中国的なるものを考える(電子版第65回・通算第107回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第67号 2015.3.7 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

ゾミア・ノート その1
ゾミア・照葉樹林文化・クリスチャンベルト

 正月明けに、所属大学の紀要に原稿を提出した後、少し読書に精を出している。最近集中力が足りず、なかなか思うようにはいかないが、こつこつやれば何とかなると思って続けている。
 書き上げた原稿は、1974年から1980年までの、英語圏を中心としたアジア的生産様式論争についてである。本来は、一気に1989-1991年まで書き上げるつもりでいたのだが、ペリー・アンダーソン、ローレンス・クレーダー、マリアン・ソーアーのアジア的生産様式に関する議論を紹介しているうちに説明が長くなり、結局1980年ぐらいまで記述したところで紙数が尽きてしまった。1980年代の議論がそっくり残ってしまったのは遺憾であった。というのも、この論争にとって、1980年代以降は、拡散の時期であり、長く続いた論争の残照ともいうべき時期であった。たしかに、議論は続いていても、60年代のような厳しさ、つまり議論の厳しい競り合いをもってなされていたわけでない。1980年代の、あまり焦点のさだまらない議論を一つの論文に纏め上げるのは、ややインセンティブに欠けるなという思いもある。それでも、書かなければと思っているのは、Fritijof Tichelman (1929-2012)の『インドネシアにおける社会発展:アジア的生産様式とその遺産』(The Social Evolution of Indonesia: The Asiatic Mode of Production and its Legacy, Martinus Nijhoff, 1980)の存在ゆえである。著者はオランダ人であるが、名前をどう読んだらよいか分からない。ここではひとまずティシェルマンと呼ぶことにする。ティシェルマンは、オランダの植民地であったインドネシアで生れ、ハーグ(オランダ)で育った。ライデンで学び、1964年から1994年、アムステルダムの国際社会史研究所(IISG)に勤めていたといわれる。「いわれる」などと自信のない書き方をしているのは、国際社会史研究所のウェブサイトから入手した、彼のオランダ語の略歴を、慌てて購入したオランダ語の辞書を引いて、ようやく読んだ数行の記述によって書いているからである。彼のアジア的生産様式論を支えている、独特な、歴史についての大きな俯瞰を、筆者はとても気に入っている。
 一度ティシェルマンについて言及したいと思うのは、彼がスネーフリート(Henk Sneevliet 1883-1942)の研究者だからである。スネーフリートは、活動家名マーリンで知られている。1921年7月、コミンテルンを代表し中国共産党創立大会(上海)に出席し、さらに1923年、国共両党の統一戦線、国共合作を提言したのも、スネーフリート(マーリン)であった。国共合作の構想には、彼のインドネシアにおける、社会主義者と民族主義的イスラム勢力との統一戦線の取り組みが反映されているといわれる。スネーフリートはその後、モスクワに戻り、さらにオランダに帰る。1920年代後半、反スターリニズムを鮮明にした彼は、コミンテルンと決別し、革命社会主義党を組織し、1933年、獄中から選挙に打って出て、国会議員となっている(1937年まで)。この時期、トロツキストとして行動していたと思われる、だが、1937年、「労働者国家=ソ連」の防衛をめぐってトロツキストとも袂を分かつことになる。当時、反スターリニズムを鮮明にした左翼は、互いに孤立しており、西欧においても極めて小さな勢力しかもちえなかった。1940年、ドイツのオランダ占領に際し、党(革命社会主義労働者党)を解散するとともに、組織を「マルクス・レーニン・ルクセンブルク戦線」に改め、対独レジスタンスに投じる。1942年、同志とともにナチスに捕縛され、処刑されている。
