中国的なるものを考える(電子版第69回・通算第111回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第71号 2015.12.10
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

ゾミア・ノート その5
低地国家の軌道に合わせるべきかどうか:石門坎教会を例として

  前回、ゾミアの民が、低地国家から距離を取る方法として、文字を持たないこと、儒教・道教・仏教など大伝統に属する制度宗教を信仰しないことが有効であったことを述べた。
 ただ、ゾミアのなかには、大小さまざまな盆地があり、そこで灌漑農業を営んでいるような民族は制度宗教の信者である場合が多い。たとえばシーサンパンナのタイ族あるいはシャン高原のシャン族は上座部仏教を信仰している。また、チベット高原とそれに連なる高原地帯は、チベット仏教の世界であり、人によっては、そのような高原地帯もゾミアに含める場合がある。ただ、現在問題にしているのは、低地国家との関連においてであり、低地国家の宗教ではないチベット仏教は、目下の議論の対象ではない。
 また、前回、制度宗教を支えるには、社会的なコストがかかることを述べた。それは、山地に住み、せいぜい焼畑を営むゾミアの民にはそのような高負担の制度宗教を維持することは難しいことを示唆している。では、既存の仏教なり、道教なりが、ゾミアの民への布教のため、低コスト低負担の信仰コースを設けたらどうなったであろうか。多分、日本における仏教系の新興宗教といったものは、その誕生の瞬間においてはその類のものではなかったのかと想像される。民衆のわずかな喜捨で満足しなければならない僧侶たちは、当然、低コストの生活を覚悟したはずである。
 ただ、たとえ低地国家の宗教がそのような安価な信仰コースを設定して、ゾミア布教の努力を重ねたとしても、おそらくゾミア各族の低地国家の宗教に対する警戒心を解くことはできなかったであろう。低地社会における国家と宗教の関わりはあまりにも密接であったからである。ただ、それでも、ゾミアの側が、道教や仏教から、表象だけを掬い取る、イメージだけを受け取るということはありえたように思われる。
 では、19世紀以降の、主としてプロテスタント各派によって担われたゾミアへの伝道を、どう考えればよいのだろうか。まず言えるのは、プロテスタント伝道は、宣教師派遣、現地での宣教活動に関わる費用のほとんどを欧米伝道団体が持つ、という点において、ゾミアの民にとっては、たしかに低負担であった。
 ただ、伝道が成功し、一定以上の現地信者が誕生した場合、その後の現地教会運営をどのように維持発展させるのかについて、伝道団体には三つの考え方があった。一つは、一切合財をなおも伝道団体が負担するという道である。が、実はこれはあまり成功を期待できない道でもある。もう少し穏当なものは、ゾミア周辺部ともいうべき滇黔川辺(雲南・貴州・四川省境)地区において、メソディスト(循道公会)の、サミュエル・ポラードたちが採用した道である。循道公会の伝道には、病院や学校などの建設と運営を伴っていた。病院にせよ、学校にせよ、その建設や運営のためには多くの資金が必要であるが、現地教会がまず資金を調達し、不足分を海外の伝道団体側が負担する、というスタイルを採った。この不足分の補助は、おそらく必要な分に限られていたと思われる。それゆえ、教会学校の生徒たちも教員も、決して暮らしは楽ではなかった。それでも、学ぶことさえ叶わなかった以前の状態に比べ、苗族や彝族の多くの子供たちにとってミッション・スクールの存在は大きな希望であった。
 それに対し、ゾミアの中心地域ともいうべき、滇西怒江流域における内地会のJ・O・フレーザーの伝道スタイルは、基本的には現地教会が自らの宗教活動に必要な経費を負担するというものであった。もし教会建設に必要な資金がなければ、ひとまず草ぶきの礼拝所で満足しなければならなかった。また、学校や病院の建設も、教会の発展を待って行わなければならなかった。
 ポラードとフレーザー、両者の伝道方法の相違には、循道公会(メソディスト教会)が十九世紀を代表するプロテスタント教派の一つであり、中国内地会が教派ではなく、中国奥地への布教を目指す超教派の伝道団体であった、ということに起因する部分が多いのではないかと考えられる。教派というものは伝道に成功した地域と教民を以後もしっかりと、自らの教えのもとに繋ぎとめておかなければならない。そのために必要な援助は多少無理をしてでもしたであろう。それに対し、内地会の目標は、宣教の拡大にあり、自派教会の建設ではなかった。現地教会の自立化がある程度成功すれば、より奥地の伝道に人材と資金を振り向けることになった。その結果、彼らが育てた現地教会が、信頼しうる他の教派に継承されることもあり得た。
