中国的なるものを考える(電子版第63回・通算第105回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第65号 2014.10.28 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南とキリスト教4
ファンツブルガー・ミッションについて

Behind the Ranges『山なみの向こうに』(写真は J.O.Fraser)


 最近、申曉虎『怒江傈僳族内地会研究』(光明日報出版社)が出版された。おそらく、1949年以降、内地会の名前がついた最初の書籍ではないかと思われる。中央の出版社から出たということで、「宣教師は小恩小恵を用いて人心を買収した」などと書かれているのではないか、ということを心配したが、そのようなことはなく、また当然のことであるが、フレーザー、クック夫妻、クーン夫妻の事績もしっかり、それぞれ章を立てて書かれてあり、かつ、1949年以降の、怒江リス族教会についても、その活動の維持と教勢の発展が紹介されている。ともかくも、このような本が出たということを喜びたい。
 次に、ハワード・テーラー夫人によるフレーザーの伝記 (Mrs. Howard Taylor, Behind the Ranges『山なみの向こうに』)を読んだ。出版年が記載されていないが、多分、1944年出版ではないか、と思われる。ハドソン・テーラーの次男で、同じく内地会の宣教師であったハワードの夫人Mary Geraldine Taylorが書いたということで、身内誉めのような著作ではないかと、少し疑っていたのだが、著者は、内地会有数の著述家であり、そのような杞憂は無用であった。さらに、フレーザーの、母や友人への書簡(prayer letter)が豊富に引用されており、そこからフレーザーの人となりが、詳細に伝わってきて、とても感動した。もちろん、自分はクリスチャンではないので、教義的な部分は相変わらずわからない。だが、彼が雲南の少数民族に注いだ愛情は、本物だと思う。

 さて、雲南における中国内地会系のミッションは、リス族伝道を中心とする怒江流域、苗族、彝族を中心とする滇北地区がもっとも有力なものであるが、他に、ドイツ系ミッションが玉渓、紅河地区へ伝道をおこなっている。
 このドイツ系ミッションは、一般にファンツブルガー・ミッションVandsburuger Missionと呼ばれている。名称は、その創設地であるファンツブルクVandsburgの名前から来ている。創設は、1899年であるが、ファンツブルクは後にポーランド領となったため、本部をマルブルクMarburgに移したので、戦後はマルブルク・ミッションとも呼ばれている。また、その中心団体である、DGD(Deutschen Gemeinschafts-Diakonieverbands)の名称で、その活動を呼ぶことも多い。Diakonieは社会奉仕活動、Verbandは連盟だが、どのように訳せばよいのか途方に暮れる。キリスト教の教理や倫理にもとづいた社会奉仕活動の担い手(女性)を養成する修養団体だと考えられる。もともとは、女性を対象とした組織であったが、後に、男性向けの団体(Tabor)もつくられている。傘下団体はドイツ国内だけではなく、スイス、およびアメリカにも存在する。広義のDGDは、これらの組織全体に使われるが、狭義のDGDは、ファンツブルクを母院とする女性組織である。ファンツブルガー・ミッションの名称では長いので、以後、ミッションの名称は、DGDで統一する。

 Die Yünnan-Mission in China


