中国的なるものを考える(電子版第61回・通算第103回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第63号 2014.07.04 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南とキリスト教2
内地会の雲南伝道

 前稿から2か月が経っているが、依然として、雲南を中心としたプロテスタント伝道の歴史を追いかけている。関心が続いているのは、引き続き、良書に出会っているからであろう。とくに、Neel Roberts, No Solitary Effort: How the CIM Worked to Reach the Tribes of Southwest China, William Carey, 2013.(『孤立せざる苦闘:中国内地会は中国西南諸族に届くべく如何に働いたのか』)、Immanuel Scharrer, Die Yünnan-Mission in Chaina,TectumVerlag, 2007.(『中国雲南伝道』) と、雲南を対象とした著作ではないが、劉家峰『中国基督教郷村建設運動研究(1901-1950)』(天津人民出版社、2008年)が、面白かった。久しぶりに、読みながら、ワクワクする気持を感じた。
 劉家峰の著作は、キリスト教伝道史研究を通じて、1920年代、1930年代の中国農村社会論を見直すきっかけを与えてくれると思われる。これまで筆者は、民国期の農村社会を、主にマルクス主義文献を中心に理解しようとしてきた。それには、陳翰笙や中西功といったマルクス主義者の理論的な著作ばかりでなく、たとえば、満鉄調査部による『中国農村慣行調査』なども、広い意味で、含まれる。それ以外では、ロッシング・バックなども読まないわけではなかったが、筆者にとっては多分に補助的なものであった。だが、劉家峰の著書から、キリスト伝道(農業伝道)に関連する農村社会調査、郷村建設運動、およびそこで育まれた農村社会論の蓄積が、おもったより分厚いことを知り、これらの関連研究をあたることで、以前より広い視角から、中国農村社会のあり方を理解しうるのではないかと、考え始めている。劉家峰の研究については、次々回あたりに紹介したい。
 ニール・ロバーツの著作は、本格的に、中国内地会の貴州・雲南両省の少数民族布教戦略を論じたものである。彼の著作に依りつつ、また、彼が挙げている資料のうち入手可能なもの(E.F. Crossman, Mountain Rain: A Biography of James O Fraser, OMF Books, 1982; Mrs. Howard Taylor, Behind the Ranges: Fraser of Lisuland, Lutter worth Press、1938?, など)を参照しながら、内地会の雲南伝道の展開を追えば以下のようになる。
 内地会の雲南進出は1870年代に溯る。1875年、スティーブンソンとソルトゥは、ビルマのバモ(八莫)から雲南入りを目指したが、その直前にマーガリー事件が起こり、イギリス政府がビルマ側から清国への入国を禁止したため、目的を果たせなかった。二人はその後3年間、バモに滞在し、カチン族伝道などを行ない、また、彼らに続いてバモに来たバプティスト(米国北部)たちとも親交を深めている。1880年、二人は、雲南を東に横断し、長江を下って上海に達する。1877年、ジョン・マッカーシーは長江を溯り、重慶から貴州を経て雲南を横断し、ビルマのバモに着き、雲南を東から西に横断した最初の旅行家となった。マッカーシー(麦卡悌)は、1866年、ハドソン・テーラー(戴徳生)の家族とともに、ラマーミュア号に乗り、中国伝道にやってきた16人のメンバー(Lammermuir party, 蘭花団体)の一人であった。その後、マッカーシーは大理、曲靖、保山などの教会の責任者となり、滇西(雲南西部)における伝道の先鞭をつける。
 貴州、雲南の伝道活動が本格化するのは1880年代であった。だが、その後、19世紀末にかけ、思うような成果をあげることができなかった。当時、貴州、雲南を伝道の対象としていたのは、内地会と、メソディスト系の聖書キリスト教会(The Bible Christian Church, 聖経基督教会)であったが、聖書キリスト教会もまた、ハドソン・テーラーの呼びかけに応じ、内地会の協力者として、中国西南にやってきた人々であった。サミュエル・ポラード(柏格理)も、その一人であり、それゆえ雲南(昭通)に入るまえに、安慶に設けられた内地会の語学学校において8ヶ月の語学研修を受けることができた。