 滇西怒江流域のリス族教会(内地会)の面白いところは、1930年代以降、現地教会が徐々に発展し、信者組織が確立されるにつれ、内地会宣教師と現地教会との間が微妙となったことであった。ただ、そのことは両者の間の確執とか対立とかが存在したということではない。現地教会の自立化が進むということが、互いにとってどういうことを意味するかを、教会運営に関する決定や、彼らの間に起こる様々な事件を通して、両者が少しずつ学んでいったという言い方があたっていよう(申曉虎『怒江傈僳族内地会研究』光明日報出版社)。
 
 さて、ここでは、沈紅『結構与主体:激蕩的文化社区石門坎(構造と主体―激動の文化コミュニティ石門坎)』(社会科学文献出版社、2007年)に依りつつ、石門坎教会の教育事業の歴史を紹介すると同時に、それを通して現地教会と国家(教育行政)との関わりを検証してみたい。
 石門坎に学校の校舎が建てられたのは、1905年10月末であった。ポラードが伝道拠点を昭通から石門坎に移してからわずか半年後のことであった。学校は350人の収容が可能であり、学童の授業のほか、教民の日曜礼拝に用いられた。土地は彝族の土目(土司の一種)が提供し、校舎建設のための資金と労働は苗族教民の供出によるものであった。実際に生徒が募集され、授業が始まったのは翌年(1906年)秋であり、第一期生26人はみな苗族であった。生徒の中で、最年長は46歳、最年少は7歳であった。中国における、苗族のための、制度的に整った最初の学校であった。ほどなく、寄宿舎が建てられ、通学生ばかりでなく、遠方からの寄宿生も学ぶことが可能となった。また、当初より男女共学であった。
 1912年(民国初年)、学校は正式に石門坎光華小学と名づけられた。1913年、国民政府教育部の規定により、初級小学4年、高級小学3年の課程を置いた。学校では教育部審定の国文課本を採用し、さらに、初級中学への進学にあたっては、成都華西教育協会出版の統一テストを用い、その進級を決定した。光華小学を拡大再編し、「西南辺疆威寧石門坎初級中学」が置かれたのは1943年のことであり、これは、威寧県における二つ目の中学であり、中国西南苗区の最初の中学であった。1951年に至るまで、光華小学は累計四千人以上、初級中学は五百人以上の卒業生を輩出した。
 教学は漢語を主体として行い、苗文の授業は週二時限ほどであった。筆者にとって、これは意外であった。あまりにもポラード・スクリプト(ポラードたちが考案した苗文字)の名声が高いため、少なくとも小学校低学年までは苗語を主体として教えていたとばかり考えていたからである。別の史料に、石門坎光華小学の評判が高くなり、彝族の土目や漢族の地主までその子弟を光華小学へ入学させるようになったとあり、どうしてそのようなことが可能なのか、不思議に思っていたのだが、小学校では一年次から漢語を教えていたとあれば、問題はなくなる。
 光華小学は教育部の規定に沿って教学が行われたとはいえ、教会学校なので、修身の授業として、毎週二、三回、キリスト教教義が教えられた。だが、30年代以後、国家の統一教材を用いなければならなくなり、正規の授業として聖書が教えられることはなくなった。それでも、夜の礼拝などへの参加が奨励されていたが、次第にそれも生徒の自主に任せられるようになった。
 入学する生徒は苗族を主として、彝族、回族、漢族らと、多彩であった。また、教民の子弟が主体とはいえ、非教民の子弟も多数存在した。学費は、貧しい山地民の経済状態を考慮し低廉であった。教民の子弟と非教民の子弟の間に区別があった。後者の学費は、前者の学費比べ、何割か高かった。学校の建設と運営が教民の喜捨や参与、労働奉仕で成り立っていた以上、それは当然であったといえる。
 石門坎教会の教育事業がとくにすぐれたものとして取り上げられるのは、光華小学を中心とした雲南・貴州・四川の三省省境地区(交界地区)に広がる教育および文化ネットワークの存在であった。抗日戦争期には、石門坎の小学校を本部として、三省交界地区の各県に42校の分校が存在し、さらにそれら分校を含め、50か所以上の教会学校が存在したといわれる。分校は、平均40名の生徒と二人の教職員から成り、学校経費および教職員の給与は、各地苗民の拠出と循道公会からの補助によってまかなわれていた。
 各分校の卒業生は毎期本校が行なう卒業試験を受け、合格者は本校の高級小学に進級することができ、高級小学を優秀な成績で卒業したものは、昭通の明誠中学(循道公会設立)などに進学することができた。中学を優秀な成績で卒業したものは、派遣されて省外の大学など高等教育機関に進学することができた。
