中国的なるものを考える(電子版第60回・通算第102回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第62号 2014.04.17 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南とキリスト教
 この十数年、筆者の関心のほとんどは、アジア的生産様式論争史に向けられていた。最初に日本における論争史、次に中国における論争史と続き、最終的には西欧における論争史までも書くことになった。そのため、50歳代後半からドイツ語、60歳代になってからフランス語を学び始めたのだが、いずれも辞書と首っ引きで、ゆっくり読むしかなく、必要な文献を読むのに膨大な時間をかけることになった。また、最近は、理論的な研究に必要な判断力、あるいは推理力が弱まっており、なんとか早く、行けるところまで行って、終わらせたいと考えるにようになっていた。
 自分がもっとも得意なのは、理想社会の建設を目指す社会運動とそれに関わる人間の生き方のようなものを描くことだと思いつつも、アジア的生産様式論争史は、もうほとんど誰もやる人がいないので、途中で投げ出したくはなかった。西欧における論争は、フランスの左翼雑誌『パンセ』1964年4月号におけるアジア的生産様式特集によって一挙に公然化するのだが、当初、その前後の概略を書いて、一本の論文で終わらせるつもりであったのが、1960年代後半、1970年代へと続き、結局は、1980年代末まで、書きおよぶことになった。1988年のウィットフォーゲルの死と1989-1991年のソ連・東欧圏の崩壊を、一応の区切りと考えたからである。本来は、3月末までに終らせるつもりが、結局は4月初めまでかかってしまった。でも、ともかく、書こうと思ったところまで、草稿を書きあげ、今はすごくほっとしている。随分と気が楽になった。
 上述のように、これまでは時間の大半、多分7割、8割をアジア的生産様式に向けていたため、なかなか、他の関心のある分野について時間をとることができなかった。その状態もようやく終わりをつげ、時間的には随分、余裕ができたように思う。そこで、これまで読もうと思って積読(つんどく)していた書籍を、早速、読み始めることにした。一つは、Maurits Ertsen, Local Happiness: Colonial irrigation in the Netherlands East Indies and its remains, 1830-1980, VSSD, 2010.(『地方の幸福:オランダ領東インドにおける植民地灌漑とその遺産』)で、植民地時代のインドネシアにおけるオランダ人水利技術者たちの研鑽や奮闘を、おもに技術的な問題に絞って描いたもので、堰や水門の構造だとか流量の計算だとかテクニカルな点を論じているので、内容的に難しかったが、とても面白かった。19世紀中葉のオランダによる『強制栽培制度』導入以降形成されたインドネシア特有の農業体制を描いたクリフォード・ギアーツ『インボリューション』と読み合わせると、インドネシアにおけるオランダ植民地主義の光と陰がよく理解できるように思われる。水利の問題は、アジア的生産様式論の延長でもあるが、それを何とか、小水系の水利システムをめぐる当該地域の社会システムの理解へと繋げたいと考えている。そのためには、日本から、台湾、フィリピン、インドネシアあるいはミャンマー、タイ、ラオス、ベトナムなどの、盆地や小平野の水利システムの観察が必要で、ゆっくり時間をかけて進めたいと思っている。もちろん、壩子(バーズ:盆地)を中心とする雲南の社会システムの理解に資することを念頭においている。

  福貢県城

 次に読み始めたのが、メリクセトフ『中国における官僚資本:1927-1937年の国民党経済政策と国家資本主義の発展』(アジア経済研究所、1975年)である。訳者中嶌太一は、『中国官僚資本主義研究序説』(滋賀大学経済学部、1970年)において、1927年から1937年の国民党の経済政策を評価したことで、当時の日本の、多数の中国研究者あるいは「進歩的」な論壇から厳しい批判を浴びている。時間的な前後関係からいえば中嶌は『中国官僚資本主義研究序説』を刊行した後、本書(の原書)を読み、訳出したということになる。中嶌は70年代末から80年代初めにかけ「不等価交換のarticulation構造について」、「アジア的生産様式について―周代中国社会性質規定に関するテーケイ=ワシリーエフ・モデル」などを書いている。今回はそれらを含めて『彦根論叢』(志賀大学経済学部)に掲載された中嶌の著作を系統的に読み、中嶌の発想や考え方を理解したいと考えている。また、自分のもっとも慣れ親しんだフィールドと考えていた1930年代から、随分長い間遠ざかっているので、それらを通じて民国期中国に関する記憶や勘を取り戻したいと思う。

