中国的なるものを考える(電子版第67回・通算第109回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第69号 2015.7.4 
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

ゾミア・ノート その3 焼畑・棚田・バーズ(壩子)の農業
 ゾミアとは諸民族の逃避地帯であるというのが、J・C・スコットの著書『ゾミア』(みすず書房)の一貫したモチーフであった。西南中国からインドシナ北部にかけてのゾミアの住民たちを、「逃避」という概念だけで、みな一括りにすることには、納得しがたい点も残っている。だが、この発想を持つことによって、今まで見えなかった多くのものが、見えてくることも事実である。
 前々回、前回と、スコットが言う低地国家もしくは水稲国家のもとで、農民たちが様々な負担に喘いでいたことを述べてきた。重い負担を逃れるためには、低地国家の統治の及ばない山地もしくはジャングル地帯に逃げ込む以外になかった。
 ゾミアの民はこの逃避によって何を守ったのかを考えてみよう。山岳地帯やジャングルに逃げるのは、逃げなければ守れないものがあったからであろう。西南中国からインドシナ北部の山地は、ほぼ照葉樹林地帯に属する。山地とはいえ、比較的豊かだといってもよい。だが、そこでの農耕―焼畑による雑穀を主体とした農耕―は、低地社会の農耕に比べ、楽だというわけではない(後述)。国家の支配を逃れたとはいえ、それぞれの部族社会に属するならば、部族首長への貢納や、首長を通した低地国家への貢納がないというわけでもない。賦役についても、低地国家の周縁においては、時にはありえたであろう。
 ただ、首長と部族成員の関係を国家(王)と臣民の関係に比べれば、当然、前者の関係の方が、ずっと緩やかである。前者の社会関係も、後者ほど複雑ではない。何よりも、首長と部族メンバーの間には、王と臣民を隔てているような、王族、貴族、官僚などの分厚い支配層は存在しない。しかし、そんなシンプルなヒルトライブの社会においてですら、首長の力が強まることを警戒する人々がいる。
 たとえば、リス族は独断的で専制的な首長をひどく嫌い、そのような首長を殺すこともしばしばあったといわれる(スコット, p.218)。ヒルトライブにおける平等主義的原則と、その平等主義にもとづく社会における、優位にあるリネージの長が、首長としての権力を伸長させ、シャン族の首長たち(藩王)のような安定した権力の樹立を目指すプロセスとそこにおける相剋を描いたのが、著名なエドモンド・リーチ(『高地ビルマの政治体系』弘文堂)による、カチン社会におけるグムラオ、グムサ両システム往還の理論であった。カチン社会の実力者にとっては、低地のシャン族の世襲の首長制と、臣民からの貢租の徴収と徭役の徴集にもとづく安定した政治支配がモデルであった。だが、カチン族の社会においては、比較的平等な状態(グムラオ)から首長権力の伸張する状態(グムサ)へ移行したとしても、シャン族首長制のような安定した支配システムへと到達することは難しかった。首長の権力伸長を喜ばない有力者たちが首長の権威に挑戦するか、あるいは劣位にある多数の人々が首長の権威を覆してしまうか、同じく劣位にあるリネージのメンバーが移住し、新しく平等主義的な村落を形成してしまうかなど、首長の権力伸張を阻止することに結果したからである。リスやカチンばかりでなく、ミャオ(苗)、カレン、ラフなどのヒルトライブも、同じように平等主義的原則を維持しようとしていた。

旧藩王の館(シャン州・ティーポ)

