中国的なるものを考える(電子版第66回・通算第108回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第68号 2015.5.20 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

ゾミア・ノート その2
 ゾミアとは平地の国家の支配を逃れた人びとの住む山地もしくはジャングルからなっている。前回は、ゾミアをめぐる平地国家の、統治と距離の問題に焦点をあててみた。「遅くとも一九世紀初め頃まで、交通の困難、軍事技術の水準の低さ、そしてなによりも人口分布の条件が原因で、もっとも野心的な国家でさえもその領地はきわめて限られていた」と『ゾミア』の著者J・C・スコットは言う(p.4)。興味深いのは、雨期と乾期で領土の大きさが異なることである。雨季になれば、いたるところ水で覆われ。地方に反乱が起きても、雨期が終わるまで兵を送ることはできない。
 低地国家が依拠するのは、平地で生産される主穀、つまり水稲である。中国西南からインドシナ北部にかけての山地では、焼畑が行なわれ、ところどころ棚田がつくられている。焼畑では陸稲を含め雑穀が植えられ、棚田では稲が栽培されている。だが、これらの作物を低地国家はあてにすることはできない。これらを育てている諸民族はみな低地国家の支配を逃れた人びとだからである。ただ、低地国家が運よくこれらゾミアの民を征服したとしても、彼らから年貢として主穀を取り立てることは難しかったであろう。

『ゾミア』(みすず書房)の原著

 近代以前の社会において、主穀の長距離搬送はきわめて難しかったと考えられる。何故なら、運び手である人間自身が、穀物を食するからである。たしかに生産者である農民は、生産したコメやムギはお上に献上し、自らは雑穀を食べていたかもしれない。だが、年貢を運ぶ際、自分のために雑穀を携帯すれば、王都や国衙に運ぶ米や麦の量をその分だけ減らさなければならない。
 実は、この数年、筆者はこのようなこと--古代や中世における主穀の搬送--をずっと考えてきたので、もう少し、この問題について言及してみたい。直接生産者である農民による主穀の搬送ということが文明を分けるほどの特別な意味を持っていることを理解したのは、レジーヌ・ペルヌー&ジョルジュ・ペルヌー『フランス中世歴史散歩』(白水社)を読んだ時である。それによれば、中世フランスの王や諸侯は、一年中旅をしていた。王にとって、王国の経営のため地方を回り、有力諸侯と会見することが重要であり、王領を視察しその経営を点検する必要があったからである。また、行く先々で訴訟を取扱い、裁判を主宰しなければならなかった。同じような理由から、封建諸侯も自らの複数の領地を回っていた。著者ペルヌー姉弟によれば、このような巡回によって、各領地の食糧を計画的に効率よく消費することも、旅の重要な目的であった。ハンス・ヴェルナー・ゲッツ『中世の日常生活』(中央公論社)は、王は少なくとも千人以上も伴を従えていたと述べている。その食糧の消費はばかにならなかったであろう。王には都市や修道院に宿泊したりする宿泊権というものが存在したらしいが、それは限られた日数しか泊まることができなかったらしく、また、決められたこと以外のものを調達する際は、対価を支払わなければならなかった。おそらく王は、自分が抜擢した諸侯や司教の領地にも寄食することが可能であったであろう。
 中世の王や諸侯がこのように旅をするのはフランスばかりでなく、ドイツでも、イギリスでも同じであったとある。J・ブウサール『シャルルマーニュの時代』(平凡社)には、このような王や諸侯の旅は、フランスでは16世紀頃まで残っていたことが書かれてある、
 ではどうして、王ともあろうものが、食糧を求めて領地を巡回せねばならなかったのだろう。政務のうえで、王が諸侯と会見することが重要だというのはわかるが、もしこれがアジア的社会の王や皇帝ならば、自らわざわざ地方にでかけたりせずに、臣下である諸侯を王都に呼びつけるであろうし、諸侯を監視したければ役人を地方に派遣するであろう。それに対し、おそらく、中世西欧の王は、王国の統治者ではあっても、貴族の第一人者にすぎないという事情が王をして諸侯との会見のために地方に赴かせるのだろう。
