売の重要性を認識した。技術者がどんなに優れていたとしても、作ったものを売ってくれる人間がいなければならず、たくみに企業を経営してくれるものがいなければ、企業は立ち行かない。そのことを痛感した。それゆえ、自分のゼミ生たちが、中小メーカーの営業職に就職したなどと聞くと、やはりうれしくなる。ほとんどの学生たちが大企業志望であり、またメーカーの求人数が限られているので、実際には、筆者の願いはなかなか稔ることはないのだが。