 シャンは、主にシャン高原にあって、他のタイ系諸族と同じように、水稲耕作に従事していた。シャン高原に点在する大小の盆地にはサオパ(藩王)と呼ばれる世襲的首長たちが、それぞれ勢力を築き、人民を統治していた。それに対し、カチン族やリス族などは、山地において焼畑耕作に従事していた。ただ、ミャオもそうであるが、カチンも条件の良いところでは水稲耕作を行なわないわけではない。
 筆者は以前、棚田を含めた水稲耕作における協業が、どのような意義を持つかを検討したことがある(第48,49回)。今回は、焼畑耕作における協業について、考えてみたい。焼畑における協業について調べるつもりになったのは、石井進『中世の村を歩く』(朝日選書)に、焼畑における共同作業を強調している記述を読んでからである。石井は中世初期の備中国新見荘について、「谷の住人は名主と作人で、垣内(屋敷と田畠)を支配し、用水の権利をもつ名主の下に、迫(小さい谷)の小屋などに住む作人が跋扈していた。しかし名には焼畑の共同作業にもとづく共同体としての性格も強かった」と述べた後、鎌倉時代から室町時代にかけて、「作人たちが土を切りもりし、ならす技術を身につけ、用水を引いて迫などに新田を開発して自立していった。これにともなって焼畑は急激に減少し、名の共同体的性格は薄れてしまった」(石井, p.45)と記している。さらに後段において、石井はこの新見荘の焼畑について、「かつて中国山地の奥の広大な荘園、備中国新見荘で調べたところ、鎌倉時代後期の焼畑は六百六十町にのぼり、水田の三・六倍以上あったことがわかった」(p.210)と述べており、焼畑面積がかなりの広さを有していたことを明らかしている。なお、中世の一町は1.2ha弱である。
 この石井の記述がショックだったのは、焼畑の方が水稲耕作よりも、共同作業の性格が強いと述べていたからである。水稲耕作における共同作業は、田植や稲刈りといった作業がまず考えられる。それらは「ゆい」(労働交換を伴う共同作業)によって行われることもあるが、作付が小規模な場合、世帯の労働力ですますことも可能である。より重要なのは水路の開鑿とか溜池や堤防の建設、あるいはそれらの維持管理といった、水に関わる労働である。水に関わる労働がない焼畑に、どうして水稲農耕より多い共同作業が必要なのであろうか。このことを叮嚀に教えてくれるのは佐々木高明『稲作以前』(NHKブックス, 1971)である。
 焼畑の作業はまず森林の伐採から始まる。佐々木によれば、佐々木が訪ねた五木村(熊本県)では、焼畑用地の全ての木を伐り、さらに、「下草を刈り、伐採した枝や幹をもう一度細かく切って焼畑用地の斜面一面に拡げておかねばならない。だから、10アールの焼畑を一日で伐採するためには、男たち四~五人の労働が必要だ」(佐々木, p.92)ということになる。実に手間のかかる仕事である。一日で1haの焼畑用地を伐採するためには40~50人の男衆が必要ということになろう。また、毎年一戸あたり1haの焼畑をやるとしたら、10戸の村落では、十日、40~50人の人手が必要になろう。もちろん、一戸で4~5人の男手を揃えるなどできないであろうから、作業日数は、その分長くかからざるをえないであろう。
 伐採が終われば、神事に続き、共同の火入れが行われる。「伐採の作業が終わり、切り倒した樹木がよく乾燥すると、つぎは火入れが行なわれる。これに先立ち、延焼防止のために、幅一間ほどの防火線を焼畑の上部と両面につくっておかねばならない」(p.93)。佐々木は、このような火入れや焼き払いの方法は、東アジア、東南アジアで変わらないとしている。多分、伐採のやり方も含めて言っているのだろう。
