中国的なるものを考える(電子版第64回・通算第106回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第66号 2015.1.7 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

雲南とキリスト教5
『チャイナズ・ミリオンズ』を読む

 本来は、今回から他の話題に転じるはずであったが、もう一度同じテーマで書くことをお許しいただきたい。というのも、ネットで資料を検索しているうちに偶然に、中国内地会の雑誌(月刊)『チャイナズ・ミリオンズ』(China’s Millions, 億万華民)を、Internet Archiveのライブラリーのなかに見つけたからである。現在閲覧可能なのは1875年の創刊時から1922年までであり、アップロードされているのは、年ごとにまとめられた合併号である。残念ながら、ところどころアップロードされていない年(合刊)があり、とくに、ジェームズ・フレーザーの滇西リス族伝道(滇:雲南の略称)にとって決定的に重要な時期、1915~1919年が欠けているのが痛い。とはいえ、筆者にとり1875年以後のほぼ半世紀の内地会の動向がかなり詳細に追うことが可能になったという事実に変わりはない。なお、中国内地会研究家ともいうべき亦文の一連の研究が、「一八七五年之内地会」(雑誌『教会』2012年第1期)で始まっているのは、もちろん『チャイナズ・ミリオンズ』創刊の年だからである。従来の雲南キリスト教史研究においては、国外で出版された田汝庚(T’ien Ju-K’ang, Peaks of Faith, 1993)を除いて、『チャイナズ・ミリオンズ』を参照していない。前回紹介した申曉虎『怒江傈僳族内地会研究』(光明日報出版社, 2014)はそれを利用した最初の著作だと思われる。
 1875年というのは、1865年に設立された内地会にとってちょうど10年目の年であり、それを期して創立者であり、かつ総責任者であるハドソン・テーラーは、いまだプロテスタント宣教師が一人として派遣されていない内陸九省(Nine unoccupied provinces)への伝道を呼び掛けた。内陸九省というのは、北から、山西、陝西、甘粛、河南、湖南、四川、貴州、雲南、広西の諸省である。当時、プロテスタント各派は浙江、江蘇、直隷(河北)など沿海部や長江流域の諸省に、262人の宣教師を駐在させていた。内、36人が内地会の宣教師であった(亦文, 前掲)。おそらく、設立10年目にあたり、未だ福音が届いていない中国内地への伝道を掲げて内地会を創立したハドソン・テーラーとしては、大いに期するところがあったと思われる。

China's Millions 創刊号第一頁

 『チャイナズ・ミリオンズ』創刊号である1875年7月号には、巻頭に「雲南山地のシャン族」の絵が掲載されており、『グラフィック』Graphic編集者の好意により木版に供することができたとの説明がある。シャン族は現在のミャンマー北部のシャン州を中心に居住するタイ系の民族であるが、雲南徳宏のタイ族と同じ人々である。この巻頭の絵は、水稲耕作を営むシャン族(タイ族)という我々のイメージからするとやや戸惑いを覚えるものである。また、絵の説明に、低い山地(hill)の間に住み、彼らの多くは、洪水が引きはじめるやトウガラシ、ヒ素、紙、ルビーの原石、アメジストなど彼らの産物を携えて平地の市(mart)に下りて行く、とあるが、これにもまた困惑させられる。これではまったくのヒルトライブである。シャン州は全体として高原地帯にあり、そこに住んでいるかれらをヒルトライブと言って言えないことはないが、それでも、基本的には水稲の民であることに違いない。その点では、徳宏のタイ族も同じである。
