中国的なるものを考える(電子版第71回・通算第113回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第73号 2016.05.13
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その一 雲南からみた西周
 昨年、同僚の石井知章教授に誘われ、彼の編著『現代中国のリベラリズム思潮』(藤原書店)に、「現代中国における封建論とアジア的生産様式」と題した一文を寄稿した。1980年代初めの北京留学以来、ずっと関心を持ち続けてきた中国古代史―留学当時、阿片戦争以前の歴史は古代史と呼ばれていた―に関わる諸論争、それが奴隷制に関しての議論であれ、封建制に関しての議論であれ、いずれにせよ、それらの論争のもっともふさわしい解は、アジア的生産様式にほかならないことを述べたつもりである。
 筆者はもう随分前から、この種の論争に関心を持ちつけてきたが、多分、そのきっかけは、中国共産党における「半植民地・半封建」規定への疑問に始まっているのだろう。中国に関心を持つ人にとって、今や、中国共産党史などは興味の対象ではないだろうが、少し説明したい。第一次国共合作が破綻し、中国共産党が中国国民党に対して武装闘争に踏み切った直後の1927年末、中共中央は農業綱領草案(土地問題党綱草案)を決議し、当時の中国の社会構成をアジア的生産様式に基づくものと規定した。その決議を主導したのは、コミンテルン(共産主義インターナショナル)を代表し会議に参加していたロミナーゼであったといわれている。だが、そのわずか半年後の1928年夏、モスクワで開かれた中共六全大会において、アジア的生産様式規定は否定され、半植民地・半封建規定が決議される。すなわち、当時の中国社会は、半植民地・半封建社会であり、中国の革命路線は、この規定にもとづいて組み立てられなければならない、とされたわけである。その後、中共は、この半植民地・半封建規定を、疑いのない真理として堅持し続けた。そして、民国期の社会が半植民地・半封建社会であるという認識は、今日も変わっていない。
 この半植民地・半封建規定から、ウエスタン・インパクト以前の中国は封建社会だということが導き出される。現在日本の高校の世界史では、周代の封建制は、秦の国土統一以後、郡県制(中央集権的な支配体制)によってとって代わられたことになっている。ともあれ、秦漢帝国から清末まで、約二千年間、連綿として専制主義が支配し続けてきた中国が、どうして封建制にもとづく社会なのであろうか、ということになる。事実、中国人がマルクス主義を受容するまで、秦漢以来の歴代の専制王朝を封建制にもとづくもの、といった認識はなかった。知識人(士大夫)たちは、あくまで、封建制と郡県制を対立的なものと考えていたからである。ところが、民国期中国のマルクス主義者たちは、当時の日本の知識人と同じく、近代以前のアンシアン・レジーム(旧体制)を封建社会と呼ぶようになる。とくに1920年代以後、日中両国に登場したマルクス主義者が、同じ用語を使い出したことが、歴史に大きな影響を与えている。その結果、中国の公式史観(郭沫若説)では、西周期は奴隷制社会であり、マルクス主義的な意味での封建制は戦国期以降ということになる。
 ところで、日本近代の知識人にとって、封建制は江戸時代以前の「武家の世」の支配システムであり、かつ、feudalismの訳語でもあった。そこから、ヨーロッパ中世、武家の世、西周封建制が同じ名で呼ばれることになった。そればかりではない、ヨーロッパ列強の支配もとにあったアジア・アフリカ・ラテン=アメリカの諸民族の、植民地以前の支配システムもまた、しばしば封建制と呼ばれるようになった。
 以上のように、封建制、封建主義、封建社会といった用語が様々意味において使われていることは、よく知られていることだと思われる。同じ用語をひどく異なったものにも適用し使い続けることは、多くの誤解を生むことになる。そこから、当然、曖昧な用語である封建制をなるべく使わない、という研究スタイルも生じる。たとえば、中国以外の、中国史研究者ならば、西周に始まる封建制(周代封建制)以外には封建制という言葉を使わない、という立場をとるのが一般的であろう。
