中国的なるものを考える(電子版第72回・通算第114回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第74号 2016.08.25
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その二 中国科学院訪日学術視察団(1955年12月)の来日前後
 郭沫若を団長とする中国科学院訪日学術視察団が来日したのは、1955年12月のことであった。革命後、最初の公的な訪日団であったといわれる。団員は15人、団長の郭沫若は当時、中国科学院院長であり、かつ1949年中央人民政府成立後、政務院副主席であった(政務院は1954年9月国務院に改組)であったため、単なる学者ではなく、政府要人であった。代表団は文学、古代史、近代史、考古学、教育学、数学、物理学、生理学、土木工学、鉄道、薬学を専攻する11名であったとする記事がある(小岩昌宏「中国との学術交流1 中国科学代表団の訪日」)ので、残りの4名は、通訳および随行員だったのであろう。また、小岩の記述によると、代表団の訪日は、学術会議(当時の会長茅誠司)の招待であったとある。
 訪日視察団の日本滞在は三週間余ほどであり、東京、京都・大阪、岡山、福岡、名古屋、仙台など各地の大学や研究機関を訪ね、さらに各地で学者その他と会合をもち、意見を交換した。
 この視察団に郭沫若、尹達、翦伯贊など著名な歴史家、考古学者が含まれることから、その来日に合わせ、大塚史学会、史学会、東方学会、民主主義科学者協議会歴史部会、歴史学研究会、歴史教育者協議会の六学会の共同主催による、中国の歴史家を囲む懇談会が企画された。12月7日、同21日の二回開催され、延べ320人が集まったとされる。7日単独では、約200人である(『歴史評論』№72)。だが、郭沫若、熊復は多忙のため出席できず、結局、7日は翦伯贊のみ、21日は尹達、翦伯贊の参加となった。折から、日本・中国の歴史家の関心が重なり、第一回目は、時代区分をめぐって、第二回は資本主義の萌芽をめぐって、報告がなされ、若干の討議が行われた。
 この視察団の来日は、当時においても、またその後においてもその後も、かなりの関心を集める出来事であったと思われる。ネットで、1955年、中国科学院訪日視察団、とググると、かなりの記事が出てくる。しかも、かなり広い範囲にわたっている。郭沫若が多忙であったというのも、単に1920年代、30年代の古い友人と旧交を温めるに忙しかったということではなく、むしろ中日間の様々な懸案に関する折衝に忙しかったと考えるべきであろう。
 では、歴史学界において、どのように報道されたのであろうか。以下は、所属図書館の雑誌コーナーで、小一時間ほど調べた結果である。視察団来日の前後の記事もリストアップしてある。

① 『史潮』第55号(1955年2月)
研究動向:小宮惇「中国における中世史研究について」
        白倉司朗「中国近代史の時代区分をめぐる論争」 
② 『史潮』』第59・60合併号(1956年7月)
学界動向:野沢豊「中国の歴史家を迎えて」 
③ 『史学雑誌』(第65編第3号、1956年3月)
学界消息:「中国科学院訪日学術視察団歓迎懇談会」
④ 『東方学』第12号(1956年6月)
錢穆「中国社会史上の時代区分について」(1955年11月10日、東京大学における公開講座の要旨であり、翻訳は藤堂明保)
鈴木俊「中国科学院訪日学術視察団の来朝」
⑤ 『歴史学研究』191号(1956年1月)
「編集後記」(文責木村)に短く4行。
⑥ 『歴史学研究』192号(1956年2月)
仁井田陞「中国史の時代区分と歴史的感覚―中国科学院訪日学術視察団を迎えて」
⑦ 『歴史評論』№72(1956年1月)
「『中国科学院訪日学術視察団歓迎会』における郭沫若氏の挨拶」
「中国歴史学界についての翦伯贊教授との討論」
⑧ 『歴史評論』№73(1956年2月)
翦伯贊「中国の歴史をどう研究するか」(『新建設』1950年3巻3期、1953年修正)
翦伯贊&薛愚「新中国の建設と科学者―中国科学院訪日視察団と日本の学者・文化人との懇談」
 なお、同号七二頁に、歴史評論編集委員会「翦伯贊教授との討論に関する掲載文について」と題し、同誌(『歴史評論』)が、「同討論会の詳細かつ正確な記録が六学会連合の機関の責任において公表されるまでは各学会誌は記事程度の報道をするにとどめる」との六学会共同委員会の申し合わせを逸脱したことに対する自己批判と関係者へのお詫びを載せている。
⑨ 『歴史評論』№80(1956年10月)
江泉「中国歴史における奴隷制の時期区分の問題の討論」(林基訳、原載『人民日報』1956年7月4日)
⑩ 『歴史評論』№81(1956年11月)
杜眞「中国資本主義の萌芽についての討論」(原載『歴史研究』1956年7月)