 それ以上に重要なのは、王はなぜ食糧を消費するために各地の王領を回ったのか、である。王領の領民に王都まで運ばせることはできなかったのであろうか。カペー朝初期の王たちは、パリ周辺の王領の農民たちに、王の居城に主穀など農産物を運ばせることぐらいはできたのではないかと思われるが、上述のペルヌー姉弟は、それについては触れていない。むしろ、カペー朝の王宮はパリのシテ島にあったが、12、13世紀までシテ島と対岸を結ぶ二つの橋を守る堡塁(シャトレ)が他の領主のものだったので、自由に行動できず、王がパリに長居はすることはなかった、と書いている。カペー朝の王たちは、王領に属するパリから30-50kmのエタンプ、ポワシー、サンリス、あるはパリから130kmのオルレアンなどに住むことを好んだらしい。
 中世初期におけるもっとも強力な君主であったカール大帝ですら旅をして暮らしており、彼ですら王領の領民たちに王都に主穀を搬送させるというのは、多分できなかったのであろう。王領や諸侯領において、このような運搬賦役を担ったのは各荘園の農奴であろう。だが、農奴すら長距離の運搬賦役に従事することはなかったと思われる。
 王領の領民は各地の王館まで年貢を搬送し、諸侯の領民たちも、それぞれ各地の領主館に年貢を納めたのであろう。実際には、中世初期においては、荘園には領主直営地があり、農奴たちが耕していたであろうから、その収穫物を農奴たちが領主館に運び込むのは当然のなりゆきであった。でも、そこから、遠くにある王都や諸侯の居城まで主穀を搬送させることはできなかった。農民が王都まで主穀を搬送するのではなく、王が家臣を率い各地の王領に赴いて食糧を消費した。このような場合、王都も王宮も、我々が想像するようなものとはかなり異なったものであった。王ですら、そのような状態であるとすれば、諸侯もまた同様であった。前述のごとく長居ができる王宮がない以上、国璽文書、外交文書のようなものも、王の一行とともに旅をする以外になかった。
 どうして、王も諸侯も、自分の荘園の農奴たちを長距離の運搬賦役に従事させることができなかったのであろうか。王や領主たちは、そのほか、荘園の余剰作物を海岸や河川沿いの港に運ばせることを望んだであろうから、実際にはいろいろな試み--強制--がなされたであろう。だが、それにしても限界があり、一定の限度を超えて運搬賦役を強制することはできなかった。
 筆者は、いまだ西欧中世の運搬賦役に関する専著を見つけることができないでいるので、これ以上詳しく述べることができない。また、古典古代世界(地中海世界)についても、分かっていることは、この文明が--特にギリシアにおいては--沿海を中心に形成されていたということだけである。多分、みな一両日も歩けば海に辿りつくような距離に住んでいたと思われる。また、ギリシア各都市の植民地は、自らの都市の後背地に入り込むのではなく、対岸や別の沿岸に植民都市を建設するのが常であった。ということは、古代ギリシアの農民は、自分の余剰収穫物を馬で運ぶにせよ、奴隷に運ばせるにせよ、比較的容易に市や港に運び込めたということになる。ローマ帝国の時代には、領土は内陸深く入りこむことになったが、それでも文明の性格はかわらなかったのではないかと考える。内陸深く入りこみ、征服した農民たちに主穀の貢納を命じるというのは、ギリシア人が征服したエジプト、メソポタミア、ペルシアにおいて生じたのであり、おそらく中東の農民たちは、以前のアジア的国家のもとでと同じように、それぞれの首都までの主穀の搬送を義務づけられ、その後、エジプトやシリアを征服したローマは、そのシステムを引き継いだのであろう。
 王都への主穀の搬送の可否について、やはり、ここでは、中国史における漕運の問題と絡めて考えてみたいと思う。漕運とは、貢租として収めた物資、とりわけ主穀を首都に運ぶ制度のことであり、それは人民の負担(義務)において遂行された。それぞれの農民は主穀を水路のある要地まで運び、後は軍隊や商人たちの手で都に運ばれたが、その費用もまた農民たちが負担した。
 康熙帝は、自分の治世における三大事とは、黄河の治水、漕運、三藩の問題であると述べたと言われる(「靳輔治河始末」谷光隆『明代河工史研究』所収)。漕運はそれほどに重要なことがらであった。
