中国的なるものを考える(電子版第62回・通算第104回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第64号 2014.08.29 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南とキリスト教3
滇北地区

 雲南における中国内地会の伝道は、リス族に代表される滇西地区のほかに、苗族、彝族を中心とした滇北地区においても活発に行われた。この場合の滇北は雲南北部といっても、省都昆明から遠く離れた地域ではない。長江が深く入込み、四川省を南に押し下げ、雲南中央部を大きく凹ませる形となっているため、雲南北部といっても、実際には昆明からそれほど遠くはないところにある。滇北地区の中心となった武定、禄勧の各県城は、昆明から100キロ前後である。ただ、伝道の対象となった苗族、彝族はみな山地に住んでいる。滇北の山地は、怒江流域ほどの高さはないが、だが、布教活動には、烏蒙山地にあった石門坎教会におけるのと同様に、多くの困難をもたらしたと思われる。
 前述したごとく、滇北伝道の先鞭をつけたのは、サミュエル・ポラードである。彼は1905年、1906と続けて武定洒普山(Sapushan)を訪れ、伝道活動を行ない、そこを拠点とした布教活動の礎を築いた。二度目の訪問の折には、石門坎を訪れていた内地会のメンバー、アーサー・ニコルス(オーストラリア人、郭秀峰)を伴っていた。ポラードはニコルスを洒普山に残し、石門坎に戻った。ニコルスの指導のもとに、洒普山教会は、当初は石門坎教会の援助を受けながらも、内地会所属の教会として発展し、1923年、内地会滇北六族聯合会が発足する。六族とは、苗族、リス族、タイ族および三つの彝族系グループのことであるが、実際には苗族が主力であり、彝族がそれに続いた。1940年代末に、漢族が加わり、七族聯合会となる。
 滇北地区の教会は、1950年、共産中国成立直後に約2万人の信徒を擁していたと言われ(楊秀蓉「雲南基督教宗教教育的源起与発展」)、内地会にとって滇西地区とともにきわめて重要な伝道地区であった。また、後述するが、50年代から70年代末まで続く厳しい弾圧時代を生き抜いたという意味でも、重要である。だが、それにもかかわらず、ポラードの石門坎教会やあるいはフレーザー、クック夫妻、クーン夫妻のリス族伝道に比べ、洒普山を中心とした滇北教会に関心が払われてきたとはいえない。その原因は種々あるのであろうが、多分そのもっと大きなものは、彼らが残した文献の多少や、その知名度によるのだろう。ポラードは自分の苗族伝道を幾つかの著作として書き残したし、フレーザーについては多分、友人や支持者に送った書簡の回覧を通じて、伝道の具体的な状況や、フレーザー自身の人となりが、かなり知られていたのではないか、と思われる。さらに、レイラ・クックやイゾベル・クーンの著作を通じて、彼らのリス族伝道は多くの読者を有していた。
 それに比較すると、滇北地区の伝道については、宣教師側からの情報は少ない。ロバーツ『孤立せざる苦闘』(前々稿)においても、滇北については、伝道の初期と、50年前後の宣教師の撤退について、少し触れるだけで、途中の40年近くがすっぽりと抜け落ちている。では、中国側の研究は、というと、これもほんの概略しか示されていない。宣教師に関していえば、洒普山にニコルス(郭秀峰)、撒老吾(Salaowu)にGladstone Porteous(1874-1944, 張爾昌)が長期滞在し、それぞれ苗族、彝族を指導していた。また、George Edgare(王懐仁)夫婦もまた30年以上、欧文名は不明だが、孫美盛(カナダ人)夫婦もまた、20年以上、滇北地区において伝道にあたっていた。彼らの内地会上海総部への報告や、それぞれの故郷の家族や友人に宛てた手紙、あるいは出身国や派遣教会の雑誌への寄稿があれば、それを辿って伝道の様子がある程度わかるはずである。おそらく、石門坎教会やリス伝道に比べ、読者や研究者の関心を惹くきっかけがなかったということが大きいのであろう。
