中国的なるものを考える(電子版第73回・通算第115回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第75号 2016.10.15
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その三  1964年北京科学シンポジウムと封建制理論(上)
 戦国史家として知られる藤木久志の『戦国社会史論』(東京大学出版会、1974)に、以下のような一節を見つけた。

 中世における地主制概念は、ほんらい、領主制にもとづく日本封建制と区別さるべき中国の封建的土地所有の基本形態を示す土地所有概念として石母田正氏によって設定され、のちに「日本封建時代の土地制度と階級構成」(『一九六四年北京科学シンポジウム歴史部門参加論文集』)において東アジア史の観点から批判的にうけつがれ、領主制的土地所有(家父長的人格的隷属関係としてあらわれる)と地主的土地所有(有期的土地貸借・契約関係としてあらわれる)とが、ともに日本前期封建時代における封建的土地所有の基本的形態として位置づけられるに及んで日本中世史の中心的論点の一つとなるに至ったことは、周知のところである(p.92)。

 筆者は、自称ではあるが、藤木久志の熱心な読者である。とくに、自著『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』(中公新書、1998)執筆時には、『戦国の作法』(平凡社、1987)、『戦国史を見る目』(校倉書房、1995)、『雑兵たちの戦場』(朝日選書、1995)、『村と領主の戦国世界』(東京大学出版会、1997)、『戦国の村を行く』(朝日選書、1997)など、藤木の1980年代、90年代の著作をあらかた読み、大きな感銘と刺激を受けている。なかでも、それらの著作から、戦国期には、相戦う軍勢による他領農民の拉致や連行、人質取り、身代金請求、が頻繁に行われていたことや、人を奪われた村の指導者が、その都度解放交渉にあたったことを知り、大いに考えさせられた。民国期農村で横行していた土匪や兵匪による人身の誘拐や身代金の取り立てということが、日本でも戦国期には軍勢相互の争いのなかで普通の風景として行われていたことは、驚きでもあったが、同じように村を守るという点において、日中それぞれの農民社会がとった戦略の相違ということから、彼我の差を考えるきっかけともなった。
 それらに対し、上記『戦国社会史論』(1974)は、藤木が当時の主流であった社会経済史的方法による、戦国期の社会構成移行に関する真っ向上段から切り込んだ研究書である。80年代後半以降の、民衆史的視座を貫く藤木とは異なった、いわば「本格派」としての著者の姿勢を見ることができる。

 さて、上述のパラグラフに戻ると、長く中国に関わってきた者としては、「日本封建時代の土地制度と階級構成」(『一九六四年北京科学シンポジウム歴史部門参加論文集』)の、「一九六四年北京科学シンポジウム」というところに、どうしても目が行ってしまう。1964年北京シンポジウムとは、一体何だったろう、というのが今回のテーマである。当時、日本中世史関係者のあいだで、P.S.論文(P.S.=北京シンポジウム)として知られた「日本封建時代の土地制度と階級構成」(河音能平・村田修三・高尾一彦執筆)の内容については、次回、言及したい。
 「1964年北京科学シンポジウム」と、ネットで検索を行うと、けっこう、数多くの記事が上がってくる。それらを、大体、時間を追って並べると、以下のようになる。

