中国的なるものを考える(電子版第68回・通算第110回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第70号 2015.9.17
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

ゾミア・ノート その4 支配を逃れる術(すべ)
 前稿において、照葉樹林文化地帯の、焼畑、棚田、盆地における小規模水利が、「協働連関の可視性」(第49回参照)を有するという点で、共通性を持っているということを述べた。とくに、焼畑の基本的な作業である、森林の伐採や共同の火入れに、共同労働の性格を見出したのは収穫であった。そこから、棚田や盆地の水利農業と同じように、焼畑の民にも、協働連関の可視性に満ちた世界が開けてくる。そして、この協働連関の可視性を内包する生業(農業)に支えられているという点において、低地の民も、山地の民も、共通したものを持っている。それぞれの社会には、ともに緩やかな信頼がある。我々が台湾や雲南から東南アジアの世界にかけて感じる、居心地のよさを支えているものは、多分それに由来するのだ。
 台湾の焼畑の民、ブヌン族は八部合唱の民として知られるが、音楽人類学者塚田健一は、1970年代、最初のフィールドワークを台湾で行ない、ブヌン族の村を訪ねる機会があった。「その後、僕も随分といろいろな民族に接してきたけれど、このブヌンの人々ほど心が優しく温和で、純朴な人々もいない。騙されることはあっても、騙すことのできないようなタイプである」(『文化人類学の冒険』春秋社, 2014, p.16)と称えている。
 サラワクのロングハウス(高床式の長屋)の住民、イバン族は熱帯焼畑の民として知られる。サラワク王ジェームズ・ブルックは頑強な首刈り族イバンの反抗に悩まされた、その甥で、二代目ラジャであったチャールズ・ブルック(1829-1917)はそのイバンをこよなく愛した(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日新聞社, 1984)。戦前刊行の『サラワック王国事情』(拓務省拓務局南洋課, 1938)は、シーダイヤ(海ダヤク=イバン)は陸ダイヤ(陸ダヤク)に比べて「男性的でむしろ獰猛、剽悍な種族」としながらも、一方で、「甚だ勤勉、よく働き、活発で休むことをしない」とし、また「義理約束を重んじ一度信用すれば、よくその人の言を聞き命に服する」と記述している(p.40)。つまりイバンは、勇敢で信頼に足る人々であった。
 そして、1875年にビルマ北部に入った中国内地会の宣教師たちは、ゾミアの民であるカチン族にひどく好感を抱いていた。彼らにとって、カチンはもっとも信頼しうる同盟者best alliesであった(第68回参照)。もちろん植民者であるチャールズ・ブルックにとってイバン族が味方であったから、愛したのであろうし、欧米人宣教師にとってカレン・カチン・リスなどゾミアの民が、彼らの伝道を受入れたがゆえに愛したのだともいえる。
 だが、現在の日本人が中国人旅行客に親切に振る舞っているのは、中国人が爆買いするからだ、という理屈が、部分的に正しくとも、それでつきるわけでは全然ないことを考えれば、利害得失だけでこの種の問題を決められるわけではない。自分は10数年前、フェリーで青森から函館に渡ったことがあった。JR函館駅を探して道を尋ねたところ、中年の女性が、駅が見えるところまで、5分ぐらい一緒に歩いてくれた。筆者も最近、御茶の水駅前でベトナムの高校生2人に神保町への道を聞かれ、古書店街が見えるところまで送って行った。おかげで、大事な会議に遅れてしまった。親切は、損得だけに起因するわけではないように、信頼も利害得失の結果ではない。
 2004年8月、在外研究の折、ミャンマーを訪ねた。たった10日間であり、また初日にはペテンにかかって数千円ほど巻き上げられたにもかかわらず、ミャンマー滞在の印象は鮮明であった。その間出会った人々は、ミャンマー(ビルマ)、シャン、パラウン、カレンなどの諸族に加え、雲南出身の華人であった。彼らの特徴は、一様に、まず相手の立場を考え、ものを言い、行動するといったものである。つまり、みんな親切でやさしかった(もちろん、どの社会にもスリやペテン師はいる)。それは時には煩わしいと感じるほどのものであった。
