中国的なるものを考える(電子版第75回・通算第117回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第77号 2017.06.19.
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その五 1964年北京科学シンポジウム論文と封建制理論(下)
 ここでようやく、実際のPS(北京シンポジウム)論文の検討に入る。前述のごとく京都歴研連グループが1964年北京科学シンポジウムに提出した論文は「日本における土地国有制と奴隷制の本質」(門脇禎二・戸田芳実執筆)と「日本封建時代の土地制度と階級構成」(河音能平・高尾一彦・村田修三執筆)の二つだが、一般に日本中世史学においてPS論文とされるのは後者である。なお、前者については、門脇執筆分が、門脇禎二『日本古代政治史論』(塙書房, 1981)に、戸田執筆分は、戸田芳実『日本領主制成立史の研究』(岩波書店, 1967)に採録されている。
 目下、筆者の手元にあるPS論文は、一つは、歴史学研究会+京都地区歴史部門研究連絡協議会編『北京科学シンポジウム歴史部門参加論文集』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)からのコピーであり、もう一つは、歴史科学協議会編歴史科学大系第四巻『日本封建制の社会と国家(上)』(戸田芳実解説、校倉書房、1973年)収録のものである。PS論文でもっとも重要なのは河音執筆分(一「北京シンポジウム参加活動のなかで明確になった根本問題」、二「前期封建時代における封建的土地所有の諸形態」、三「前期封建的支配体制の階級構成」)である。というのも、直接、古代から中世への移行を、土地所有形態を軸に、扱っているからである。古代的なシステムから中世的なシステムへの移行(転換)において、封建的な支配隷属関係が如何に出現し、それが主要なものとして社会をトータルに転換させたのかといった視点において土地所有形態の検討は欠かせない。
 著者(河音)は、封建的土地所有として三つの形態をあげる。その第一形態とは、領主的土地所有であり、それは律令的土地国有制のもとにおいて、すでに勤労人民がその私的所有権を法的に確立していた屋敷地=宅地およびその付属としての畠地(「園宅地」=小経営生産活動の基地)に対する排他的所有権が階級的土地所有に展開することによって形成された、と規定している。
 次に、封建的土地所有の第二形態は、地主的土地所有であり、それは開発耕地(「墾田」)―畠地ではなく水田―に対して国家権力によって法的に認定された開発主体の一定の所有権が階級的土地所有に展開することによって形成されたものである。
 最後に、封建的土地所有の第三の形態は、都市的貴族的土地所有であり、法的形式としては、律令国家体制における国家的土地所有を都市貴族(荘園領主・国司)(旧律令貴族階級の後裔としての上級支配身分)が私的に分割・継承することによって実現された耕地(「荘田」・「公田」)に対する上級所有権である。
 この三形態の土地所有関係の対抗と絡み合いは、古代から中世への転換および中世の進展を彩り、最終的には、近世に向け領主的土地所有に一元化されていく。領主的所有および地主的所有は、それぞれ、種々の農民的土地所有を従属せしめることによって、各級の領主として、各々勢力の拡張と所領の形成を図るのに対し、都市貴族は、一方で在地領主の不安定な土地所有に一定の法的形式を与え、在地領主から余剰を巻き上げつつ、また一方で名主田堵層などの上層農民を抱き込み在地領主の勢力拡大を抑制しようとする。それらに対し、農民的土地所有の担い手たちは、いずれの従属にも抵抗し、村落共同体を形成しつつ、かれらの土地に対する権利をよりたしかなものに仕上げていく、ということになろう。
 封建的土地所有において、もっとも問題となるのは、単なる土地私有の成立ではなく、大土地所有生成が果たして所領形成や地域支配につながるかどうか、ということであろう。その点を考慮すれば、以下のような考察が可能となる。