○井上清 北京シンポジウムと日本の科学者 文化評論(通号 31)新日本出版社 1964-04
○北京シンポジウム物理実行委員会京都ワーキング・グループ 北京シンポジウムについて 物性研究 2(3) 1964-06-10
○安藤彦太郎 北京シンポジウム参加の意義 朝鮮研究(通号 30) 1964-06
○寺尾五郎 北京からの便り--北京シンポジウム参加の旅 朝鮮研究(通号 32) 1964-08
○石田保昭 1964年北京シンポジウムの歴史的意義 月刊アジア・アフリカ研究 1964年8月号(No.41)
○寺尾五郎  北京からの便り--北京シンポジウム参加の旅-2- 朝鮮研究(通号 33) 1964-10
○坂田昌一 北京シンポジウム : 開会式における日本代表団長坂田昌一教授のあいさつ アジア經濟旬報 (591) 1964-10-21
○沼田稲次郎 北京シンポジウムにみる権利意識--法律科学・法律家の任務を中心に 労働法律旬報 (通号 540) 1964-10-25
○寺尾五郎 北京からの便り--北京シンポジウム参加の旅-3- 朝鮮研究(通号 34) 1964-11
○原善四郎 他 自国に根ざした人民のための科学を—4大州科学討論集会(北京シンポジウム)に参加して(座談会)  文化評論 (通号 38) 新日本出版社 1964-12
○原善四郎 1964年北京科学シンポジウムの経過と日本代表団の活動 文化評論(38) (1964-12)
○町田茂 北京科学シンポジウムに参加して 科学 34(11) 岩波書店 1964-11
○福島要一 北京シンポジウムの成果と今後の課題 教育 教育科学研究会 編 14(12) 1964-12
○副島種典 東洋の社会主義--北京科学シンポジウムに参加して 経済評論13(12) (日本評論社, 1964-12)
○塩田庄兵衛 北京科学シンポジウムと松川運動--中国・朝鮮の労働運動史研究にふれながら 労働法律旬報. 12月中旬/下旬(545/546) (旬報社, 1964-12)
○坂田昌一 「北京科学シンポジウム」雑記 思想. (486) (岩波書店, 1964-12)

○中国研究月報 202号 (中国研究所 1964.12)
――1964年北京科学シンポジウム――
発行にあたって 幼方直吉
北京科学シンポジウムの成果 安藤彦太郎
1964年北京科学シンポジウム・コミュニケ 
日本代表団坂田昌一団長あいさつ 
北京科学シンポジウムでの科学的・民主的精神 李四光
北京シンポジウム関係記事一覧
北京科学シンポジウム論文目録一覧
[付録]中国科学院の組織機構

○北京シンポジウムと京都の科学者たち 1964年北京シンポジウム京都実行委員会 1965
○河野通博 北京シンポジウムに参加して 考古学研究 考古学研究会編集委員会 11(3) 1965-01
○安藤彦太郎 北京シンポジウムの成果 中国研究月報 (通号 202) 1965-02
○北京シンポジウム関係記事一覧 掲載誌 中国研究月報 (通号 202) 1965-02
○副島種典 1964年北京科学シンポジウム 一橋論叢 53(2) (日本評論社, 1965-02)
○[学会ニュース]北京シンポジウム・ブレティン発刊さる 中国研究月報 217号 1966年3月
○小林国夫・玉城逸夫・山下昇 1964年北京科学シンポジウムの報告 地球科学(77) 1965-03-30
○下平三郎 中国における腐食防食の研究 北京科学シンポジウム報告 金属 35(10)(447) (アグネ技術センター, 1965-05)
○物性若手グループ有志 北京シンポジウム  物理夏の学校について 物性研究 4(3) 1965-06
○北京科学シンポジウム募金会計報告 天気 12(7);1965 7 (日本気象学会, 1965-07)
○北京シンポジウムその後(§6 国際交流,北京科学シンポジウム報告) 素粒子論研究 31(0) 1965-08-10
○小平信彦・増田善信 1964年北京シンポジウムに参加して 天気 12(9) 1965-09
○都出比呂志 北京科学シンポジウムをめざす関西の動き 考古学研究第12巻 第3号(通巻47号)  1965年11月
○川上正道 北京シンポジウム・参加日誌から(ルポルタージュ) 社会科学年報 専修大学社会科学研究所 編 (通号 1) 1966
○ニュース「北京シンポジウム準備・関西考古学の会」結成される 考古学研究 第12巻 第4号(通巻48号)1966年3月
○動向 各地で進む「北京科学シンポジウム」 日本の科学者vo.1 日本科学者会議編 (1966-03)
○学界ニュース]北京科学シンポジウムのブレティン2号および論文集の刊行 中国研究月報218号 1966年4月
○ニュース 一九六四年北京科学シンポジウムコミュニケ 日本考古学協会第32回総会(K)考古学研究 第13巻 第1号(通巻49号)1966年6月
○1964年北京シンポジウム報告書がすべて到着  中国研究月報 221号 1966年7月
○P.S.プラズマワーキンググループ 北京シンポジウム夏の学校講演要旨「日本の核融合研究」 核融合研究 : プラズマ・核融合学会誌 プラズマ・核融合学会 編 17(4) 1966-09
○李炳安 他 The straton model.Relativistic structure theory of mesons and baryons(北京シンポジウム1966年夏期物理討論会より-2-) 素粒子論研究 素粒子論グループ[編] 34(4) 1966-12
○井町 昌弘 北京シンポジウム1966年夏期物理討論会より(I)  素粒子論研究 34(3) 1966-11-20
○西村 奎吾 北京シンポジウム1966年暑期物理討論会に出席して 日本物理学会誌 22(2) 1967-02
○坂田昌一 科学史をゆさぶる北京科学シンポジウム 自然 26(4)(300) (中央公論社, 1971-03)
○坂田昌一 北京科学シンポジウムの印象 科学史をゆるがした11日 自然 26(4)(300) (中央公論社, 1971-03)