 尹紹亭『雲南の焼畑』(農林統計協会)によれば、雲南では、ビルマ、ラオス、ベトナム国境地帯で焼畑が行われている。主に、ドゥーロン、リス、ヌー、プミ、ジンポー(カチン)、ドアン(パラウン)、ワ、ラフ、ハニ、彝、苗、瑶などの諸族である。雲南諸族の間では、伐採(刀耕)は一般には二回行う。一回目は、標高の低い方から高い方へ向かって伐採する。そうすれば、樹木が下の方に倒れ、作業がしやすいからである。小さな木は、地面すれすれのところで伐採し、中程度の樹木は、再生しやすいように、地上に40cmくらいの幹を残して伐採し、大きな樹木は、枝打ちをするだけにとどめる。二回目は、一回目と反対に上から下へと進み、一回目に伐り倒された樹木を短く切る作業を行う。短くすれば乾燥しやすく、燃えやすいからである(尹 p.63, 65)。
 尹紹亭は、上記のごとく、雲南各族の焼畑では、「可能なかぎり地中の根を保護しよう」としており、「土地を拓くとき、大きな樹木は枝だけを払い、大部分の樹木は伐採するが、適当に幹を残して、再生させるようにする。そして耕すときには、できるかぎり樹根に傷をつけないようにする」(p.13)と述べている。また、瑶族の焼畑について、「彼らは山に火を入れ、樹木を焼いてから伐採し、さらに燃え残りを集めて燃やした」(p.74)と、異なったやり方をしていたことを記している。
 残念ながら、尹は、これらの伐採が、共同労働で行われていたのか、それとも世帯別に行われていたのか、述べていない。おそらく、共同労働であることを前提にしていたのであろう。掲載されている写真には、共同で作業している様子が写っているものが数枚ある。著者は、一人当りの焼畑面積を3畝(mu)と計算しているようである。3mu=20aなので、一世帯あたり100a(1ha)前後であろう。上述の五木村の例からみても、1haの森林の伐採を戸別にやるとすれば、ひどく時間を要することになる。民国期、焼畑を行なっている各族の土地は、ほとんどが共有であったこと(土地私有が成立していたとされる部族においても、私有の程度は原初的なものであった)を考慮すると伐採も、そして当然火入れも、共同で行っていたのであろう。
 プリミティブな共同体における伐採がどのような雰囲気で行われているかを知るには、佐々木が紹介しているインド・ビハール州のラジマハール丘陵に住むパーリア族の焼畑が参考になる。1964年、現地をフィールドワークした佐々木によれば、パーリア族の村落では、毎年一世帯あたり、1.6haの森林を伐採していた。これだけの面積を家族労働力だけで伐採するとなると、2か月ほどかかってしまうので、伐採は共同労働で行うことが多かった、としている(佐々木 p.144)。ある家の焼畑の伐採に、総人口110人の村から、60人ばかりの村びとが集まった。「文字通り村をあげての共同労働である。このときには、村長も村の司祭役もすべて平等の資格で参加する」。「ジャングルでの伐採作業はなかなか骨の折れるものだ。だが、この共同労働に私も参加してみて感じたことは、仕事は辛くとも、そこでかもし出される雰囲気は実におおらかで楽しげなものだということだ」(p.146)。佐々木は伐採に集まった村人たち、老若男女が、かけ声をかけ、笑い声を森にこだまさせながら共同作業を行っていたと述べている。
 おそらく、このような雰囲気は雲南各族の焼畑においても同様であったと思われる。ということは、焼畑もまた、棚田の稲作や小さなバーズ(盆地)における灌漑農業と同じように、協働連関の可視性に満ちていたと言って間違いないであろう(協働連関の可視性については、第49回参照)。すなわち、ゾミアにおける主要な農耕である焼畑、そして、ゾミアのところどころにおいて営まれている棚田、さらには、ゾミアに点在する河谷盆地や山間盆地において行われている小水系の灌漑農業、これらはみな、協働関連の可視性を持つということにおいて、共通した性格を有する。そして、それが、それぞれの社会に緩やかな連帯、あるいは信頼をもたらしているのだと考える。ゾミアに住む人々の社会や文化を理解することにとって、このことはとても重要だと思う。というのも、我々は、ラオス、タイ、ミャンマー、そして雲南を旅する時、山地に住む人々であれ、低地に住む人々であれ、その「当たりのやわらかさ」において、互いに似ていると感じるが、その背後に、この緩やかな連帯、なにげない信頼があるのだと考えられる。