 まず、問題点を整理するために、ここでは、近代以降のもっとも慣用的な用法、つまり自分たちの時代の前の時代を封建的なものだとする用法については、取り扱わないことにしよう。アンシアン・レジーム(旧体制)=封建制という慣用的な用法は、便利であったかもしれないが、同時に混乱のもとでもあったからである。次に、より厳密に問題を検討するために、ヨーロッパ封建制、武家の世、西周封建制以外に、封建制という言葉を使わないようにしよう。ロシアの封建制については微妙な問題を含むが、少なくとも、タタールのくびき以後のロシアに封建制は存在しないと考える。
 ところが、西周、武家の世、西欧中世の、それぞれの封建制もまた、それぞれ、大きく異なっている。さらに、ヨーロッパ中世を封建制feudalismのもとに概括しうるかに関しても様々な議論があるらしい(森本芳樹『比較史の道』創文社)。ただ、それでもfeudalismが西欧中世の政経の支配システムを表わすのに適切な概念であることまでは揺らがないと思われる。それに対し、日本では、武家の世を、封建制と呼ぶことが減ってきているようにみえる(『ウィキペディア』「封建領主」の項を参照)。
 もちろん、日本の中世や近世が封建制かどうかということは、理論的な問題であり、実証史家ならば歴史理論に過度にこだわることを望まないことは理解できる。だが、石母田正『中世的世界の形成』以来、実に熱心に、中世封建制論を唱導してきた日本のマルクス史家の後継者たちが、日本中世を封建制と呼ばなくなったということは、そう簡単なことではない。この問題は、とても興味深いことではあるが、検討は後日のこととしたい。
 ともあれ、日本中世社会を封建制と呼ばなくなりつつある以上、封建制をともかくも西周に返すべきだと考える。かつ、中世西欧のものはフューダリズムとカタカナで表記するのがよいと思う。そうすれば、封建制とフューダリズムを同じ支配システムと混同することもなくなる。これまでヨーロッパ史のなかで封建制と呼んできたものをフューダリズムとカタカナで表記するのは違和感があるということであれば、封建制を踏襲するのもやむをえないのかもしれないが、その場合、それ(封建制)はフューダリズムの訳語にすぎず、西周封建制とは本来関係がない、と割り切るほかないと思われる。そして、それ以外の、もろもろのもの(これまで封建制と呼ばれてきたもの)は、封建制とも、もちろんフューダリズムとも呼ぶべきではないということになろう。
 とはいえ、筆者にとって問題はそう簡単ではない。というのも、筆者は古代史や中世史をフィールドにしているわけではなく、理論的な関心から、20世紀のマルクス史家の種々の著作を研究対象としているので、まず、それらの著者たちの、それぞれの文脈において使用する「封建制」「封建社会」「封建的生産様式」などを、一旦はそのまま受け入れざるをえないからである。
 さて、今回とりあげるのは、馬曜・繆鸞和『 西双版納份地制与西周井田制比較研究(シーサンパンナ分地制と西周井田制の比較研究)』(雲南人民出版社、2001年)である。当然、焦点は、西周封建制をマルクス主義歴史理論の立場からどのように理解するか、におかれる。
 本書の原型となる論文「従西双版納看西周(シーサンパンナから見た西周)」(雲南『学術研究』1963年第1~3期)は、馬曜、繆鸞和が1950年代、シーサンパンナ(シプソンパンナー)における現地調査において得られた経験と資料をもとに書かれたものであり、本書第三章「従西双版納看西周」がそれにあたる。彼らはそれをもとに一冊の本にまとめるつもりであったが、ほどなく文革が始まる。二人は、「土地村落共有」により土司制度を美化し「辺疆特殊論」を唱えた「反動的学術権威」として批判される。1972年馬曜が、73年繆鸞和が、雲南大学歴史系に戻り再び共同研究にとりかかる。1977年「傣族農奴制和周秦社会的比較研究」を謄写版印刷し関係者に配り意見を求め(徴求意見稿)、さらに1978年10月、『歴史研究』雑誌社と『中国社会科学』雑誌社によって共同開催された「古代史分期問題学術討論会」に出席し「傣族封建領主制与周秦社会的比較研究」と題した報告を行なっている。だが、翌年6月、繆鸞和は不幸にして病死する。残された馬曜は1980年代もなお出版準備を進め、1989年、ついに両者の名で『西双版納份地制与西周井田制的比較研究』(人民出版社)が出版される。筆者がもっているのは、その改訂版である。