 Immanuel Scharrer, Die Yünnan-Mission in China,TecctumVerlag, 2007.(イマーヌエル・シャラ―『中国雲南伝道』)は、このDGDの玉渓・紅河地区における伝道の詳細をたどった研究書である。ドイツ語の辞書を引きながらゆっくりとしか読めない筆者のレベルでは、400頁の大著は、手に余るものであった。同書は、まず、このような海外伝道が生まれるきっかけとなった神学的な、あるいは歴史的な背景について述べているが、その神学的な議論の流れについては、日本語のものでさえ理解が難しいところであるので、正直、音を挙げてしまった。やむをえず、後半の雲南伝道について読むことにしたが、玉渓・紅河地区の具体的な伝道にかかわる部分は、やはり、非常に面白く、何とか最後まで読むことができた。その後、前に戻って、19世紀から20世紀にかけての伝道団体を支える神学的議論の歴史、およびDGD結成と発展、さらに雲南に入る前の、内地会の協力団体であるLiebenzeller Mission(Liebe:愛, Zelle:細胞)への参加と、湖南邵陽地区における宣教の実践などの歴史を読み返した。
 DGDは、1920年代、その一翼として活動していたリーベンツェラー・ミッションとの関係が次第に悪化した。彼らが、DGD単独の伝道を望んでいたため、内地会の仲介により雲南伝道へと転じたのであった。彼らは、1929年、内地会の協力団体として雲南で伝道を開始し、他の伝道団体と同じく、1950年代初頭に雲南を撤退している。折から、ドイツにおいてナチスが台頭し、第二次大戦においては、中国が連合国側で参戦したので、その間、ドイツ人たちはパスポートなしで活動しなければならなかった。だが、蒋介石夫人、宋美齢を介し政府に働きかけ、何とか身の安全を確保し、活動を継続することができたといわれる。ただ、長期にわたり、ドイツからの送金が制限され、また一時、送金が不可能となったため、ドイツ人たちは、厳しい生活を強いられることになった。そのため、金持ち相手の歯科診療が有力な収入源となったともいわれ、また職人技術をたっとぶドイツ人らしく、副業として家具製造を行い、収入を得たとも書かれている。
 ミッションは、全体で、67人であった。その中に、37人のDGDメンバー(女性)、15人のタボール出身者(男性)が含まれる。また、配偶者として来た者13人も含まれている。ただ、時々、入れ替わりがあったので、つねにその数が雲南に滞在していたわけではない。国籍についていえば、ほとんどはドイツ人であるが、若干のスイス人を含む。彼らの活動は、内地会風の巡回宣教だけではなく、病院、歯科医、孤児院(昆明)、少女の家(昆明)、ハンセン病療養所、学校など、幅広い社会奉仕活動を含んでいた。
シャラーのDGD活動の記述を通して、かえって内地会の様子がわかるところがある。たとえば、内地会のメンバーは、各地に配属される前に、まず語学学校で語学訓練を受けることになっていたが、それはかなり厳密に行われていたらしいことが記されている。そのため、早く雲南に入って活動に従事したいメンバーは、語学学校に足を止めなければならないことに、苛立っていた様子がうかがえる。また、語学試験は、男性が7級、女性4級に分かれていたことも面白い。おそらく、語学の熟達は女性の方が速いと考えていたからであろう。ただ、雲南伝道は漢語(中国語)の習得だけではなく、現地語、とくに少数民族の方が帰依する可能性が高い以上、現地の少数民族の言語をマスターしなければ、宣教活動を十分に行うことはできなかった。その点に関して、DGDのメンバーは少し甘く考えていたのではないかと思われる。
 DGDが雲南に入る前に、内地会から、一定の伝道活動の後の現地教会の自立に向けて、幾つか指示があった。その一つは、現地における協力者の雇用についてであり、おそらく、外国資金による雇用、あるいは協力者への賃金の支払いが、自立を阻む可能性があるので、できるかぎり控えるようにとの指示であろう。また、病院についても、無料診療をせず、患者に一定の支払いを求めるように、忠告されている。これについては、ドイツ人たちは当初、無視していたが、本国から送金が滞ったため、患者に支払を求めるようになったといわれている。前者についても、同じ理由で、有給の協力者を減らさざるをえなくなった。