 当時、ミャンマーの軍事独裁体制に対し、シャン、カレン、カチンなどが武装対峙していた。ティンセン大統領の登場以後、ミャンマー政府と、シャン、カレン、モンなどの武装勢力との間では停戦協定が成立したが、カチンとの間ではまだ抗争が続いている。民族相互の対立は根が深く、簡単に解決しないことは理解できる。対立する双方に、山ほどの根拠、理由がある。だが、そうであったとしても、筆者は、ミャンマーに住む人々に、自分たちが互いに如何に相似た性格を持っているのか、あるいは、争っている人々同士は、誰よりも自分たちに似た人びとなのだ、ということを知ってほしいと思うようになった。
 雲南からインドシナ北部にかけての、本稿でいうゾミアに住む人々は、盆地や小平野など低地に住むものも、また、山地に住むものも、我々から見れば、みな似た性格をもっているということが、ずっと気になっていた。コミュニティ・ベースの水利を行なっている人々が相似た社会を作っていることについては、この間、「やわらかな水の理論」の立場から、強調してきた。だが、ゾミアの民は、その多くが焼畑に従事する人々であった。
 それゆえ、協業の在り方とか、労働編成といった分野において、焼畑農法をどう理解するか、考えあぐねて来たのだが、幸いにも、照葉樹林文化論の提唱者の一人である佐々木高明の一連の著作に出会い、ようやく理解が進むようになっている。
 北海道の水田農家の子供としては、焼畑について無知であり、イメージすることさえ難しい。子どもの頃、周辺の山から白い煙があがっているのを見た記憶がある。だが、それがいつの季節であったのかも、覚えていない。おそらく、ここでいう焼畑農法とは関係のないことであったと思われる。また、実家の周りに多少の畑はあったものの、畑作を主体とした農業についても、ほとんど知らないといってよい。富良野盆地の畑作なども、観光地として有名になって、ようやくその実在を知ったぐらいである。
 もちろん、水田農業についても、農家の子供であり、高校卒業後、東京に就職するまで、多少手伝ったというだけで、知ることは少ない。でも、幼い時から18歳まで、長い積雪の時期以外は、いつも水田が連なり、灌漑溝があり、排水溝がある風景を当たり前のものとして見ていた。少なくとも、水稲農耕については感触のようなものが残っている。それに比し、焼畑はまったく未知のものである。
 焼畑農法の意義については、前稿では、佐々木高明の著作『稲作以前』(NHKブックス, 1971)の記述を拠り所とした。その後、同じ著者の『インド高原の未開人—パーリア族調査の記録』(古今書院, 1968)、『南からの日本文化』(上、下, NHKブックス, 2003)、『地域と農耕と文化』(大明堂, 1998)へと読み続け、現在は『熱帯の焼畑』(古今書院, 1970)、『東・南アジア農耕論』(弘文堂, 1989)などを読んでいるところである。
 
 さて、話を「ゾミア」の話題に戻す。J・C・スコット『ゾミア』(みすず書房,2013)の興味深い記述に、低地国家にとっての、ゾミア農業の捉えがたさ、読みにくさについての指摘がある(「『読みにくい』農業の撲滅」)。ゾミアの民は、低地国家の様々なコントロールを離脱するため、種々、工夫を凝らしていた。あるいは工夫を凝らさざるをえなかった。
 たとえば、焼畑は、頻繁に移動を繰り返すために、国家にとっては把捉しがたい。もし、低地国家が追っ手を送っても、村を分けて逃げることもできるし、さらに小さなグループに分かれて逃げる方法もある。奥地へ奥地へと逃げ続けるのである。山林に囲まれているかぎり、焼畑は可能である。スコットが逃避農業と呼ぶ所以である。これでは、山地の民がその農業からどの程度の収穫を得ているかも把握しえないであろう。また、焼畑農耕には固有の「読みにくさ」がある。焼畑は、連作すれば、肥効が薄れ、雑草が繁茂し、必ず収穫が落ちることはよく知られている。さらに、「ちょっとした気象条件の変化で生産量が大きく落ちたり、場合によってはゼロになったりする」こともある。生産の安定性という点においては、焼畑は、はるかに水稲に及ばないことはもちろんであるが、常畑にも及ばず、著しく不安定であるとされる(佐々木高明『日本文化の多様性』小学館, 2009 )。このような民から、多少なりとも収穫の一部を取り上げることは、反乱や逃亡を招く結果になるだけであろう。
 ほかにも、低地国家の干渉を逃れる方法、低地国家との距離をとる方法がある。たとえば、首長をもたないことも、方法の一つである。首長は、それぞれの部族から、その政治的な成熟とともに自生的に生まれてくるばかりではない。低地国家が、山地の部族あるいは地域の有力者を首長に任命すれば、選ばれた土豪は、傘下の部族や地域に睨みをきかすことになる。王朝の威令をたてに、部族や地域をまとめることが可能となる。中国歴代王朝の土司制度はそれを意図してつくられたし、イギリスやフランスなど植民地行政も、部族や地域の首長をつくりたがった。首長の存在は、それを通して緩やかにヒルトライブを服属せしめようとする低地国家にとって、欠かせないものであった。逆に部族が首長をもたなくなれば、平地国家は山地統制の有力な手段を失うことになる。
