中国的なるものを考える(電子版第70回・通算第112回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第72号 2016.03.05
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

「『アジア的生産様式論争史』序文」(草稿)‐2012年
  もともとの予定では、本年は、民国経済史をテーマにエッセーを書く予定であった。数年前から、民国期、とくに1930年代に書かれた民国経済に関する著作を図書館やネットでみつけ、資料を少しずつ集めていた。それらを読むことで、何とか民国期に対する知識やイメージを取り戻そうというわけであった。
 ところが、昨年末出版された、石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮』(藤原書店)に、「現代中国における封建論とアジア的生産様式」を寄稿したことから、もう少し、「封建制」について、書いてみたくなった。これまで、「奴隷制」については幾つか論文を書いたが、「封建制」についてはほとんど議論してこなかった。とくに、封建制をめぐる日中の理解の相違、あるいは日本中世封建制と西欧中世封建制の相違をどう考えるか、自分なりに勉強してみたくなった。
 残念ながら、民国経済史について、着手は来年以後のことになる。また、封建制について何か書くにしても、もう少し勉強してからにしたい。ということで、今回、何をテーマにしようか迷った。
『アジア的生産様式論争史』(社会評論社)
 以下掲載のものは、本来、昨年末に出版した『アジア的生産様式論争史』(社会評論社)のために、『序文』にするつもりで書いたものである。1930年代中国をフィールドとした歴史研究者が、どうしてアジア的生産様式論争にこだわり続けているのかを、書きたかったのだと思う。だが、長文のため、本文と重複する部分が多く、早々に収録するのを断念した。今回、読み返してみて、荒かった言葉遣いを改め、話があちこちに飛んでいたのを、何とか読める程度に圧縮・修正した。もう少し整理したほうが、読みやすくなるのだが、雑多な内容にも、それなりの意義があると思い、そのままにした。また、結論部分が未完成であったが、それも、未完のままにしている。
 なお、筆者は本エッセー・シリーズにおいて、水利事業(共同労働)における「協働連関の可視性」の重要性について、度々言及しているが、2012年春の時点では、まだ、明確に概念化しておらず、そのため、『序文』(草稿)では使われていない。




序文

 筆者の専攻は中国近現代史である。中華民国期、とくに1930年代の中国の政治史、社会史が研究の中心である。15年前、『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』(中公新書)を書いた後、自分の著作に、社会経済史的な視点が足りないことを痛感した。筆者が歴史の勉強を開始した頃、マルクス主義的な社会経済史は歴史研究の主流であった。だが、どのようなすぐれた方法、視座でも、一たび主流となり、大勢の人間がそれに習うようになると、型にはまった思考やスタイルが横行し、そして次第に形骸化し始める。筆者は、元来が大勢に付くということを厭う性格であった。かつ、1970年代当時、新たな歴史研究のスタイルとして社会史が登場し、経済史中心のマルクス主義史学に挑戦しつつあったこともあり、筆者もその影響を大きく受けることになった。歴史を書くというのは、歴史のなかで生きた人間を書くべきだと考えていた。それゆえ、自分が近現代中国の革命史を学び始めても、経済史を中心にすることはなかった。もちろん、近代以降の中国革命を研究しようとすれば、その背景として、あるいは動因として、経済史的な側面に触れなければならない。だが、それ以上ではなく、経済史によって歴史に代えてしまうことはできない、と考えていた。
 だが、中国革命の社会史を書きながら、社会経済史の資史料を別の視点から読めるのではないか、と思うようになってきた。また、次へのステップとして、まず社会経済史の理論を一度、「おさらい」する必要があるとも考えた。中国革命史を研究するにあたって、当時(民国期)の中国がどのような社会であるかというのは、極めて重要な問題であった。中国社会が果たして、コミンテルンや中国共産党の言っているように半植民地・半封建社会であるのか、それともマジャールやウィットフォーゲルなどアジア派が主張しているようなアジア的生産様式にもとづく社会であるのか、というのは単に過ぎ去った過去の歴史論争ではなく、その論争を扱っている研究者にとっても、是非とも答えなければならない課題であると考えていた。