 このような学校のネットワークは、地域の文化ネットワークおよび教会のネットワークと重なっており、学校の教師は伝道者でもあった。山村に広がる学校のネットワークは、苗族や彝族など少数民族の人材養成および教育をうけた少数民族出身の司牧の排出に大いに貢献した。
 石門坎文化圏の中心、石門坎光華小学から様々な文化が発信され、三省交界地区に波及した。光華小学にはプールまで存在した。陸上競技、集団体操など、新式体育が教えられ、普及したが、なかでもサッカーが盛んであった。端午節に開催される光華小学の運動会には、生徒の父母をはじめ、各地から苗民が集まった。1934年の石門坎端午節運動会には二万以上が押しかけ、空前のにぎやかさであった。
 このような石門坎を中心とした三省交界地区における「教会-学校」体制の成立は、1930年代以降、次第に国家および地方政府の、教育政策および民族同化政策と衝突するようになる。最初の出会いは、1935年、四川軍閥の領袖の一人、楊森(1945-48年貴州省政府主席)の部隊が石門坎を通ったおり、部隊のチームと光華小学との間で、サッカーとバスケットボールの試合が行なわれ、楊森に石門坎地区について強い印象を与えたことに始まる。なお、この試合は両方とも石門坎側が勝利したと伝えられている。
 折から、紅軍長征の時期であり、紅軍を追撃するため、貴州・雲南など西南には続々と蔣介石麾下の中央軍が投入され始めていた。それまでは、西南の一隅における伝道団体における一事業としてしか受け止められてこなかった石門坎教会の事績が、俄然、国家的観点から注目を浴びる結果となったのである。
 少数民族と外国人宣教師団の強い結びつき、苗文による教育、貧しい山村における傑出した教育水準の高さは、その後視察に訪れた政治家・官僚・学者たちの眼に、不安や脅威を与えることになった。石門坎は小香港と呼ばれ、貧しい山区であるにもかかわらず国民党貴州省党部の下に石門坎弁事処が置かれ、教会の事業に対する監視と統制が行なわれた。
 それに対し、石門坎教会は、やむをえず、その上層部の一部を国民党に参加させ、不必要な摩擦を回避しようとした。教会側には都市の高級中学に学んだものや他省の大学に学んだものが多数戻って宣教および教育に従事しており、おそらく彼らは国民党に対しどのように対応すればよいか、どのように折り合いをつければよいかに関して、何とか対応できたと思われる。たとえば、幹部どうしが同じ学校に学んだことがあるとか、同じ師弟関係の間柄であるといったことでも、妥協のないほど差し迫った厳しい対立関係に置かれていないかぎり、十分に折り合いをつけることが可能であったはずである。
 結局、30年代後半から40年代前半は、対日抗戦に追われた時期であり、また40年代後半は共産党との間で内戦を繰り返していた時代であり、国民党および国民政府が石門坎教会に対して徹底して統制を加えるような挙にでることはなかった。
 党および国家との全面的な対立は、革命後の1950年代にやってきた。外国(帝国主義) の一切の影響から人民を解放しようと決意を固めていた党および国家にとって、石門坎はいまや「小さな台湾」(小台湾)であった。小台湾の徹底した壊滅を図る党と政府の攻勢の前に、石門坎教会はなすすべはなく、ただ屈服するしかなかった。1950-70年代における、打ち続く弾圧と混乱により、石門坎地区における「教会―学校」体制はズタズタにされ、石門坎文化圏は消失した。
 だが、厳しい弾圧のなか、多くの犠牲者を出しながら組織的に生き残った滇北地区や滇西地区の内地会系教会と異なり、石門坎教会はどうして腰砕けになってしまったのであろうか。もちろん、組織的に瓦解したとはいえ、数分の一の教会員は教えを守り、文革後、教会を再建しているのだが。 
 たとえば、朱煥章(牧師)の例を挙げることができる。朱煥章は外国人宣教師の国外退出後、石門坎教会の指導を託された人物であった。彼は華西大学(成都)を卒業後、地元に戻り、1930年代以来、石門坎小学、初級中学の校長を歴任しており、地域での声望は極めて高く、尊敬を集めていた。1946年、朱煥章は中華民国国民代表大会代表に選ばれ、上京し、代表大会に出席している。ただ、その他の多くの教育を受けた教民も、地方政府や国家と関わりをもつ機会には、その機会を利用しており、彼だけに限ったことではなかった。また彼は、威寧遊撃団の組織化に参与したとも、党の苗区政策を支持していたとも伝えられる。
 共産革命後の1950年代中葉、朱煥章は移動を命じられ、貴陽に出て、貴州省教育庁中教(中学教育)科、民族教育科副科長に任ぜられる。だが、その後、各機関の整頓(粛反運動)が始まり、名状しがたいほどの圧力のもと、監視の対象となり、1955年末、失踪する。その二週間あまり後、黔霊山地において、彼が自死しているが発見された。