 なお蛇足だが、大塚史学会は、大塚久雄の大塚史学とは関係がなく、大塚という名称の由来は、旧東京教育大学の所在地(文京区大塚)による。
 以上の雑誌は、懇談会を企画した関係六学会の機関誌である。さらに、

⑪『歴史地理教育』№15(1956年1-2月号)
「中国科学院訪日学術視察団翦伯贊氏を囲んで 六学会共催学術懇談会にて」
⑫『歴史地理教育』№16(1956年3月号) 「中国学術視察団の横顔」
⑬ 『東洋史研究』(1931年3月)
翦伯贊「関於中国歴史分期的問題」

「編集後記」(池田誠)
 「昨年来、中国科学院の学術視察団をわが国に迎えましたが、彙報でもお知らせしたとおり、京都で、各方面の学術討論会が行われました。本号には、歴史家の討論会でなされた翦伯贊先生の報告を掲載することができました。これはひとえに藤枝晃先生の御尽力のおかげでしてあつくお礼申しあげます。いまのように、一部の政治家たちの政治的な意図によって、学問の国際的な交流がおさえられてはならぬし、また学問の進歩がさまたげられてはならぬ、とわたしは思います。本号に、翦伯贊先生の論文をのせることができたことはよろこぶべきことでありましょう。」(p.117)

 この池田誠の編集後記から、おそらく、1949年の革命以来、初めての公的な視察団来日にあたり、多くの人たちが視察団との接触を望んだこと、その際、当然、政治的な親疎により、排除された人々、接触ができなかった人々が生じたこと、などが連想される。いつものことであるが、このような時、受入れ側(日本側)の判断が、それを左右する。「編集後記」は、当時の、京都学派の微妙な立場、あるいは、いらだちが示されているのだと思われる。はりきりすぎて、六学会の合意を無視した民科(『歴史評論』)のはしゃぎぶり、フライングと好対照をなしていると考えられる。

 これらの六学会共同主催の懇談会における翦伯贊や尹達の報告は、鈴木俊&西嶋定生編『中国史の時代区分』(東京大学出版会、1957年)第一部に収録されている。同書は現在でも古書サイトで容易に入手できるが、一応、その目次を掲げておく。

序   南原繁
第一部 
一 中国の時代区分について―翦伯贊氏を囲んで
二 中国の時代区分および文化遺産その他について―尹達・翦伯贊両氏を囲んで
三 中国史の時代区分の問題について 翦伯贊
四 八世紀上半期中国社会経済の性格を論ず―併せて紅楼夢のなかに反映する社会経済状態を論ず 翦伯贊
五 新中国の歴史研究と歴史教育 翦伯贊

第二部
六 中国古代社会の構造的特質に関する問題点―中国史の時代区分論争に寄せて 西島定生
七 時代区分古代関係文献目録 内山倍文
八 中国歴史学界における「資本主義の萌芽」研究 田中正俊
九 日本の明清時代研究における商品生産評価をめぐって―その学説史的展望 佐伯有一
十 歴史学と歴史教育 高橋磌一
十一 附篇 東アジアにおける古代の終末 前田直典
跋 鈴木俊
*①~⑬、一~十一、これらの数字は筆者が便宜的につけたものである。たとえば、⑬の翦伯賛論文は、三に対応している。

 なお、第二部には、時代区分問題、資本主義萌芽問題に関する日本側の見解が纏められている。より具体的にいえば、巻末に前田直典「東アジアにおける古代の終末」が付されているように、戦後、歴研グループの手によって、一時主流派となった唐宋変革論、すなわち唐末から五代を経て宋代への転換期を、古代から中世への転換(唐代までの奴隷制から、宋代以後の封建制への転換)とみなす見解が述べられている。