 福貢県城

 続いて、20世紀、雲南における各ミッションのプロテスタント伝道と、外国人宣教師が追放された後の、各教会の刻苦奮闘を描いた T’ien Ju-K’ang, Peaks of Faith: Protestant Mission in Revolutionary China, 1993(『信仰の頂き:革命中国におけるプロテスタント伝道』)を読んだ。実は、3月中旬に学内の研究会で、「雲南におけるプロテスト諸派の布教戦略」と題して小さな報告を行なったのだが、時間的な余裕がなく、十分に調べあげたものとはいえない内容であった。それでも、当初30分と予定していた報告が1時間半にもなってしまった。おそらく、参会者の方々に、雲南におけるキリスト教(プロテスタント)伝道の、研究テーマとしての意義、面白さが少しは理解していただけたのではないかと思う。本書は、本来は、報告の前に読むつもりであったが、時間に追われ読むことができなかったので、早速、ページをめくってみた。読んだ感想からいえば、多分、本書は、雲南をフィールドとした研究としても、また中国近現代史研究としてもすぐれた書物だと思う。何よりも、共産中国成立後の、とくに文革期における宗教弾圧のすさまじさが、詳細に、かつ冷静な筆致で書かれていることが特筆される。さらに、そのような苛酷な条件のもとにおいても、また宣教師たちの指導や外国の援助がなくとも、リス族、苗族、彝族など少数民族を中心に、信仰が守り抜かれたことが書かれてある。残念な点といえば、筆者が関心をもっていたサミュエル・ポラードの布教地域である雲南昭通地区および貴州西北(石門坎教会)における事績が取り上げられていないという点である。多分、サミュエル・ポラードおよびその後継者たち(メソディスト)の布教が、貴州西北部を中心としていたので、雲南を対象とした本書からは漏れてしまったのであろう。やむをえないとはいえ、残念でしかたがない。なお、著者田汝康(1916-2006)は、昆明出身の人類学者であり、東南アジア華僑史および近世海上交通史、明清女性史、雲南及びインドシナ北部の少数民族研究など多岐にわたる領域で優れた業績を残している。
 雲南のプロテスタント伝道は、1880年代ぐらいから内地会によって始められたが、当初、都市部を中心に、かつ漢族を対象としていたため、帰依するものは極めて少なかった。蕭耀輝&劉鼎寅『雲南基督教史』(雲南大学出版社, 2007年)に、雲南には1907年までに外国人宣教師が37人やってきたが、獲得した信者はわずか100人に満たなかったと記されており(p.39)、雲南布教が如何に困難であったかを示している(基督教とは一般にはプロテスタントを指し、カトリックは天主教と呼ばれる)。だが、1904年を画期として、すでにポラードによる苗族(花苗)布教が始まっており、1905年には雲南省境の貴州威寧県に石門坎教会が建設され、雲南・貴州・四川三省交界において苗族、彝族に対する布教が猛烈な勢いで進められており、状況は大きく変化していた。
 1905年、ポラードは、同じ花苗である雲南武定・禄勧の苗族の求めに応じ、昭通を出発、途中、昆明を経て、武定に到着、武定洒普山(Sapushan)を中心に武定・禄勧・禄豊・富民諸県一帯の苗族に向けて伝道活動を行なった。翌1906年、ポラードは石門坎を訪れていた内地会のメンバー、アーサー・ニコルス(オーストラリア人、メソディスト、中国名郭秀峰)を伴い、再度、武定洒普山を訪れ、そこを拠点とした布教活動の礎を築いた。その後、洒普山の教会は、武定・禄勧・禄豊・富民から昆明にかけての山地の苗族や彝族への布教を推し進めることになるが、ポラードはその中心となる役割をニコルスに委ねる。以後、洒普山教会は、当初は石門坎教会の援助を受けながらも、内地会所属の教会として発展し、1926年、内地会滇北六族聯合会を設立させる(滇:雲南の簡称)。六族とは、苗族、リス族、タイ族および三つの彝族系グループのことであり、実際には苗族が主力であった。しかし、信仰がリス族に広がっていったことは大きな意味があった。
 滇西地区で活動していた内地会のJ.O.フレーザー(1886-1938、イギリス人、傅能仁)は、布教が進まず苦戦していたが、滇北の事例に示唆され、布教の対象を怒江(サルウィン川)流域に住むリス族に向けていく。ポラードが苗族のために苗文字を作ったように、フレーザーもリス文字を作り、聖書を翻訳し、布教活動に役立てていた。1922年、フレーザーは帰国し、さらに米国、カナダを訪れる。1924年、ワシントン州においてフレーザーの講演を聞いたイゾベル・クーン(1901-1957、カナダ人、宓貴霊)は、リス族伝道を決意、神学校に入学、卒業の後の1928年、中国に向かう。翌年、昆明において、同じ内地会のメンバーであるジョン・クーン(1906-1966、楊志英)と結婚する。フレーザーの休暇にともない、代わって滇西地区で布教の中心となったのはクック(1896-1990、楊思慧)であった。以後、滇西内地会は、フレーザー、クック夫妻、クーン夫妻などを中心として、リス族、ヌー族などへの布教活動が大きく進展する。1920年代、30年代にかけ、怒江流域には、内地会ばかりではなく、神召会(ペンテコステ)、さらに独立系のモース父子が指導する滇蔵基督教会(蔵:チベット)など、様々なミッションが入り込み、布教を競い合うことになった。