 さて、巻頭の木版とその説明は、内地会のスティブンスンとソルトーが、ビルマ北部からの雲南進出を目指しすでにイギリスを発ったとの、同号掲載の記事との関連で掲載されたものであろう。二人がグラスゴーを出発したのは4月7日であり、その後の彼らの航海記およびビルマ滞在記、あるいはその時々の彼らの通信文は、継続的に『チャイナズ・ミリオンズ』の紙面をにぎわすことになる。重要なことは、二人のビルマ北部からの雲南進出の試みはハドソン・テーラーの要請(あるいは強い支持)のもとに行われたということである。同年発生したマーガリー事件の煽りを受け一時挫折したとはいえ、彼らの「探検」の『チャイナズ・ミリオンズ』誌上における報道は、おそらく大きな効果を挙げたのではないかと思われる。読者の中国奥地に対する興味をかき立て、奥地伝道への試みを強く鼓舞するものであったからである。


シャン州ティーポー


 ビルマ北部に入ったスティブンスンとソルトーは、1880年、雲南入りが可能になるまでの5年間に、雲南に近いバーモに拠点を置き、シャン族、カチン族などに接触し、宣教を開始している。おそらく、同時期、ビルマ北部に入り伝道を始めたアメリカのバプティスト派宣教師から、ビルマ南部におけるカレン族19000人の改宗を知らされ、大いに刺激を受けたのであろう。意気上がるカレン族のなかから派遣された布教師たちが、すでにビルマ北部を訪れ始めていた。
 当時、ビルマ北部にビルマ王国がまだ残っていた(1886年まで)。イギリス軍、商人、冒険家、植民者などのビルマ進入は、ビルマ高地の諸部族の間に疫病を流行らせる結果となった。スティブンスンはカチン語を習得し、ソルトーの医療知識を頼りに、二人は主にカチン族に対する医療伝道に従事する。カチン族に対する彼らの信頼はカチン族をもっとも良い協力者best alliesと呼んでいることからもうかがえる。
 西からの雲南進出が足踏みをしていた1877年、マッカーシーが重慶、貴州を経て雲南を東から横断しバーモに到着する。続いて、1878年、四川西部でチベット族伝道にあたっていたキャメロンが四川を南下し雲南を経て、バーモに入っている。さらに、1880年雲南に入り永昌府(保山)までの旅を試みたスティブンスンとソルトーは、1881年、ついにバーモを発ち、雲南を西から横断し、重慶を経て長江を下り上海につく。彼らの詳細な紀行文はいずれも『チャイナズ・ミリオンズ』に掲載されている。
 1875年、内地会がビルマ北部からの雲南進出を計画したのは、1850年代以来、十数年間、雲南を揺るがしていた杜文秀の乱(パンゼーの乱, 1856-1873)がようやく平定されたからであった。その残党が最終的に潰滅させられたのは1874年のことであった。だが、その3年後に雲南を東から横断したマッカーシーは、彼が出会った雲南の人々は、みな友好的で、親切だったと言っている。キャメロンやスティブンスン、ソルトーも同じ印象を伝えている。長期にわたる反乱は雲南を荒廃させたと言われていることを考えると、やや意外に思う。とくにマッカーシーが、宣教師の雲南進出に何も問題はないとまで述べていることは印象的ですらある。
 以上から、内地会の雲南への関心が中途半端なものではないことが分かる。また、ヒルトライブ(少数民族)に対する関心も、内地九省への伝道を呼びかけた1875年当初からあったことが分かる。それらを考えれば、1880年代初頭から始まった雲南伝道が振るわなかったことは、やはり意外に思わざるをえない。また、中国西南の少数民族への伝道が始まったのが20年もあとの1890年代中葉からであるのも、遅すぎるような気がする。
 ただ、1870年代、80年代の内地会の宣教師の数を考えれば、ある程度理解できよう。内地会宣教師の数が目立って増え始めるのは、84、85年以降であり、1890年には全体で400名(協力団体のメンバーを含む)を超えており、ようやく西南諸省に配された宣教師のなかから、少数民族の言語を学ぶ余裕のあるものが出現する時代となったのではないかと考えている。雲貴両省への宣教師派遣が始まったのは1880年前後からであるが、『チャイナズ・ミリオンズ』誌上の1880年代、90年代の雲南や貴州の記事を見るかぎり、両省とも宣教師がなかなかいつかないという印象を受ける。病気になる確率が高く、西洋医のいない所に長く居住するのは難しい。そのような流動性の高い状況において、宣教師が説得力のある漢語のレベルになるまでに数年(おそらく3年~5年)かかるうえに、さらに少数民族の言語を数年学ぶというのは、理論的には可能であっても実際には難しい。1884年の数字では、雲南に8人(内2名がバーモ居住)、貴州に10人、宣教師が配置されているが、このような状態では、まず漢族伝道が優先され、漢語学習に大きな比重が置かれるのはやむをえないであろう。