 上記の、封建的土地所有の三形態のなかでは、まず第三形態(都市的貴族的土地所有)が果して封建的なものであるか疑問となる。河音は、第三形態は、第一形態(領主的土地所有)や第二形態(地主的土地所有)とは異なり、実際の土地の耕営にもとづいておらず、封建的な土地所有としては派生的かつ二次的な形態であると述べている。派生的でありながら、第一形態・第二形態と並んで挙げられているのは、これとの結合なしでは第一形態も第二形態も、公的に認められた所有になりえなかったからである。
 次に第二形態(地主的土地所有)に関して、第一形態(領主的土地所有)とどのように違うのかが問題となる。PS論文の共著者の一人である村田修三は、別の論文のなかで、「領主的土地所有と勤労的・地主的土地所有では、それらの実現する在地領主の支配と地主の支配との間に、支配隷属関係における質的なちがい」があると述べ、「前者では家父長的保護被保護関係、後者では土地貸借関係」が基軸にあると説明している(村田修三「中世史部会報告批判」『歴史学研究』№317)。
 第二形態における土地貸借関係、つまり地主・小作関係が封建的なものであるかどうか、筆者は疑問に思う。地主的土地所有と封建的土地所有の関わりについては、戦前の労農派・講座派論争以来、幾度となく議論されてきたが、一般的にいえば、地主・小作関係は特定の生産様式や経済的社会構成を規定するものではない。古代・中世・近代の、いずれの生産様式のもとにおいても存在するからである。だが、仁井田陞・石母田正などが戦後間もなく、佃戸(小作)は農奴であり、唐宋期における地主制の展開は、農奴制の展開でもあるとした中国封建制論は1960年代中葉においても、依然として支持を集めており、地主的所有=封建的土地所有との理解に揺るぎはなかった。
 それどころか、マルクス史家にとって、アジア史において封建制が概念として成立するかどうは、この地主的所有=封建的所有にかかっていたといえる。もし、地主的土地所有が封建的土地所有の中核にならないとしたら、アジアの歴史に封建制は概念として成立しえないということになる。すなわち日本以外のアジアの歴史に、封建制にもとづく社会は存在しないということになる。
 今日的な視点から考えれば、アジアの歴史に封建社会が存在しなくとも、それが大問題に発展することはない。日本の前近代が封建社会かどうかが疑問に付せられている時代においては、他のアジアの歴史に封建社会が存在しなくとも何の問題でもない。だが、戦後、日本の歴史家たちに課せられた最大の課題こそ、アジア的停滞論の克服であった。アジアの歴史もまた、原始社会→奴隷制→封建制→資本主義と発展してきたことを証明することが進歩的な歴史家の使命であった。なにしろ、この(スターリンの)歴史発展の五段階論に「世界史の基本法則」との美称をつけたのはほかならぬ日本のマルクス史家たちであった以上、その法則は日本だけではなく他のアジア諸国の歴史にも通用するものでなければならなかった。
 この点においては、石母田正も、黒田俊雄も、そして戸田芳実のグループにおいても、同じ考えであった。ただ、石母田(領主制理論)が、唐末以来の中国封建制は―中国社会における共同体的諸関係の残存のために―中世日本のような領主制が十分展開できず、結局は典型的な封建国家を樹立しえず、君主独裁的な官僚制国家が維持されたと捉えているのに比し、戸田・河音等は、この封建的土地所有の第二形態=地主的土地所有の展開において、その従属のもとにある直接生産者を農奴と捉え、領主制が未発達だから日本より遅れているといった評価に陥らずに、アジア的封建制を理論的に基礎づけることが可能であると考えていた。
 先ほどの村田修造は、この点に関して、「これは旧来の領主制理論が、ヨーロッパ的な発展段階論にもとづいて世界史の基本法則を構築したため、非ヨーロッパ的な発展を示すアジア・アフリカ諸民族の歴史を段階的那おくれ=停滞という一面的な評価しかできなかったこと、それ故、現に民族解放闘争によって新しい発展をかちとりつつあるこれらの諸民族のたたかいと連帯して、日本人民自身の真の解放の展望を科学的にきりひらくという独自の課題をはたしえなくなったことに対する歴史研究者の自己批判であった」と述べている。