 その例として、涼山彝族(ノス)の例を挙げることができる。涼山彝族は他の彝族と同じように首長=土司を有していた。ところが、明代中葉以後、改土帰流(土着の首長を土司・土官に任命するやり方を改め、中央から官吏を派遣して統治する方法への政策転換)の進行により、貴州や雲南の、彝族系の有力土司が次々と潰されていった頃、それに危機感を抱いたと思われる涼山彝族のあいだで、黒彝層が最上位層である土司層の統制を離れる動きが強まり、それぞれ土司を追い詰め、涼山の周辺部に追い出してしまった。土司は力を失い、たとえ生き残ったとしても、極めて名目的な存在となったのである。その後、黒彝各有力家支(同族組織)による乱立と抗争が涼山社会の特徴となると同時に、1950年代の人民解放軍による大涼山進駐まで、涼山は漢族の統治から離脱することになる。
 さらには、大伝統(儒教・道教・仏教など)の立場に立つ宗教、あるいは制度宗教を受入れないこと、そして文字を持たないことも、その工夫や施策の一つであったと考えうる。
 長い修業によりゆっくりとしか昇進できない位階制度や組織機構をもつ宗教を維持するためのコストは、社会にとって大きな負担である。聖職者は中国語でいう脱産(tuochan)、つまり生産活動から離脱し、誰かに寄食する人々であり、聖職者の見習いもまた、大抵は生業に携わることはない。聖職者は、高位になればなるほど、権力者と同様、高い生活水準を享受している。そして、彼らの衣食住すべてを世俗の民が支える。さらに、宗教活動が行なわれる寺院や僧院などの高雅な宗教施設も、世俗の民の喜捨や労働によって建立される。
 それだけではない。その教えを受入れるということは、教えが擁護している世俗の秩序をも教義に従い受入れるということであり、このイデオロギー機能によって、支配体制はゆるぎないものとなる。このように理解すると、低地国家の支配を逃れたゾミアの民にとって、儒教・道教・仏教といった制度宗教が如何に割に合わないものかが理解できよう。事実、ゾミアの民は、ほとんどがアミニストであり、シャーマンや預言者に従う人々であった。シャン高原のシャン族が上座部仏教を、大理盆地を中心とする白族が仏教+本主信仰を奉じていたのは、彼らが少なくとも、ゾミアの中の盆地の民であり、その主な生業が水稲農業だったからである。カレン族の一部が仏教徒であることは、ゾミアの民としては例外的であるように思われる。多分、それなりの由来があるのであろう。
 以上から、制度宗教がゾミアの民を獲得するためには、低地国家の民を獲得するやり方を踏襲していては埒(らち)が明かないということになる。つまり、ゾミアの民が容易に担えるだけの負担ですむ低コストの制度・機構をしつらえるか、あるいはゾミアにおける布教を中心とした宗教活動に関わる費用のほとんどを、ゾミア以外の人々が負担することである。もちろん、ゾミアの民が費用の一部を負担し、不足分をゾミア以外の民が援助するという中間的なスタイルもありうる。ただ、ゾミアの民としては、低地国家の制度宗教の受容は、如何に低コストであっても、強く警戒するであろう。一旦、巻き込まれれば、国家の行政機構の末端に組み込まれるか、組み込まれないかに拘らず、低地国家の秩序に従うことを意味するからである。
 文字を持つことにも、同じような意味合いがある。現在の我々から見れば、文字を持つことの有利さ、便利さ、そしてその逆に文字をもたないことの不利、不便さは自明の理である。そこでは文字を持たないことの有利さについて考える余地はない。だが、シンプルな社会、プリミティブな社会において、文字が生まれ、文字が使用されるようになるプロセスを考える時、文字の発生や文字の使用は、支配システムの生成に強く結びついている。
 行政もしくは行政機構の不在は、文字の必要性を大きく減じる。社会の規模が小さくなればなるほど、書き言葉に頼る必要はなくなる。慣習が支配する程度が大きければ大きいほど、書き残すことは少なくなる。また、文字を介して新しいものを学ぶなどという必要もない。王家も貴族もいないような社会では、リネージの歴史や家譜を残す必要もない。仮にプリミティブな社会の首長が、王や貴族になりあがったとしても、彼らの権威の正統性を伝えるためには、当面は語り部のような存在で間に合うだろう。