 話は一挙に1920年代に移るが、『チャイナズ・ミリオンズ』の記事から、当時の雲南が匪賊の横行する社会であることが理解できる。1920年3月4日、リス族を中心に伝道が行なわれていた滇北武定県の Taku (滔谷Taogu)の教会が土匪に襲われ、二人の宣教師が人質として連行された記事が掲載されている。ほどなく、ガウマン(Gowman, 高曼)は何とか逃げ出し、メトカルフ(Metcalf, 王懐仁) が連行された。幸いにも、数日後、夜陰に紛れメトカルフは脱出に成功し、難を逃れている。同じ時期、滇北の責任者ニコルズが追いはぎに会った話も掲載されており、このようなことは日常的な事態であった様子がうかがえる。
 1921年5月のガウマンの報告には、土匪の襲撃のような一時的な混乱があったにもかかわらず、滔谷地区のクリスチャン・スクールは通常通りに行われている、とある。さらに、混乱により閉鎖された地方政府管轄の学校が、自分が知っている例外を除いて、閉鎖されたままになっているのとは際立った違いがあるとわざわざ述べている。多分、教師など関係者が去ったまま、怖がって学校に戻らないことが多かったものを示すのだと思われる。ガウマンは、ここでは、クリスチャンの堅い信仰と異教徒たちの無責任さを対比させている。
 この場合のクリスチャン・スクールとは小学校のことである。ガウマンが挙げているのは、リス族の学校が4ヶ所、ラカLaka(彝族の一支)とタイ族が1ヶ所ずつ、Nosu(彝族)が5ヶ所、苗族が6ヶ所、コプKopu(彝族の一支)が4ヶ所である。このような民族の分布は如何にも雲南らしくとても興味深い。武定県大滔には内地会滇北六族聯合会の拠点の一つリス族総堂が置かれているが、上記の小学校の状況からみてわかるように、リス族だけが住んでいたわけではない。滔谷に常駐していた宣教師のうち、メトカルフはリス語に通じたリス族伝道の先駆者であり、ガウマンも一時フレーザーとともに滇西において伝道に従事しており、さらに1930年前後には再度滇西においてリス族伝道に従事しており、リス族伝道に縁の深い人物であった。では、リス族以外のヒルトライブに対し、彼らはどのように宣教していたのであろうか。とくに、教会傘下の学校教師に対し、何語で指示を与えていたのであろうか。学校で教えるぐらいの人物ならば、漢語は話せたと考えることもできるかもしれない。もし、そうであれば、教師を集めた会議を開くことも可能であったであろう。また、このことは、たとえヒルトライブ伝道に従事する宣教師であっても、漢語に通じていなければ不便なことが多いことを教えている。
 では、滇北の神学校では、何語で教えていたのであろうか。肖耀輝・劉鼎寅『雲南基督教史』(雲南大学出版社)には滔谷の聖書学校ではメトカルフがリス語で教えたように書かれてある。とすると、その他のヒルトライブは滔谷の聖書学校では学べなかったということになるが、どうであろうか。前掲書によれば、1942年、この聖書学校を基礎に滇北神学院が設立されたとある。滇北全体に募集をかけたとすると各族の子弟が進学したと思われるが、何語で教えたのであろうか。また、撒老塢(Salaowu)には黒彝族総堂が設立した聖書学校があり、主にポーティアス(Gladstone Porteous, 張爾昌)が彝族に教えていたようであるが、1947年、それを基礎として西南神学院が設立されている。後者は滇北教会の範囲を超えて学生を募集したとあるので、漢語で教えた可能性が高いように思われる。