 彼らが最初の論文を書くつもりになったのは、多分、1950年代の現地調査を通じて明らかになった、雲南の少数民族におけるプリミティブな土地共有制度の広範な存在である。そのもっとも典型的な存在がシーサンパンナにおける土地の「集団的な所有および個人的な占有」であった。シーサンパンナにおいては、水利灌漑事業を中心とする共同職務遂行機関が、農村共同体から国家への過渡において重要な役割を果たしていた。そこに成立した土地王有を特徴とするタイ族領主制は、中国の戦国時代以降の封建地主制とも、西欧中世の封建農奴制とも異なっていた。すなわち、彼らは、シーサンパンナの封建領主制は、西周封建制に極似している、と主張する。
 すでに民国時代から、姚荷生『水擺夷風土記』(1948年)や陳翰笙『解放前西双版納土地制度』(英文版1949年)において、シーサンパンナの共同体的な土地制度については、関心がもたれていた。馬曜(1911-2006)もまた、1930年代、上海で学んでいたおり、当時活発に行われていた中国社会史論戦に触れ、この種の問題に関心があった。さらに、繆鸞和も1940年頃、雲南大学在学中に、抗日戦争後、北京(北京師範大学)から戻り西南聯合大学で学んでいた李埏(1914-2008)と知り合い、親交を深めていた。李埏は50年代、侯外廬「中国封建社会土地所有制形式的問題」(『歴史研究』創刊号)への援護射撃から、封建的土地国有説を唱えていたので、繆鸞和もまたこの種の問題に無関心ではなかったと思われる(注)。
 では、民国期以前のシーサンパンナの政経の支配システムと西周のそれとは、如何なる点において共通するのであろうか。彼らは、西周封建制の特徴として①土地王有、②封国・采邑制度、③村社制度、③井田制度、などの点を次々に挙げ、それらがシーサンパンナの政経の支配システムに共通すると述べる。①については、シーサンパンナにおいては、王たる召片領(ツァオペンディン)は水と土の主であり、それは西周の「溥天之下, 莫非王土, 率土之濱, 莫非王臣」(普天の下、王土に非ざるはなく、率土の濱、王臣に非ざるはなし)と同じであると述べる。②については、西周の王と同じように、召片領はシーサンパンナの36のムンが共に戴く主君であり、各ムンにはそれぞれ首長(ツァオムン)がおり、西周の、地方に封ぜられた諸侯と同じであり、また召片領はその直領地において、各首長はその封地(ムン)において、それぞれ家臣に采邑・采地を与えている、としている。③については、西周、シーサンパンナの封建領主(首長)は、それぞれ村落共同体あるいは農村共同体に支配の基礎を置いており、それぞれの小共同体は、王有のもとで、土地を集団所有している、とする。すなわち、土地は、集団が所有し、個人は占有する、という関係にある。この集団所有は、その主体が個々の公社(共同体)なので、我々のいう共同体的所有ということになろう。④の井田制については、これまで長い議論があるが、結局のところ、共同体の土地は、領主(王および首長)の土地(公田)と個々の共同体成員の土地(私田)に分けられ、前者は共同体成員の賦役によって耕され、後者はそれぞれの農民によって耕される。この賦役あるいは貢租こそが、領主(王・貴族)と農奴(農民)からなる階級関係の基礎である。「民主改革前のシーサンパンナの土地制度は、村社制度・土地王有・貢租形態と階級関係などの幾つかの基本点において、西周の土地制度と類似する」(謝本書『馬曜伝』雲南教育出版社, p.257)。
 「シーサンパンナにおいて、多くの小共同体が結合し総括的統一体が成立するが、それらすべての小共同体に君臨する総括的統一体の代表こそ、全シーサンパンナの最高統治者、すなわちタイ族人民が広大な土地の主と呼ぶ召片領である」(同上)。このような総括的統一体を代表する最高統治者であるという意味において、西周の王も、同じである。
 以上のような記述が、マルクス『資本制生産に先行する諸形態』のアジア的共同体のイメージをそのまま引き写ししていることは明らかである。では、このようなアジア的共同体によって構成される政経の支配システムは、はたして封建領主制と呼ばれるべきものなのであろうか。問題なのは、この封建領主制というタームが、マルクス主義歴史理論の上での規定であるということである。ここで封建制とは何かという議論を始めると、紙幅がいくらあっても足りぬことになるので、一点だけ指摘しておきたい。すなわち、封建制は、土地私有の成立を前提としている、この一点である。西欧や日本の歴史家は、マルクス主義であろうと、非マルクス主義であろうと、この点については一致していると思われる。だから、土地私有が未だ成立せず、共同体的所有のもとにあるような社会を封建制と呼ぶわけにはいかない。もし、西周やシーサンパンナの支配システムが封建制だということになると、大化以前の日本も封建制だということになる。各地の国造や県主も、封建領主だということになる。