 当初の、都市を中心とした漢族中心の布教活動がなかなかうまくいかなかったことは、すでに述べた。苦戦続きのなかで、布教の対象を、農村あるいは山地に住む少数民族に広げることを考える人々が出てきたのは当然である。なかでも、それを最も早く実践に移したのが、貴州安順で伝道活動を行なっていた内地会のR・アダム(1863-1915, 党居仁)であった。アダムが注目したのは、安順周辺に住む花苗であった。花苗、黒苗など、苗族の各支系の言語が、互いに大きくことなっていることに困惑しながらも、苗族の信者、協力者を獲得しつつ、アダムは次第に苗族布教を深化させていく。アダムは内地会上海総部に自分を苗族布教に専念させてもらえるように手紙を書くが、ハドソン・テーラーは、苗族布教と同時に漢族布教も同じように進めることを求めた。テーラーは、内地会全体の指導者(general director)として、漢族の官吏や郷紳たちが、苗族への伝道活動を、宣教師が苗族に接近し苗族の反乱を煽っていると判断されることを怖れたからであった。少数民族布教に熱心であったアダムが、先行した苗族伝道に十分に専念できなかったことが、結果として、後の、サミュエル・ポラードの成功を助けることになる。
 アダムの苗族伝道については、サミュエル・クラーク(Samuel R. Clarke, Among the Tribes in South-West China, 1918; 塞缪尔•克拉克『在中国的西南部落中』)に詳しく記載されている。それによれば、清朝官吏や郷紳の脅しや、教民への迫害にも屈することなく、アダムは粘り強く布教を続け、少しずつではあるが、苗族の信者を増やしていく。とくに、20世紀に入ってからは、貴州各地において苗族布教が実を結んでいく。1902年、安順近郊において、20人の花苗に洗礼を施した後、受洗者は増加し、1906年には、1479人に達する。特に、注目すべきは、1903年以降、威寧県葛布(現在は赫章県)の苗族に教えが広まったことであり、葛布教会は、その後、貴州内地会の重要な拠点となる。1904年末、アダムは葛布を訪れ、葛布教会の礎を築く。1915年までに、アダムの管轄地区では、5590人のcommunicant (聖餐を受ける者)、42人のevangelist (福音伝道者)、29人の school teacher (神学校教師)、639人のscholar (神学校学生)、2人の colporteur (聖書配布人)、3人のBible woman (聖書婦人)、323人のunpaid helper (無報酬のアシスタント)を擁していたという(Roberts, p.59)。中国西南においては、ポラードの成功が大きく取り上げられることが多いが、アダムの伝道も大きな成功であったように思う。なお、アダムは、1915年に落雷事故で死亡している。奇しくも、その年はポラードが施術後、感染死した年でもあった。東人達(『滇黔川辺基督教伝播研究』人民出版社)によれば、アダムの死後、安順地区の教勢は振るわなくったといわれている。
 もし、アダムの継続的な苗族伝道がなければ、ポラードの成功もなかったかもしれない。というのも、苗族へキリストの教えが伝わるにつれ、安順の教会を訪れる苗族が増え、安順からはあまりにも遠い、威寧県の奥地からやってきた苗族に対し、アダムは、彼らの住地に近い雲南昭通にポラードの教会があるので、そこを訪ね、教えを請うように彼らにポラードへの紹介状を持たせた。それが、ポラードによる苗族伝道の発端であった(第45回「石門坎余話」)。当時、福音は宣教師がまだ足を踏み入れたことのない地域を、苗族や彝族の手で、野火のように広がりつつあった。それは、アダムやポラードすら、予想もしなかったほどであり、まさに星火燎原の勢いであった。その結果、安順から北上する内地会の布教と、昭通から東に向かい貴州内に流れ込む循道公会(メソディスト)の布教が、威寧一帯で互いに入り組む事態となった。