 それにしても、それぞれの地区に多くの言語が存在するということは、雲南における伝道の難しさでもあるが、一方、魅力の一つでもあるように思われる。中国西南の少数民族の分布状況を「大分散・小聚居」と形容しているが、各族が広い地域にバラバラに居住しており、○○族の居住地域と言っても、そこには幾つかの他のヒルトライブもまた小さな集団(村落)をつくって居住しており、様々な民族が隣り合って住んでいた。おそらく、大分散・小聚居のもとにおける言語の在り方は、我々が想像する民族の言語の在り方とはかなり異なるものではないかと思われる。20世紀初頭の中国西南のプロテスタント伝道においては、信者から信者に伝える大衆運動型の伝播がかなり一般的であり、その場合、言語や民族の壁を越えて波及する場合がしばしばであった。つまり、教えを広める布教師のなかには、近隣の他の民族の言語にも通じているものも多かったと思われる。多くのヒルトライブが居住する山地を渡り歩く商人が、語学レベルは別として幾つかの言語を操ることは不思議なことではない。ヒルトライブの布教師や神学校の生徒についても、同じような可能性があるのではないかと思われる。
 先ほど、1870年代中葉、カレン族のクリスチャンがビルマ北部を訪れプロテスタント伝道を始めた話を述べたが、フレーザー(1886-1938)の親友であるバトゥBa Thaw(1891–1967)もカレン族の出身であった。Ba Thawはバソーと呼んだ方がよいのかもしれないが、中国語訳が巴東(Badong)or巴拖(Batuo)なので,中国語の音に引かれて、ここではとりあえずバトゥと呼ぶ。フレーザーは、1910年代、滇西の少数民族地区をほぼ一人で巡回伝道していたが、それを強力にサポートしていたのは、ミッチーナに拠点をおく、アメリカのバプティスト派宣教師であるガイズ(George J. Geis , 1860 - 1936)と、その指導の下でカチン族、シャン族およびリス族の伝道に従事していたバトゥであった。バトゥはカルカッタで学んだ後、ミッチーナに派遣され、ガイズのもとで宣教師として働くことになるが、数年でカチン語とリス語をマスターしたとあるので、少なくとも、カレン語、英語、カチン語、リス語に通じていたということになる。シャン語(タイ語)も少し話せたであろう。また、英領とはいえ、ビルマで活動して以上、ビルマ語を話せなかったとは考えられない。彼は国境を越えさかんに雲南徳宏のジンポー族(カチン族)やリス族を訪れていたので、ひょっとして漢語あるいはその方言である雲南語を何ほどか話せた可能性もある。まさに、雲貴高原やインドシナ北部における民族の大分散・小聚居にふさわしい多言語使用者polyglotであった。バトゥはフレーザーと協力してリス文字を作成したほか、1910年代から20年代初頭にかけて、フレーザーが難局に陥った折には、しばしば顔を出し、その活動を支えている。


徳宏瑞麗

 最後に、宣教師と楽器の話をしたい。宣教師は説教だけによって人心を獲得したのではない。安順のR・アダムが1895年、帰国の折、持ち帰った幻燈機は苗族伝道に大いに役立った。多分、プリミティブな社会に住む人々にとっては、魔法のように映ったであろう。とくに、キリストの受難の場面は、大きな感銘を与えたと言われる。異国の楽器も活躍した。宣教師はそれぞれ得意な楽器を携行しているように思われる。1912年初め、フレーザーとガウマンは、怒江リス族の結婚式に招かれたが、ベビー・オルガン(baby organ)を持ち込み、フレーザーがオルガンを弾き、ガウマンが賛美歌を歌った。武定滔谷に転じたガウマンは、昆明から小さなオルガン(small organ)を運び込んだのだが、昆明から百数十km離れている滔谷に運ぶのに、苦力(クーリー)に大働きしてもらわなければならなかった。武定より遥かに遠い騰越の伝道ステーションでは、フレーザーが先のベビー・オルガンを弾いていた。1910年に滇越鉄道が開通したので、それ以後、ピアノなど外国の楽器は昆明までは運べるようになったとはいえ、そこからが大変であった。雲南は河川での運送がほとんど不可能であったので、重いものは山地特有の小柄な馬で運ぶ以外になく、大きな限界があったからである。