 1919年1月のローザ・ルクセンブルクの虐殺の後、西欧マルクス主義は長い冬の時代を迎える。この時期、ソ連流マルクス主義すなわちスターリン主義に抗した西欧のマルクス主義者の運命は悲惨であった。この長い冬の時期、スネーフリートはあえてそれを行なったのである。一体彼は、中国あるいはソ連で何を見たのか、というのが筆者の切実な関心である。ティシェルマンは、革命家スネーフリートの生き方を追うことを通して、アジア的生産様式論の構想を得ている。残念ながら筆者はオランダ語を理解しないし、今後その学習を始めるかどうかもわからない。10年近く前に購入したティシェルマンのスネーフリートについての本は今も書棚に置かれたままになっている。
 1月以後の読書のなかで、もっとも面白かったのが、表題のジェームズ・C・スコット『ゾミア』(みすず書房)である(後述)。また、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(書籍工房早山, 2007)を初めて読んだ。筆者は、時々へそをまげ、ベストセラーをわざと読まないことがある。『想像の共同体』も評判の良さを知りつつ、読まないできた。ところが、『ゾミア』にアンダーソンの引用があり、急に興味が湧き、早速読んでみた。その内容については、すでに多くの書籍や論文のなかで言及されているので、筆者にとってほとんどは旧知のことがらであった。だが、彼が昆明生まれ(1936年)だということは知らなかった。現金なもので、昆明生れだと知ったとたん、とても身近な人間に思えてきた。彼の言うことが、突然、耳を傾けるべきものとなった。彼の父はイギリス系アイルランド人で、中国の海関の職員であった。第二次アロー号事件以後、中国に大きな賠償金を課した列強は、海関をおさえ、その収入から賠償金をとりたてることとした。海関(海関税務司署)のトップは列強の市民(主にイギリス人)が選ばれることになっており、職員にも多くの外国人が採用された。アンダーソンの父もまたその一員であり、一時期、昆明でも働いており、そこでベネディクトが生まれたのである。
 また、彼が『比較の亡霊』(作品社)、『三つの旗のもとに』(NTT出版)など、フィリピン史に関わる著作を発表していることにも好感をもった。フィリピン史について何か読もうと思っていても、なかなか心誘われる書物にであってないので、特にそう感じたところである。さらにもう一つ、驚いたことは、彼の弟がペリー・アンダーソンであったことである。筆者は『ニューレフト・レビュー』を刊行したイギリスのマルクス主義者のなかでは、ペリー・アンダーソンと袂を分かつことになったE・P・トムスンの方にシンパシーをもっているが、『古代から封建へ』『絶対主義の系譜』の著者であるペリー・アンダーソンもまたすぐれたマルクス主義者の一人だと思っている。それらのことを、もっと前に知っていたら、ベネディクトの著作を読まないなどということはなかったのにと、少し後悔した。

Zomia(Wikipediaより)


 さて表題の『ゾミア』である。ゾミアとは、もともと、インド、バングラデシュ、ビルマの国境地帯で話されているチベット・ビルマ系諸語で「高地民」を意味する。そこからヒントをえて、スコットは、中国西南からインドシナ北部に拡がる山岳地帯--国家に対する周辺諸民族の一種の逃避地帯となっている--を指す言葉としている(地図参照)。地図はウィキペディア(英文)「Zomia」の項に附載されたものである。なお、スコットは、ゾミアにチベット高原を含めていない。スコットによれば、中国西南、インドシナ北部およびバングラデシュとインドの国境にまたがるこの山地の面積は、およそ250万平方kmで、ヨーロッパの面積に匹敵すると述べているが、たぶん、西ヨーロッパのことであろう。