 DGDが担当した伝道地区は、三つに分けられる。①峨山を中心とした玉渓地区と、その南にある②新平・漠沙を中心とする紅河以北、そしてさらにその南に広がる③紅河以南である。①は内地会から譲られた伝道地区であり、②は米国長老派が開拓した地区であり、当時中心となって活動していたパークが急死したため、内地会の紹介によりDGDに引き継がれることになった。伝道の主な対象はタイ族、彝族であるが、タイ族は新平の花腰タイ族である。③はDGDの到来以来、新しく巡回宣教を始めた地区である。③の主要な対象はハニ族に属するカドKadoである。
 20年余のDGDの雲南伝道について、シャラーは全体として、成果を挙げたと肯定的な評価を下している。シャラー自身が多分、マルブルク・ミッションの一員なので、このような評価になったのではないかと思う。だが、客観的に見るならば、個々の面について、幾つも問題を指摘することができる。まず、先行したミッションを引き継いだ①および②について、どちらも全体として、信者、受洗者の数を増やしたとはいえ、これまで述べてきた貴州や雲南のミッションに比べるとやはり見劣りがする。とくに①の内地会から引き継いだ信者、②パーク夫妻から引き継いだ信者について、しっかりと教会のメンバーとして繋ぎ止めることができず、離脱者、棄教者を出している。その理由の中には、パークの信者のように、パークが提供していた金銭的・物質的援助をドイツ人たちが拒否したため、信者を失望させたといった、やむをえないものもある。
 だが、ドイツ人のなかに、タイ族の言語をマスターしたものがおらず、タイ族に対し、説教を通訳付きで行わざるをえなかったというのは、大きな問題であり、失敗といってよいものもある。また、いずれの地区にも共通しているのは、ドイツ人たちがプロイセン流の規律で訓練されていたため、洗礼のために漢族や少数民族に対して求めた基準が高すぎたという面を指摘せざるをえない。ドイツ人たちは受洗者に対し、カテキズム(教理問答集)に対する知識を求めた。これは、文字を持たない人々、あるいはつい最近まで文字を持たなかった人々、あるいは読書という習慣のない人々に対するものとしては、性急な要求だと思われる。さらには、指導に柔軟性を欠いていたという面も指摘せざるをえない。この点については、すでに、DGDの雲南入り前に、湖南西南部の、瑶族伝道においてすでに経験ずみのはずであった。多くの受洗希望者がいるにもかかわらず、なかなか彼らの希望する基準に達するものがいない、という状況は全く同様であった。
 シャラーは、③のカドに対する伝道において、当初受洗希望者が約6000人いたと述べている。だが、カドへの洗礼はゆっくりとしか進められなかった。ドイツ人たちが洗礼の基準を緩めようとはしなかったからである。ところが、同地区には強力なライバルがいた。ペンテコステ派(神召会)のハロルド・ベーカー牧師であった。ベーカーはもともと昆明でストリート・チルドレンの救済事業をおこなっていたが、1930年代中葉、カド山地における伝道に転じている。その人物については、カリスマ的であると評されていた。また、夫人と二人で、ほぼ独力で伝道に従事していたことは、先ほどのパーク夫妻と同様であった。ベーカーは異言や霊的体験を重視するペンテコステ派らしく、神学的教義のレベルなどにこだわってはいなかった。おそらく、1935年頃、昆明からカド山地に住まいを移し、精力的に行動し、次々に受洗者を増やしていた(ハロルドについては、彼の自伝 H.A.Baker, Under His Wings, Iris 2008 Editionをネットで見つけ読んだが、カド地区における宣教について、詳述されており、興味深い)。
 このような時、どのような対応が行われるべきであろうか。DGD自体、過去に、ペンテコステ派に痛い思いをさせられたことがあるといわれ、ベーカーの伝道に危機感をもち、信者たちに警戒を促していたが、それがまたベーカーの闘志を煽ることになった。DGDのなかで、紅河以南を受け持っていたのは主にタボール出身者であったが、彼らは、ベーカーに対抗すべく、彼らの伝道方針(とくに洗礼の基準)を変えることはなかった。おそらく、DGD指導者たちが予め決めた原則から、雲南現地の宣教師たちが逸脱することはできなかったのであろう。だが、伝道(布教)は、種々の社会運動、革命運動と同じく、生き物、生きた存在であり、変動する状況に応じた柔軟性が必要であった。この間述べてきた、アダム、ポラード、フレーザーなど、優れた宣教師たちは、みなそのように実践してきた。