 『チャイナズ・ミリオンズ』1920年12月号の、クック(楊思慧)「バイオリンを携えリス族のクリスマスに参加」という記事では、楽器について面白いことが書かれている。リス族はフレーザーのアコーディオン演奏を理解できない、というのもフレーザー自身はリス語を話すのに、彼の楽器が英語を話すためであるという。また、彼らはもう一人の宣教師であるフラッグのコルネットが言っていることも理解できない、とある。おそらく、明治時代に来日した宣教師たちが日本人に七音階からなる彼らの賛美歌を教えようとしても、うまくいかなかったのと似た問題があったのであろう。伝統音楽とリズムもメロディも異なるものを受容するのは、難しい。結局、日本人には半音であるファ(第四音)とシ(第七音)を抜いた、いわゆる「ヨナ抜き」の五音階の賛美歌を教えると上手に歌えることがわかり、それが突破口となり、後の唱歌の誕生に繋がったと言われている(安田寛『日韓唱歌の源流』音楽之友社, 1999)。
 宣教師が楽器を携行するのは、往来や広場での説教の際の客集めや、聖歌や賛美歌の伴奏のためであった。もちろん、生まれ育った土地とはまったく異なった世界に暮らす、宣教師個人の無聊を癒す役割も果たしたであろう。ともあれ、異国の楽器はプリミティブな社会に住む人々の感興を大いにそそり、賛美歌による伝道は効果があったと思われる。だが、賛美歌をヒルトライブの文化生活に持ち込むというのは、大きな文化変容をもたらす可能性があった。
 宣教師は、一般に、プリミティブな社会の伝統文化を根こそぎ変容する傾向があるように思われる。彼らにとって、ヒルトライブの祝祭は極めていかがわしく思われ、そこで行われる男女入り乱れたダンスや酒盛りは忌まわしく思われたし、歌垣に対しても同様であり、ましてや夜這いなどの風俗は容認できるものではなかった。しかし、ただそれらを禁止するだけでは効果がないことは彼らも理解していた。伝統的な祝祭を宣教師が望んでいるような健全なもの(文化祭とか体育祭)に換えることが意図され、積極的に実行された。それを大胆に一挙に行ったのが、サミュエル・ポラードの石門坎教会であった。たくさんの、白い運動着を着た苗族の子供たちが参加した運動会の写真は、そのことを象徴的に物語っている。クリスチャン家庭の少年少女の健康について、学校およびそれを指導する教会が、強い関心をもち積極的に関与しようとする姿勢がそこに感じられる。彼らは、伝統的な祝祭を廃し、その時期に運動会や音楽祭をぶつけたのである。宣教師が持ち込んだ楽器はそれらを演出する効果的な装置であった。
 安田寛『日本の唱歌と太平洋の賛美歌--唱歌の誕生はなぜ奇跡だったのか』(東山書房, 2008)は、ミクロネシアやポリネシアの島々で起きた類似の出来事を伝えている。それらの島々では教会は植民地支配の一翼であった。学校教育を通した賛美歌導入により、伝統音楽はほぼ完全に西洋音楽にとって替わられ、後に人類学者が調査をしてもほとんど残っていないほどであったという。では、中国西南やミャンマーのヒルトライブにおける伝統文化は、プロテスタント・ミッションによって、どのくらい変容を受けたのであろうか。これからの課題でもある。
 ただ、中国西南の少数民族にとって、宣教師たちは支配者ではなかった。苗族や彝族、リス族がキリスト教化したといっても、あくまでその一部であって、それぞれのヒルトライブのなかでは、非キリスト教徒の方が多数派であり、キリスト教化が成功した場合でも、徐々にしか進まなかった。ヒルトライブのメンバーには、信仰するかどうか、選ぶチャンスがつねに存在した。それゆえ、キリスト教化と、それに伴う文化変容は、一面、それぞれのヒルトライブの選択の結果でもあった。彼らはそれぞれの歴史の転換期に、欧米の宣教師を通じて、漢族やビルマ族などの主要民族とは異なった宗教とその文化を受容することで、主要民族とは別の、比較的安定したアイデンティティを確立することに成功したのである。そのことを無視してはならないであろう。将来のために何かを得れば、伝統的な何かが失われる。失われたものが多くとも、それを強制された文化喪失であると指弾すればよいわけではないのである。