 中国側の研究状況についていえば、博士論文や修士論文の対象として、洒普山教会や撒営盤教会の歴史に対する関心が存在するようになった、というぐらいであろう。今のところ、水準が高いとはいえないが、その蓄積を待つ以外になさそうである。それらについて、とくに気になるのは、滇北教会に関する回想やエッセーにおいて、その起源について、1906年、ニコルスら二人の宣教師が洒普山地区を訪れ、教会の礎を築いたと記されることが多いが、その一人がポラードであることに言及しているものは少ない。とくに、現地クリスチャンの回想においては、ニコルスについては語っても、ポラードに言及するものはほとんどない。たしかに、伝道を始めたのが内地会の人間ではなく、循道公会のポラードであるということは、内地会の教会の信者たちが代々語り伝えるには不都合な事実であったのかもしれない。だが、せめて、教会史研究を意図するかぎり、事実は事実として書いてもらいたいと思う。
 ここでは、主に『走近石門坎』http://www.shimenkan.org/に掲載されている「基督教苗族教会史料 苗族教会“百年感恩”纪念 1904—2004」と肖耀輝・劉鼎寅『雲南基督教史』(雲南大学出版社, 2007年)などから、筆者が知りえた滇北教会の概略を記しておきたい。当初、洒普山教会は、内地会に属するとはいえ、石門坎教会の手厚いサポートを受けていた。特に、実際の働き手となる伝道者の派遣が大きい。ニコルスは、おそらく、1905年石門坎にポラードを訪ねた時、苗語を習い始めたと思われる。彼が洒普山の伝道を始めた頃、未熟な苗語で、彼らと出会った喜び語ったとあり、1906年、ポラードから洒普山一帯の伝道を委ねられた当時、苗語で福音を伝えるには、十分な水準に達していなかったと思われる(以後、苗語を流暢に話し、苗族の事情に精通したと言われるようになる)。また、伝道は人の言葉を通して伝わる以上、同じ言語を話し、かつ経験ある伝道者は多ければ多いほどよかったはずである。苗族、彝族の布教にすでに実績をもつ石門坎教会の協力は、経験の浅いニコルスに大きな助けとなったと思われる。さらに、苗語や彝語による聖書や讃美歌なども、石門坎において蓄積されており、それをそのまま利用することができたことも大きい。
 具体的にいつごろ、石門坎教会から洒普山教会が独立したのか、あるいはその運営において自立したのか、「基督教苗族教会史料」と『雲南基督教史』の記述に一致しない点やばらつきがあるため、大体のところしかわからない。前者によると、ニコルスは、1908年、ポラードの同意を得て、内地会本部(ロンドン)に、滇北地区の少数民族のために教会を建て、学校を設立すると報告している。おそらく、その年、実際に土地を購入し、教堂を建てたのだと思われる。また、1912年、滇北地区の、昭通石門坎系統の教会が、洒普山教会のもとに移されたとあり、おそらく、この辺が、石門坎教会の実質的な自立の時期といえるであろう。だが、その後も、学校教師の派遣を昭通地区(石門坎)にあおぐことや、また、洒普山系の教会のもとには、小学校程度の学校しかないので、卒業後なお勉学を望むものは、石門坎地区の中学に進学するような関係は続いたと思われる。組織的には分離したとはいえ、もともと、石門坎地区の苗族・彝族と滇北の苗族・彝族との間に強い結びつきがあった以上、教会間の繋がりは以後も残ったとしても不思議ではない。