 続いて、今回のシリーズのテーマである「封建制」理論に関わりの深い歴史関係の学術雑誌、具体的には『歴史学研究』、『歴史評論』、『日本史研究』において、どのよう報道・紹介されていたかを示す。

『日本史研究』(日本史研究会編)
○71号(1964年3月)
井上清 北京シンポジウムのすすめ 若干の疑問に答える
○72号(1964年4月)
藤谷俊雄 北京シンポジウムと日本の学問・文化

『歴史学研究』(歴史学研究会編)
○第283号(1963年12月) 
世界科連東アジア地域シンポジウム参加について
○第285号(1964年2月)
[中国学術代表団を迎えて]
佐伯有一 中国学術代表団との交流について
歴研委員会 劉大年先生の近代史研究
小島晋治 近代史分科会の準備と当日の質疑応答をめぐって
板垣雄三 日本における近代史研究の若干の問題
○第286号(1964年3月)
小倉芳彦 日中学術交流雑感
佐伯有一 世界科連北京センターシンポジウムについて
○第287号(1964年4月)
歴研委員会 北京科学シンポジウム参加にあたって
○第292号(1964年9月)
原秀三郎 1964年北京科学シンポジウムについて--京都歴研連の活動
○第293号(1964年10月)
[北京科学シンポジウムについて]
江口朴郎 北京科学シンポジウム出席にあたって
○第303号(1965年8月)
佐伯有一 1964年北京科学シンポジウムについて

『歴史評論』(歴史学協議会編)
○160号(1963年12月)
ものみやぐら 1964年北京科学シンポジウム準備会開かれる
       中国学術代表団いよいよ来日
○161号(1964年1月)
柘植秀臣・井上清・原善四郎 1964年北京科学シンポジウム準備会魏に関する報告
○162号(1964年2月)
[ものみやぐら] 1964年北京シンポジウムのよびかけ
○163号(1964年3月)
野沢豊 日中学術交流を終えて
伊藤律子 中国学術代表団の来日によせて 北京放送局への手紙
[記録] 日中学術代表団との交流(1)
[ものみやぐら] 北京シンポジウムにむけての準備活動
        北京シンポジウム京都実行委員会の発足
        北京センターから井上氏宛への書簡(李四光執筆)