 しかし、筆者は、それまで、この問題に答えていなかった。1990年代前半に、二冊、中国革命史に関する著作(『中国革命への挽歌』亜紀書房、『中国共産党史外伝』蒼蒼社)を出版したが、この課題に直接答えることはなかった。ただ、半植民地・半封建規定の「封建」という言葉に対し、中国の歴史には封建社会にあたるものは存在しなかったと述べるに留めた。一つには、それに答えるには、アジア的生産様式及びその論争に関する文献を一度、通覧する必要があったからであり、その準備がまだできていなかった。もう一つは、1980年代前半の中国留学後、筆者がもっとも精力を注いでいたのは、中国革命史、もしくは国際共産主義運動史の一環としての中国共産党史の研究であり、その根底には、地上の理想社会を建設しようとする社会運動が、なぜ、いつも仲間殺しを抱懐せざるをえないのか、ということを明らかにしたい、という希求があった。
 1998年、「中国革命の社会史」として書いた『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』を出した後、そろそろ、マルクス主義歴史理論を本格的に勉強しなければ、と思うようになった。いつまでも逃げていてはならない、という気がしていた。このままでは--理論的問題を避けていては--、力量不足なまま、半植民地・半封建規定か、アジア的生産様式規定かの結論を出すことはできないと考えたからであった。ただ、経済史に進むという気持ちはなく、ある程度結論が出たなら、また民国期の社会史に戻るつもりであった。
 まず、手始めに中国農村社会論に関する文献資料から読むことにした。この分野については、1930年代に始まった中央研究院を中心とする農村社会調査の資料が多く存在し、かつ1930年代末から40年代前半にかけての満鉄調査部による華北農村慣行調査に代表される日本側の資料やデータが数多く存在する。それらを読みながら、中国の農村が村落共同体から成り立っていないことを確信した。また、1930年代中葉に、大上末広と中西功らで繰り広げられた満州経済論争や中国統一化論争(資本主義論争)を経て、日本資本主義論争(封建論争)に強い関心を持つことになった。日本資本主義論争における講座派と労農派の理論構想は、戦後のマルクス主義思想の枠組みを決定したともいえるものであり、マルクス主義歴史理論への関心を深めつつあった筆者は、講座派理論の理解に努めることになった。
 講座派理論は明治維新以後の日本近代を半封建制と規定し、資本主義と規定した労農派と論争を繰り返していた。近代以降の、発展しつつある資本主義経済にもとでの農業の後進性をどのよう理解するのか、その遅れた部分(例えば地主制)と政治支配(天皇制)との結びつきを、発展しつつある資本主義経済との関連において、どう評価するのか、それらが問われていた。このもつれた関係を講座派は、さまざまな理論的技巧を凝らし、彼らなりの理論的モデルを作り上げていた。それが「半封建制」論と総称されるわけだが、現時点において考えれば、イデオロギー過剰なものであったとしても、その理論モデルをつくるにあたって、あるいは労農派の批判からそれを護持するにあたって、果敢な理論的創意工夫が重ねられていた。その理論的創意の一つがアジア的生産様式概念の理論的援用であり、さらに理論的修辞としての「抱合」であった。
 1928年、モスクワで開かれた中国共産党第六回党大会において、アジア的生産様式規定が批判され、半植民地・半封建綱領が採択された。その翌年、講座派の創始者ともいうべき野呂栄太郎は「国家=最高地主」説を打ちだし、かつ「『いわゆるアジア的生産様式によって』特徴づけられた我が国の封建制度」という言い方によって、古代以来、天皇制に代表される支配システムおよび収取システムが確固として維持・継承されてきており、近代以降もそれが人民に重くのしかかっていることを、上記のような形容をもって表出したのであった。この野呂の理論的提起における、封建制やアジア的生産様式の遺制を含む、近代日本社会における進んだものと遅れたもの結びつきは、「苟合」(野呂栄太郎)、あるいは「抱合」(三二年テーゼ)と呼ばれたが、そこには、本来結びつくべきでないものが結びついている、歪んだ結合というニュアンスが含まれている。日本の近代が歪んだものであるとの認識がそこにある。そして、その歪んだ日本の近代を説明するもの一つとして、古来よりのアジア的生産様式の影響が考えられている。アジア的生産様式概念は、ここでは講座派の半封建制論の理論的補強に利用されている、といえる。