 ドイツ人たちのプロイセン流の組織規律は、第二次世界大戦下における、母国との連絡がままならない状況において、以前と変わらぬ伝道活動を維持することに大いに貢献したと思われる。だが、状況に合わせ、原則を緩め柔軟な対処が必要な局面では、かえってその変更を阻止する方向に働いたと思わざるをえない。もちろん、彼らは自らが信じる原則を守ったのであり、信者の数を増やすために原則を曲げるというのは本末転倒であるとか、いたずらに基準に届かない信者を増やし、将来起こりうる厳しい弾圧に耐えられないようでは意味がないといった理屈はいつも可能である。ただ、優れた指導者ならば、原則を状況に合わせ緩め、メンバーを増やしつつ、内部強化を図る方策ぐらいは立てるであろう。
 第二次世界大戦勃発後、ドイツ系伝道団体という装いを改める必要にかられたドイツ人たちは、1941年、現地教会の自立化を名目として、中華基督教雲南奮進会を発足させる。奮進会はドイツ系内地会からの分離を宣言したが、シャラーの記述を読む限り、当のドイツ人宣教師たちはそれを本気にしていたとは到底考えられない。あくまで便宜的なものと考えていたと思われる。とくに宗教的な指導において、現地のクリスチャンは、あくまでも協力者以上の存在になりえなかった。そこでも、神学理論的な素養や水準が問題となっていたようである。神学的な素養が高いとして現地指導者のなかでもっともドイツ人が高く評価していたはずのYang Kuanglinですら、彼が牧師となったのは、ようやく1947年のことであり、あまりにも遅すぎたといわれる。もし、高く評価していたならば、もっと早く抜擢し、彼を中心とした現地教会の指導体制を作り上げるべきであった。宣教師が中国を撤退した時、彼は十分な声望や権威を獲得していなかった。1950年、教会組織の選挙において指導者に選出されたのは、湖南人であり、DGDの一員として、彼らに従って雲南にやってきたHanna Liuであり、楊牧師(Pastor Yang)は指導者に選出されなかった。
 おそらく、伝道団DGDの欠点も長所も、ミッション内における宗教生活(霊的生活)それ自体が彼らの実践の目的となっていたことにあると思われる。彼らが祖国との連絡が断たれても、組織的に秩序を保ち生き残れたのも、その長所--強固な組織性--が反映している。だが、それが伝道活動での柔軟さを失わせる原因でもあった。彼らは、現地クリスチャンの指導を緩めることはなかった。多分、彼らの目から見れば、未熟な現地クリスチャンに教会組織を任せることは、むしろ無責任に映ったであろう。シャラーは、彼らの傘下の教会においては、教会と宣教師宿舎が併設されていたことを指摘している。もし、現地教会の自立を促すならば、教会と宣教師館は分離されるべきであった。信者の宗教活動の一つ一つが宣教師の監視下にあるようでは、現地教会の自立は困難であるということであろう。
 シャラーは、③紅河以南においては、現地教会は自立的であったという。なぜなら、この地区は土匪が横行し、宣教師の滞在は非常な危険を伴うため、時折の巡回伝道に切り替えられ、教会の運営は長老たちに任せざるをえなかったからであるという。DGDメンバーのうち、どのくらいが上記三つの地区の伝道に従事していたのか、具体的な数は不明だが、滇西や滇北に比して、宣教師の数はかなり多かったはずである。そこから、細かい指示や指導が--おそらくドイツ人の性格や気質も加わり--現地クリスチャンになされることになり、それが現地教会の自立にとっては、不利に働いたのではないかと思われる。
 シャラーは、文革後、カド山地一帯のクリスチャンが急増し、5000人から2万人を超える規模となったことを述べるが、それらのクリスチャンが、内地会系なのか、神召会系なのか、わからないと述べている。というのも、1950年前後の外国人宣教師撤退後、カド地区では、内地会系の信者とベーカーの信者が混ざりあったからであるという。