 漕運は、中国各地が--ゾミアに属する雲南などを除いて--首都を中心としてみな水路で繋がっているということを前提にしている。水路の要は大運河であった。たとえば、成都は長江・大運河を経て洛陽や北京に繋がっており、広州は珠江の支流(灕江)から霊渠を経由し、湘江・長江・大運河を経て首都に繋がっていた。長安(西安)ですら、唐代には、要害の地、三門峡に運河(開元新河)を通し、全国的な水路ネットワークにリンクしていた。
 筆者はいわゆるアジア的社会においては、王や皇帝はこのような「運搬賦役」を公民に課していたと考える。もちろん、王や皇帝の臣民(公民や良民)が果たさなければならない負担は、この種の運搬賦役ばかりではなかった。その最たるものが、治水や灌漑のための賦役労働であり、それ以外にも、公路や運河の築造、王都・王宮・王陵の修築、交通路や駅亭の維持、義倉や社倉といった共同の備蓄のための労働、神殿の修築と祭儀、国防あるいは治安維持のための城壁・要塞の建設、そして兵役など、公共の利益を口実にすれば、あらゆる事業に公民を動員することが可能であった。
 このような公民の運搬賦役が存在したのは、日本でも同様であった。律令期における運脚の制度はその代表的な例である。一般に律令制のもとにおける人民の負担は、租庸調と呼ばれるが、租は稲でそれぞれの国衙に納め、庸調は布に換算し、京へ運んだ。いずれも公民の負担であった。この各国衙や京への運送を担う者を運脚と呼ぶ。旅費・食料も自弁であり、宿も食堂もない時代においては苦役であった。布は、郷ごとに脚夫を出して京へ運んだとされるが、運搬を託す側は、それぞれ旅の費用を出した。脚夫は調庸物のほかに自らの食料を持参しなければならかったので、もし遠国から京へ上る場合、帰路の途中、食料が尽きる可能性があった。
 たとえば、武蔵から京までは往路29日、帰路15日、計44日であった。下野(栃木)や安房(千葉南部)は上り34日、下り17日、計51日であった(田名網宏『古代の交通』吉川弘文館)。一体どれほどの食料を担いで行かなければならなかったのであろうか。もし、一日あたり、500gとしても、それぞれ22kg、25.5kgになる(ちなみに、食パン1斤は340g)。調庸物が5kg或は10kgであれば、それらだけでも、すでに荷は30kg前後になる。
 脚夫が出発するのは、秋の取入が終わった頃からであろう。日本の秋は、台風の季節でもある。悪路の上に、水害に曝され、さらに帰りが遅れ11月も後半になれば、雪が降る可能性もある。多分、地方ごとに脚夫が集まり、集団で旅をしたと思われる。だが、それでも、重い荷を背負いつつ、雨露をしのぐ宿泊施設を欠く1カ月を越す旅では、病気になるものも無理からぬことであった。何よりも、食料が尽きれば飢え死にしかねなかった。「入京の人夫、衣服破弊、菜食猶多し」とあり、脚夫は京へ着いた時にすでに、衣服破れ、飢えた顔色をしていたことがわかる(田名網, p229)。帰路は荷が軽く、往路とは半分の日数しか要しなかったとはいえ、疲れ果て、故郷に辿りつくことができず、飢えや病で、行き倒れになるものも多数出る始末であった。
 多分、畿内周辺の農民たちにとって、数日かけて京へ上ることは楽しみでもあったかもしれない。だが、遠国の農民たちにとって、運脚は苦役であり、もしそれがもとで、怪我をしたり病気になったりすれば、その後の農民として生活が脅かされることになった。また、家族としては、一家の柱を失うことにもなった。
 以上の記述から、なぜ律令期に、首都への主穀の搬送が、全国一律に課せられなかったのかが理解できよう。軽い布類を運ぶことさえひどい難儀であった。遠国のものが京に、主穀を背負って運ぶことは不可能であった。それゆえ、租として徴収された主穀は、国衙に納められた。
 余談ではあるが、筆者はこの主穀の輸送の難しさ、主穀を各地(国衙)に蓄積せざるをえない状況が、その後の権力の地方分散を可能にしたと考えている。全国的な交通網の発達により、主穀の輸送が容易になった近世には、権力の首都への集中が可能となったことからも、そのことは理解できる。近世になっても、封建的な体裁がなお維持されたのは、古代末期以降近世までほぼ五百年間に、武士層が堅固に形成され、農民たちも、村落共同体を中心にほどよくまとまっていたからであろう。