○164号(1964年4月)
井上清 北京シンポジウムに関する5カ国科学者の会談(1964年2月)についての報告
[ものみやぐら] 北京シンポジウム歴史関係の準備活動
[感想] 中国学術代表団を迎えて 梅林一彦(静岡)、伊原弘介(広島)、荒木見悟(福岡)、長尾誠(東京)
関東歴史事務局 日中学術交流をふりかえる(1) 歴史分野 
[記録] 中国学術代表団との交流(2)
○165号(1964年5月)
[感想] 中国学術代表団を迎えて 夏目武子(横浜)、深谷克己(東京)
関東歴史事務局 日中学術交流をふりかえる(2) 歴史分野
[ものみやぐら] 北京シンポジウム論文レジュメ出そろう
        日中国交回復の「よびかけ」
○166号(1964年6月)
[ものみやぐら] 北京シンポジウム日連協会長に坂田昌一氏決定
[記録] 中国学術代表団との交流(3)
○167号(1964年7月)
小林一雄 日本と中国とに関する感想
[ものみやぐら] 北京シンポジウム国内会議準備着々進む
○168号(1964年8月)
[ものみやぐら] 郭沫若の詩碑、10月に千葉県市川市に建設
        北京シンポジウムの8月 日本学術代表団決定
○169号(1964年9月)
1964年北京科学シンポジウム国内シンポジウムの記録 京都(歴史部門)、東京(歴史部門)、東京(日連協)
[ものみやぐら] PS国内シンポジウム続々開催
○170号(1964年10月)
中国研究者・研究団体連絡協議会 アジア財団資金による近・現代中国研究第一期三カ年計画の終了に際し、中国研究者・研究団体・学生各位に訴える
[ものみやぐら] 1964年北京科学シンポジウムニュース
○171号(1964年11月)
[1964年北京科学シンポジウムに参加して]
井ケ田良治 中国で感じたこと
山下昇 北京シンポジウムの印象
田中宏 日本代表団に参加して
[ものみやぐら] 1964年北京科学シンポジウムの総括運動
        A・F資金うちきりを要求する集会
○172号(1964年12月)
[1964年北京科学シンポジウムに参加して]
原善四郎 北京シンポジウム雑録
柳下登 「自力更生」と科学の発展
寺沢恒信 民族独立と自立の科学
[ものみやぐら] 北京科学シンポジウムに歴史部門帰朝報告会(東京)
○173号(1965年1月)
[ものみやぐら] A・F資金による近・現代中国研究計画中止を要求する
        北京シンポジウムに京都歴研連帰朝報告会・総括
○174号(1965年2月)
[ものみやぐら] A・F資金反対運動の成果 アジア財団資金による中国研究計画の継続申請とりやめ
○175号(1965年3月)
[1964年北京科学シンポジウムに参加して]
石田保昭 北京シンポジウムと日本歴史学の立場
○214号(1968年8月)
[書評] 1968年北京科学シンポジウムにたいする歴史科学協議会の態度