 さらに戸田芳実もまた、同じく、PS論文は「ヨーロッパ封建制を典型として日本封建制を考えるという日本歴史学の伝統的方法」に対する批判であると考えていた。。また、グループの一人、工藤敬一もPS論文は、日本中世社会のアジア的側面を強く押し出したものと回想している(工藤敬一『荘園制の基本構造』校倉書房、2002)。PS論文に関して戸田も河音もアジア的封建制を理論的に積極的に位置づけたものと自負しており、彼等が、勇んで、北京シンポジウムに論文を提出したのも、以上のような自負があったからだと思われる。戦前のアジア的停滞論に、戦前日本のアジア幻想が反映していたように、戦後のこの種のアジア的封建制論(中国封建制論)にも、革命中国(および民族解放闘争へ向けて闘うアジア)への幻想が色濃く投影されている。
 残るは、封建的土地所有の第一形態、領主的土地所有であるが、これにもやはり疑問がある。領主的土地所有と名づけられている以上、封建的土地所有であることに問題はないように思われるが、筆者の疑問は、この領主的所有なるものが、日本を含めたアジア的社会において、本当に領域支配、所領の形成に結びつくものか、という点にある。この領主的土地所有の説明には、「家父長的農奴主階級は彼の家父長的隷属の中に包摂された個々の農奴的小農民の各私宅私有権を現実の家父長的保護被保護関係を媒介として収奪し、それを自己自身の私宅所有権のもとに包摂し、かくして「拡大された私宅所有」としての領主的土地所有を実現した」とある。
 宅地とそれを囲む園地が土地私有へ重要な契機を含むことは、すでにマルクス『ザスーリチへの手紙(草稿)』が述べているところである。だが、古ゲルマン社会における宅地的所有とアジア的社会の宅地的所有の間には、やはり一定の差異があり、それはマルクス『資本制生産に先行する諸形態』における古ゲルマン的社会(ゲルマン的所有)とアジア的社会(アジア的所有)の種差を反映したものではないかと考えられる。『ザスーリチへの手紙(草稿)』を頼りに、名主田堵層の宅地園地を中核とした所領形成を構想するのは間違いだとはいえないが、彼ら(提唱者)が思っているほど確かな論理に支えられているわけではないことを知るべきである。
 たとえば、名主田堵の屋敷内に住む下人所従が、屋敷周辺に宅を構えたとしても、彼らの土地も宅も、もともと彼らの主人の従属のもとにあるとしたら、それ自体は主人の所有の拡大にはならない。つまり、一般の公民を巻き込むものではない。そうである以上、所領形成には至らないと考えるべきであろう。アジア的社会において、「宅」や「園地」の拡延から、領主的土地所有を導きだすことには、やはり無理があり、所領形成にはもう一歩進んだ契機が必要である。
 その点に関してPS論文の著者(河音)は、「彼らは自己直属の農奴に対する家父長的支配秩序を、軍事的支配身分として獲得した世襲的地方権力執行者としての地位(郡司職・郷司職・地頭職・下司職)を通して、直属農奴以外の全人民に拡大し、管轄領域内の全人民を直接権力的に自己の農奴的農民として包摂しようとするに至った」と説明している。つまり、「軍事的支配身分を獲得した農奴主階級=武士は、たんなる封建地主ではなく、封建領主として自らの階級的利害を権力的に貫徹させ」、地域支配と所領の形成を実現させた、ということになる。逆にいえば、このような公権の介在なしには所領の形成も、領域支配もなしえないのではないかと考えられる。
 とすれば、地域支配や所領形成において、もっとも重要なものは、公権行使を可能とする地位・職位の獲得と、それにもとづく具体的な公権の行使ということになるのではないか(個々の公権の行使者は、私的な主従関係に支えられているとしても) 。すなわち、公権のヒエラルヒーに応じた所有や保有の強度、言い換えれば所有のヒエラルヒーが存在する。職の体系は、その両者を媒介するものにほかならない。これらを梃子にした所領の形成、地域支配を、政経のシステムとして封建制と呼ぶとしたら、日本的封建制と呼ぶ以外にないであろう。
 だが、問題はなおも残る。アジア的社会において土地所有が成立し、さらに、地方豪族や土地貴族が公権を足場に地方に勢力を築くということは、他のアジア的社会においても、起こりえたであろう。だが、それが国制の一環として所領形成や地域支配などといった局面にいたったのは、おそらく中世日本においてのみであろう。それをどのようにして、理論的に説明しうるのであろうか。議論はまた振り出しに戻ってしまう。
 