 筆者の日本資本主義論争への関心は、必然的に日本におけるアジア的生産様式論争への関心につながった。また、同時に、資本主義生成をテーマとして争われたドッブ・スィージー論争、あるいは資本主義的な世界システムの形成と前資本主義的構成体との関わりを論じた、従属論、接合論、世界システム論に対しても関心を寄せることになった。そこから、資本主義的なシステムは、世界システムにおいてばかりでなく、国内的にも、遅れたもの、異質なものを抱え込んで成立するものであり、資本主義的諸関係が周縁にあるのではなく、その国の経済の中心にあるかぎり、遅れたもの、異質なものの存在ゆえに、それを資本主義ではない、とはいえないことを学ぶことになった。
 戦前日本のアジア的生産様式論をめぐる議論は、幾つも奇妙なところを持っているが、なかでも、アジア的生産様式を大なり小なり認めるものは、ほとんどがアジア的生産様式否定論であるヨールク、ゴーデス、コヴァレフ等を援用しつつ自説を展開したところに特徴がある。ヨールク、ゴーデス、コヴァレフらは、マジャール、ウィットフォーゲル等のアジア的生産様式論を否定するため論陣を張っていた。だが、その彼らもマルクスがアジア的生産様式なる概念を提起したということまで否定できなかった。さらに、彼らはアジア的生産様式なる概念を提起しなければならなかったアジア的社会の歴史の特異性をも否定できなかった。日本の論客たちは、ヨールク、ゴーデス、コヴァレフらの議論を参照しながら、後進性の理由づけ、封建制論の補強といった役割をアジア的生産様式に与えたのである。すなわち、その役割ゆえに、戦前日本のアジア的生産様式論は多くの理論家たちに受け入れられといえる。
 戦後、アジア的生産様式論はそのような形で受容されることはなくなる。大戦中、森谷克己、平野義太郎らによって、アジア的生産様式論にもとづいたアジア的停滞論が唱えられ、それが日本帝国主義の中国侵略を理論的に弁護した、ということが大きな理由である。戦後マルクス主義の歴史理論は、アジア的生産様式概念の拒否から始まったのである。
 戦中から戦後にかけ、主流になったのはスターリン歴史発展の五段階論の日本版である「世界史の基本法則」説であった。戦後マルクス史学の指導的存在であった石母田正等は、日本古代を総体的奴隷制と規定し、原始社会→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義、へと発展する世界史の基本法則が、日本古代においても貫かれていることを証明しようとした。総体的奴隷制とはアジア的生産様式の、いわば別名であるが、石母田はアジア的生産様式=アジア的停滞論とみなし、その概念の歴史への適用を拒否した。それゆえ、戦後の、独立した社会構成体としてのアジア的生産様式論の提唱者は、1950年後半に、塩沢君夫、福富正実、太田秀通らが登場するまで、存在しなかったといえる。
 戦後日本のアジア的生産様式論争について言えるのは、数としては、独立した社会構成体としてのアジア的生産様式概念を否定する議論が主流であった、ということである。また、アジア的生産様式について数多くの議論がなされ、さまざまな解釈が提出されたが、そのほとんどは、先述の「世界史の基本法則」の枠内での解釈であった。すなわち、世界史の基本法則のなかにアジア的生産様式を位置づけようとするものであり、いわゆる歴史の単系的発展、「直線史観」を維持しようとするものであった。1960年代中葉、国際的な規模での論争(第二次アジア的生産様式論争)が勃発した。日本においては、上記の枠組みの維持を念頭に、世界史の基本法則の再検討が叫ばれたが、その動きは歴史の多系的な発展を認めようということではなく、あくまでも世界史の基本法則(五段階論)の維持を意図するものであった。
 国際的な論争の刺激を受け、1960年代後半から10余年ほど続いた日本のアジア的生産様式論争が、1980年前後に急速に終焉したのは、流行るものはいずれ廃れるという流行り廃りの問題のほかに、日本のアジア的生産様式についての議論が共同体論--アジア的共同体--を中心に行われていたこと、それゆえ、小谷汪之のマルクス共同体論への批判は、決定的であった。マルクスが文献や資料を誤読し、インドやロシアにおける原始共同体の残存といった誤った結論を出したとの小谷の批判は、痛烈であった。日本のマルクス主義諸学がマルクスの無謬性に寄りかかって成立したことも、論争終焉の原因としてあげられよう。