 ゾミアに住む人々とは、中国西南から東南アジアにかけて居住するヒルトライブに属する人々である。雲南では、バーズ(壩子)と呼ばれている盆地は、総面積のわずか6%を占めるにすぎず、後は高原が10%、山地が84%である。農業生産の中心はたしかにこのわずかな盆地ではあるが、広大な山地もまた、焼畑を行うか、棚田をつくるかなどすれば、穀物を収穫することができる。温帯から亜熱帯に拡がる山地は意外に資源が豊富で、狩猟採集などによって生きることも可能であった。つまり、中国西南やインドシナの社会や歴史を知るためには、山地に住む人々もまた、無視できない。山地の民は、中国西南やインドシナの歴史にとって、欠かせぬ要素なのである。
 本書の内容は、つまるところ、「はじめに」と題された序文の次の一節に凝縮される。この地域における「山地民とは、これまで二〇〇〇年のあいだ、奴隷、徴兵、徴税、強制労働、伝染病、戦争といった平地での国家建設事業に伴う抑圧から逃れてきた逃亡者、避難民、[奴隷制から逃れた]マルーン共同体の人々である、と。こうした人々が暮らす地域の多くは、破片地帯もしくは避難地帯とみなすのが適切である」。マルーンとは、文中の括弧のなかにあるように、16、17世紀以来、奴隷貿易の拡大とともに発生した黒人逃亡奴隷のことである。
 すなわち、山地の民、ゾミアの民は、それに隣接する国家の統治から離脱した人びとであった。国家の臣民であることの不自由さからの離脱であり、具体的には課税や賦役・兵役の重い負担からである。我々が文明と呼んでいるものは、ほとんどは国家発生以後の歴史であった。文明はたとえ栄光に満ちていても、それに属する人々は、支配者のために多くの負担を強いられてきた。山地の民は、その意味で、文明からも離脱する人々であった。
 問題は、一端国家や文明に属した人びとが、自由を求め国家や文明を離脱しうるかどうかであろう。スコットの著作は、もし、そこから離脱しても、十分に生きるすべがあるかぎり、国家や文明の外へ、「野蛮」に向かって走る人々が絶えることはない、ということを教えてくれる。
 スコットは、インドシナ諸国や中国の国家を水稲国家と呼んでいる。中国(漢)、ビルマ、タイ、クメール、ベトナム(キン)などの水田中核地帯を中心とした水稲国家に対し、それとは対照的な社会として、ミャオ、ヤオ、イ(ロロ)、ハニ(アカ)、ラフ、ワ、カチン、カレンなどからなるヒルトライブの山地社会を対比させている。すなわち、彼らがゾミアの住民であり、本書の舞台の主役である。
 ただ疑問に思うのは、これらのヒルトライブは、みなもとは平地に住み、中国やインドシナ国家の臣民だったのであろうか。スコットの話しぶりには、そう思わせるところが多々ある。だが、同時に、スコットは、ハニとアカは、八百年も前に分かれたにもかかわらず、互いに容易に理解可能な口承の物語を共有している(p.19, p.233)と述べている。同じことが他のヒルトライについてもいえるであろう。つまり、良く知られているヒルトライブは、それぞれ山地民として長い歴史をもっている。平地民とは異なったアイデンティティを有しており、さらに、それぞれ他の山地民とは異なったアイデンティティも保持している。それゆえ、山地の民とは国家の支配、あるいは文明を逃れた人々であり、その意味で歴史的に創られた存在であるとするのは、少しばかり違和感を覚えざるをえない。
 ゾミアの山地の多くは照葉樹林文化地帯と重なりあうところから、たとえ、穀物栽培が広がらない前でも、ドングリやクリなどの堅果類やサトイモやヤマイモなどの根菜類を食べ、さらに堅果類を保存するなどして暮らしていくことが可能であったと思われる。またこの地域は、一時、稲作の発祥地にも比定されたくらいであるから、コメ、ムギ、アワ、ソバなどの栽培も早くから行なわれていたであろう。つまり、山地もまた古くから人が住みえたはずであり、文化を伝承する人々がいたはずである。少なくとも日本の山地よりも温暖で暮らしやすかったと思われる。それゆえ、平地あるいは盆地に水稲国家が起こり、そこから離脱した人びとが山地に流入したとしても、そこにはすでに、まばらにではあれ、プロト苗族やプロト彝族といったプロト○○族にあたる原住民が住んでいたはずである。平地からの逃亡者はそれに合流したと考えるのが合理的だと思われるが、どうであろうか。スコットはあえて極端な例を出し、自説にインパクトを持たせ、議論を吹っかけているように思われる。