 では、馬曜と繆鸞和の議論が無駄であったかというと、そうではない。というのも、彼らが、西周およびシーサンパンナの土地制度をアジア的所有にもとづくものと見なしている点が評価される。しかも、両者の支配システムを小共同体と総括的統一体の関係において説明していることである。すなわち、小共同体と総括的統一体の間の収取関係を具体的には賦役および貢納関係としていることである。彼らがどの程度までアジア的生産様式論に与しているのかは明らかではない。たしかなことは、アジア的生産様式論者であった侯外廬を、1950年代における封建的土地所有制形式問題論争において、雲南人李埏が封建的土地国有制論を唱えて支持したこと(本シリーズ第39回参照)、そしてその李埏と繆鸞和は、1940年頃昆明で知り合い、親友(莫逆之交)となったこと、40年代から50年代初頭にかけ、同学として、同僚として、ともに研鑽をつむ仲であったこと、60年代初め、「従西双版納看西周」を『学術研究』(雲南)編集部に送る前に、繆鸞和は李埏を訪ね原稿を読んでもらっていたこと、などから、少なくとも繆鸞和は李埏に近い理論的な立場にあったのではないか、と推測される。
 もっとも本当に彼らが、西周やシーサンパンナにおける封建領主制説を信じていたかどうか、あるいはアジア的生産様式論についてどの程度深入りしていたのかを知ることは難しい。タブー視されたフィールドにおいては、自分が信じる学説をそのまま論文や著書にすることは危険だからである。微妙な問題について、論客が本当に自分の信じるところを語っているのか、それとも、比較的安全で、かつ自分の見解に近いところを語っているのか、見極めるのは容易ではない。
 さて話を戻すと、二人の著者が示した、西周社会を旧シーサンパンナ社会から比較検討するというのは、魅力的であり、かつ有益な試みであると考えられる。筆者は前掲の「現代中国の封建論とアジア的生産様式」において述べておいたが、西周社会、とくに『詩経』に表出されているような西周社会は、明らかに小水系の水利(灌漑や治水)システムにもとづくものであったと考えている。つまり、その点において、雲南古代国家と殷周期の華北は共通点があると思っている。また、雲南古代国家の例から見ても、小水系の水利のほかに、焼畑(刀耕火耨)も行われていたとみるべきであろう。
 もうすでに始まっているであろうが、とくに期待したいのは、供犠に使われた動物(甲骨)から、当時の華北の動物相を復元することや、『詩経』などからその植物相を復元することである。10年前筆者が偶然上海で購入した潘富俊『詩経植物図鑑』(上海書店, 2003年)によれば、『詩経』のなかでもっとも頻出する草木は、桑である。我々にとって、中国における蚕桑の歴史といえば、思い浮かべるのは、江蘇・浙江・四川など、みな華中江南以南の地であり、華北の地ではない。殷周期の華北が現在よりもはるかに湿潤で、より広大な面積が森林や沼沢に覆われていたとしたら、その歴史的景観は現在とは大きく異なることになる。もし、殷周期の華北の気温が現在よりも、二、三度高いならば、あるいは降雨量が平均1000mmを越えていたならば、むしろ華中(少なくとも淮河以南の地)を想定しながら、歴史景観を復元しなければならなくなるだろう。鉄器の普及による大開墾時代以前の華北は、おそらくは、我々に馴染みの、黄色い大地、賈思勰『斉民要術』に代表される旱地農業の世界ではなくなるだろう。
 とりとめもない議論で申しわけないが、しばらくは、中国と日本の、封建制をめぐる雑多で周辺的なテーマを取り上げつつ、そこから何が見えるか、試行錯誤を続けたいと考える。



注)「アジア的生産様式と中国 その五:侯外廬と封建的土地国有制説」(『蒼蒼』第39号)において、筆者は、李埏と馬曜について「同じ雲南で活動しながら、しかも土地所有制度について類似した見解を有しながらも、李埏『不自小齋文存』には、馬曜の名前は見えず、馬曜『西双版納份地制与西周井田制比較研究』及び謝本書『馬曜評伝』(雲南教育出版社、2001年)には李埏の名前を見ることはない」と書いた。だが、李埏『不自小齋文存』(雲南人民出版社, 2001年)所収の「繆鸞和同志及其遺著」に、親友繆鸞和の同僚として馬曜が登場する。李埏の労作の白眉ともいうべき、同書(第一章)「中国土地制度史研究」掲載の封建的土地国有説を展開した6本の論文だけを読んで、馬曜の名前がないと、早とちりをしたものであり、ここにその誤りを訂正したい。