 再度、PS論文の記述に戻る。先ほど引用した「自己直属の農奴に対する家父長的支配秩序を、軍事的支配身分として獲得した世襲的地方権力執行者としての地位(郡司職・郷司職・地頭職・下司職)を通して、直属農奴以外の全人民に拡大し、管轄領域内の全人民を直接権力的に自己の農奴的農民として包摂する」といった記述は、今おもえば、あまりにも大仰な表現である。主人に直接従属する下人所従に対してばかりでなく、地域の普通の農民をも、その窮状につけ込み、私出挙などを駆使し下人所従化する、つまり一般の百姓を農奴化しようとする農村の領主というのは、まるで民国期の土豪劣紳や土皇帝の悪辣な農村支配を想起させる。それでは、おそらく地域内において多くの憎しみや恨みを買い、不倶戴天の敵をつくるばかりでなく、仮にそれらを制圧し従属化したとしても、農民の忠誠を買うことはできないであろうと思わざるを得ない。
 おそらくは、このような支配についての表現こそが、当時の階級闘争史観あるいは人民闘争史観を反映したものであり、それ以外の書きようがなかったであろう。だが、名主田堵あるいは領主たちが土豪劣紳のごとく悪辣に振る舞わなくとも、ふつうに、農村において、勧農権を行使し、農業を主導し、国衙や荘園領主に対し、年貢・公事・賦役などの責務を果たしていれば、地方における権威・権力の樹立やその蓄積は可能であっただろうと思う。まず何よりも、当時の農業が不安定であり、災害も多く、不作凶作はつねのことであった。「三年に一度の不作、五年に一度の凶作」、これは高校生の頃、父親が教えてくれた一昔前の北海道農業の実情であった。実際、凶作時には収穫は半減した。おそらく不安定な農業とは、そのようなものであっただろう。すなわち、10年間あれば、一度や二度危機がやってくる。それゆえ、年貢の未進の立替、春耕の際の種子・農料(費用)の貸与・供与などによって、貧農に恩を売り、それらを従属せしめることは容易であった。また、凶作時に養えなくなった子供や親を失った子供を引き取ることもしばしば行なわれたであろう。特に私利に走らなくとも、あるいはふつうに善行に励んだとしても、ほぼ同じ結果が得られたであろう。それゆえ、もし、名主田堵あるいは村落領主が、蓄積した富をもとに、近隣の農民を動員し、溜池や水路を作り、周辺の田地に灌漑を施し、収穫が安定化すれば、それだけでも近隣周辺農民の忠誠を長く獲得しえたであろう。これまでも幾度か述べてきたが、このような事業は共同体のための賦役労働によって担われる。共同体のための賦役労働を動員し指揮すること(これは勧農権の行使に含まれる)、そのためには、少なくとも公権の一角に加わり、公権の担い手として振舞わなければならないということになる。
 筆者が、以上のような感慨をもつのも、21世紀に入った現在の視点にたって読むからであり、1960年代・70年代の時点では、筆者も上記のような表現をとくに違和感なく受け入れたであろう。ただ、現在の筆者の理論的な見地からいえば、古代日本の直接生産者(たとえば班田農民)を奴隷と規定するのが誤っていたように、中世の直接生産者を農奴とするのも誤っていたと考える。中世の直接生産者もまた、主要には、班田農民と同じ公民・良民であった。この点で、朝河貫一が中世日本の農民は農奴であることを否定したのは正しいと考える。(ただ、残念なことに、朝河は日本中世の農民における協業・協働についてまったくといっていいほど言及していない。むしろ、三圃制のもとでの西欧中世の共同体農民の協業・協働を強調し、逆に、中世日本の農民の、耕種の自由さを指摘している)。
 この領主制と荘園制をめぐる議論がその後どうなったのかについて、瞥見して見よう。1973年、網野善彦は「荘園公領制の形成と構造」(竹内理三編『土地制度史Ⅰ』山川出版社)を発表する。論文といっても160頁の長文であり、種々の内容を含んでいる。この論文において初めて提起された荘園公領制の要諦は、荘園と公領(国衙領)は、ともに、基本的には租税(年貢・公事)の請負の単位であり、公領は国衙を通じて知行国主に租税を納め、荘園はそれぞれ天皇家・摂関家・大寺社などに直接租税を納める(網野善彦『日本の歴史をよみなおす』ちくま学術文庫, 2005 )が、実際の耕営はそれぞれ名主田堵層に請け負わせ、彼等を通した収取に依拠しているので、荘園も公領も、ただ在地から中央へと剰余を吸い上げる、請負のチャンネルが違うだけである、というものである。