 話を元に戻せば、近世になっても、首都への主穀の搬送は公民の義務であるという理念は消えることがなかったようである。渡部尚志『百姓たちの幕末維新』(草思社)に、幕府領である出羽国村山郡の名主たちが、領民の年貢米を江戸に搬送する役目を果たす話が出てくる。酒田から江戸まで、船で二カ月かかり、浅草の幕府米蔵に納めたとある。輸送は廻船を使っているが、費用は農民たちの負担である。
それまでは、交通手段の未発達により、やむを得ず主穀を各地に留め置いたのであり、交通手段が発達し大量輸送が可能になれば、やはり年貢はお上のもとへ届けるのは臣民の義務である、ということであろう。
 
 中世西欧あるいは古典古代世界(地中海世界)と、アジア的社会における、主穀の搬送をめぐる農民の負担の相違をどのように考えるべきであろうか。
 その相違の背景にあるのは、共同体のための賦役労働の範囲が、水利社会とそうでない社会との間において、大きく異なるという点である。古典古代の農民たち、あるいは古ゲルマン社会および中世西欧の農民たちは、農業経営の上においては、基本的には他人との協業を要しない、小経営的生産の主体といえる人々であった。良く知られている中世ヨーロッパの春耕地・秋耕地・休耕地からなる三圃制の場合、収穫の後の耕地と休耕地は、家畜のために開放され、さらに、個々の農家に属する耕地は細長い地条として他の共同体成員の耕地と混ざり合って存在していたため、集団的な契機は少なからず存在していた。だが、このような共同体農民が経営の自由を失ったわけではなく、依然として自立性の高い生産者であったことは、中世後期から近世にかけ、英仏などの農民分割地所有の盛行からも伺える。
 このような自立性の高い生産者たち--ポリスの市民や中世初期の自由農民を想起してほしい--からなる社会において、公共の福利のためにと称しメンバーに賦役や貢納を課すことは難しい。公共事業の主宰者はつねにアカウンタビリティを求められると考えて良い。公共事業を起こすためには、最初に財源がなければならず、労働や資材の提供者には対価を支払わなければならない。
 それに対し、我々、水利社会のルールはかなり異なる。水がなければ農業が成立しない社会において、あるいは治水にせよ灌漑にせよ、農業において水制御が決定的な重みをもつ社会において、水利のための労働は、先ず、共同体のための必要労働である。この種の共同労働は、政治支配の成立後には、強制的な性格を帯びるために、共同体のための賦役労働と呼ばれる。すなわち、君主は、公共の福利を理由に臣民に共同労働を課すことが可能となる。公民に対する労働の強制である。
この水利社会の、共同体のための賦役労働の存在--かつ農民たちがこの賦役労働に慣らされていること--が、アジア的社会において、国家や地方政府のための賦役とそれに伴う貢納が膨らんでいく道を用意したと考える。上述のごとく、低地国家あるいは水稲国家の民は、治水・灌漑(堤防・堰・水路・貯水池の建設・維持)、公路や運河の築造、王都・王宮・王陵の修築、交通手段や駅亭の維持、神殿の修築と祭儀、国防や治安のための城壁・要塞の建設および兵役などに、次々と駆り出されることになった。このような賦役は国家が望めばさらに膨らむことになる。
 随分「ゾミア」本来の話から遠くなってしまったが、J・C・スコットが言う、ゾミアの対極にある低地国家あるいは水稲国家とは、農民に何を要求しているのかがわかるであろう。また、なにゆえ、ゾミアの民が生まれたのかが理解できる。
 アジア的社会の農民たちは、年貢を納めさえすればのんびり暮らせる人々ではなかった。国家が課す過重な負担を逃れようとすれば、平地国家の力が及ばない、山地やジャングルに逃げこむ以外になかった。あるいは、それを可能にするほどの広大な山地群があったからこそ、かつ照葉樹林地帯に代表される山地が豊かであったからこそ、ゾミアは20世紀に至るまで平地国家の征服を免れることができたのだろうし、かつ様々な個性をもった多くのヒルトライブを匿い、それらを養うことができたのだろう。(続く)

*『ゾミア』(みすず書房)の原著:
James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia, Yale University Press, 2009.