 2002年度、筆者は、日本におけるアジア的生産様式論争を俯瞰した三本の論文を書き、2003年春、在外研究のため中国の雲南へ旅立った。本来は、中国におけるアジア的生産様式論争についても論文として書き上げておくつもりであったが、日本編が当初の予定をこえ長編となったため、中国篇を書くいとまがなかった。在外研究の任地として雲南を選んだのは、雲南が長い間暮らすにはおそらく中国で一番居心地のよいところだと思ったからである。雲南では、今後、雲南軍閥史など民国期の研究に戻るべきか、それとも、アジア的生産様式論研究を引き続き行っていくべきか、ずっと考えていた。雲南には二年いたが、雲南を中心に中国南部を旅し、さらに雲南からタイ、ベトナム、ミャンマーなどの東南アジア諸国の間を行き来するうちに、やはり一番やりたいことをやっていこうと気持ちを固めた。
 2005年春、帰国後最初に書いたものは、涼山奴隷制についてであった。雲南史(中国西南史)に関わることをやりたいということと、マルクス主義歴史理論に関わることをやりたい、との二つの気持ちが折り合った結果であり、まだ、いずれを続けるのか結論は出ていなかった。マルクス主義歴史理論の研究を続けることの躊躇は、自分がマルクス主義文献の厳密なテキスト・クリティークを行なうだけの力量がない、ということに起因していた。我々の世代--団塊の世代--は、マルクス主義思想や理論を広松渉、望月清司、花崎皋平、福富正実といった1930年代前半生れの輝ける世代の思想家、理論家たちから学んでいた。彼らのような偉大な先達から見れば、筆者の水準も力量もあまりにも卑小だった。また、歴史理論に関わり、その理論の当否を判断するためには、マクロヒストリーに関わらなければならない。読む文献はあまりにも多く、一生を費やしても、主要なものを読むことさえおぼつかない可能性が高かった。
 ただ、1989-1991年以降、日本のマルクス主義諸学の研究は急激に下火になっていった。そのこと自体当然だと思っているので、残念だとは思わない。ただ、マルクスのアジア的社会論や20世紀マルクス主義が積み上げてきた歴史理論が顧みられなくなることはとても残念だった。また、筆者の性格から、誰も見向きもしなくなりつつあるがゆえに、やってみたいという気持ちがあった。あれこれ逡巡しながらも、結局、アジア的生産様式論を中心とするマルクス主義歴史理論を、マルクス主義の歴史あるいは国際共産主義運動の歴史と関連させつつ、学んでいこうと決意した。このような学の在り方を、筆者は自流で、マルクス主義ヒストリオグラフィーと呼んでいるが、それが正しいかどうか筆者にも定かではない。
 まず、60歳を前にしてドイツ語を学び始め、続いて60歳を幾歳か過ぎてフランス語を学び始めた。ドイツ語は、マルクス『資本制生産に先行する諸形態』やウィットフォーゲル「『オリエンタル・デスポティズム』ドイツ語版序文」読むために必要であった。また、フランス語はモーリス・ゴドリエなどの未翻訳の論文を読むために必要であった。それらの文献について、いずれも辞書を引きながら、たどたどしく読んでいくことしかできず、原典のテキスト・クリティークなどというにはおよびもつかないが、それでも一応、原文にあたることができ、問題の所在はなんとか把握可能になったと考えている。
 よく言われることだが、アジアは実に多様であり、アジア的社会、あるいはアジア的生産様式などといったもので一括りできる存在ではない、という批判がある。もっともな批判だと思う。ただ、マルクスが『諸形態』で述べているのは、所有形態についてであり、アジア的社会の所有形態は、古典古代世界や古ゲルマン社会(および中世西欧社会)の所有形態と明確に異なる、ということである。そこにアジア的社会における土地所有権の弱さという重要なエレメントが強調されている。このアジア的社会における所有権の弱さについては、すでにウィットフォーゲル(『オリエンタル・デスポティズム』1957)において、「弱い私有財産」として詳しく説明されている。アジア的社会においては、どのような姿態をとろうと、個々の私的所有(土地私有)の上に、国家--およびその体現者たる王--の至上権が存在すると考えるべきである。この至上権は時と場所により、上級所有権、非常大権、最終決定権などと言い換えられたとしても、究極的には同じことである。
 では、どうしてこのような個々の成員の所有権を大きく制限しうる国家あるいは王の至上権が成立したのであろうか。筆者は、そこに水の問題があると考えている。農業生産に必要な水が、共同労働による水利施設の築造によって可能になること。水利施設は共同体成員の協働労働によって作られたので、当初は共同体成員のコントロールにおかれていた。だが、水利事業の拡大につれ、水利施設に対する共同体成員のコントロールは次第に及ばなくなる。共同労働を指揮し水利施設を築造し、かつ水利施設を維持管理する首長もしくは王に統制権は移っていく。政治支配の確立とともに、水利施設は王の所有のもとにおかれる。すなわち、個々人の農業経営は、王所有の水利施設のもとに成り立つ以上、個々人の労働=所有は、王の所有、国家的所有のもとにある下位の所有(保有)となる。ここに至り、水利施設は、個々の共同体成員、農民にとっては、彼らが身を粉にして建設したにもかかわらず、彼らにとって外在的なものになる(玉城哲)。