 老姆登教堂

 サミュエル・ポラードの石門坎教会の成功につづくようにして、辛亥革命に前後する1910年代には、プロテスタント系の様々ミッションが雲南に入り伝道活動を始めた。民国期を通じて、雲南においてもっとも有力であったのは、滇北、滇西に展開する内地会であった。さらに内地会のドイツ系ミッションは、玉渓地区からその南へ向け、タイ族(旱泰)、ハニ族、彝族への布教を進めていた。また、石門坎教会を中心として昭通地区から、貴州西北部、四川南部へと、苗族、彝族を中心に布教を広げるメソディスト(循道公会)も有力であり、かつ内外の注目を浴びていた。そのほか、有力であったのは、雲南に隣接するミャンマー側のバプティストによる布教であった。まず、カチン州側から、米国北部バプティスト(浸礼会)による徳宏ジンポー(景頗)族への布教が進められ、さらに同じくミャンマー側から、米国南部バプティスト(浸信会)のウィリアム・ヤング(永偉理)父子による雲南西南のラフ族、ワ族布教が活発化した。また、滇南では欧米のペンテコステ系ミッション(五旬節会、神召会)による紅河州、普洱地区のハニ族、彝族に対する布教が浸透していく。その他、英国教会(聖公会)、北米長老派(長老会)、ルーテル派(信義会)、再臨派のセブンスディ・アンドベンティスト(復臨安息日会)などのプロテスタント教団が雲南に進出したほか、各々独立した個人やグループによる布教も推し進められた。

 貢山・六庫(瀘水)間のバス

 なかでも、各派各ミッションが競ったのは、上述の怒江流域であったとされる。最も大きな勢力を有したのは、早くから布教に乗り出していた内地会であり、碧江県・瀘水県が中心であった。続いて福貢県・貢山県に勢力を築いた神召会、そして怒江上流の貢山県および碧羅雪山を隔てた瀾滄江(メコン川)上流の維西県(リス族自治県)に展開した滇蔵基督教会がそれに続いた。碧江県は1986年に取り消され、南部は瀘水県に、北部は福貢県にそれぞれ属するようになったが、現在の福貢県中部が、南の内地会と北の神召会の境界であったらしい(韓軍学『基督教与雲南少数民族』雲南人民出版社、2000年)。なお、現在、福貢県の住民9万人のうち、7万余人、つまり約80%がキリスト教徒(プロテスタント)であるといわれている。筆者は、一昨年9月に福貢県を訪れたが、当時、クリスチャンがそこまで多いとは思っていなかった。8割といえば、福貢県で出会った人々の大半がクリスチャンであったということになる。また、筆者が訪ねた老姆登教会は、1976年まで怒江自治州の州都であり、その後は碧江県の県城であった知子羅に近く、碧江県キリスト教文化の面影が残っている。
 雲南伝道の主力であった内地会とは、正式には、中国内地会であり、1865年、ハドソン・テーラーJames Hudson Taylor(1832-1905、戴徳生)がロンドンで創設した教派・国籍を越えたプロテスタント系伝道団体である。China Inland Mission、略称はC.I.M.であり、本部はロンドンに、中国総部が上海に置かれていた。中国内地会の主旨は、従来福音が届いていなかった中国内地に、可能なかぎり、キリストの教えを広めようというものである。多くの賛同者を得て、中国各地に、とくに他の教派に先駆け辺境地域にまで宣教師を派遣している。その分、犠牲も多く、義和団事変の折には、華北において、58人の宣教師とその子供21人が殺害されている。プロテスタントのなかでは、最大の被害であった。義和団事件後の1901年、八カ国連合軍と清朝の間で最終議定書が結ばれ、清朝は多額の賠償金を払うことになったが、ハドソン・テーラーは内地会への賠償金を断ったといわれる。ウキペディア(英語版および中国語版)では、1912年(中華民国元年)、内地会伝道者は千名を超え、中国最大の伝道団体となったとある。また、1934年、1368人の宣教師が364カ所の地点で伝道に従事していたとある(ウィキペディア英語版)。