 ともかく、ゾミアの民は、それに隣接する水稲国家の民と対蹠的な生き方をしている人々だといえそうである。ただ、中国史研究にかかわる者として、中国の歴代諸王朝を、東南アジア諸国家と同じく水稲国家と呼ぶことには、躊躇せざるをえない。たとえ、唐以降の歴代王朝にとって華中華南の水稲農業が極めて大きな比重を占めていたとしても、中国国家の在り方は、古代における華北平原を中心とした農業と水利の在り方に負っており、それがその後の歴代諸王朝の範型となっており、その意味で中国=水稲国家は正しくないと考えている。だが、ここでスコットの話の腰を折ることは本意ではない。話を先に進めたい。
 水稲国家の世界とゾミアは二項的な関係にあり、対立と共生を繰り返してきた、というのがスコットの言いたいところであろう。つまり、水稲国家の成立と同時に、そこから離脱した世界ゾミアもまた生成した。水稲国家の支配を逃れるもっとも良い方法は、山地に移り住むことであった。あるいは、沼沢地帯や熱帯の森林に住むことも、国家との距離をとる方法であった。当然、国家の方も臣民が逃亡するのを座視していたわけではない。やはり最善の施策は、臣民が逃げ出さない程度に搾取することであった。また、戦争を通じ他国の臣民を奪うことも行われた。また、山地に向けて軍を発し、山地民を強制的に平地に移住させることも重要な施策であった。いずれも、臣民を増やすことが目的であった。臣民(農民)は主穀の生産者であり、かつ国家が課す大量の賦役の担い手であったからである。
 
 筆者にとり、本書は幾つか疑問や違和感を覚えるところはあるが、それ以上に、とてもたくさんの興味深いことが述べられている。たとえば、次のような文章はいかがだろうか。「平坦な地勢で道がなだらかだと仮定しても、国家が実効的に支配できる空間の広がりは半径三〇〇キロ程度までで、それを超えると支配の実効性は希薄であった。徒歩旅行が比較的簡単であるのに対して穀物の長距離運搬が困難であることが、ある意味では一九世紀以前の東南アジアにおける国家運営における本質的な葛藤を表現している」(p.44)。半径300kmというのは結構な距離である。決して半端な距離ではない。というのも、もし半径300kmの円形の国家があったのならば、その面積は28万2600平方kmである。日本の面積は37万7815平方kmであり、最大の平野、関東平野は1万7千平方kmである。半径300kmという距離が決して短い距離ではないことがわかる。ただし、起伏に富んだ地形の中国西南およびインドシナにおいて、300kmのなだらかな道が続く平地など存在しない。また、大河のデルタ地帯はベトナムを除けば、近代以降開発されたのであって、著者のいう水稲国家にとってデルタ地帯は、水稲国家の中核地帯などではなく、むしろ山地同様に統治しにくい場所であった。
 問題は具体的な距離300kmが限界かどうかではない。条件によって、その距離はかなり異なるからである。もっとも大切なことは、近代的な輸送手段のない世界において米や麦などの主穀の搬送ということが如何に難しかったかということを知ることだと思う。著者によると、「このうえなく平坦で乾燥した大地を徒歩で旅行した場合、一日に進める推計距離は二四キロメートルが平均である。三六キロの荷を担いだ強靭な人夫ならば、たいへん好ましい条件下でこのくらいの距離を移動することができる。地勢の起伏が激しかったり、天候条件がさらに厳しくなると、楽観的に見積もったこの値は劇的に落ちる」(p.44)と述べている。もし、300kmを一日24kmのペースで歩くとすれば、12.5日で着くことになるが、あくまで机上の計算である。
 1892年1月(乾季)のエンインズリー中尉のシャン州(英領ビルマ)の巡検旅行においては、一日平均13km--最大で20km、最低で7km--進むことができたとある(p.45)。多数の荷駄用のラバとその口取りを伴っていたとあるので、食料など必要な物資をも一緒に運んでいたのであろう。