また、田制からいえば、荘園も公領も公田制を基礎としているので、社会構成史上の時代区分として荘園制をキー・タームとして用いることはできなくなる。というより、封建制もしくは封建社会の成立についていうこと自体が難しくなる。それゆえ、在地領主の出現について、たとえ依然として歴史上重要な役割と機能を認めたとしても、やはり社会構成史の上で、以前のような特別な意味合い(封建制形成)を持たせることができなったといえるだろう。荘園公領制は、中世史研究者の間で認知されて行くのにしばし時間がかかったが、1980年以降、封建制・封建社会・封建領主ということばが急速に日本中世史の記述から消えていったことが認められる。
 
 封建制理論に関して議論がつきないが、最後に一つ言及しておきたい。話を少し前に戻せば、なぜ、戸田芳実は、年下の大山喬平や工藤敬一の、公権の役割重視に批判的であったのであろうか。戸田の具体的な真意ははかりかねるが、このような「公権への忌避」とでもいう態度は、戸田だけのものではない。ある意味、戦後まもなく登場した思想家や歴史家の多くに認められるものである。たとえば、石母田正が、なにゆえ公家の古代を卑下し、武家の中世を称揚しようとしたのであろうか。石母田の議論からは、在地領主の私営田経営、国衙や本所・領家の干渉を押しのけての所領拡大を大いに肯定していることがわかる。律令体制および王朝国家に拮抗しうる勢力を築くという観点から、武家の主従関係の強化も、つねに肯定的に評価されている。マルクス主義者が、土地公有に対する土地私有の勝利、公的なものに対する私的なものの勝利を、より進歩的なものとして評価しているのは、歴史発展の五段階論に立てば、当然といえば当然であるが、それ以上に、ここでは土地公有に対する土地私有の勝利、律令体制・荘園制に対する領主制の勝利が、古代天皇制に対する中世封建制の勝利として、天皇制批判に重ね合わせられていることが注意を引く。
 より具体的にいえば、石母田等は、戦前日本がすでに資本主義強国となりながら、ブルジョアジーは政治的なヘゲモニーを確立しえず、ブルジョアジーも左翼知識人も、最終的には「天皇制を基底とするファッショ体制」の一翼として戦時体制に突入したこと、また、イデオロギー的には、公的なもの、共同体的なもの、全体的なものに対し、個は抵抗しえず、結局は翼賛体制へ押し流されてしまったこと、それらを痛みとしていたはずである。戦後知識人の多くが、1960年代の、大衆社会の到来の頃まで、公的なもの、共同的なものに対抗し、個や私を掲げて闘い続けた理由がそこにあると考える。大塚久雄が『共同体の基礎理論』(1955)のなかで、人類が、アジア的共同体から古典古代的共同体を経てゲルマン的共同体へ発展すると述べる時、ゲルマン的共同体を踏まえ、個人のアソシエーションからなる市民社会が成立する以上、そこに個人が共同体に埋没した社会から、共同体から諸個人が自立した社会への発展が構想されている。内田義彦等の市民社会派知識人といわれた人々も同じ思考をしていたはずである。さらにいえば、個の、共同体や国家からの自立ばかりでなく、知識人の大衆からの自立を主張した吉本共同体論もまた、そのような思想景観を共有していたはずである。
 終戦の年(1945年)に16歳であった戸田と、12歳以下であった河音・大山・工藤らが、どの程度まで、上記のような思考を共有していたのかいなかったのかを云うことはできないが、古代末期・中世初期における地域支配や所領の形成において、私権(私的利害の追求)の拡大をより根本的な契機とするのか、公権の媒介を積極的に是認するのかに関して、やはり微妙な世代的な捉え方の相違があったのではないか、と思われる。
 次回は日中分岐論についてふり返ってみるつもりである。
 
 *今回登場した歴史家・思想家たちの生年および没年
 朝河貫一 1873-1948
 仁井田陞 1904-1966
 大塚久雄 1907-1996
 石母田正 1912-1986
 内田義彦 1913-1989
 吉本隆明 1924-2012
 高尾一彦 1924-
 門脇禎二 1925-2007
 黒田俊雄 1926-1993
 戸田芳実 1929-1991
 網野善彦 1928-2004
 大山喬平 1933-
 河音能平 1933-2003
 工藤敬一 1934-
 村田修三 1938-