 だが、そのことをニコルスは、快く思っていなかった節がある。1923年、ニコルスは内地会滇北六族聯合会を設立するが、傘下に多くの教会と信者を抱え、かつ自前の多くの伝道者を擁し、それなりに自信をもったのであろう、いつまでも、石門坎教会の協力を仰がなければならない状態を快よしとしなかったのかもしれない。1928年、洒普山教会傘下の私立恩光小学の高等科の第一期生がまもなく卒業しようとする頃、教師郭明道は病気を癒すために薬酒をつくり飲んだことがニコルスの知るところとなり、ニコルスは郭明道を譴責したばかりか、出身地である昭通に追い返してしまった。教師がいなくなり、授業が滞り、怒った幾人かの生徒たちはニコルスを難詰した。彼らは、ニコルスが何日待っても一向に善処しないことに腹を立て、学校を辞め、昆明に出て学業を続けようとしたが、うまく行かなかった。転校先をみつけた者も、勉学を長く続けられなかった。多分、みな貧しく、学費すらままならなかったからであろう。彼らは滇北に戻ることになるが、それはニコルスの敵としてであった。一部は、昆明滞在の折、安息日会(センブンスディ・アンドベンティスト)の信者となり滇北で活動を始め、一部はどの教派にも属さない、独立教会「中華基督教自立会」を設立し、いずれも内地会に対抗した。
 問題の発端となった郭明道は昭通の循道公会(メソディスト、石門坎教会に同じ)のメンバーであり、そこから招聘された教員であった。おそらく、禁酒をめぐるメソディスト(循道公会)と内地会の理解の仕方に違いがあったことが、この事件の背景にあると思われる。中国伝道に従事したプロテスタント宣教師は、一様に禁酒、禁アヘンを励行した。とくに少数民族地区に置いては、厳しく禁止したように思われる。彼らは、少数民族が祭りの際に、男女入り乱れて、したたかに酔い潰れ、しかも何日も飲み続けることを嫌悪した。それは、若衆宿や夜這い、歌垣など古い慣習に対する嫌悪に繋がっている。ただ、現実にはプロテスタントにおいても、カトリックにおいても、聖餐において、キリストの肉と血の象徴としてパンとブドウ酒が供されるように、全面的な禁酒には無理がある(現に、カトリックは飲酒に寛容であり、リス族やヌー族のプロテスタントがカトリックに改宗する理由の一つになっている)。各プロテスタント教派の間でも、その辺の対処の仕方について、若干の差があったのではないかと思われる。多分、循道公会(メソディスト)のメンバーであった教師郭明道は、薬酒ぐらいは許されると考えていたのであろう。それに対し、自分自身はメソディストであったとしても、内地会の地区教会監督としてニコルスは例外のない禁酒を励行していたのであろう。
 もう一つ、上記から浮かびあるのは、ニコルスの頑なさである。ニコルスについては、毀誉褒貶いずれもがあり、評価は一概には決められない(滇北教会の宣教師たちが、誠実であり、優れていたと、回想されている例も多い)。だが、滞在が長期化するにつれて、ニコルスの独善的な指導が目立つようになっていったのだと思われる。ニコルスは1943年末までずっと滇北地区の監督の地位にあった。内地会の組織原則からいえば、他地区への移動があってもよかったはずである。たとえば、クック夫妻やクーン夫妻は、時々、他地区への移動を命じられている。そこに、創立者として内地会所属を選んだ、滇北地区におけるニコルスの特別な地位があったのであろう。
 もう一つ重要な問題として、学校教育の問題がある。他の伝道団体と同じく、内地会の伝道地区においても教育を重視した。だが、それは聖書を読むことが可能になるレベル、小学校レベルの教育であった。昭通や石門坎などの循道公会地区では、中学校が設立され、優秀なものについては、さらにその上の学校(成都、武昌など)への進学なども、伝道団の支持があった。だが、滇北においては、伝道者養成については神学校を設立して、その必要に答えたが、一般の信者が希望する中学設立が実現することはなかった。それどころか、ニコルスは、教会学校の生徒たちが、一般の中学などに進学すること自体、認めなかったといわれる(1940年頃)。中学や大学で学ぶと、先生の言うことを聞かなくなるから、というのがその理由であった。本当に、ニコルスがそのようなことを言ったことかどうかはわからないが、幾つもの資料で、彼がそのように言ったとされている。また、石門坎地区の中学校に進学した者の中には、卒業後、洒普山地区に戻りたがらない者もいる、という話も残っている。