 これを、共同労働に焦点をあてて考えてみる。アジア的社会における水利施設をつくるような労働を望月清司はマルクスに依って「共同体のための必要労働」となづけた。すなわち、個々の経営にとっては剰余労働のように見えたとしても、それなくしては農業生産が不可能である以上、それは必要労働であり、かつそれは個々の労働ではなく、共同体規模の共同労働でなければ成立しえない以上、「共同体のための必要労働」であるということになる。この共同体のための必要労働は、当初、共同体成員相互のイニシアティブにより徴集され、相互の指揮によって、水利施設を建設していたが、徴集や指揮は次第に首長のイニシアティブのもとに行われるようになる。ただ、首長のイニシアティブといっても、依然として共同体の慣習、規範に従ったものであった。だが、水利事業の規模が拡大するとともに、首長の徴集権、指揮権も強化される。すなわち、アジア的社会における水をめぐる首長の権力は、共同体成員に対し労働--あくまでも共同労働の形態において--を強いるようになる。それに従わないものは、共同体規制によって罰せられる。そして、政治支配の成立後、共同体ための必要労働は共同体のための賦役労働に転化する。労働は初期国家もしくは王によって強制されるものとなる。もし、従わなければ法によって罰せられる。王は初歩的ながら、法を執行する機構を有している。
 このような共同体のための賦役労働を徴集し、指揮する権力こそ、アジア的社会における勧農権の中枢をしめるものにほかならない。勧農権はアジア的社会独得の権力であり、古典古代世界あるいは中世西欧社会にはこれにあたるものは存在しない。市民(古典古代世界)あるいは自由農民(中世西欧)に賦役を強いることはできない(国家が市民に求めることができるのは、奉仕であり賦役ではない)。政治の中枢につねに軍事が存在するのは理解できるであろう。だが、「まつりごと」は、軍事だけでは動かない。アジア的社会において、競いあう政権の帰趨を決めるのは、軍事とともに勧農であった。アジア的社会においては、農業生産は、水利を如何に解決するのかに懸っており、この水利事業を支えるものこそ、勧農権の行使であった。
 望月清司や玉城哲から、アジア的生産様式における公共事業、あるいは共同労働の役割について決定的な示唆を得た。共同体のための賦役労働をアジア的生産様式における収取の中心に据えることによって、中国からエジプトまでの古代文明と呼ばれる地域の初期国家がアジア的生産様式にもとづくものであるということを確信するようになった。もちろん、その後につづく専制国家もまた、アジア的生産様式および東洋的専制主義にもとづくものである。

 上述したように、中国からエジプトまでの古代文明以来の社会が、アジア的生産様式にもとづく社会であることを、自分なりに改めて理論づけえたと考えたのは、雲南から帰国した後、しばらく経てからのことであった。2010年前後から、ようやく中国におけるアジア的生産様式論争史について再び取り組み始めることが可能となった。1970年代末から80年代初頭にかけての、中国におけるアジア的生産様式論争については、すでに中国留学中の1981年、当時の論争を俯瞰したエッセーを書いているが、今回の再検討は、意外な事実を教えたくれた。1990年代前後から、アジア的生産様式についての中国の理論家たちの対応が大きく変化したこと、中国の理論家たちは、マルクスのアジア的社会論を換骨脱胎し、現在、中国および中国の党の置かれた状況と彼らの政策を弁護する東方社会理論へと作り変えた、という事実である。
 アジア的生産様式は、もともと未完成のものであったが、それでもこれまで様々形で利用されてきた。最初の極端な例は、戦時中、アジア的停滞論として、日本の中国およびアジア侵略の弁護として使われた。つぎに、ウィットフォーゲルによって、ソ連を筆頭する社会主義陣営を批判する反共理論としてはなばなしく登場した。そして、この20年間、中国において、経済改革を実行しつつ独裁を続ける革命党を擁護するための東方社会理論として利用されている。
 だから、アジア的生産様式論は間違っているわけでも、いかがわしい理論だというわけでもない。これだけ、振幅の違う利用のされ方をしているのは、むしろ、アジア的な社会の特殊性を理論的に解明する歴史理論が、今もって、アジア的生産様式論以外に存在しない、ということを意味している。良くも悪くも、アジア的生産様式論というものが持つ吸引力や生命力のせいなのだ、と考えている。(未完)