 老姆登からみる怒江峡谷

 ネットで内地会あるいはChina Inland Missionで検索すると、夥しい記事が出てくる。それらを瞥見すると、大体、内地会の宣教師たちは、比較的住みやすい中国沿海地域ではなく、不便な中国内陸部に進出し、中国風の服装、髪形をし、本国政府に頼らず、中国の上層ではなく、大衆に向って布教活動を行なったとある。共産革命後の1951-1953年、中国から退出し、1964年に名称を Overseas Missionary Fellowship 或は OMF International(海外基督使団)に改め、東アジア、東南アジア、南アジアにおいて伝道を行なっている。
 1949年前後、雲南におけるプロテスタントは、10万人以上であったとされる。そのほとんどは苗族、リス族など少数民族の信者であった。全国のプロテスタントに占める割合は、研究者によって異なるが、先述のT’ian Ju-K’ang(田汝康)によれば、全国約百万の信者のうち雲南は13万人であった。ただ、1940年代の著作である王治心『中国基督教史綱』(徐以驊導読、上海古籍出版社、2011年)では、雲南や貴州における少数民族伝道について、ほとんど触れられていない。わずかに、「道光以降のプロテスタント各教派の活動」(アヘン戦争前後から民国初年まで)において中国内地会の事績として、貴州において1万弱、雲南において数千の信者を獲得し、望外の成績を収めたと書かれているだけである。因みに、そこで取り上げられている教派は、①公理宗(会衆派)、②信義宗(ルーテル派)、③聖公宗(英国教会及び聖公会)、④浸礼宗(バプティスト)、⑤長老宗(長老派、プレスビテリアン)、⑥監理宗(メソディスト)、⑦内地会系、⑧その他の教会、である。なお、⑥メソディストの項には、ポラードの石門坎教会について言及がない。また、中国キリスト教史の大著 K.S.Latourette,A History of Christian Missions in China, Macmillan, 1929.(ラトゥーレット『中国キリスト教伝道史』)では、ポラードの事績については、明確な言及がある(p.578)が、雲南のプロテスタント布教の成果については、「貴州と雲南の非漢族の人々が多数入信し、かつ他省においても原住民aborigineに対する働きかけが始まった」(p.605)とあるだけである。
 筆者のように、雲南に親しみを感じる人間にとって、「50年代初頭、雲南省の教会は約900カ所余り、信徒11万人余、それによって、雲南省は基督教‘後進’地区から一躍、全国基督教活動の‘先進’地区の一つになった」(楊秀蓉「雲南基督教宗教教育的起源与発展」中国民族宗教網 http://www.mzb.com.cn/html/Home/report/290195-2.htm)などという記事を読むと、雲南がプロテスタント先進地域であったと素直に信じてしまうところがある。50年代初頭、全国信者の10%を擁し、さらに、その後も、雲南の多くのプロテスタントは、革命後の厳しい弾圧にも、文革の嵐も耐えぬいて信仰を守り、かつ信者の数を増やしてきた。リス族や苗族(花苗)などは、おそらくキリスト教信仰を自らのアイデンティティとして選びとったのであろう。それが長く厳しい試練をも耐え抜くことを可能にしたのであろう。僭越ながら、その割には、教会史における雲南少数民族の位置づけが低すぎるのではないか、と思わざるをえない。