 ゾミア各族には、一様に、文字喪失の伝説があるように、人間にとって文字を持つことは正常なことだという意識があるように思われる。にもかかわらず、だいたいは移動や逃走の途中、ふとした出来事により文字を失うことになった、と各族の伝説は伝えている。この種の文字喪失の説話は、各族が文字をもたないことを正当化しているともいえる。
 ある社会が文字を持つということは、その社会に文字を持つ者と持たない者との間の区別を持ち込むことになる。また、文字を持つ人々の間に、それを自由に操れる者と、そうでない者の区別が生まれ、文字を操れる者の間に、操れる程度に応じて位階が持ち込まれることになる。一般に大伝統に与する社会においては、知識、教養、文化が制度化され、あるいは組織化され、俗人はそれらへのアクセスが制限される。
 ゾミアの民が文字を受入れなかったこと、文字を持とうとしなかったことは、儒教・道教・仏教といった大伝統の受容を忌避し得た大きな要因の一つであった。文字をもたなかったからこそ、文字を有力な媒介とする儒教・道教・仏教は、ゾミアの民に浸透し得なかったともいえる。ゾミアの民が従う小伝統においては、口承によって文化が伝えられる。口承は各人各様の解釈が可能であり、制度化も、組織化も難しい。
 これらから、ゾミアの民の様々な文化事象を遅れたもの、その結果として陥った困難な状況として捉えるよりも、むしろ、彼らが選んだ戦略として見直す必要があるように思うようになっている。彼らがアミニストであることも、彼らが儒教・道教・仏教などの大伝統を受入れないことも、彼らが遅れているからでも、彼らが文化的に未熟だから、そうなったのではなく、彼らが彼らとしてゾミアで生き残る戦略として、そうしているのだと考えるべきなのだろう。物質的に恵まれなくとも、比較的平等な社会を維持するすべとして、それを選んでいる、と。
 文字喪失の伝説も、同じ戦略の一部である。この伝説は上述したように、文字をもたないことを正当化しているのである。文字によって、社会にヒエルラルヒーができることを抑制しているのだといえる。また、文字を持たないことによって、高度な宗教の浸入を阻止しているのだともいえる。
 彼らが大仰な制度や組織をもたないことも、あるいは、制度や組織はもってはいても、それらを自在に組み替え可能なものとして、柔軟に対応していると考えるべきなのだろう。グムサとグムラオの往還(前稿参照)も、それを示唆している。
 さらに、雲南からインドシナ北部のヒルトライブの居住分布が、大分散―小聚居の形態をとることも、その戦略の一環としてそうしているのだと思われる。あるいは、低地にタイ族およびタイ系諸族が住み、中腹に彝族、ハニ族が住み、高地に苗族が住むというように、高度に応じて住み分けているのだとも言われている。
 もし、ある部族が耕地であれ山林であれ、、資源を独占しようとすれば、漢族のようにそれぞれの場所に集中して暮らした方が圧倒的に優位であろう。人口の大きさは、軍事的優位ばかりでなく、他の何事にも有利に働くはずである。大分散-小聚居は、そのような戦略とは逆向きの戦略をとっていることを意味している。例外は、涼山彝族(ノス)であり、その結果として、大涼山地区の資源を独占し続けることが可能であった。
 ゾミアにおいては、各族が隣り合って暮らしていることによって、言語的に多言語使用者であることは、普通のことになっている。それ以上に、カチンのように、同じ部族が、多言語集団であったりする。エドモンド・リーチが調査したビルマ北部のパランは、人口は五百人ほどで、九つの村落と、六つの方言集団から成り立っていた『高地ビルマの政治体系』(みすず書房,1995)。その方言集団とは、ジンポー語、アツィ語、リス語、ガウリ語、マル語、中国語の六つであった。マル語やアツィ語を話す人々は、カチン族に含められるが、植民地行政官は、それらを別の言語と分類していたようである。マル語はジンポー語より、ビルマ語に近いと書かれている。また、リス語とジンポー語は、一般には別の言語として扱われている。すなわち、この場合の方言は、我々が知るような意味での方言ではない。また、北京語、上海語、広東語といった、漢族の間の、互いに通じない方言の在り方とも異なっている。
 リーチは、ビルマ高地の言語と民族の関係は我々が考えるような一対一の関係ではないことを力説している。言語と民族、その両者の間にかなりのズレがあり、かつその境界は流動的である。各族の人々にとって、言語の選択もまた、戦略的なものであるようにみえる。