 両者は、1905年、伝道地区を巡って争い、1906年、和解している(肖耀輝、劉鼎寅『雲南基督教史』雲南大学出版社)。だが、ロバーツや東人達によれば、その後も伝道地区をめぐる協議は続いていた模様である。両者は協力関係にあるとはいえ、伝道地区が交差する場合、調整はそれほど簡単ではなかったのであろう。また、宣教師が取決めを結んだとしても、自発的に教えを広めあう信者たちが、それを守らなかったこともあったと思われる。1906年、ポラードが内地会のメンバーであったニコルスを伴い武定洒普山を訪れ、滇北地区の伝道拠点とした時、ニコルスにその後を委ねたのもの、おそらく、内地会との協力関係を維持しようとするメソディスト側の配慮があったからだと思われる。
 ロバーツの関心の一つは、宣教師(あるいは伝道団体)と、それに率いられた現地のキリスト教徒は、どのような関係にあるべきなのか、という現地教会の自立の問題であった。それを如実に示しているがジェームズ・フレーザー(1886-1938, 傅能仁or 富能仁)の滇西伝道である。フレーザーは、ロンドンの大学で電気を学んでいる時、内地会に加入し、1908年上海に着き、安慶の語学学校で半年語学の訓練を受けた後、雲南伝道の先駆者マッカーシーに従い、ビルマから雲南に入り、最後に、騰越(現在の騰衝)にたどり着いた。マッカーシーは、安慶を訪れ、語学学校で学ぶフレーザーを自分の目で見て、後継者として彼を指名したのだといわれている。
 その後、フレーザーは、騰越を拠点に主として保山地区の伝道に力を注ぐことになる。当初は、中国語を学びつつ漢族中心に布教を行なっていたが、次第に保山や騰越周辺の少数民族(タイ族、ジンポー族、リス族など)に注目していく。おそらく、少数民族の多くが、漢族とは異なり、外国人宣教師に好意的であり、喜んで彼らの話を聞いてくれることが、足しげく彼らのもとを訪ねる一つの誘因であったと思われる。1913年初、高地にあるリス族の村を訪ね、結婚式に参加し、その一族や近隣に福音を伝えたのをきっかけにリス族への布教活動を始める。その年の春、リス族の村で、入信を希望するものに香炉や偶像を捨てさせることに成功する。リス族の信仰は一般にはアミニズムや祖霊崇拝なので、それに関する神像や位牌のようなものを捨てさせたのであろう。
 この時期のフレーザーはまさに、探検家であった。身一つ、時にはロバを牽き、僅かな荷物で、山から山へ渡り歩き、広い地域に散在するリス族の村を訪ね、彼らに福音を伝え続けている。リス族の案内人や伴がつくこともあれば、一人で険しい山地を横断することもあった。信者は少しずつではあるが、増えていた。だが、一人で広大な地域を巡回する方法では、自から限界があった。たとえば、フレーザーによって信者となったものたちは、彼が次の巡回で村にやってくるまで、自分たちだけで信仰を守らなければならなかった。リス族は文字を有しておらず、それゆえ、聖書や賛美歌集はおろか、書かれた教えが何もない状態で、フレーザーの次の訪問を待った。このような時、信仰に熱心であった者、特に中心となった若者の病気は、村の信者に動揺を与えることになった。村人にとっては、新しい信仰も古い信仰と同じ次元で計られることになるからである。つまり、キリストへの祈りが病気の治癒に有効なのかどうなのかが問われることになった。そして、その死は、多くの場合、村人を元の伝統信仰に戻らせることになった。
 それゆえ、フレーザーの伝道が実を結ぶには、かなりの数の現地の信者、とくに指導的な信者や伝道者が一定程度育ってからのことであった。それまでは、長期の厳しい条件のもとでの布教活動にもかかわらず、せっかく獲得した信者が、戒律を維持しえず、あるいは伝統信仰に戻ることも多く、非常にゆっくりとしか、安定した信者層が作られることはなかったと思われる。また、フレーザーやイゾベル・クーンの伝記(L.H.Dick, Isobel Kuhn, 1987; Gloria Repp, Nothing Daunted : The History of Isobel Kuhn, 1994)を通じて気がついたことだが、サルウィン流域のリス族の衛生状態や栄養状態が悪いせいであろう、有力な信者、将来のある若者が急死する例が多く、それもまた、教会の担い手の形成を阻んだと思われる。
 1920年代前半、フレーザーは、カチン族の宣教師Ba Thaw(巴拖)やリス族の信者(摩西)などの協力を得て、リス文字を作ると同時に、「マルコによる福音書」、「ヨハネによる福音書」をリス語に翻訳し、ラングーンで印刷している。だが、聖書は、リス族に無償で配られたのではない。リス族はそれを手に入れるためには、対価を払わねばならなかったといわれる。