 さて、封建制というテーマで、『中国史の時代区分』を取り上げてみたくなったのは、日本・中国、両国のマルクス史家が、それについて(ともかくも)一致した見解をもっていた時期があったことを思い出したからである。本書を読んだのは、今から四十数年前のことであり、卒論を書く際にも、読み返しているはずである。今回、なつかしさにつられ、再読に及ぶことになった。
 上述のように、この時期(1950年代)の特徴は、封建制に該当する時期はかなり大きくずれるが、日中のマルクス主義を標榜する研究者がともに、中国に封建制にもとづく社会が存在したと考えた時代であった、という点にある。
 中国における中国封建制論―より具体的には奴隷制から封建制への転換に関する議論―は、1930年代の郭沫若、呂振羽以来のものであるが、1950年代、すなわち視察団来日の頃には、ほぼ四つの説が成立していた。①殷代は奴隷制であり、封建制は西周に始まるとする、翦伯賛、范文蘭などの西周封建制論、②春秋時代までを奴隷制とし、戦国時代以降を封建制とする郭沫若説、③秦漢以後、封建制段階に入ったとする侯外廬説、そして④尚越などが主張する魏晋南北朝以降を封建制とする説。
 では、何をもって封建制の成立とするかという点については、郭沫若が言う土地私有制にともなう地主制の成立がもっとも有力であったように思われるが、実際には侯外廬のように皇族的土地所有制(封建的土地国有制)を唱えるもの、あるいは荘園制や農奴制の展開を挙げるものなど、様々な指標が挙げられていた。中国の歴史に、奴隷制のみならず封建制も確固として存在していたという確信のわりには、議論が分散していたといえよう。ただ、そうであろうとなかろうと、中国の歴史家にとって、中国史において封建制は絶対に存在しなければならなかったのである。
 日本のマルクス史家の中国封建制論は、早川二郎、秋沢修二、森谷克己など、1930年代にすでに始まっているが、戦後の研究者にとっては、やはり前田直典「東アジアにおける古代の終末」(1948)が決定的な影響を与えたと考えられる。前田の発想には、日本の律令制と班田制で構成される時代が古代である以上、そのモデルとなった隋唐の社会構成―律令制と均田制で構成される―が、古代でないわけがない、という考え方があったと思われる。同じ古代であるからこそ、唐の周辺国家も、唐の行政制度や土地制度に学び、それに類似したものを国内に構築することができたし、東アジア諸国家が連動した歴史の歩みを示すことができた、ということであろう。
 ただ、前田の唐宋変革論は、社会構成体論あるいは生産様式論といった面に関しては厳密ではなかった。前田の急死(1949年)によって、それは素描のまま残され、未完成に終わったのである。この前田の唐宋変革論を補強したのは石母田正であった(鶴見尚弘「中国封建社会論」『中世史講座』5、学生社、1986年)。石母田は、周藤吉之の宋代佃戸制の研究を手掛かりに、地主―佃戸関係を宋代における主要な階級関係とみなし、それが農村社会における家父長制的支配を支えたことを指摘し、さらに仁井田陞も、この地主―佃戸関係に「主僕の分」が存在することを認め、これらにより宋代封建制論の骨格ができあがったといえる(その間の石母田正が果たした役割、あるいは彼の日中分岐論については後述するもりである)。
 これらから、戦後日中両国の歴史家たちが、とにもかくにも、中国史に封建制を見つけ出そうとする努力を惜しまなかったことが注目されるべきである。とくに、筆者にとっては、「東洋専制主義論の信奉者」である仁井田陞でさえ、中国封建制論に与したことに大きな感慨を覚える。この、仁井田陞=「東洋専制主義の信奉者」という表現は、堀敏一(『中国古代史の視点―私の中国史学(一)』汲古書院、1994年)からの受け売りである。
 ただし、このような日中両国の中国史研究者の一致は長続きしなかった。日本の研究者は次第に中国封建制論から離れていく。秦漢以来辛亥革命に至るまでの二千余年を、一体のものと捉える見方がひろがってく。中村哲あるいは渡辺信一郎のように、唐宋変革論を国家奴隷制→国家農奴制への展開と捉えなおす人々がいないわけではなかったが、日本の多くの研究者は、発展論そのものに関心を示さなくなっていく。
 これについて、堀敏一は「歴史を発展としてみる見方は、近代人の未来への確信に支えられていたわけですが、現在ではそのような確信がゆらいで、明日よりも今日の生活の豊かさが関心のまとになるようになっている」(「中国史の発展と特質を考える」前掲書p.55)と述べ、だから歴史研究者において、発展論よりも社会史に関心が移っているのだと説明している。そのとおりだと思う。堀の発言は1984年のものであるが、戦後のマルクス史家にとって「未来」とは社会主義革命のことであった。それが現実性をもたなくなったとき、その希望を支えていた発展段階論は魅力を失ったのである。とくに、この発展段階論―世界史の基本法則―の中国史への適応が、無理を重ねたものであった以上、それに従う理由はなくなったのである。発展段階論に対する関心の喪失は必然であった(これは、日本の中国史研究においてばかりでなく、日本史研究においても同様のことが生じている)。