南方長城(湘西鳳凰)

 スコットは、低地社会(水稲国家)と山地社会(ゾミア)の間を峻別して論じている。だが、スコットとは違い、中国側からゾミアに入った我々は、ゾミアの民も、インドシナ低地国家の民も、随分似た人々であるように感じる。
 さて、協働連関の可視性を共有するにもかかわらず、焼畑、棚田、バーズの稲作には、それぞれ固有の性格があり、それに応じて、三者の間には、それぞれ明確な違いがある。
 まず、焼畑は逃避農業である。これは、スコットが強調してやまない点である。低地国家の支配のもと、課税や賦役が耐え難くなれば、農民たちは国家の支配の及ばない山地に逃げ込む。もし、政府が役人や軍隊を派遣し、山地に住む人々をも支配し、課税や賦役の対象にすれば、農民たちはさらに奥地に逃げ込むだけである。もとより、中国西南からインドシナにかけては、人口希少地帯であった。そのテリトリーにゆとりがあるかぎり、彼らは時には、数10kmも移動することができる。というより、焼畑は本来、移動農業なのである。焼畑は豊かな森林があれば成り立つ。後は、農民が移動するだけである。何も、低地国家の支配のもと、課税や賦役に苦しむことはない。
 それゆえ、低地国家が焼畑農耕を憎み、低地国家の官僚や知識人が焼畑をさげすむのは当然であった。近代に入ってからは、焼畑は略奪農業であるとして、森林喪失の主因とされてきた。しかし、焼畑が略奪農業ではなく、森林の再生と調和する合理的な農業であることがわかったとしても、彼らの態度に変わりがなかった。前近代国家であろうと、近代国家であろうと、低地国家の政策は、つねに、焼畑農民を定住させ、彼らを「文明化」させることであった。
 その対極にあるのが、バーズの稲作農業である。まず、水田は、持ち運ぶことができない。同じ稲作でも、粗放的になされるのか、集約的(園芸的)になされるのかにより、大きな違いがあるが、それにしても、長年にわたり耕起された「田んぼ」は、たんなる耕地ではない。山岳地帯に、平地に置いてきた「田んぼ」の代替地を見つけることは、多分できないであろう。また、自分の水田と同じく重要なのは、灌漑施設、堰、水路、溜池、堤などであり、それらは、共同労働の成果であった。いずれにせよ、山地に逃げ込むということは、自分の田の占有権と灌漑施設の利用権を放棄することであった。平地の灌漑農民が自分の土地を捨てゾミアに逃げ込むということは、単なる移住ではない。低地国家の苛政の結果であった。それゆえ、低地水稲国家の善政は、農民たちが我慢できる範囲内において、課税と賦役を課すかにかかっていた。

棚田(宜賓・雷波の間)