 フレーザーのリス族伝道が、今日においても、なお注目に値するものとされているものに、その原住民主体の原則indigenous principleがある。ロバーツが例として挙げている、フレーザーが現地クリスチャンの自立への配慮を示した諸策を幾つかあげてみよう。
 フレーザーは、リス族などの、案内役や荷物持ちの手伝いなどに、報酬を払わなかった。一般的にいえば、現地の信者が宣教師に雇われ、それが日常化すれば、宣教師に最も近い信者たちが、現地教会の自立を望まない、ということになりがちである。また、教会建設も現地の費用でおこなうべきであった。草ぶきの教会でもかまわない。信者に聖書を買わせたのも、同じ考えにもとづいている。その土地の教会は、如何に貧しくとも自前の力によって教会建設を進めるべきであるとするのがフレーザーの考え方であった。
 フレーザーは、宣教師が部族の民に無料で医療を施すことを許さなかった。患者は少なくとも一定の対価を払うべきであった(Roberts,p.86)。無料医療は多くの貧しい山地住民を惹きつけ、帰依者を生みだすであろう。だが、その山地住民の信者が伝道者となった場合、彼もしくは彼女は、そのような無料医療を同胞に施すことはできないし、当然、それによって同胞を惹きつけることもできない(p.87)。つまり、住民自身の伝道者は、宣教師と同じ神の教えを説いているのに、神の教え以外の要素によって、同胞からは低く見られることになる。フレーザーは、多分、それを恐れたのであろう。原住民出身の伝道者が、いまだ福音を知らない同胞に福音を伝え、それが同胞に受け入れられていく状況をつくりあげることこそ、宣教師が目指すべきものであった。そうしてこそ、宣教師が存在しえない状況においても、現地同胞の伝道者によって未信者を信仰に導くことが可能となる(p.87)。
 フレーザーはクック夫妻に対し、信者たちの自立を促すため、現在住んでいる村を去り、他地に移るように指示している(p.80)。同じところに長く居れば現地信者の宣教師への依存心が強まる。信者自身の能力を発展させるために、指導者は長期間、同じところに居てはならない、というのである。フレーザーは、現地教会が自立すれば、宣教師は顧問にすぎないと述べたといわれ(李亞丁「華人基督教史人物辭典:富能仁」http://www.bdcconline.net/zh-hant/stories/by-person/f/fu-nengren.php)、さらに、宣教師は教会という建物を建てるための足場scaffoldingである、とも述べたと言われる( T’ien Ju-k’ang, Peaks of Faith , 1993: p.136)。つまり、建物が完成されれば、足場は取り払われることになる。筆者は、この建物とその足場の比喩が、指導される者の自立を促す指導者の在り方へのすぐれた理解を示していると考える。同時にそれは、フレーザーが、卓越した指導者であることも示している。
 フレーザーが心がけていたのは、宣教師が現地のクリスチャンを見守ることができなくなる時が来た時もなお、現地の人々の力で信仰を守り抜いていくことであろう。現地教会の自立は不可欠なのである。そのためには、現地のクリスチャンのなかから、伝道者が生まれなければならない。リス族伝道者の育成が必須であり、最初の牧師は1930年に誕生している。それぞれの教会の運営も長老たちに委ねられたという。また、毎年、雨期聖書学校を開き、広く伝道者を養成している。おそらく、この雨期聖書学校および、イースターやクリスマスなどの祝祭には、遠くからリス族を中心としてヒルトライブが、催しものが開催される教会に多数集まってくる。そこから、普段は山岳のあちこちに離れ離れになって暮らしていた諸部族が顔を合わせ、親しさを培っていく。これもまた、入信の、予期せざる効果であった。
 ハドソン・テーラーの後を継ぎ、中国内地会総部の指導者(総幹事or総主任)となったディクソン・ホスト(D.E.Hoste, 1861-1946)は、とてもフレーザーを信頼しており、1924年秋、フレーザーが二年間の休暇から戻ってきた折、甘粛省に派遣、その後、より中央に近いところに活躍の場を与えようと、彼が江蘇省の責任者になることを望んだが、あくまでも滇西の伝道にこだわるフレーザーは、それを断り、最終的に、1928年、雲南省内地会の責任者(superintendent, 監督)となって雲南に戻っていく。1930年頃、雲南西部には、クック夫妻、クーン夫妻など若い宣教師たちが、活発に少数民族伝道に従事しており、ようやく、フレーザーが播いた種が大きな収穫を結ぶ時代を迎えていた。