 以上、ネットの検索結果をそのまま引いているものが多いので、データの書式が整っていないことをお許しいただきたい。『歴史学研究』、『歴史評論』、『日本史研究』の所収論文・記事および『中国研究月報』1964年12月号掲載のものについては、手元にコピーを有しており、『思想』、『経済評論』の掲載論文についても、コピーをとっているが、それ以外は、論文そのものにあたっているわけではないので、内容についてまとまったことを言えないが、ただ、上記のタイトルだけからも、その参加者の広がり、影響の大きさというものが窺われるのではないか、と思われる。
 北京科学シンポジウム開催の発端は、世界科学者連盟(1946年、ジュリオ=キュリーらによって設立)が、1963年、北京に東アジアセンターを置き、その事業の一環として64年北京における科学シンポジウム開催を決定したことであった。当時、日本で世界科連に参加していたのは、民主主義科学協議会(民科)であった。だが、もはや民科単独による参加には無理があるので学会・研究団体があつまり、「世界科連東アジア地域シンポジウム日本連絡協議会」が結成され、シンポジウム参加の準備にあたることになった。
 このような経緯から、なぜ、『歴史評論』の母体ともいうべき民科歴史部会が熱心に北京科学シンポジウムの準備に参加したかが理解できる。だが、それにしても、民科であれ、歴研であれ、多くの歴史家たちが、準備工作に参加するだけではなく、なぜ科学シンポジウムに、古代史や中世史の歴史理論の提出を思い立ったのであろうか。実は、その辺があまり納得できていないでいる。というのも、『1964年北京科学シンポジウム論文目録』(日本連絡協編、1964.12)を見ると、シンポジウム歴史部門に提出された18本の論文の内、10本が日本からのものである。後は、朝鮮3本、アフガニスタン、キューバ、インドネシア、セネガル、アンゴラが各1本であり、日本側のはりきりようがやたらと目立っている。とくに、注目をひくのは、河音・村田・高尾論文や門脇・戸田論文(下記参照)のような歴史理論に関するものは、日本以外からは提出されていないという点である。日本以外の論文は、より具体的なテーマを追うものか、概要的なものかであった。もし、現代の学会においてこのようなことが起これば、すれ違い、ミスマッチと批判されるであろう。
 おそらく、日本の歴史家たちの強い肩入れには、同時期に展開されていた、「フォード財団によるアジア研究」に対する阻止闘争の盛り上がりなども、少なからぬ関わりがあったのであろう。また歴史家たちには、前年末(1963年11月27日から12月21日)、10年ぶりに日本を訪れた中国学術代表団との、日本各地において行われたさまざまな交流も、大きな影響を与えたのではないだろうか。学術団には侯外廬(歴史学)、夏鼐(考古学)、劉大年(近代史)らが含まれており、侯外廬のような「革命を成し遂げた国」の歴史学の重鎮の議論に、触発されるところがあったのではないかと思われる。
 実際のシンポジウムは64年8月21日~31日にかけて行われた。参加国(地域)は44、参加者367人であり、日本からは坂田昌一団長以下61人(内通訳8人)の参加であった(『中国研究月報』202号)。ただ、『1964年北京科学シンポジウム日本代表団報告書』(日本連絡協、1965.1)によると、参加準備から具体的な北京におけるシンポジウム日本参加へのプロセスにおいて、以下の変更が生じた。夏のシンポジウム開催の直前、ブカレストにおいて開催された世界科連執行委は、北京科学シンポジウムに対し、世界科連東アジアセンター役員が参加しないように指令し、かつ、そのシンポジウムの開催進行に対し責任を負わないことを明言する。多分、中ソ論争、中ソの亀裂がその背景にあったのであろう。日本代表団は世界科連執行委の決定に対し戸惑いながらも、日本連絡協が世界科連のメンバーでない以上、必ずしも指令に従う必要はないと解し、参加を再確認し、香港から入境した(坂田昌一団長以下3名が香港ビザを拒否され、カンボジア経由で中国に入った)。代表団は北京において、シンポジウムは今後、世界科連とは関係なく開催されるとの説明を受け、シンポジウムは参加団から1人ずつ推薦された議長団によって運営されるという組織案を了承している。
 上記『論文目録』によれば、科学シンポジウムと銘打っており、さらに日本代表団の団長が坂田昌一であるように、各国から提出された論文の約三分の二が自然科学部門である。歴史部門は先ほど述べたように、論文18本であるが、日本から提出された10本は、以下のごとくであった。
門脇禎二・戸田芳実 日本における土地国有制と奴隷制の特質
藤間生大 アジアにおける諸国家,諸民族の歴史的諸関係の形成と発展
古田光 日本人の世界史観と現代におけるその問題点
井上清 日本の「近代化」の特徴とその歴史的条件
藤谷俊雄 日本における民族文化の創造発展について
渡辺学 日朝文化交流の研究 日本における朝鮮教育把握の形態と構造
西山武一 アジアにおける農業と農業社会の特性 とくに中国について
伊藤秀一 近代の日本と中国における西欧進化論の受容と展開
河音能平・村田修三・高尾一彦 日本封建時代の土地制度と階級構成(京都歴研連封建時代史グループ)
幼方直吉・安藤彦太郎 日本における中国・朝鮮研究と民族独立の関係           

 それにしても、と―上記の論文や記事のリストを見ながら―いろいろ考える。1964年は様々なことがあった年であった。北京シンポジウムの直前の8月初旬、自らひき起したトンキン湾事件によってアメリカは、ベトナム戦争の泥沼に嵌り込むことになる。アメリカのベトナム侵攻と北爆は、中国にも鋭い緊張をもたらすことになった。蛇足ながら云えば、筆者にとって1964年はアジア的生産様式論争再開の年でもある。
64年10月1日、新幹線が開通し、10日10日には東京オリンピックが始まる。だが、このオリンピック期間中の10月16日、ソ連はフルシチョフ解任を発表、そして同日、中国は最初の核実験を行う。さらに、前日総選挙に勝利したイギリス労働党によるウィルソン内閣が発足する。
 1960年代に入り公然化した中ソ論争において、日本共産党は中国共産党を支持し、日中の両党は良好な関係を築いてきた。中国学術代表団の訪日や北京科学シンポジウムへの日本代表団の派遣も、その関係に支えられていた。だが、その一年半後、1966年春、両党の蜜月は終わりを告げる。その後、日本の親中国派全体に大きな亀裂が生じ、人々は否応なく、二つに陣営に引き裂かれていく。
(未完)