 棚田の稲作は、ちょうどこの両者の間にある。普通に考えると、人は棚田をもって逃げることはできない。また、棚田は平地の水稲と同じように、いや実際にはそれ以上に、十分に手間をかけて作り上げたものである。それゆえ、棚田は焼畑のような逃避農業ではなく、バーズの小規模灌漑農業と同じような性格をもつように見える。たしかに低地国家周辺の棚田は、水稲国家に支配されやすく、逃避的性格は薄い。だが、エドモンド・リーチはカチン族が棚田をつくることを軍事的な理由から説明している。山地の奥にある棚田は、それに繋がる隘路を遮断すれば守りやすく、低地国家の軍隊の攻撃や、労働力の確保を目指す奴隷狩りから、それぞれの部族のメンバーを守ることができた。かつ、山地の「小国家」の食糧基地となりえた。
 なお、中国の五大棚田(梯田)とは、雲南元陽(ハニ族)、広西龍脊(龍勝県, 苗族)、湖南紫鵲(新化県, 苗、瑶、侗、漢族)、福建尤渓、浙江雲和の棚田である。前三者はゾミアに属し、後二者は、おそらく過去にゾミアに属していたのだと思われる。
 協働連関の可視性との関連から、平地の水利について、もう少し理解を深めたい。たとえば、以前紹介した桃源村のような雲南の小さなバーズの農業が、協働連関の可視性に満ちたものであることは容易に理解できる(第51回参照)。わずか、1~2㎢の盆地では、灌漑にせよ、排水にせよ、水路の長さもしれている。年に1000ミリ以上の降水量があり、盆地を囲む山が樹木で蔽われていれば、水不足に悩むこともないであろう。誰もズルをしなければ、水路を造るにせよ、維持するにせよ、それほどの困難はないはずである。また、狭小な盆地の指導者が地方実力者や「小国家」の王になる心配もないであろう。村人が和気藹々としているのも当然である。
 だが、盆地が大きくなるにつれ、難しい問題が生じてくる。具体的にどのくらいの大きさから問題になるかについて、盆地ごとに条件の違いがあり、言うことはできない。だが、水路が長くなれば、誰もが問題を感じるようになる。
 「最下流の村にとっては、取水口から自分の水田のところまでの水路は、どうしても必要かくべからざる水路である。ところが、上流の村にとっては、自分の水田に水を引きいれるところまでの水路は必要であるが、それ以後の下流の村に水を送る水路は直接関係のない水路である。そこで、すべての村々が共通の利害を有する取水施設については、全域の村々が平等の費用と労働の負担をしてもよいが、水路については、その利用に応じて負担すべきだという考え方が生まれてくる」(玉城哲・旗手勲『風土―大地と人間の歴史』平凡社, pp.229-230)。玉城が述べているのは、中近世の日本の水利システムについてであるが、同じ問題はどの地域、どの時代にも起こり得る。そして、同様な利害対立は、村落間の関係においてばかりでなく、村落内の関係においても十分に起こり得る。すなわち、堰や取水口は誰にとっても必要であるが、水路はそうではない。極論すれば、水源から自分の田までは必要な水路であるが、自分の田より後の他人のための水路は、自分にとって不必要なものである。自分の田よりも後の水路を作るためにどうして自分が働かなければならないか、ということになる。だが、一般に、ゾミアあるいは照葉樹林地帯では、焼畑から水稲耕作に移行する場合、焼畑における協業の経験が灌漑農業でも生かされる可能性が高い。また、村落の成員が密集して暮らしている場合、水源から距離は各世帯ともそれほど変わらないであろう。それゆえ、水路も堰や取水口と同じように、共同労働で作られる。

路西(芒市)・盈江の間

 水利システムが拡大し、幾つかの村落を包含した場合は、玉城が上述したごとくなる。上流の村落のメンバーにとって、一体感のない下流の村の水利建設のために共同労働への参加を強制されることは、協働連関の可視性を曇らされることになる。もし、そのような利害対立を越えて水利システムを拡張させようとすれば、部族や村落の利害を巧みに調整しなければならず、何よりも、個々の部族や村落の利害を超えた共通の利益を見出さなければならない。つまり、部族対立や地域対立を越えたより高い権威が必要となる。ここからは、エンゲルス『反デューリング論』における政治支配成立の二つの道における、第一の道となる。水を中心とした共同職務機関の自立の道である。盆地も100~200㎢を超えるならば、政治支配においてもいろいろな可能性が生まれる。それは、初期国家(原始国家)ともいえないような、首長「国」chiefdomであるかもしれないし、また、南詔やシーサンパンナのような初期国家かもしれない。スコットは、ゾミアに点在する盆地に生れたそのような山地国家を、成功することが難しい、短命なものと見ていたようである。だが、南詔・大理は、600年ほど続いており、けっしてはかない存在などではなかった。
 首長制支配にせよ、国家支配にせよ、村落や部族のメンバーにとって、それらは水利の規模を拡大させる力をもつ存在であると同時に、水利システムにおける協働連関の可視性を低下せる要素でもあった。だが、盆地の大きさには限りがある。盆地の隅々まで水路が張り巡らされれば、水利システムは、それ以上大きくなりようのないものであった。

Zomia(Scott, p.17)


*『ゾミア』の原著
James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia, Yale University Press, 2009.