 もし、水稲国家の最周辺部に居住する農民が、年貢米を直接王都まで運んだ場合どうなるのであろうか。彼は36kgの米を背負い、12.5日をかけ、王都にある穀物倉庫に着く。そこで納税証明書をもらい、それから帰路につく。たぶん、重い荷はないので、往路とは半分の日数で故郷の村に帰ることができるかもしれない。そうすると、12.5+6.25 =18.75となり、約19日で王都との間を往復することになる。では、彼はその間、何を食べて飢えを凌いだのであろうか。彼は往復19日間の食料をどのように調達したのであろうか。どのように運んだのであろうか。
 米であれ、麦であれ、主穀の搬送を人間が担うことには大きな矛盾がある。古代においては、その担ぎ手自身が自らの食料を携帯する以外に方法はないので、搬送の間、担ぎ手自身が食料を消費しなければならず、もし搬送の途中、主穀を食べつづければ、搬送の目的に反し、他の食料を食べるとなると、その分をさらに背負って行かなければならない、ということになる。その矛盾点の解決方法は幾つかある。一つは、主穀を船で運ぶことである。運び手の割に大量の穀物を運ぶことができるので、運び手が消費する食料の割合を大きく下げることができる。二つ目は、馬車や牛車で運ぶことであるが、これもかなりの程度、運ぶ主穀に対し運び手の食料消費の割合を下げることができる。三番目は、馬や牛の背に載せて主穀を運ぶことであり、馬や牛を世話する人間、馬方・牛方が少なくてすむならば、それも有効な方法であったであろう。
 だが、今問題としている地域、中国西南およびインドシナにおいては主穀の搬送に船の利用が可能であったのは、イラワジ、チャオプラヤー、メコン、ソンコイ川などに面している限られた地域だけであった。とくに水稲国家縁辺においては船の利用はほとんど不可能であった。また、馬車や牛車の利用も、至る所に隘路があるので不可能であった。というより、古代日本の例からいえば、馬や牛などの大型家畜は極めて貴重であり、無理な使役はできなかったと思われる。馬による輸送が広がったのは、平安末期からだといわれている(田名綱宏『古代の交通』吉川弘文館)。さらに、狭い崖道のある山道を馬や牛に荷を背負わせて運ぶためには、数頭に一人、馬方や牛方がつくということでもないかぎり、大切な家畜を失うことになったであろう。山地を、数十頭、数百頭の大型キャラバンで荷を大量に運ぶためには、口取りなど、その世話のために大勢の男たちがついていく必要があり、そこにもまたその食料をどうするのかという問題が生じる。
 一般に馬は大型家畜と呼ばれるが、実は古代日本においても、雲南においても、馬は小型馬であった。たぶん、山がちな地形を反映し、小柄な馬の方が俊敏で扱いやすかったからであろう。そのため、日本の場合、馬に積載する穀物は90kgを限度としたが、実際には60kg程度しか運べなかった可能性もある。馬三頭に男一人がつくことになっていたが、馬一頭に男一人という例もあるようだ(田名綱宏, 前掲書)。もし、そうだとしたら、馬の飼葉(かいば)をどうするのかという点は別にしても、駄馬による主穀の搬送は、近い距離はともかく、あまり効率の良い運送手段とはいえなくなる。結果として、古代日本において、穀物を王都へ運び込んだのは畿内および中国・四国・東海・北陸の人々であった。畿内の農民たちの多くは穀物を背負って王都に向ったのであろう(田名綱によれば、一人30kgを背負ったとある)。それ以外の国々では港まで徒歩で運び、そこから京へ船で運んだと思われる。以上から、数日の距離を超えて陸路で穀物を運ぶことの難しさを実感しないわけにはいかない。
 日本もまた山地が多く、個々に山地に隠れることは可能であった。だが、ゾミアのような規模を持つことはなかった。それに対し、中国西南やインドシナの農民たちは、年貢や労役の負担が重すぎると感じれば、容易に山地に逃げることができた。それゆえ、王都から300kmの水稲国家の縁辺に住む農民が王都に穀物を運んだとは到底思われない。船による輸送が可能な大河に面しているとか、その近くに住んでいる場合は別であろうが、その場合、その地域は水稲国家の縁辺ではなくなる。縁辺の場合、重い負担に対しては、隣のライバル国か、山地へと逃げ込むことがつねに可能であった。
 そこから、大河流域、大きな平野、大きな内海周辺に支配を築くことの特別な意味合いも生じてくる。