 この学校教育の問題については、循道公会と内地会の伝道スタイルの相違、組織の在り方の相違として、『雲南基督教史』などで議論されているところである。内地会はあくまで伝道団体であり、福音がいまだ届いていない地区への伝道を第一義としている。それゆえ、傘下の教会の自立については以前より寛容であった。とくに、財政が厳しくなった1930年代には、たとえば葛布教会に対し、自立を促している。それに対し循道公会は伝道団体であると同時に教団であり、自らが育てた教会はずっとその傘下に残ることを前提としている。それゆえ、昭通・石門坎地区の病院や学校建設に関して熱心であり、教育・文化・保健衛生に関して、石門坎は、当時の中国としては稀な先進農村地区であった。
 その結果、皮肉なことに、1950年代の新中国建設において、石門坎地区から育った高い教育レベルの者の多くが、主に地方政府の行政幹部や、地方党のメンバーとして引き抜かれることになった。新社会建設の夢には抵抗できなかったのであろう。50年代、なぜ、堅固に見えた石門坎教会が切り崩されたのかということについて、もちろん、有名な石門坎教会を瓦解させることが地方党や地方政府の大きな成果となることから、弾圧する側が大いにはきりったからであるという理由もあろうが、筆者は、すぐれた指導者、幹部を多数、政府・党に奪われたことも、その大きな要因ではないかと考えている。その後、残された教会は、おそらく、主に婦女や老人によって維持されることになったのであろう。逆に、小学校程度の教育しか受けていなかった葛布教会のメンバーはそのような「恩恵」にあずかることはなかった。洒普山教会のメンバーの中には、新社会建設のスローガンに魅せられ、党や政府に加わった者もいたようであるが、彼らもまた、小学校卒業レベルであることを考えると、出身地から、それほど遠く離れることはなく、ほとんどは現地に留まったと思われる。このような場合、反右派闘争や文革などを通じ、党が約束した理想社会などをつくることはないと見切った時、現地の党員のなかから密かに信仰に戻る人が出たのは当然であった。
 話を民国期に戻せば、1943年11月、ニコルスは内地会監督の地位を退き、翌44年帰国している。「基督教苗族教会史料」には、同時に郭秀峰など多くの外国人牧師が「残念な気持ちを抱きつつ」洒普山を離れたとある。おそらく、上記の問題のほかにも、ニコルスと現地クリスチャンのリーダーとの間に確執があったのではないかと思われる。滇北教会の運営は、王志明(苗族)など、各族総堂会長の合議によってなされることになった。これが、滇北教会の自立であるとされている。ただ、内地会との縁が切れたのではなく、その後も、内地会宣教師の派遣は1950年まで続けられている。
 共産化以後の滇北地区は、他の地区と同様に、厳しい弾圧のもとにあった。50年初めから文革終了まで、この地区の歴史は、王志明(Wang Zhiming, 1907-1973)の殉教への歩みの歴史でもある。王志明が洒普山教会(苗族)のみを指導したのか、それとも旧滇北教会全体を指導していたのか、はっきりしない。だが、仮に前者であったとしても、洒普山は滇北教会の聖地とでもいう存在であり、その総堂会長であり、かつ1951年に正式に牧師に任命された王志明の地位は高く、各族聯合会としての滇北教会全体を緩やかに指導する立場にあったと思われる。それゆえ、彼に対する党側の敵意も明らかであり、長い間、弾圧のターゲットとなり、1973年12月29日、大衆集会において死刑が宣告され、処刑されている。田汝康によれば、党によって苗族の若者のなかから選抜され、昆明で教育を受けた現地指導者によって執拗に攻撃されていたとある。おそらく、党側は、彼の公開処刑によって、滇北のクリスチャンの息の根を止めたつもりであったであろう。だが、文革が終わり、宗教活動が再び認められた時、信者は以前より増えていた。