 彼が省政府教育庁の幹部に任命されたのは、おそらく学歴の高さゆえであったと思われる。貴陽に転任の後、機関の整頓が始まり、国民党時代に国代代表であった彼はおそらくは格好の攻撃目標となり、容赦のない打撃が加えられることになったと思われる。もし彼が、教育レベルが低く、名士でもなかったら、国大代表に選ばれることもなかっただろうし、革命後、貴陽の省教育庁の幹部にもなることもなかったであろう。おそらく、地元に残り、教民ととともに弾圧の到来を待つことになったであろうし、滇北教会の王志明(第六二回参照)のように、教民の抵抗の象徴として自らの死を甘受する覚悟を固めていくことになったと思われる。だが、実際には彼は、省教育庁の幹部として貴陽で暮らし、失踪後も石門坎に戻ることはなかった。多分、累が地元に及ぶことを避けようとしたからだと思われる。いうならば、地元から引き離されることによって、殉教するチャンスを失ったのだといえる。
 ある牧師の孫の回想によれば、1950-60年代の政治運動において、審査の折、どうしてキリスト教徒になったのかを問われ、祖父は次のように答えたとされる。我々苗民は旧社会(アンシアン・レジーム)においては生きる道がなかった。外国人宣教師がやってきて、教会を作り、学校を作ってようやく我々は教育を受ける機会が与えられた。我々がキリスト教を信じたのは、天国に行くためではなくて、無料で教育を受けるためであった。今、共産党がやってきて、我々を解放してくれた。我々は共産党を信じているので、もうキリスト教を信じなくてもよい、と。
 実際には、牧師は棄教しなかったので、仮にこのような弁明がなされたとしても、査問する側が納得したとは思えない。 査問する側はつねに疑い深いからである。結局、牧師のみならずその家族も政治運動の巻き添えを食わざるをえず、子どもたちは進学すらままならなくなる。何よりも彼らは「小台湾」の住民であり、国民党の隠れ党員、帝国主義の特務としてその後も厳しく迫害され続けた。 

 昆明三一聖堂
(原雲南省内地会活動中心:現在の建物は2004年竣工)

 以上の例から、石門坎教会の発展にとって、教育が如何に重要なファクターであったのかがわかるはずである。そして、この教育の成功は、ポラードなど循道公会の指導者が、学校を公教育に準じて運営することによって勝ちえたものであった。もし、公教育に準じていなければ、石門坎光華小学や石門坎中学が如何に優秀でも、他の学校とは比べることはできず、あれほど高い世の評価、世間の評判を勝ちえることはできなかったであろう。
 すなわち、教育システムを国家の軌道に合わせたがゆえに勝ちえた評判であった。だが、国家の軌道に合せるということは、優れた生徒たちが選ばれて高級中学や大学へと進学する道を開くと同時に、若いキリスト教知識人にとり、彼らとともに中学や大学で教育を受ける人々(知識人・文人・士大夫)の伝統的な教育観、道徳観、文化意識といったものをもの共有する機会をもたらすことになった。
 石門坎教会の子弟のなかで高級中学や大学へ進学したものたちの多くが地元に帰り、伝道者として、教育者として、地元のために尽力したのも事実である。だが、彼らを含め、国民政府および人民政府のもとで、官職につくもの、各行政機関の幹部となるとなるものも多かったのも事実であった。そして、それが結局において、もっとも厳しい時期に、石門坎教会の凝集力を弱めることになった。昇進し、各地に派遣された知識人たちは、それぞれの地域、行政機関において、それぞれ個々に粛清されていった。もし、地元あるいは地元付近で宗教活動および教育に従事していれば、弾圧の経験は、石門坎教会内部に蓄積されたはずである。それが、殉難者とその周囲の人たちを強固に纏め上げることに役立ったと考えられる。
 ここまでくれば、滇北教会の指導者ニコルズが何ゆえ管内に中学校を作ってほしいとの教民父兄の要望を退けたのか、理解できるように思う(第六二回)。彼は教会学校の卒業生が一般の中学に進学することさえ望まなかったと言われる。教育を国家の軌道に合せれば、国家の規範やルール、イデオロギーが教民に浸透していく。それがニコルズには危ういものに見えたのではないだろうか。
 国民政府が20世紀前半に始めたゾミア統合の歩みは、20世紀後半、人民政府によってよりいっそう強力に進められた。独立を回復したインドシナの低地国家もまた、ゾミア統合を進めた。近代国家にとって学校教育は国民を作り上げるために欠かせない手段であった。ゾミアにおけるプロテスタント設立の教会学校は、そのプロセスのなかで、多かれ少なかれ、低地国家の教育政策に合さざるを得なくなっていく。それは短期的にはともかくも、長期的には不可避であった。それゆえ、ポラードたち石門坎教会の学校が、国家の規定に沿って運営されたということは、誤っていたというわけではない。