 宋代封建制論を支えた周藤吉之や仁井田陞の浩瀚な実証的研究には、ただ圧倒されるしかないが、自分なりにマクロヒストリーを勉強しているので、この問題(唐宋変革論)について、私見を簡単に述べてみたい。
 まず、佃戸制あるいは地主・小作関係の主従関係の関してであるが、これは、中世西欧、中世日本の領主―直接生産者(農奴or隷属農民)におけるような、強い主従関係ではなかった。
 問題は従属の程度であった。宋代佃戸制における「主僕の分」は、従属としては浅い従属であり、封建制を生むようなレベルのものではなかった、とするのが正しいと思う。土地所有において、あるいはその土地所有において展開される社会関係および階級関係において、封建制を生むようなレベルに達するためには、そこに「強き所有」(ウィットフォーゲル)がなければならない。所有の強さは、それぞれの社会において一様ではない。当然、私有の強さも、同じく一様ではない。
 さらに、たとえ土地私有が成立したとしても、大土地所有(私有)が領域的な政治支配に結びつくためには、単なる地主的所有の実現だけでは不十分であり、その土地私有が強き所有でなければならない、ということに留意する必要がある。
 強き所有とは何かを、今日的な問題で説明してみよう。
 強き所有の世界において、私有は保護され、従って私有財産をもつものは、大きな力をもつ。私有=悪と考える人は、資本主義社会において私有は絶対的な力をもつと考えがちである。だが、資本主義社会であっても、社会は社会として維持されなければならない(つまり公共の利益が存在する)以上、絶対的な力など持ちようがないが、しかし、安定した権能を持つ。だからこそ、憲法に私有財産の保護がうたわれているにもかかわらず、中国の資産家は、自らの財産を弱き所有の世界から強き所有の世界への移そうと必死なのである。これは海外投資といった問題ではない。たとえ、有利な投資先が国内にあったとしても、できるかぎり多くの資産を、利潤率の低い海外に持ち出そうとするのは、中国が弱き所有の社会であり、彼らが資産を持ち出そうと考えている国々が強き所有の社会だからである。
 ありえないことだが、中国において、今後、強き所有が生まれたとしたなら、どうなるのであろうか。まず、キリスト教やイスラム教など、宗教を信仰する人々に福音をもたらすであろう。彼らの宗教資産を国家が破壊したり、取り消したりすることはもうできないからである。また、市民の権利保持のために奮闘している人権派にも大きな活力がもたらされるであろう。これら民主派、人権派と呼ばれる人々は多少の試練ならば耐え抜く人々である。彼らがたとえ政治的な弾圧にあったとしても、彼らの個人的な資産が守られ、彼らの家族や友人、あるいは彼らが関わる法人などに類が及ばないとなれば、彼らの弾圧を耐える力は倍加するはずである。
 もっとも、単純な所有権の強化は、国家に巣くう人々が国家資産を強奪する機会を増大させるだけに終わる可能性が高いといえよう。
 では、封建制にとってこの強き所有が何を意味するかを考える。重要なポイントは、強き所有にもとづく社会において、国家あるいは王権は、土地所有者の土地において耕作する農民(農奴もしくは隷属農民)を、土地所有者を通してしか関係しえなくなる、ということにある。つまり、土地所有者と農民の従属関係は、王権や国家の統制の及ばないものとなる。ただ、ここでいう土地所有者とは大土地所有者であり、一般には領主と呼ばれる人々で、多少なりとも、政治的な権力を有していることが前提となる。
このような社会においては、王権の支配のもとに土地所有者もまた服しているとはいえ、正当な理由がないかぎり、王権はその土地所有を奪うことはできない。したがって、その土地所有者が結んでいる種々の社会関係(とりわけ所有関係)も、王権は廃棄することはできない。強き所有の社会において、臣下の土地所有が拡大すること、その土地所有のもとに従属する農民その他が増大することが、王権にとって何を意味するか明らかであろう。
 だが、いわゆるアジア的社会において、そのような強き所有は存在しないか、存在したとしてもなかなか安定したものにはならない。とくに、専制国家のもとにおいては、皇帝は一切を所有し、個々の土地所有は、皇帝の恩顧として臣下に賜与されたものとなる。従って、臣下の所有は皇帝の恣意にさらされる。アジア的社会の、このような所有システムから、王権から自立した主従関係が生じない理由も明らかであろう(王朝末期における地方政権の自立化は、ここでは問題とならない)。
 それゆえ、中国史において展開されたような地主的所有、地主―佃戸の主従関係は、封建制(feudalism)を成立させるようなものではない。
 同じことが、資本主義の萌芽論争についてもいえる。単なる商品経済の発展、問屋制家内工業やマニュファクチャーの検出だけでは、資本主義の萌芽を証明したことにならない。封建制のもとで培われるのは、単に小経営的生産や商品経済の発展ばかりではない。現在、大塚史学の信奉者が存在するのかどうか、大塚史学がどのくらいの影響をいまだ持ち得ているのか筆者には定かではないが、大塚久雄の局地的市場圏の構想は、生成発展する局地的市場圏が経営や生産に携わる人々に民富をもたらし、市場圏における経済行為を通し社会的連関の可視性をもたらしたこと、それが成員相互の信頼をもたらしたことをうまく説明できるのではないか、と考えている。それらなしで、封建制から資本主義への転換はありえなかったであろう。経済発展という現象それ自体は、そのような民富やシステムの信頼をもたらすものではないことは、この30年来の中国の実践から見ても明らかだからである。