王志明が逮捕された時,武定には2,795名のクリスチャンがいたが、1980年、教會は12,000人のメンバーを擁するに至ったとする報告もある(「王志明:少数民族殉道者」http://www.prayforchina.com/pro_wang_zhiming_c.htm?lang=c)。なお、王志明については、1998年、ウエストミンスタ―寺院の大西扉に、20世紀の10人の殉教者の一人として、その像が刻された。10人の中にはマルチン・ルーサー・キング・Jr牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファー牧師、オスカル・ロメロ神父、マキシミリアノ・コルベ神父、エリザヴェータ・フョードロヴナなどが含まれている。なぜ、国際的に無名であり、かつ中国国内においてもほぼ無名であった王志明が、10人の殉教者の一人に選ばれたのであろうか。単なる推測でしかないが、おそらく、1949年以降、閉ざされた竹のカーテンのなかで、信仰をまもらざるをえなかった中国クリスチャンの受難を象徴する人物とみなされたからであろう。
 ただ、絶えざる弾圧により、洒普山教会が破壊された結果、滇北教会の中心は撒営盤(Sayingpan)に移ったといわれる。撒営盤地区における教会と信者の現状については、Liao Yiwu(廖亦武), God is Red: the Secret Story of How Christianity Survived and Flourished in Communist China(神は赤い:キリスト教徒はいかに共産中国において生き延び繁栄したのかについての秘話), Harper One, 2011. に詳しい。ネットの情報などを総合すると、人口45000人(内、少数民族49.2%)の撒営盤鎮に、80以上の教堂があり、キリスト教の町として発展しつつあるといわれる。
 さらにもう一つ、この地区の問題として、小衆教(Xiao zhong jiao)の問題がある。小衆教とは、文革後期に、武定・禄勧地区で発生したキリスト教セクトであり、文革の極左路線による宗教弾圧に対する反動から、聖書に則り生活し、行政機関からの関係を断つと同時に、信仰を異にする他のクリスチャンとの関係をも断つとの極端な立場に立つことを主張する人々であった。行政との関係を断つというのは、中国においてどれほど極端な主張か、想像に難くない。民族的には、漢族、彝族、苗族、リス族らで構成されている。小衆という名称は「狭き門」から来ているといわれる。1980年代から90年代初頭にかけ最盛期には、このセクトに属するものは3000人以上と言われた。慌てた地方党および地方政府は、何とか懐柔しようと、それまでの極左的宗教政策が修正され、宗教活動が認められるようになったことを宣伝すると同時に、様々な説得工作を試みた。その結果、2000年には、セクトのメンバーは減少し、武定では2割にまで減ったといわれている(王愛国, 云南基督教特殊问题研究--小衆教産生演変歴史其治理, 宗教与民族 第三辑 2004年12月)。
 キリスト教の伝道において、信者には、支配に対し従順であることを勧めてきた経緯がある。それは、共産革命後も同様であった。新社会において、毛沢東に従うことと、神に従うことは矛盾しないと考え、生産に励み、より多くの余剰を国家に上納しようとした人々もいた。だが、それにもかかわらず、文革期には、造反派により、信仰を理由とした信者の土地の没収などが行われた。そのような長期にわたる理不尽な弾圧を蒙った結果、既存の組織、既存の権威と一切の関係を断つとの考えに行きつくことになったのだ、と思われる。それゆえ、小衆教のメンバーは、子供たちが学校に行くことも認めなかった。また、計画出産にも応じなかった。セクトの子供たちのために、メンバーが寺子屋のようなものを作って教えることが行われたが、小学校卒のものが小学生に教えるようなレベルであった。どうしても学校に行きたい子供は、親との関係を断つ以外になかった。